どうも、今回のブログ担当を務めます前田です。
第五回のテーマは「新歴史主義」についての学習の続きということで、以前から
このゼミでも登場しては我々の頭を悩ませてきたミシェル・フーコー氏に関する
論文をもとに議論を交わしました。今回セレクトしたのは杉田敦『権力』。
その名の通り、権力論が主体のものとなっております。
今回読んだ章は「権力は上からくるのか下からくるのか」と題して、権力という
ものの在処を探りました。この問いに対してフーコーは「権力は下からくる」と
結論付けています。権力は「上」に位置する特定の支配的な人物がもつものでは
なく、むしろ「下」の位置する不特定多数の人民の関わり合いの中に成立します。
いわば、点として在るのではなく面として在るというわけです。このような
全体をコントロールする主体が不在な状況は、看守ではなく囚人同士が
相互監視する監獄「パノプティコン」に象徴されます。
上記の内容に伴ってさらにフーコーは、経済的・知的・性的関係においても
権力は外部ではなく、関係の内部に直接生まれると述べました。経済的関係は
マルクス主義に関わってくる話ですし、性的関係はジェンダーにも関わってくる
話題ですね。そこで議論の的となったのが「生 – 権力」というものについてです。
今で言うと健康診断や予防接種など、否応なしに生きることを管理し強制する
権力形態であり、その源流は18世紀のヨーロッパで生じました。そこでフーコーが
着目したのが当時のキリスト教における告白システムであり、そこでは本来
プライベートなものである「性」に関することが衆人の相互監視下におかれ
管理されることになります。これについてはゼミ内でも多くの具体例などが挙げられ、
議論がヒートアップしました。
権力はあらゆるものの相互関係から生じるという言説は新歴史主義に通じる
ものがありますし、それがマルクス主義やジェンダーなどにも関わる広がりを
持つことが認識出来た、そんな回だったと思います。