秋学期第9回ゼミ

第9回は、夏目漱石『こころ』を扱い、ジェンダー批評の中でも特に「クイア批評」を学びました。

クイア批評を理解するために使ったテキストは、キース・ヴィンセント「夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り」です。

執筆担当は室です。よろしくお願いします。

 

『こころ』は、批評の上でそのホモソーシャル性に着目され、「同性愛小説」として読まれてきました。この読み方に対し、違う読み方の可能性を指摘したのが、今回扱ったキース・ヴィンセントの論文です。

同性愛小説として評価されてきた『こころ』ですが、キースはそれを否定し、『こころ』は同性愛小説でも異性愛小説でもなく、それらの対話を可能とするテキストである、としました。

今回は、論文を踏まえて議論を発展させるというよりも、この論文の内容を理解していくということを中心に議論していきました。

ですので、今回のブログは議論の内容というよりも、キース・ヴィンセントの論文を私たちがどう理解したかという点を中心に書こうと思います。

 

キース・ヴィンセントの論に触れるために、まずそれまで『こころ』がどのように読まれていたかを確認します。

『こころ』が「同性愛小説」とされてきたことは先ほども述べましたが、さらに言うと、「ホモソーシャル共同体をめぐる」歴史的な断絶、つまり「男性間の愛の可能性」が存在する世界と、「男性間の愛の可能性」から切り離された世界との断絶を描いたテキストであるとして、歴史主義的な読み方がされてきました。

その際注目されたのが、愛について語り合う作中の以下の会話です。

 

「私の胸の中には是といふ目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはゐない積です」

「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだらうと思つて動きたくなるのです」

「今それ程動いちやゐません」

「あなたは物足りない結果私の所に動いてきたぢやありませんか」

「それは左右かも知れません。然しそれは恋とは違ひます」

 

ここから、「男性間の愛の可能性」を認識している「先生」と、認識していない「青年」とのすれ違いが生じていることが指摘されてきました。

このことが、『こころ』が「セクシュアリティの歴史的な断絶」を描いたテキストであるという読み方につながっていました。

 

しかし、キース・ヴィンセントは『こころ』の持つ「遂行的な機能」により、歴史主義的な読み方の有効性が失われていることを指摘します。

 

『こころ』は、「青年」が成長した現在から、先生と過ごした「過去」を語るという方法で描かれます。

しかし、保守派の読み方ではこの語りの複雑さが無視され、「青年の語りの客観性を自明視」してきました。

そして、『こころ』の主人公は先生であるとし、先生により語られる「先生と遺書」ばかりが批評の対象とされてきました。

先生の遺書に表明される価値観は絶対的なもので、青年は「忠実に先生の物語を伝えるだけの存在」とされてきたのです。

 

これを批判したのが小森陽一という人物です。

小森は、青年による一人称の語りに焦点化し、「青年が亡くなった恩師の失敗から教訓を学ぶ物語」であると読みました。

これにより、「先生と遺書」のみに焦点化された読みとは異なり、青年を主人公として読むことが可能になりました。

 

しかしキース・ヴィンセントは、小森が先生の性格描写が年下の青年によって語られていることを考慮していないことを指摘します。

「異性愛者」として成熟した青年の「欲望」が、青年の語りに表れていることを、小森の読みでは考慮されていないというのです。

「先生」が同性愛者のように描写されたことや、先生と青年とのすれ違いが強調されたのは、そこに「自分は異性愛者である」と思いたい青年の「編集」が加わった上でのものであることをヴィンセントは指摘しました。

青年である「私」は、自身の異性愛者としての「成長」を語ることで、先生を「性的発達を阻害させた存在」として語ります。

「青年」には「自分は異性愛者である」という欲望があり、それが反映され、「先生」と「自分」を差異化するために、先生を「ホモソーシャルな世界から抜け出せない」過去の存在として描いたのです。

それまでの議論ではこのことを考慮していないがために、先生が同性愛的に描写された場面ばかりを抜き出し、先生を同性愛者としてきたのでした。

 

『こころ』では、先生の遺書を読み、先生のもとへ向かった後の青年がどうなるのか、明確に語られることはありません。

明確な結果を提示しないことで、多様な読解が可能になるテキストになっています。

そのため、『こころ』は、その物語をどう読むかによって、『こころ』という物語について以上に、読み手がどのような歴史的立場にいるのかを明らかにするテキストであるとキースは指摘します。

これが冒頭の「同性愛小説でも異性愛小説でもなく、それらの対話を可能とするテキストである」という主張につながります。

『こころ』は、「同性愛小説」とも「異性愛小説」とも断定されることはなく、読み手がどのようなセクシュアリティの立場にいるのかにより読み方が変わってしまうテキストです。

 

私は今回の論文については理解が追いつかず苦戦しましたが、次回の議論を通して「語り」の奥深さを知ることができて楽しかったです。

ですが、今回のブログではヴィンセントの論文の面白さを伝えきれていないと感じたので、普段から自分の中で内容を整理しながら議論していくように心掛ける必要があると感じました。

次はわかりやすい文章を書けるよう頑張ります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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