2年ゼミ第6回「作者はもう死んでいる」

 こんにちは。第6回担当の齋藤穂花と申します。

 前回まで名前の話が続いていますね。今回は内藤先生の名前の起源についてお話も聞けました。というわけで、私も何か書き記せることがあればと思ってパソコンに向かったのです。……向かったのですが、いかんせん「齋藤穂花」などという、ひと学年に一人は必ず見かけそうな名前と、ひと学年に一人どころか、うじゃうじゃいそうな苗字のコンビ。どうせなら「山田花子」とか、TOP OF 凡庸! といった名前の方が面白かっただろうに……(失礼)。

 ところが、私のThe 凡庸! な名前にも一応、非凡庸な話がありました。なんと、なんと……私の名前は最初、「ユリア」になる予定だったのです! というのも、厄介ヲタク選手権おじさん部門代表である父(どうか父にはご内密に。笑)が『北斗の拳』に熱を上げるあまり、ヒロイン(超絶美女)の名前「ユリア」をそのまま私につけようとしたというのです。しかしなぜ「ユリア」が「ホノカ」に変貌を遂げたのかはいまだに謎のままです。父の酒の肴は『北斗の拳』語りに逸れ、そのまま直進して戻ってきませんでした。そして、なんということでしょう(某住宅改造番組風)。私も『北斗の拳』が読みたくて堪らなくなってしまいました。お父さん、布教用に全巻買ってくれればいいのに。ヲタクは魂を賭けて信ずるものを布教する生き物だというのに(主観と偏見)。

 というのが、今回のブログの何番煎じか分からないタイトルを決めた経緯でございます。魂を賭けた『北斗の拳』ファンの方がいらしたら申し訳ございません。けれど、実際にバルトもこう思っていたり……なんてことはないか。というわけで、自分語りが過ぎてしまった気もしますが、ここからはちゃんとゼミの内容をお送りいたしますよ、たぶん!


1.前座:形部龍之介さん


 今回の前座を担当してくれたのは、形部龍之介さん。アニメーションの作画についてレクチャーしてくれました。素晴らしい作画は作品のクオリティの底上げに一役買っていて、特に作画が良いと評判なのが京都アニメーションだそうです。逆に作画崩壊で有名なのはキャベツ問題。たしかに調べてみたら「キャベツ色のドッジボール……?」となりました。むしろ芸術? 最後に、京アニ最高傑作の『バイオレットエヴァーガーデン』が金曜ロードショーで二週連続放送中なので是非みてみてね、とのことでした。私の積みアニメリストがどんどん膨らんでいきます。うーん、幸せ。(見ろ)


2.リアクションペーパーに対する応答


 前回の講義内容であったロラン・バルト「作者の死」について、今回も熱い熱いラブレターがたくさん届いていました。

 まずは「個」という概念について。まだ掴み切れていないという声もあり、時代背景も含めて先生から解説がありました。その頃西洋に染みついた「個」の概念は、家父長制の文化があった日本にはなかなか広まらず、明治時代の文明開化でがらりと思想が変わるということが起こったといいます。「歴史を学べば当たり前だと思っていた考え方が絶対じゃないと分かる」という先生のお言葉には目の覚めるような思いでした。(本当に寝ていたわけではありませんよ?)

 また、それに関連して、平野啓一郎著の『私とは何か「個人」から「分人」へ』という本を紹介していただきました。就活鬱になったときに救われそうな内容でしたね。ぜひ読んでみたいと思います。

 次に、エクリチュールについて。こちらは先生に前回できなかった説明をしていただきました。バルトは、あるエクリチュールが生み出された「起源」は特定できないと主張しています。ほほ~、なるほど。たしかに私も『北斗の拳』が何年の連載開始か知らん(知識不足)。……ではなくて、エクリチュールとは、起源とは一体何ぞや。 この純然たる(?)疑問を解消するには、バルトの時代に元々浸透していた考え方を知る必要があります。当時、文学については「書かれたものは死」、「声は生」と考えるのが主流でした。書かれたものは半永久に存在し、逆に声は一回的なものであることからです。バルトはそれに異を唱え、エクリチュールはそれを生み出した主体に紐づけられるものではないと主張したのです。そして、エクリチュールではあらゆる自己同一性が失われるとしました。自己同一性? WHAT? という人は『鬼滅の刃』や『鋼の錬金術師』を見てみてください。これらは女性作者が描いていますが、男の主人公像や物語が薄っぺらいなんてことはありませんよね。

 最後に、テクストについて。「テクスト」とは本来織物のことであり、バルトはテクストを「無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」としています。ここではその「引用」に関連し、先生のお名前の由来を聞くことができました。究極をいえば、私たち人もテクストなのだということが分かりますね。私の中にも『北斗の拳』という偉大なる引用が……入っていると言えるのでしょうか。笑

 そんなこんなで、「作者の死」については今回でひとまず終わりとなります。皆さん、お疲れ様でした! 次週からはもっと難解そうな理論が立ちはだかりますね。頑張り……ましょう……。


3.学期末レポートの構想発表:大胡田さん

 ……のはずだったのですが、時間が押してしまったので次回に発表してもらうことになりました。楽しみです。


4.論述文の書き方の学習2

 今回は論文の構成要素(内容)の復習と、アウトラインの作成について学習しました。論文の構成要素にはテーマ、論点、結論、論拠の四つがあり、アウトラインには序論、本論、結論があります。アウトライン、と聞くと輪郭を思い浮かべそうですが、ここでは骨組みを意味するそうですね。骨を組み立てては崩し、組み立てては崩してまた組み上げる……という作業の大切さは、ブログ執筆にあたって改めて痛感しました。更新が遅くなってしまったこと、お詫び申し上げます。私のようにならないように、皆さん学期末レポートに向けて頑張りましょうね(どの口が)。

 ちょくちょく私見や願望がにょきっと顔を出してしまいましたので、スパッと締めたいと思います。ここまで読んでくださりありがとうございました! 私は期末レポートまでに『北斗の拳』……ではなく、厄介だけど優しいヲタクの父が録画してくれたハガレンの一挙放送と『ヴァイオレットエヴァーガーデン』を、先に見尽くしたいと思います。それではお元気で!

2年ゼミ第5回「前前前世」

 こんにちは。第5回担当の坂入夏と申します。名前の話の流れはもういいかなと思ったのですが、お2人とはまた違った意味で結構珍しい名前ですよね。春さん秋さん冬さんにまだ会ったことがないのですが、春夏秋冬コンプリートしたいというのが密かな夢です。

 何について書こうかなあと頭を悩ませていたところで唐突ですが、「縁」について考えていることを書いてみようかと思います。実はつい数日前にとあるアーティストのコンサートの当落発表があり、なんと!なんと!!落選しました!!!残念!!!!兄も応募していましたがこちらも落選。そういうこともありますよね。こういうとき、私は「まあ縁がなかったんだなあ」と思うようにしています。買おうかどうしようか迷った挙句「明日になっても気になっていたら買おう!」と思って狙っていた洋服が、翌日行くともう売れていたときも「縁がなかった!でもその分のお金はまた別に使えるわけだし!」と割り切って前向きに考えるわけです。(もちろん悲しいは悲しいのですが。)

 何が言いたいかというと、自分ではどうしようもない力って絶対あるよね〜という話です。どんなに頑張っても、祈っても、ちょっとしたことで叶わなかったことって世の中いっぱいあると思っています。ですが、目標としていたものと、結果的には違っていても実はそれがいい方向に結局は導いてくれたりもします。(私のまだ短いたった20年の人生でこんなことを言うのは気が引けますが。)今こうして内藤ゼミで一緒になった方々は何かのご縁が「ある」ということだと思うので、ぜひ仲良くしてください!とてもとても人見知りですが、話しかけてくれたら嬉しいです。

前置きが長くなりました。本題の授業内容に入りましょう。

1.今後の予定確認

 第13回、第14回の2回にわたって研究成果発表会を行うことになりました。みんな!頑張ってそこまで生き抜こうね!ちなみにレポート8000字はまだ私は書いたことがありません…。不安がすごいです。

2.ゼミ活動振興費

 ゼミの活動費で美術展や映画、書籍の購入がOKになりました。ただし領収書がないと返金できないそうです。絶対忘れないようにしましょう。ちなみに私はゴッホ展行きたいです。

3.リアクションペーパーに対する応答

 毎度熱いこのコーナー。今回もドラえもんの分析をしたリアクションペーパーがありました。これをまとめただけで学期末レポートが書けてしまいそうなくらいレベルの高いリアぺで、毎回楽しみです。

4.レポートの構想発表:佐藤杏海さん

 前座トークだけでなくレポート構想発表のトップバッターも務めてくれた佐藤さんのレポートのテーマは、「擬人化」について。具体的な作品よりも擬人化という現象に焦点を当てるそうです。どのような問いにするか、まだ迷っていたのでグループに分かれてそれぞれ問いを出し合いました。「なぜ人は擬人化するのか?」「なぜ擬人化は人を惹きつけるのか?」など、8000字には収まらなさそうな壮大なテーマしか私には思いつきませんでした。字数と期間が足りる範囲内のレポートを書くには、どういう状況でどういう人が惹きつけられているのか、などもっと掘り下げて考えていくことでより明確で具体的な問いを立てることができるそうです。これから構想発表する人は多いと思うので、ぜひ参考にしましょう。

5.批評理論の学習:3ロラン・バルト「作者の死」

 さて、最後に本題のロラン・バルト「作者の死」です。初めはグループになって、まずはこの訳の分からないものに取り組んだ健闘を称えあいつつ、ロラン・バルトは何が言いたかったのかを確認しました。後半は先生の講義形式になりました。「作者の死」の要点は主に4つ。この日はそのうちの1つ目である「作者について」の要点と、そもそもロラン・バルトとはどのような人であったかを学びました。

 ロラン・バルトはフランスの批評家・文学理論家で、文学だけでなくファッションや日本論など、幅広い分野の批評をした人です。彼が活躍した1960年代のフランスは構造主義全盛期で、ロラン・バルトはそれを牽引していった第一人者でした。大学生なら文学を勉強している、していないに関わらず構造主義について誰もが語り合えるような、アカデミーが開けていた時代だったそうです。ではなぜ、1960年代のフランスで、構造主義が流行したか。第2回の授業で取り扱ったプロップの「31の物語の機能」を代表とする、1920年代に花開いたロシアのフォルマリズムに関する本が英訳を経て仏訳されたためでした。

 では、作者という存在に関してバルトはどのように考えていたか。「作者」とは近代に生まれた「個人」という考え方によって成立した概念であり、作品に意味を与える創造主として位置づけられるようになってしまった。作者によって生み出された作品には全て、作者の意図があり作者の生い立ちが関係していると解釈されるようになった。しかし、それに対してシュールレアリストをはじめとする人々は、作者の意図、言い換えれば「自分の意志」から逃れて作品を生み出そうと試みた。

 近代以前には「個人」という考え方はありませんでした。一人一人物理的に異なる人ではあるけれど、「前世の縁で繋がっているかもしれない」などより緩やかな概念だったそうです。前置きの話はここから思いついたわけです。先生は近代以前の考え方が好きだとおっしゃっていましたが、私もそう思います。シュールレアリスト達は自動筆記という手法によって意志を逃れようとしました。だから彼らは意識の及ばない空間、つまり夢や無意識状態に関心があったのです。

 残りの3つの要点については次回の授業の初めに回すことになりました。エクリチュールについて、私は全然理解できなかったので授業が楽しみです。

授業の内容は以上で終わりです。

佐藤さん、ごめん。期待してくれて嬉しかったけれど、私には面白い文は書けませんでした。そして適正な字数が全く分からずダラダラと長い文章になってしまいましたがここまで読んでくださった方々、ありがとうございました。またどこかでお会いしましょう!では!

2022年度問題分析ゼミナール:入室試験のご案内

本ゼミへの入室を希望する学生は、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従い、以下の書類を提出してください。

1. レポート: 以下の内容について論じること。

1) 志望理由 2)ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば,それも示すこと)。

書式:WordもしくはPDF、A4横書き、字数2000字前後

2. エントリーシート: 以下のファイルをダウンロードし、必要事項を記入すること。

2年ゼミ第4回 「リアペとはこれ則ちラブレターである」

おはこんばんにちは、って便利な言葉ですよね。関根さんからバトンをいただきました佐藤杏海と申します。この文字で“あずみ”と読みます。関根さんのお名前に負けず劣らず難読ですね。さて、私の方はどんなネタを書こうかと考えていたのですが、やはり3分では語り尽くせなかったのでももう少しだけ前座トークの延長戦をしようかと思います。興味のない方はクトゥルフ神話TRPGで検索をかけて動画を見た方がわかりやすいので、私の話よりそちらをどうぞ。

というわけでやっていきましょう延長戦。タイムリーというよりも常に遊んでいる私は、先週の前座トークの時点で7時間(2夜分)かけてTRPG好きなメンバーたちと大正時代を舞台に謎解きをしていました。ゲームの進行役を私が行い、友人たちがそれぞれ「自堕落な作家」「無類の女好きの探偵」「硬派で天然な警官」「ゴシップ大好き記者」というあまりにも癖の強いキャラクターを持ち寄ったセッションです。シナリオの設定によって全員が幼馴染だったので、準備段階から幼い頃のエピソードなどを自由に創作してくれました。気心知れた人間同士の軽妙なやり取りが即興で演じられるのはすごいですよね。そして必ず訪れるゲーム終盤の決断の時。キャラクターが抱えている隠し事や、貫き通したいそれぞれの正義をぶつけ合いながら私も予想しなかった熱い展開をしてくれました。やはりTRPGのいいところは進行役すら想像できない展開と、それぞれの思いが交錯する物語性だなと思います。私はまた今週末に1本、来週に2本ゲームが待っていますので、面白さと中毒性は折り紙付きです。恐ろしいことにこの1年半で60本以上遊んでいたようです。プレイ時間にすると300時間ほど。6000円の本1冊でこれだけ遊べるのでかなりコスパのいい遊びですね。みなさんもぜひ遊びましょう。

さて、前座トーク延長戦が長くなってしまいましたが第4回のゼミの内容に移ります。

1.ゼミブログ執筆順

このゼミブログの執筆順が決まりました。次回は坂入夏さんです。どんなブログになるのか楽しみです。また、私がシメの第14回の編集を担当することになりました。この回はみなさんからのコメントをまとめようと思っているので、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

2.期末レポートの構想発表順

第5回の講義から始まる期末レポート構想の発表。こちらは2年ゼミのみなさんは必須なので自分の担当をお忘れなきよう。初回担当になった私は今必死に考えています。もし発表がボロボロでも優しくしてください…………

3.リアクションペーパーへの応答

毎度とても楽しいリアペ反応のコーナー。今回も非常に面白い視点のリアペと、先生のコメントが続きました。前回の講義はプロップの「物語の31の機能」の実践編。そのため、ゼミ生の中で独自に興味のある作品に機能を当てはめて考察したものが見られました。一方でプロップの意見への鋭い批評もいくつか挙がっています。売れる物語の雛形としてこれらの機能を捉え、あえて逸脱した作品を求める意見や、男性主人公を基準とするプロップの考えは本当に普遍的なのかを問う意見が中心でした。その延長線上ででてきた、先生の現在の“成長物語ではない新たな物語形態について“はぜひもっと深いお話を聞いてみたいです。

他にもオランダの料理やロックダウンに対する感想、私の前座トークに関する感想も頂きました。

4.論述文の書き方の学習Ⅰ:論述文とは何か

第4回の本題です。まずアイスブレイクとして前回の課題であった例文のレポートの採点に関する意見交換を3~5人のグループに分かれてしました。先生の手厳しい採点表に冷や汗をかきながら、自分たちの文章を見直すいい機会になりました。

続いて基礎的なレポートの形式についての確認です。穴埋めプリントを使いながら、再確認をしていきます。動機の書き方や中心文(トピックセンテンス)についてはこれからのゼミで詳しく説明があるので、今回は全体をさらう形でした。この論述文の書き方はレポート以外にも様々な場面で使える文章構成です。ラブレターや感想文、果てはこのブログの文章もある程度その形に添っています。

ざっくりと第4回のゼミを振り返ってみました。やはり一番熱かったのはリアペへの応答ですね。先生へのラブレターのような、そんな熱意を感じました。回を追うごとにプレッシャーが増していきます。

これにて第4回のゼミブログは終わりです。次の担当の坂入さんとは何回か下北沢で遊びましたが非常に面白い方です。ええ、今からとても期待をしています!

冒頭で関係ない話をしすぎたので今回のブログはこのあたりで。拙文をここまで読んでくださりありがとうございました。

第14回 7期生 発表会blog『このブログは読まれることを(そんなに)想定されていません』

お久しぶりです。どうやら長い夏休みが終わり、3年ゼミの後半が始まろうとしているようですね。(というかもう始まってますね)大好きな秋です。私は夏に敢えてマライアキャリーを歌ったり、冬に夏の終わりを歌ったりして季節を逆行するのが好きですが、この秋は素直な心で「オータムインニューヨーク」を観はじめました。映画から季節を感じるというのもいいものですね。

皆さんはどんな夏を過ごされたでしょうか。わたしはというと宿題の存在を心に留めつつ、半分罪悪感に苛まれながらも遊ぶ小学生の心境でした。もちろん、ここでの宿題にあたるのは「春学期レポート」です。9月の最終日曜日に、ゼミの卒業生の方にレポートの概要を発表する会が開かれるとのことで、なんとしてでもその日までに書き終えたいと、日毎予定ページ数を書いたカレンダーを睨む日々でした。今回のブログはその発表会の回記録です。

まずはお忙しい中発表を聞き、意見をたくさんくださった卒業生をはじめとする出席者の皆さん、ありがとうございました。私だったら平日にお仕事をしていたら、土日ぐらいは家でゆっくりしたいと思うと思うのですが、日曜日の、しかも短くない時間を、私たちゼミ生のレポートの構成について考えることに当ててくださるなんて、内藤ゼミにはなんて素晴らしい先輩方がいるんだ…!としみじみ感動しました。そして私もゆくゆくは(ゼミを無事走り終えられたら)後輩たちのために同じようにできればいいなと、若干の不安とともにそんな将来を思い描きました。

さて、本題に参ります。私はゼミでレポートを書くと決まった時、「物語作品は世界を変えうるのか」という壮大なテーマを思いつき、ぜひこのテーマを2年かけて考えたいと思いました。なぜそう思ったかというと、詳しいことは私のレポートを読んでほしいのですが(いつか公開されたら、、、されるんでしょうか?)私自身、物語に何度も心を救われた経験があり、その一方で物語が世の中の常識を押し付けてきているのも同時に感じていたんですね。物語の持つそうしたパワーを、これまでは感覚で感じるしかなかったのですが、このゼミで文学批評理論を学ぶうち、これらを使えば、私がこれまで気になっていたこの問いに対する答えを提示できるのではないかと考えたのです。レポートで、「物語は世の中を変えることができる」と提示できたら、世の中にもっと多様性を認める作品が増え、そしてそれがまた誰かの心を救ったり癒したりすることにつながります。大げさですが、それくらい壮大な気持ちで書かないとレポートなんて書けません。ちょうど、中島みゆきの荘厳な唄をかけながら部屋の掃除をするように。(なんだか自分がすごいことをしている気分に浸れるのでオススメです)それはともかく、このような意図、目的で書いた私のレポートの概要を皆さんの前で発表しました。

その後は皆さんからの鋭いご指摘やお褒めの言葉などをもらいました。たくさんもらったこの日のアドバイスはメモ用紙10枚分を軽く超えていました。特に山下さんからいただいたご意見からは、「世界を変えうるか」という元の主題が大きすぎるので「変えるきっかけを与えうるか」に変更すればしっくりくることがわかったり、日高さんからの意見からは、私は同性と異性の恋愛を分けて考えたくないのかもしれないという新たな気づきを得たりすることができました。もちろんこれは一例で、皆さんから色とりどりの意見をいただくことで、それまでは自分の頭の中でだけこね回していたアイデアや思想を、初めて人と共有することで、(しかも人生の先輩方に)自分にはない視点からの意見をもらい、私の意見に対して「こう感じたり考えたりする人がいるんだ」ということは新たな発見でしたし、それに従ってレポートも見直すことができました。他者からの視点を聞かなけば自分本位の人間になってしまって、いいレポートも書けないと思うので、このような機会を作ってくださった先生に感謝です。

他者からの視点に関連して、このブログの公開がだいぶ遅くなってしまった(すみません)のもそれが関係している気がします。春学期では、ブログを読む人として私は内藤先生と徳村さんだけを想定していて、なんだか身内にメールを送るような気持ちで気楽に書いていたのですが、レポート発表会などを経て、ブログを読んでくださっている人に直接会う機会があり、「こんなにちゃんとしている方々に読んでもらうなら変なことは書けない、、、」と妙なプレッシャーを感じてしまったのです。今こうやって文章を書けているのは、一旦誰が読んでいるかなどは忘れて、自分の好きに楽しんで書こうとマインドセットし直したからです。誰かが読んでいると思ったらその人に気を使い、本当の自分の気持ちが書けなくなってしまうことがあると思います。私が文章を好きなのは、話す時ほど相手に気を使わなくていいからという理由もあります。書いている時点では誰にも届かない文字だから、本音になれるんです。そしてそれを相手に届ける前に見返して修正ができる。それに対して喋りなら、すぐに相手に届いてしまうから、相手を傷つけないよう慎重になるし、相手本位になって本来の自分を少し歪めることもありますよね。自分の心の声に従って書けるのがブログの良さかなと思うので、私はこれからも読者におもねらず、正直な書き手でいることをお許しください。

脱線してしまいましたが、私の発表の後には徳村さんの発表があり、徳村さんの、誰の意見も否定しない中立的な人間性とかが現れていてとても面白い発表でした。CMという着眼点もならではでさすがですね。レポートが出来上がって読めるのを本当に楽しみにしています。徳村さんの文章ってなんか本当に面白いんですよね、読みやすいですし。しっかり起承転結というか、なんの文にしても一本筋が通っているから読後感もいいのかもしれないです。それに関連して、私の発表への徳村さんの意見を当日は聞けなかったので、後日長文で送ってくださいとお願いいたところ、本当に送っていただいた(!)文章も、構成がやっぱり綺麗でした。お忙しいところわざわざありがとうございましたとこちらでもお礼を言わせてください。

さて、書いてみましたが、普段の授業内容と違い、発表会のブログとはこんな感じで良かったのだろうかと不安です。もっと発表自体の内容を書いた方が良かったような気もします。

ゼミを楽しいものにするか、厄介なものにするかは自分の向き合い方次第だと思います。「秋学期のゼミも楽しむ!」という決意表明とともに今回のブログは締めようと思います。ですが少なくとも、夏より秋の方が涼しくて私は元気なので心配はありません。それよりも、食欲の秋も重なって最近お酒や美味しい食事をいただく機会が多く、順調に体重を増やしていくのではないかということの方が目下対処すべき問題かもしれません。ヘルシーで美味しいレシピを知っている方がいらっしゃいましたらご教授願いたいです。(運動せんかい!と思いましたか、私もそう思います)

村上菜々子

2年ゼミ 第3回 「桃の木なんの木、気になる木…」

初めまして。おはこんにちばんは。皆様、今日という日をいかがお過ごしでしょうか。2021年度2 年ゼミの栄えある最初のブロガーを務めさせていただくのは邦ロック大好き関根碧輝と申します。以下お見知りおきを。初投稿ということで若干の緊張はありますが内藤先生からは自由に書いていいと言われたので気負わず、ゆる~く自分なりに書いていきたいと思います。途中で話が脱線していく可能性もありますがどうか春の陽気くらいの温かい目で見守ってください。よろしくお願いします。

突然ですが、『碧輝』という名前読めますか?正解はこれで『あいき』と読むんです。はい、いまそこの読者「読めねぇよ」とか思わない。俺悲しくなるから。滅多に見ない漢字構成と呼び仮名なので一回も同じ「あいき」という名前の人に生まれてこの方あったことがありません。そのため友達や知り合いに「あいき」って名前の人いるよって方は是非とも教えてください。教えていただけたら抽選で明大茶当たります。私の名前ですが「エメラルド色に光り輝く大海のように寛大で綺麗な心を持ち、様々なことを助けている大海のように人をたくさん助けられる優しい子に育ってほしい」との由来があります。「めっちゃ素敵やん!」と関西人でもないのに関西弁がでそうなほどです。しかし、日本には本音と建前という言葉がありますよね。薄々勘づいた方もいるでしょうがこの名前の由来まさかの「建前」なんです。本音というのはただ、父が「合気道」が好きだったから。もう一度繰り返しますが「合気道」が好きだったからなんです。元々は「合気」とつけられる予定だったそうです。母方の家族が総出で止めてくれたそうですがそりゃそうですよね。お母さん、おばちゃん、おじいちゃん本当に当時止めて頂いて感謝してます。孫、それなりに立派に育ちました。本音を父親から聞いた時は「あの時の感動返せよ!」割と本気で言った思い出があります。久々に自分の名前の由来をご両親や親戚に聞いてみるのはいかがでしょうか?新しい発見があるかもしれないですね。ふと思ったんですが意外と名前の由来というのも表象分析の題材に使えそうですな。

前置きがかなり長くなってしまいました。本題に入っていきます。10月5日の2年ゼミの授業内容のまとめですね。しっかりとやります。

授業の内容としては

1.リアペの応答

2.前座

3.ゼミブログの執筆講座

4.学期末レポートの構想発表

5.批評理論学習

6.次回までの課題説明

と言った感じ。

1.リアペの応答

内藤先生の話を聞いて「オランダ人はマヨラー」「移動式遊園地」「ロックダウンはやべぇ…」の某〇ジテレビの計三本立てアニメの様にメモを書いていました。ロックダウンを経験してきた人の説得力ってめちゃくちゃあるなぁ。テレビなどでロックダウンを推奨する人見るたびに内藤先生を毎度思い出すことだろうなぁ。あと、国立公園の荒野をチャリンコで疾走していく話も面白かったなぁ。(と小学生並みの感想を書いてしまいました。)

話は変わって、桃太郎をめぐる問いに対しても興味深いものが多かった。特に、「なぜ桃を拾ったのはお婆さんだったのか」「相手を襲い、力で勝ち。財産を奪った、という点で鬼と桃太郎に違いがあるのだろうか」「お爺さんとお婆さんは。鬼ヶ島から帰ってきた桃太郎をどう思ったのか」の三点が目を引いた。全く自分では考えたことのない切り口から導かれたこれらの問い。他者の意見って本当に面白い。

2.前座

このゼミ初めての前座トークを務めてくれたのは毎回の洋服が凄く素敵な佐藤杏海さん。本日も素敵でした。そんな彼女が紹介してくれたのはTRPGというゲーム。よくテレビゲームで行っているRPGを実際にテーブルゲームでやっちゃおう!というゲームである。運命をサイコロに任せ、様々なイベントの発生に従い、自分のゲームキャラになりきる…、即興劇的要素もあり遊のシナリオは無限大であるようだ。佐藤さんの説明に「おぉ、スゲぇ」と思うとともに、来週以降のハードル上がったなぁとも思ってしまいました。(笑)

先日行ったボードゲームカフェでやけに即興劇っぽいことをやっているグループがあって不思議に思っていましたが、おそらくTRPGをやっていたんだな…。二年ゼミで交流の為にも是非ともやってみたいものです。佐藤さんお疲様でした。

3.ゼミブログの執筆講座

これに関しては、僕が初回を引き受けたので特に書くことないかと。とりあえず、Wordに下書きすることが一番大事かな。けど、来週以降の人たぶん俺まだブログ投稿できてないと思う、ごめん許して。俺が言える立場じゃないけど何事も計画的に進めるのが吉。

4.学期末レポートの構想発表

学期末かぁ…とは思ったけど意外とあっという間に年末も来ちゃうもんね。いつの間にかコタツで紅白とか箱根駅伝を見てる季節になっちゃうよ。ぼちぼち何のテーマやるか決めていかないとなぁと思いましたよと。とりあえず、来週初めての発表者をみて考えを膨らませよう。てことで、発表者頼んだよ~。(圧)

5.批評理論学習

おそらく今日一番大事な部分の話。構造主義の思想潮流の礎を築いたロシアの文芸評論家、ウラジミール・フロップの「物語の31の機能」についてである。1928年に「昔話の形態学」を執筆した人であり、「31の機能」と「7つの行動領域」に触れている。その「31の機能」と「7つの行動領域」とはなんじゃいなと思った方もいるだろう。フロップは、沢山の物語から登場人物の行動を研究し、とある共通項を探し出したのである。例えば、「違反」を考えたときに日本の昔話である「鶴の恩返し」を例に考えてみよう。女性に化けた鶴が機織りをするシーンを思い浮かべて欲しい。流れ的には爺さんがふすまを開けてしまう禁忌を起こすわけだがここでフロップのいう「違反」が行われているのである。そのほかの物語でも多々当てはまるであろう。この「違反」以外にも「勝利」「処罰」「結婚」など「31の機能を分類しているのだ。研究して結論に至ったフロップすげーな。この31の機能というものは“人類普遍の構造”であるかの議論もゼミ内で触れられていた。また、少年ジャンプの「友情・努力・勝利」のモットーにも近い的な話もあったな。おそらくあのジョージ・ルーカスもフロップの31の機能を学んでいるらしい…(たぶん?)。「7つの行動領域」に関しては物語の登場人物の役割を7種類に分類したものである。挙げていくと「①敵対者(加害者)」「②贈与者(提供者)」「③助力者」「④王女(探求される者)とその父親」「⑤派遣者(送り出す者)」「⑥主人公」「⑦ニセの主人公」の7種類。桃太郎を例に挙げると鬼ヶ島へ桃太郎を送り出すお婆さんやお爺さんは⑤の派遣者にあたるだろう、と言った感じ。おわかりいただけただろうか。もちろん全部が全部物語に当てはまるとは限らないと書かれてはいるが、このようにフロップの「31の機能」や「7つの行動領域」を意識しながら今の物語を読んでいくのも面白いな。

まぁ、だいたい初回のブログはこんな感じかな。かなり長くなってしまったけど。内藤先生長い執筆の猶予期間を貰えて助かりました。次回の担当者の佐藤杏海さん。やっと書き終えました。更新待っていただきありがとうございます。次回のブログも期待しています。あ、題名の「桃の木なん木…」の説明しくちゃ。と言っても桃太郎の話していたときにずっと授業頭の中に流れていたんですよね。歌詞は「この木なんの木、気になる木」なのに。いや、ほんとそれだけ。けど、なんだろこの珍しい題名ってほうが読者の目惹くじゃん?ちなみにこの頭の中に音楽が離れず流れてしまう現象のことを「ディラン効果」って言うんだってさ。よし!じゃあ!筆を置きます。また会う日までadios!

第13回『最後までこんなブログだけど、エピステーメー、許してーね。』

チョリーッス。今季ブログの殿(しんがり)を務めさせてもらいやす、徳村でござんす。お控えなすって。最近藤本タツキの漫画にハマってます。チェンソーマン、おもれーっすね。ファイアパンチ、イカれてますね。ルックバック、圧倒されますね。発想力の暴力ですな。もっと早く知りたかったぜ。そして今回のブログは情緒がジェットコースターラブ/KARA状態なので、躁鬱みたいな文章が各地に見られる予報です。エッッッッッッッッッ?なぜかって?なぜってそりゃあ、そうでもしないと滞らせることなくブログ書けないからに決まってるジャーーーン!

今回の前座では岩井俊二の映画『花とアリス』をご紹介。岩井美学が造り上げる映像美はもちろん、劇伴が素晴らし散らかしてんだよなぁ!コレ!!!各種ストリーミングサービスでもオリジナル・サウンドトラック『H&A』が配信されてるだろうから、要(Yo)要(Yo)要(Yo)チェケラだぜ~!!!これ聴けばもう一瞬で花とアリスの世界にトリップできちゃうっていうバリ☆ヤバな代物!!!おっしゃ~花とアリスでレッツ彩ろうぜ日々~!ビバ日々~!

さて、今回メインで扱ったのは、「オリエンタリズム」と「新歴史主義」です。「オリエンタリズム」っていうのは、簡単に言うと西洋人から見た「西洋でない文化」に対するイメージのこと。よく意味の分からない漢字をタトゥーにしたり、やたら仏像を集めてる西洋人がいますよね。そういった西洋人の非西洋的な物に対する好奇の思考・行動様式っていうのをオリエンタリズムというのです。このオリエンタリズムって、一見「非西洋に対する興味があって価値を認めている人」みたいな印象を抱いてしまうのですが、実際にはそんな単純な話ではなくて…。実は西洋っていうのは、そんな感じで非西洋的なものを『他者』として、『異物』として扱って、ある種そうやって非西洋から自らを疎外することによって自己のアイデンティティを確立していたっていう側面があるんですねー。文明が他の地域よりも発達していた西洋っていうのは、非西洋に対して感情的で魔術的で、野蛮な存在だというイメージを抱いていて、それに対比させる形で自らを理知的な存在であると認識していたんです。今となっては、非東洋人、ことさら日本に対して野蛮であるとかそういうイメージを持っている人はごくわずかだと思うのですが、それでも西洋人にとって漢字のタトゥーを自分の身体に入れるっていう行為は、非西洋的な物である漢字に対してある種の魔術的なパワーを感じていることに由来しているんだと考えられます。これはオリエンタリズムの思考様式が未だに西洋において普遍的なコードであるということを示しています。ただ、そういうオリエンタリズムとかを超えて非西洋な物を愛してくれている人も中にはいるわけなんですよね。ただ単に「めずらしいからなんかいい」とかじゃなくて、どういうところが好きで、こういうところが素晴らしくて憧れなんだと言ってくれる人はオリエンタリズムを超えた人なのかなと考えたりします。

で、問題はそういったオリエンタリズムを、非西洋人が受け入れて内面化しちゃってるところにもあるんです。日本でも一般的に、肌が白いことっていうのは優越されていますよね。美白至上主義っていうか。そういうのも、知らず知らずのうちに西洋人(白人)の価値観であるオリエンタリズムに染まっちゃってるってことなんですよね。日本は明治期の文明開化に際に西洋諸国の文化・生活様式を積極的に取り入れたっていう経緯もあって、西洋に対して自分たちは見習わないといけない、みたいな観念があるのかもしれませんよね。文化帝国主義を甘んじて受け入れてしまっているというね。またそういう文化の上下関係っていうのはアジア内でもあったらしいです。例えば日本にはかつて、朝鮮と自国を比較して「日本人は男性的で理知的、朝鮮人は女性的で感情的」という価値観があり、日本も朝鮮や中国などの周辺国から自らを疎外することで自己のアイデンティティを確立していたのです。なので日本ってオリエンタリズムとかポストコロニアルにおいては立ち位置が微妙なんですよね~。そこがなんか陰湿な日本らしいというか何というか…。

続きまして最後の厄介者「新歴史主義」にあたっていくぜぇ~!!!まず(旧)歴史主義っていうのが「歴史を直線的・発展的なものとして捉え、文学を特定の時代精神と結びつける」方法であるのに対して、新歴史主義は「歴史を、ある点では断絶したりある点では繋がっていたりするものであると非直線的・非発展的に捉え、あらゆる文学(書かれたもの)に表象され編み込まれているものとして読み解く」方法であると言えちまうんだなぁ!!!ちょっと何言ってるかわかんねぇと思うんだが、まずはこの方法の元となったフーコーの考えを整理していくんだぜ~!!!フーコーは自身がホモセクシュアルであったこともあって、研究対象を『性』として「なぜホモセクシュアルが排斥されるようになったのか」という問いを解き明かすことに尽力してたってワケなんだが、フーコーは「ホモセクシュアルという異常者は隔離する」という言説が普遍的なものではなく、歴史的な考えに過ぎないということを示すために様々な言説にあたったんだぜ~!!!過去のさまざまな言説を比較することで、歴史上のどのタイミングでそのような言説が生まれたのかその境目を見出そうとしたって事なんだよなぁ~!すげえよなあ!マジで!

で、そういう過程を経て、新歴史主義の「歴史は直線的でも発展的でもない」っていうのを示したのがフーコーなわけだ!これはフーコーの「パノプティコン」っていう刑務所に対する意見を例に挙げて説明するとちょっとわかりやすいかもだから、頑張って説明してみるぜ~!!!パノプティコンっていうのは、看守を受刑者から見えないところから監視させる構造を持った刑務所なんだが、これって、かつての刑罰が見せしめ的に公衆の面前で行われてたことを考えると、受刑者に対して権力の内面化が行われていると考えられるんだぜ~!パノプティコンでは、監視されているかどうかわからないのに、規律に従わざるを得ないわけじゃん???それってもう権力をわざわざ可視化しなくても受刑者をコントロールできちゃってるわけ。これを別の言い方で『身体の規律訓練』って云ったりするんだけど、これって歴史主義的に解釈すると刑罰の方法が発展したってことになりそうじゃん???でもでもでもでも、ここで新自由主義的な解釈をブチ込んでみると、こうやって権力を内面化したり、身体の規律訓練を行っていたのは、元々中世にもあったことなんだよなぁ~実は!!!中世の修道院では自らの罪を自ら告白して、自らに規律訓練を課すっていう風習があったらしきくて、つまり権力の内面化とか身体の規律訓練は、発展して生まれたもんじゃなくて、前にもあったことが再び近代に現れただけってことなんだぜ~!!!こんな感じで、フーコーは社会において覇権的な思考の枠組み=エピステーメー(パラダイム)っていうのが連続的にも間歇的にも現れるっていうことを示したワケよ!!!!いや~なかなかムズイこと言ってくれるよな~、コンチキショー!!!!だぜ~!

そんなわけで今回のブログも終わりが近づいてきました。こんなのが今季最後のブログになってしまうことは心許ないですね。終わってみると色々感慨深いですが、一つ言えることは毎回毎回本当に億劫でした。だってあんなに意味の分からないことにもう一回向き合わなくちゃいけないなんて…。辛すぎるよ…。こんなのってないよ…。あんまりだよ…。こんなの絶対おかしいよ…。と鹿目まどか状態になりながら這いつくばって書いたブログはきっと俺の糧になっていると俺の中のリトルファンキー加藤が言っている(ような気がする)のでいい経験になったと思っています。私のブログを村上さんのブログと比較すると、品質と品格に歴然とした差があることに関して私は極めて自覚的であり、反省の余地はありあまるほどですけども、そうしなければ書き上げられなかったので許してニャンの構えです。

それではみなさん読んでくれてありがとうございました。お腹が空いたので終わります。またいつか/どこかで。

第12回 7期生 『Dolce&Gabbanaは香水の専門店ではありません』

「ファッションは毎日を生き抜くための鎧である」

これは写真家ビル・カニンガムの言葉ですが、服は着る人やそれを見る人の心に大きな影響を与えます。今回の前座では内藤先生のジェンダーと絡めたコムデギャルソンのデザインの話を聞いてとても興味深かったです。かくいうわたしも、ラグジュアリーブランドのコレクションを見るのが好きで、毎回発表されると、動画を検索して見るのが高校生の頃からの習慣になっています。

その中でも1番印象的だったのが、2019年春夏のDolce&Gabbana Alta Modaのコレクションです。Valley of the Temples で開催されたウォーキングの動画があり、50分弱と長めですが、今でも何度も繰り返し見ているくらいお気に入りです。何がいいかというと、撮影している場所と、音楽の荘厳さに、お洋服のデザインが絶妙にマッチしていてただただ美しいのです。それでいてたくさん登場する服からはひとつのコンセプトを感じられ、見ているだけで想像力を掻き立てられます。まるで物語の世界のように世界観に入り込めるようなコレクションはほかに知りません。お時間ありましたらぜひ検索してみてください。インスピレーションを得られるかもしれません。

さて、本題にはいります。今回はマルクス主義批評を勉強しました。マルクス主義で大切なのが「下部構造」と「矛盾」です。下部構造は、ピラミッドの下部に経済があり、その上に思想や政治が乗っかっているのをイメージするとわかりやすいです。経済的なことが、社会的、政治的なことを決定付けているという考え方です。矛盾は、文学においてあるべきものが欠落して書かれることで、社会の中の経済的な矛盾が歴史性を生み出します。具体的にいうと、生産体系の歴史はこれまで

アジア的→古代的→封建的→ブルジョア的→[革命]

と移り変わってきました。マルクス主義はこの後に、社会主義的→共産主義的が続くとよいと考えます。これはなぜかというと、生産体系(つまり経済)が牧歌的なものから奴隷を利用するもの、契約によるもの、資本主義によるものと移り変わっていたことで社会に矛盾が生じて、それが労働者の桎梏になり、階級闘争が生まれてしまうからです。そしてその度に争いが起こりました。もし社会主義的、共産主義的生産体系になれば、桎梏は生まれず、平和が訪れると考えるからです。

とはいえ、これを今すぐ実現するのは現実的ではなく、さまざまな問題が残っています。完全に社会主義的生産体系にするのは難しいですが、ベーシックインカムの制度の導入などから考えてみるのもいいかもしれません。これにも教育面や資金面などの問題があり難しいところですが。

このようなマルクス主義を、文学批評に応用してみます。マルクス主義批評です。ゴジラを例に取って考えてみましょう。ゴジラはシリーズ化されており、最初の作品は1954年に発表されていますが、今年にも「ゴジラvsコング」が公開されるなど、関連作品はコンスタントに発表され続けています。もちろん、作品が作られる時代背景も変わっています。時代背景とはマルクス主義でいう経済のことです。一作目が公開された頃、日本の経済は伸びておりそんな中起こった第五福竜丸事件の残留物からゴジラは生まれました。日本のアッパークラスが生み出したゴジラですが、家が潰されるなど、その被害はミドルクラスが受けます。にも関わらずゴジラを倒したアッパークラスはまるで英雄のように描かれる。ここに矛盾が生じます。

この矛盾を解決するのがそのあとに続くシリーズということになります。原子力発電が主流になってからは、それがゴジラを生み出した世界を作り、被害を受けるミドルクラスを描き、国策が間違っているのかもしれないと、日本経済をシニカルに描いています。

よく、原作とそれに続く2次創作についての議論がなされますが、たいていはオリジナルのファンが2次創作を批判して終わりになりがちでした。しかしただ表現を小説から映画、漫画からドラマに変えるだけでなく、2次創作では、階級などの観点でオリジナルでは解決しきれない問題を解決することで原作との差異を生み出せば、それは唯一無二の価値ある2次創作物になりそうです。

マルクス主義批評の話から、現代でも盛んな2次創作についての議論まで展開することができるなんて驚きでした。難しいイメージで今まで手をつけてこなかった経済の分野ですが、これを機に関連本を読んでみようと思いました。とっつきにくそうな分野でも、自分の好きな分野と結びつけて考えると理解しやすくなったりしますね。昨日かの有名な「博士の愛した数式」を初めて読んだのですが、高校時代あんなに嫌っていた数学に少し優しい気持ちになっているのに気付きました。やはり本は偉大です。文学や映像で、理系分野や政経分野を扱った面白い作品がありましたら教えていただけると嬉しいです。

わたしが春学期に書くのは最後のブログになりました。読んでいただきありがとうございました!

村上菜々子

第11回 Can the Subaltern Speaks on Twitter?~サバルタンはツイッターで語ることができるか~

ごきげんよう皆さま。返品と滞りに定評のある徳村です。前回ご紹介した空より青いギターは無事返品しました。そして代わりに御茶ノ水でおニューのギターを購入いたしました。

うん、シンプルイズザベストですね。何よりネックの色がたまりません。このネックの色を見つけるまでどれだけ苦労したことか。。。ボディのクリームっぽい白と、ピックガードの溌溂とした白の組み合わせも絶妙です。美ギター。エレガントで瀟洒で高貴なパリジェンヌを連想させます。仮にマルジェラの新作だと言われても疑いません。もう絶対裏に白い布縫い付けられてますよねコレ。あ、あと勿論音も素晴らしいです。弦一本一本の音がしっかり聞こえて、まるで大阪王将のチャーハンのようなパラパラさ。でも大阪王将のチャーハンあるいは天津炒飯のように最初の一口が一番美味しいけど二口目から惰性で食べざるを得ない、みたいなことはなく、逆に弾けば弾くほど楽しくなってずっと弾いていたくなるような音です。皆さんもぜひ最寄りの大阪王将でチャーハン(天津炒飯でも可)を注文して、このギターの魅力を感じ取ってください!!!

さて皆さんが大阪王将でパラパラしてる間に本題に入ります。今回のゼミで扱ったのは、フェミニズム批評とジェンダー批評、そしてガヤトリ・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』になります。

フェミニズム批評は、長い間男性中心に形成されてきた文学伝統の中で行われてきた性差別を暴く批評として登場しました。女流作家であるメアリー・シェリーによって書かれた『フランケンシュタイン』も、そのフェミニズム批評の対象になります。『フランケンシュタイン』ではフランケンシュタインに関係する女性が次々と殺害されることから、女性が抑圧され、再生や代替の可能なものとして扱われている世界を表しているとみることができたりします。

次にジェンダー批評は、フェミニズム批評のように女性の問題のみに焦点を当てるのではなく、生物学的・社会学的に男女区別の基準から逸脱し周縁に追いやられている存在も対象とします。ゲイ批評やレズビアン批評などもジェンダー批評に含まれます。

ジェンダー批評の中でも面白かったのが『ホモソーシャル』と『クイア』という概念でした。

ホモソーシャルというのは男性の社会という意味。アメリカの社会学者ルネ・ジラールは「自分の欲望は他者の欲望の模倣である」という『欲望の三角形』理論を唱え、男二人が一人の女性を取り合う構造について説明しました(つまり、他人の好きな人を好きになっちゃうっていうこと)が、ホモソーシャルの研究を行っていたイヴ・セジウィックはこの理論に異を唱え、「その二人の男性は欲望を共有する(女性を取りあう)ことによって仲を深めている」と主張しました。つまり、ホモソーシャルは女性を利用することでコミュニティーの結束を固くしているということをイヴ・セジウィックは明らかにしたのです。また、このようなホモソーシャルを維持するために、その内部ではホモフォビア(同性嫌悪)やミソジニー(女性嫌悪)も醸造されることとなります。それは、ホモソーシャルが再生産を重視する社会の中で顕著であり、同性愛は生産性に欠け、男性のコミュニティーに女性が入ると結束が崩れてしまうという共通認識を持っているからなんです。しかし、このようなホモソーシャルというのは決して普遍的ではありません。かつては階級によって女性の方が男性よりも重視される社会も存在しましたし、古代ギリシアではホモソーシャルの中でもホモセクシュアルが普通に認められていたといいます。我が国の江戸時代に流行した春画も、性別の違いというよりは階級の違いを重視していて、異性愛も同性愛もどちらも描いていたそうです(異族愛も)。

次にクイアについて。クイアは元々「奇妙、気狂い」といった意味で、主に性的マイノリティを侮蔑する言葉として用いられていました。しかし現在ではそれを逆手にとって「性的マイノリティに対する差別に対抗する」という意味で、あらゆる性的マイノリティの人々を包括的に表す言葉として使用されています。このクイアという概念は人間の属性を常に変化するものと捉え、男女の区別を確定できないものとして考えており、その意味で非常に脱構築的だと言えます。つまりそのことを理解している人はみんなクイアなのです。このクイアという概念を今回のゼミで理解したことで、昨今のフェミニズムや性的マイノリティに対する扱いに個人的に抱いていたモヤモヤが少し晴れた気がしました。近頃、ネット上のフェミニストは女性の権利だけを求めがちだし、性的マイノリティに対する世間の扱いも腫れ物に触れるみたいに神経質すぎると考えていた私なのですが、クイアという単純明快でロックな概念には好感を持てます。結局、みんな人間なんだぜっていう。自分がどう生きるかは自分が決めることで、しかも決めた後でも迷っていいし変更してもいいっていうことなんだと思うんですよね。勿論制度設計の上で考えることは山ほどあると思います。例えばトイレ問題とか、スポーツ問題とか、たぶん私が思いつかないだけで沢山の問題がそこにあるんだと思うんですが、そういう問題を解決するにあたっても土台になるべきなのはやはりクイアなんじゃないかなと思います。

そして締めに『サバルタンは語ることができるか』ですが、まずサバルタンというのは被抑圧民のことで、植民地時代に列強によって支配されていた国々に住んでいた人々のことを指します。今回のサバルタンは特に「女性、非白人、非インテリ」の人々のことを指しているのですが、結論から言ってこのようなサバルタンは語ることができません。それは知識人や権力者がつねにサバルタンの声を代弁してしまい、当事者であるサバルタンの声は聞こえてこないからです。仮にサバルタンの意見を取り上げようと直接話を聞いたとしても、日常的に男性の言いつけを守ったり支配されたりしているサバルタンは本音を言えなかったり、そもそも自分の本音がなんなのかよくわかってなかったりするのであまり意味がないんですね。それでも、著者であるスピヴァクは書き手・読み手が白人のインテリに限られていたこれまでの文学やその他の学問の中にある、彼らが気づけなかった「空白」のようなものを見つけ出すことができるのは、有色人種や女性や非インテリなどのサバルタンであると期待を寄せているのです。サバルタンに語らせることは難しいことですが、どうしたらサバルタンの声を掬い上げることができるのかを考えていかなければなりません。

サバルタンの声について考えると、2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんってすごかったんだなあと思います。彼女は非白人の女性でしかも当時はまだ10代だったわけで、そんな彼女の声を掬い上げたメディアの功績は大きかったのですね。。。今になってその凄さがわかりました。もしかしたら、メディアやSNSを有効に用いることで、サバルタンは語れるようになるのかもしれません。勿論そこにもデジタル・ディバイドの障壁など様々な課題が残っているでしょう。サバルタンはツイッターで語ることができるか、それともインスタグラムで語ることができるか、あるいはまったく別の方法で語ることができるようになるのか、そして誰が語らせるのか、答えはまだ出ませんが、考えてみると面白いかもしれませんね。

今週はここまでとします。僕の滞り癖も今週は落ち着いていますね、よかったです。しかしながら今週の発表がまだ残っています。一難去ってまた一難、いつになったら凪になるやら。何も考えずギターの練習ができる日が来るとイイナ、と夢想する徳村なのでした。

第10回 7期生『アルカイックに脱構築を語る-archaic smile-』

こんにちは。仏の菜々子はんです。突然何を言い出したのかというと、徳村さんの前回のブログの締めの感じだと、私とても怖い人みたいじゃないですか!なので中学、高校時代のあだ名をここで披露して、わたしのイメージ補正をしてみました。正確には、中学のときの異名が、「微笑みななさん」テスト前はいい点がとれるよう、仏のように拝まれていました。高校では京都キャラで、「ななこはん」と呼ばれていました。これだけでもわたしがちょっとやそっとのことでは怒ったりしない、温厚な人だとわかると思います。徳村さん、安心してください、私は仏のように心が広いです。

さて、本題にはいります。今回は主に「脱構築」の話でした。すんなり理解するには難解で、だからこそとっても面白い内容で、きちんと記録できるか分かりませんが、全力を尽くします。まず、構造主義というものがあります。これは、作者の意図には関係なく、テクスト自体が意味を持っているという考えで、今回の課題文の著者ジャック・デリダはこの考えに疑問を持ちます。そこに脱構築批評というものが生まれます。これは、2つのテクストが矛盾した解釈を示すとき、両者の衝突を解決するのではなく、対立を深めさせる事によって、中立的意味の存在を否定することをいいます。ふたつの境界を曖昧にして、片方にもう一方の要素を見出せるかを考えるのですね。

具体的に考えてみましょう。いつものように浦島太郎を例に用います。浦島の世界で対立するもの、それは海と地上です。浦島にとって地上はホーム、海中はアウェイです。たくさんもてなされ、贅沢できて最高に思えそうな竜宮城を、浦島は最後には離れて、地上に帰りたいといいます。この浦島の行動から、どんな場所でも故郷、ホームは大切だ、素晴らしいという主張を、わたしは作品に見出しました。この、対立構造を見出そうとする考えが、構造主義の考えです。

次にこう考えてみます。ホームとアウェイが対立して見えるのは、わたしの前提にある価値観がそう見せているだけなのではないか?ホームにもアウェイにも共に自分を必要としている人はいて、これからホームで過ごした時間より長い時間をアウェイで過ごすことになれば愛着はアウェイにも湧くだろう、それなのにやっぱり自分の生まれたところ、ホームが尊いという価値観が知らずわたしの中にあるから、そのふたつが対立して見えてしまうのでは?これが脱構築です。

これをグランマトロジー(文字自体を中心に据えた学問)に当て嵌めて考えてみます。音声中心主義の考えでは、現前に音声があって、文字はその死体です。しかし、同じ動物の同じ音でも、言語によって動物の鳴き声が変わるように、文字の中に音声があるという考え方もできます。これも脱構築ですね。

かつて文字が無く、文明の発展によって文字を得たヨーロッパの国々は、自国を愛しすぎるが故に、全ての国は文字を発明するべき、または使うべきだと考えるようになりました。先程の音声と文字の他に、セックスとジェンダー、先と後など、どちらかが上でどちらかが下だという見方はすべてなんらかの偏見に基づいています。

男と女をふたつに分けて考えるのも、別にそのふたつに分ける必然性は無いわけですが、その分け方をするのは、ふたつの違いに目をつける認識の枠組みが、わたしたちの世界にびっしりとあって、無意識レベルの偏見となって存在しているからなのです。

人々がそのふたつにどうしても区分したがるので、そのどちらにも当てはまる人や、どちらにも当てはまらない人が居場所を無くしてしまうという問題が起きます。国力=人口の時代には、子どもを産むことができる性なのかそうではないかの区分はとても重要なものでしたが、AIの進歩などで、必ずしもそうでは無くなった場合、これらの区分は今ほどの意味を持たなくなるでしょう。

何かと何かを対比させて考える時、そこにはなんらかの偏見があること、それはとても無自覚なものであることを、今回の脱構築の話から学びました。自分の中の、そして世間の常識を、なぜそうなのか、それで本当にいいのか、考えながら生きていくことが本当に重要なのだなと気づけたとてもいい回でした。考えすぎて動けなくなるのは良くないですが、いい考え方ができると、そのあとの動きにも自信を持てるので、考え方ってとても大事ですね。

さて、本物の仏様には程遠いただの人間のわたしですが、少しでも徳高い人間様になれるよう、これからも精進していきます。脱構築について、記録したいことは全部書けたので満足して眠りにつこうと思います。

おやすみなさい。