第16回 6期生ブログ「もういくつもの世界」

春学期のゼミを終えてから、このブログを書くまでに一週間もかかってしまった。何を書こうかしばらく考えていたが、どうしても『リキッドモダニティ』の絶望的ともいえる結末に何も言葉が出てこなくなってしまったのだ。

答えのないバウマンの語りに終始ウンザリしつつも、その的確さに、ついつい納得してしまうもどかしさ。『じゃあどうしたらいいの?!』でも、答えはそう簡単にわからない、そう簡単にわからないからこそ、こうして同じように頭を抱えるしかないのだ。

私は最終的に、以前から少しだけ知っていた理論「思弁的実在論」に可能性を見出した。なぜなら、この思弁的実在論は、まさにバウマンをはじめとするカント以来の相関主義を乗り越えることを目的としているからだ。どうして乗り越えなくてはいけないのか。世界は私たちの意識の網の中の作り物であるという認識を持つ相関主義は、今となっては当たり前に感じてしまう考え方であり、これを土台にしているからこそ、様々な作り物を壊し再構成することが求められているのだ。だからソリッドモダニティは溶けて、リキッドモダニティになった。世界は変わるのだ。しかもリキッドモダニティにおいては、世界の形が全く不安定になってしまい、一寸先すら見えぬ道を迷いながら行く孤独で過酷なレースを行く必要があるのだ。バウマンが範疇に入れていたのは、社会と呼ばれる場所で起こる様々な営みだった。個人の行動としての買い物、都市空間や時間認識、仕事形態、そして共同体の姿…その批判的な主張は全く一貫していた。しかし、バウマンは思いもしなかった社会の変化が、この2020年に起きてしまっているのだ。(私はこの点に、ゼミが終わってから気づいたのだった)

もはや政治的な扱いを受けてしまっているようにも感じる新型コロナウィルスは、元はと言えば、人間の力ではどうにもこうにもできないエコロジカルな危機の一つだ。他にも、地震、台風、気候変動などの自然災害も入れることができる。(そういえばバッタの大群はどこで何しているのだろう)しかし、地球環境に何らかの影響を多かれ少なかれ及ぼしてしまっている人間にとって、自然災害が全く無関係なものとして起こるとは考えづらい。しかし、それでもなお操作は不可能なのだ。人間が生きている限り、地球の地面を踏み続ける限り、環境に変化を与え、環境の変化を共に受け入れるしかないのだ。このとき私が対象にしているのは、人間の認識の網の外を出た<世界>だ。これはバウマンが散々語ってきた社会=世界とは異なる。(バウマンはエコロジーについては全く言及していない)バウマンの範疇であった社会=世界が、あまりにも人間中心ではないだろうか?今ここで、ゼミが終わってみて初めての問題提起をしたい。

人間の認識の網の外を出た<世界>は「存在する」のだ。人間が生きている世界だけが、世界だろうか?そうなったら私の愛犬は世界の一員ではないのか?家の外で様々な姿を見せてくれる植物や動物は?また、この熱い太陽は本当の意味で地球には存在していないが、人間をはじめ世界に暮らす様々な存在に大きな影響をもたらしている。バウマンが言うような社会=世界=生活世界だけが、世界ではない。それは広大な世界の、たった一部分なのだ。その一部分が残りの部分に影響をもたらし、もたらされるのだ。私の知らない、絶対経験することのできない<世界>が、私の認識とは関係なしに、紛れもなく「存在する」…そこは決してリキッドモダニティではないだろう。答えのないバウマンの『リキッドモダニティ』を乗り越え明日へと活かすには、リキッドモダニティの外へと出る必要があるようだ。

これらが「思弁的実在論」が語ろうとしている、大まかな考えの一部部分らしい。(ただいま絶賛勉強中です!)これらを貫くのは、温暖化や海洋汚染などのエコロジカルな危機からもたらされる人間の脆さや実在の不安定さとどう向き合っていくかという危機意識だ。その意味で、リキッドモダニティであるが故に生まれたと考えてもおかしくはないだろう。バウマンはここで初めて警告書の外に出るのだ。

私はまだ、知ったかぶりで語ることも許されぬほど、この分野に関しては未熟であるが、本当に大きな可能性を感じていることは確かだ。何よりも、私が生き辛いと感じてしまう世界は広大な世界の小さな小さな一部分でしかないという紛れもない「事実」が、私を生かすのだ。それは現実逃避になってはいけないと思う。脆くて儚くて、不完全で未完成な人間が、それでも生きていくことのできる場所を探すような作業なのだ。リキッドモダニティの外に出て、リキッドモダニティを眺めること。他の世界との関連性の中で、人間の居場所を探すこと。人間中心的な思考を出たときに、初めてバウマンの束縛(これは多くの社会学が陥るようなアポリアである)から解放することができるように感じるのだ。

ふと、童謡『手のひらを太陽に』を思い出して口ずさんでみる。ミミズやオケラやアメンボと友達になった記憶はない。この先も友達として飲み会に誘うようなこともないだろう。それでも、この<世界>を構成する大切な一員であるのだ。人間がリキッドモダニティであろうとなかろうと、ミミズやオケラやアメンボと、人間は友達であり続けるのだ。

もういくつも、世界がいくつでも存在する。リキッドモダニティはその一つに過ぎないのです、みなさん。

宮本

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