第8回 7期生『疲れた脳にはマリトッツォを』

こんにちは。村上菜々子です。

最近流行ってるスイーツ?パン?みたいなもの、その名も「マリトッツォ」。皆さんは食べたことありますか?ブリオッシュ生地にたっぷりの生クリームを挟んだスイーツで、イタリア・ローマの名物らしいです。

私はその存在は知っていたのですが、なんだか甘すぎるんじゃないか?どうせ甘いならシュークリームの方が美味しいんじゃないか?などと考え、手を出していませんでした。

ところがある日バイト先の人とマリトッツォの話になり、気になったので休憩時間に食べてみました。すると、一口目から想像以上の味で、これは流行るわ!となりました。まずクリームに柑橘がはいっており、さっぱりした味。それがふわふわのパンと良く合って、噛む顎が止まりません。立ち仕事に疲れた私の心を癒してくれました。

一仕事終えた時など特におすすめです。皆さんもぜひ食べてみてください!

と、グルメ日記のような出だしになってしまいましたね。今回の前座で最初マリトッツォの話をしようと思っていたのですが、迷ってゼミの直前にしていた瞑想の方の話をしたので、代わりにこちらで紹介しました。

さて、本題です。今回はロラン・バルトの『作者の死』を読みました。テーマは、作品と作者の結びつきにあるようです。作品は、誰によって書かれたのかを強く意識されます。作品は作者に支配されるとも言えます。

こうした作者による作品の支配を揺るがそうと、シュールレアリズムが生まれます。氷山の見えている部分がエゴだとすると、その下の見えない部分の氷はスーパーエゴ。ここから生まれる作品は人の理性を超え、神や自然現象のメッセージを書き写します。

作品と作者の関係について、二つの考え方があります。一つは、作者は自分の作品に先行して存在しているというもの。もう一つは、作者が書くのと同時にテクストが誕生するというものです。

一つ目の考え方は、書くことが記録や確認、再現を指しており、思考に書くスピードは敵わないのだから、時間をかけてより良い表現を模索するべきだという古典主義的な考え方。

二つ目は現代の考え方で、作者は考えながら作品を書いているので、書く前頭の中にあったビジョンとは違うものが、書くときには生まれている。テクストは書くのと同時に誕生するというものです。

書く前から一言一句同じ文は頭の中に無く、書いている間に考えが熟成されたり、違う考えと結びついたりしている感覚が私はあるので、二つ目の方がしっくりきます。このブログにしても、2週間前に書いたブログをもう一度同じように書くことはもうできないし、書かれる言葉も話し言葉と同じで生きているような気がします。

ゼミでは、関連して日本の国語入試についての話も出ました。テクストの読者にはそれぞれの生きてきた文脈があるので同じ作品でも読み方が異なってもいいというのが『作者の死』的考え方でした。

しかし日本の入試は、作者や登場人物の考えを記述・選択させ、それに成否をつけるという効率的ではあるが今回の考えとは逆の方式をとっています。しかも作者自身が自分のテキストが使用された入試問題に不正解になるということもあったらしいです。

人それぞれが異なる読み方をするし、それが正しいのだとすると、国語のテストの形式自体に無理があるのかもしれませんね。

もっとも、入試問題を解くことを塾で訓練しすぎた私からすると、自分の認識など入れず、テクスト内にある答えを探すのが国語入試の王道であり、入試はテクストを楽しむ読書とは違うのだと割り切ってしまうのですが。

その作品を読んでどう解釈したのかを自分の言葉で話させるテストを実現できるのなら、その方が本当の意味での思考力を問えるのかなとは思います。

作者と作品の関係についてここまで考えてきました。自然現象や数字の世界と違って、言葉はいつも人から生まれます。だから単純に言葉そのものを分析するよりも、その言葉を発した人をも分析したいと思うのは自然なことなのかもしれません。

人がいなければそこに言葉は存在していなかったのならそれを切り離して考えることはできないからです。

でも本当に人がいなければ言葉は無かったのでしょうか。0から1を作ることが人間には本当にできるのでしょうか。もし人が世界にいなくても、言葉の意味、概念、思想はそこらじゅうにあって、それをたまたま人間が表出しただけなのかもしれません。

だとしたらその言葉を誰が発したのかは問題ではなく、テクストはテクスト自体で存在するということになり、そこに作者はもはや介入しないということになりますね。

好きな作品の作者がもし極悪人だったと知ったとしても、自分の中で作品の価値は1ミリも変わらない。

作者に敬意は払いつつも、世の中に出た以上、作品は作者だけのものではなく、それを楽しむ人みんなのものになっていくんですね。

次回のゼミの課題テクストはなんだかこれまで以上に難しそうです。がんばります!

第7回 7期生『メタフィクション的連絡先交換術のすすめ』

またまた更新が滞ってしまいました。【滞りの徳村】の通り名でおなじみの徳村です。今回の滞りに関しましては、モチベーションの問題と家のWiFiが使えない問題の両方の側面から言い訳をすることが可能ですが、まあそれは置いといて。。。

第7回のゼミがおよそ1週間前のことなので、少し記憶が曖昧になっているのですが頑張って思い出しながら復習のつもりで書いていこうと思います。本当は授業後すぐに書いた方がいいのですけどね。でもどうしても疲労で体が動かんのですよ。。。

まず前座では、私が自らの写真撮影スタイルを見直した話をさせていただきました。結構なんでもありなんですねこのコーナー。わたしって、とっても人見知りでシャイボーイなので、いつも人を撮るときには後ろから撮ったり隠し撮りに近いやり方で撮ったり、望遠レンズでステルス的に撮ったりすることが多くなります。このスタイルには被写体を風景の一部に見立てたり、被写体の自然な表情を映したりすることができるっていう狙いがあるのですが、個人的に一番大きい理由は「被写体とコミュニケーションを取らなくても良い」っていうことだったんですね。やっぱり、正面から人を撮るってこと、目線をカメラに向けさせるってことは、被写体とのコミュニケーションがあって初めて成立するわけですよ。で、そうやって被写体と一緒に作り上げた写真っていうのはなんていうか、強度があるんですよね。ディスコミュニケーション状態で撮った写真と比較すると、写真としてのパワーが違うわけです。まあどちらにも良さがあるんですけど、私に関してはこれまで被写体と向き合うことから逃げてきた節があるので、やっぱり、そこを変えていった方がいいなと思ったわけです。そんなことを思い立ったエピソードももちろんあるのですが、それは長くなるので割愛させていただきたく思います。

さて今回のテーマは前半が「間テクスト性」と「メタフィクション」、後半が「相互テクスト性」でした。ちなみに「間テクスト性」と「相互テクスト性」はだいたい同じ意味です。

「間テクスト性」というのは、「あらゆるテクストは他のテクストを吸収し変形したものである」というテクスト同士の関係性のことです。作品の中で作者が先行作品に言及したり、意識的にも無意識的にもそれについてほのめかしたりするケースがよくありますが、つまりそれのことです。これは広義には「小説と小説」だけではなく「小説と絵画」や「小説と映画」など他の芸術作品との関係も含みます。実際、『フランケンシュタイン』では先行する小説や絵画などから色々なモチーフを借用しているんです。音楽家の坂本龍一氏が「世界の99%の曲はパクリです。1%のオリジナリティーがあればいいんです」と言っていたとか、ジョンレノン氏が「ビートルズは盗作バンド」と言っていたとかそういう話がありますが、つまりめちゃくちゃ世界的に評価された曲でも、それより前に誰かが書いた曲を聴いて参考にしていたわけです。私が好きなバンドのART-SCHOOLなんてもうUSインディーバンドとかUKポストロックバンドからやりたい放題メロディー借りまくってますし、なんならそのまま使ってますから。歌詞も村上春樹とか中原中也からフレーズとかモチーフとかもらってますし。それでも私はART-SCHOOLが大好きですし良い曲だと思いますし、ART-SCHOOLにしかできない曲だと思っています。それは、どれだけ数々のテクストを吸収して変形させて生み出された作品であっても、それらのテクストが収斂する読者(リスナー)という地点において必ず1%のオリジナリティーが付与されるからなのです。『セメイオチケ』にてジュリア・クリステヴァが「文学の言葉はひとつの点(固定した意味)ではなくて、いくつものテクストの表面の交錯、いくつもの文章が、すなわち作家、受け手(すなわち登場人物)、当時のあるいは先行する文化のコンテクストが交わす対話となる」、また「作家が歴史に参加するただひとつの方法は、読むことー書くことをとおして、いいかえれば意味構造をもうひとつ別の意味構造に連結させ、あるいは対立させて作り上げてゆくことをとおして、この抽象化を侵犯するということになる」などと述べているのは、ART-SCHOOLのように自分の中で交錯した先行するテクストを自分なりに紡ぎ、それだけでなくオリジナリティーの雫を一滴垂らすことによってただの引用や編集に留まることなく新しいテクストを作り上げることを指しているのかもしれないと思いました。

次にメタフィクションですが、これは簡単に言うとフィクション小説を読んでいる読者に、作中でフィクションの構造を見せちゃうということです。例えば、小説内に作者が登場して語りだしたり、作中の登場人物が自分のことを作品の登場人物であると自覚していたりすることがこれに当たります。かつて毎月コロコロコミックを読んでいたであろう皆さんならすぐに思いつくかもしれませんが、「でんじゃらすじ~さん」にはこのような反則スレスレな手法がよく使われていました。よく曽山先生が本人役で登場したりしてましたし、登場して三コマで死んでしまうキャラクターである「三子間弟下ヌ」の存在自体、漫画であることが前提とされています。ジャンプだと「銀魂」がメタフィクションの手法を良くとります。現実世界が舞台の作品ではないのですが、実際の時事ネタをふんだんに盛り込んだり、他作品のパクリ、パロディーは常套手段という実に凶悪な漫画でした。しかしそれに終始することなくシリアスパートや人情噺も盛り込まれているのでそのバランスが癖になるんですよねえ。ここで「なぜ作家はメタフィクションを書くのか」という話題になった(と思う)のですが、自意識と承認欲求の話にまで発展したのが面白かったですね。私が小学生時代に無茶やってた話が暴露されるなどしました。メタフィクションを書く理由は~。なんでしょうか。簡単にアイロニーが起きて面白いからでしょうか。最初に銀魂観たときなんて私呼吸できなくなるくらい笑ってましたからね。絵本とか漫画とかを経て、普通の物語がだいたいどんなもんかわかってきた小学生の常識がパロディのメタフィクションにぶん殴られたのは鮮烈でした。あとは照れ隠しの線もありそうです。私もたまに照れ隠しでメタすることあります。例えば連絡先交換したい人がいるとき、「どうやら巷の陽キャラ大学生は、仲良くなりたい人と連絡先を交換するときに、その人の写真を撮ってあげたり一緒に写真を撮るなどして、その写真を共有するという口実のもと自然な流れで連絡先を交換しているらしいですよ。いやーすごいですよね。その手があったかというか。よく考えたな~って感じですよねホント。…で、今から私もその方法であなたと連絡先を交換したいと画策しているんですけど、それについてどう思われますか?」といった感じで。これなんか良くないですか?ひねくれものが健気に頑張ってる感じが心をくすぐりませんか?ちょっと洒落てませんか?いや~、考えついたはいいもののまだ試してはいないんですよね~。…えっ?回りくどくて気持ち悪いって?う~ん。言われてみれば確かに。引かれたら嫌なんでやめときましょうか。

そんなこんなでなんとかブログを書くことができました。ありがちょす。次回はもうちょっと早く書きたいです。反省~。わたしは今からエヴァの薄い本を貰いに映画館まで行ってきますー。みなさんごきげんよう!

第6回 7期生『朝起きたら違う誰かになれたらいいのにって思ったこと、誰でも一回はあるんじゃない?』

こんにちは。村上です。更新の間隔が空いてしまいました。モチベーションの問題です。ところでみなさんはどのように仕事や課題へのモチベーションを維持していますか?私のモチベーション遍歴は色々ありましたが、”人”ということが共通しています。ただ単に好きだからその人に好かれたいという理由だったり、この人がこんなに自分のために行動してくれているのだから自分も頑張ろうという理由だったりです。そうしたモチベーションがないときに行動だけは正しく行うことはいいことなのでしょうか?自分を内側から突き動かすものはないにも関わらず外部から求められる正しさに沿って行動することに意味があるのでしょうか。それをできる人は素晴らしいですが私はそれをするとどんどん自分の中の声が死んでしまうような気がするのでできません。結局自分自身の声に従って生きるしかないのだと思います。自分で自分の機嫌を取り、やる気を出させられるのが大人なのかもしれませんね。

さて今回は、反復と異化がテーマです。反復に関しては、発表者の徳村さんが挙げていたART -SCHOOLというバンドのサビが反復表現であり、それはバンドの世界観である退廃的で破滅的なイメージに向かって後戻りできない勢いで進んでいくことを表しているという例を聞いて、反復への考えが覆されました。もともとそういった曲は手抜きというマイナスなイメージしか持っていなかったからです。(曲聞いてみたらかっこ良かったです)そこで他の音楽の例を考えると、The BeatlesのI Want To Hold Your Handという曲はほとんどタイトルの繰り返しですが、なんだか落ち着くし、繰り返しとあまり意識せず聴いていました。この曲は聴くと平和的な気持ちになるのですが、それは同じ歌詞の反復によって安心するからではないかと思いました。反復はただ曲をポップで軽快にするのではなく、その単調さがどこまでも続いていきそうな曲の世界観の広がりを演出する効果があります。

異化とは、日頃見慣れた世界からその日常性を剥ぎ取り、事物に新たな光を当てることと定義されています。この間『ビューティーインサイド』という映画を観ました。主人公は眠ると体が別人に変わってしまうという話で、老人や子ども、外国人、男、女など様々に変わり、視力や聴力、話せる言語まで変わってしまいます。そのような人なら毎日同じ場所で寝起きし、同じ仕事をしていても世界を新鮮に観ることができるでしょう。しかし大体の人は寝て起きてすぐ変化を感じるほど成長(老化)のスピードは早くないし、混沌とした世界を生きてもいないので眼に映る色々は日々色あせて、自動化され、身の周りにあるものやシステムについて改めて考えることをやめてしまいます。その安心しきった心にストレスを与え、(悪い意味ではない)世界をまっさらな心で、違った方向から見させてくれるのが、異化の効果です。

異化について言語学者ポテブニャーは、眼に見えるものは移り変わるが、その事物に対して人間が思い浮かべるイメージは一定不変だと述べました。今回の文献の著者ヴィクトール・シクロフスキーは、眼に見えるものは変わらないが、その事物に対するイメージは移り変わると主張しました。これらは対比されるものではなく、どちらも自立した意見です。私は目の前にあるコップを、「雨の日の花のように受け止める存在」と比喩してみました。コップは人間から見るとただ飲み物を注いで飲むという実用的なもので、当たり前にそこにあるので改めてそれについて考えたりしません。ですが比喩され、異化されることによって、コップに対するイメージが変容しませんか?この比喩からは、コップからどことなく儚げなイメージを抱くと思います。自動化されていた世界の見方がまた一つ豊かになりましたね。これがヴィクトールのいう異化であり、文学の大事な役割なのです。

例に出したThe Beatlesの曲は反復の作用も相まって癒されます。『ビューティー・インサイド』は主題が恋愛で、主人公は家具職人なので綺麗な家具がたくさん出てきて観ていて楽しいので観たことない方はぜひどうぞ。今世では毎朝鏡で対面するはずの自分のことがきっと愛しく感じられる作品だと思います。違う誰かにはなれなくても、こうした作品に触れることで自分の中の世界の認識を変化させ続け、新鮮な気持ちで生きていけたらいいなと思います。

ではまた再来週。

第5回 7期生『声とイメジャリーに魅せられて』

 ご無沙汰しております、徳村です。諸事情が重なりまして、更新が遅れてしまいました。申し訳ありません。

 今回の前座では私のカメラを紹介しました。Olympus Pen Dというフィルムカメラで、同じフィルムでも他のカメラと比べて2倍の量の写真が撮れるという優れもの。最近購入したものですが、現在はこの子をメインにどこへ行くにも持ち歩いてつれづれなるままに撮り暮らししています。露出決定からピント合わせまでフルマニュアルなので操作が難しいですが、ミスも味になってると思えるのがフィルム撮影のよいところ。作例がこちら。

 なんのフィルムで撮ったのか覚えてないんですが全体的に赤みがかった柔らかく懐かしい印象の写真が多いですね。フィルム代と現像代が嵩んでくるとくらくらしますが、こうやって桜の季節に撮った写真に思いを馳せたり、撮った記憶のない写真が意外と良い感じだったりするのが面白いので皆さんもやってみてください。

 さて、今回のゼミのテーマは「声」と「イメジャリー」でした。

 たまーに、ご都合主義といいますか、作者が「こういう流れにもっていきたい」という意思をもって、登場人物に作者の都合の良い言動をさせることがあります。また、登場人物を単に自分の意見のスポークスマンにさせることとかもありますよね。こういう、作者ひとりの意識だったり視点だったりから物語が進められていく作品というのは「声がひとつしかない」という意味で、モノローグ的であると言われます。逆に、ひとつの小説の中で登場人物が各々の意思を発露させていて、同じくらいの強度をもってぶつかり合っていることがあります。例えば、それは村上さんが指摘したように漫画『ONE PIECE』に顕著で、登場人物たちは様々な立場において、様々な過去とそこから形成された価値観を持ち、各々が信念をもってぶつかり合うわけです。このような形の作品というのは、「複数の声が独立性をもってぶつかり合っている」という意味でポリフォニー的であると言われます。

 小説『フランケンシュタイン』においては、主に手紙から複数の人物の独立した声を聴くことができるため、この作品はポリフォニー的だといえます。また、ポリフォニー小説のパイオニアであるとされるドストエフスキーの小説では、登場人物がドストエフスキーと肩を並べるほどに独立しており、自らの創造主に反旗を翻すことができる自由な人間であると評されています。ポリフォニー的な作品を創作するためには、自身の価値観を超えた範囲のことに関して想像力を働かさなければならず、時には自分の意見と真逆の人間を創造しなければならないため、クリエイターにとっては相当難易度の高いことだと言えるでしょう。ちなみに私が以前、授業の課題で小説を書いたときも、その小説は自分の実体験や価値観を反映させた内省的でモノローグ的な小説でした。きっとそうしないと上手く書けなかったのでしょう。。。ドストエフスキーをはじめとした小説家の凄さが身に染みてわかるなあと思いました。他人の価値観や感情を想像したり創造したりっていうのはホントに難しいっすよ。まあ我々の人生、普通に生きてる分には基本的にモノローグですから。。。自分のことだけを考えていればまあ割と生きていけるでしょうし。優先順位で常に自分が一位になるので迷いもなく、合理的に生きていくことができます。でもそこで一歩踏み出して、他人の感情に思いを馳せてみると、おぼろげながらも色々な声が聞こえてくるもので。そうすると、人生がポリフォニー的になっていく。人生がポリフォニーになることで、声どうしがぶつかり合って選択に迷いが生まれたり、葛藤が生まれたり、そういう人生の無くてもいい部分、ない方がいい部分が増えちゃうと思うのですが、そこの感情の機微っていうのが我々、生きている意味に繋がっていくのではないかと思ったりします。てか私ってすぐ生きるか死ぬかとか人生とかみたいな話する癖ありますね。なんでもそういう話に繋げられる才能かしら。いらねー!てか全ての事は人生とは何かっていうのに繋がってるから繋がるだけなのかも。

 脱線が過ぎました、もうひとつのテーマである「イメジャリー」について書かねば。

 イメジャリーっていうのは要するに、読み手の想像力を喚起させる表現の作用のことですね。主なイメジャリーは3つあって、ひとつは『メタファー』。「白雪姫」っていう表現を使うことで、読み手に「肌が雪みたいに白い美人さんなんだろうなあ」みたいな想像をさせます。次に『象徴』だったら「女は海~♪」みたいに類似性の無いものどうしを結び付けることで読み手に関係を連想させます。最後の『アレゴリー』は具体的なものを通して、抽象的な教訓だったり意見だったりを読者に暗示したりする、童話とか昔話に顕著なイメジャリーですね。『フランケンシュタイン』においては月や水などが不幸の象徴として用いられていました。こういうのも言葉の意味とか成り立ちとか結びつきとか知識がないとできないですよね~。インプットの大事さがわかります。

 そして先生が追加した『提喩(シネクドキ)』と『換喩(メトニミー)」』についても触れなくてはいけません。しかしながら、この二つには類似点も多く、換喩を提喩のひとつとして扱う場合もあるので区別の難しいところがあります。そこで今回は野内良三氏が書いた『レトリック入門』という本の記述に基づいて頭を整理しながら書いていきたいと思います(先生の説明とは多少異なる部分もあるかと思いますがご了承ください!)。

 まず提喩には2つのパターンがあり、ひとつは「花」といって「桜」を指すとき(「花見」など)や「酒」が「日本酒」を指すときの、類概念(花、酒)で種(桜、日本酒)を表す『特殊化の提喩』のパターン、もうひとつは「ご飯」といって「食事」を表すときなどの、種(ご飯)で類概念(食事)を表す『一般化の提喩』のパターンです(野内,2002)。つまり提喩とは上位の概念を下位の概念で表現したり、下位の概念で上位の概念を表現するイメジャリーであるといえます。

 次に『換喩』ですが、提喩について野内氏は「二つの事物のあいだの隣接性(有縁性)に基づく言葉の彩」(野内,2002,p59)と説明する一方で、「この世のありとあらゆるものは『なんらかの関係』で結ばれ、他の物の代わり(記号)になりうる。」(野内,2002,p59)、「換喩は広く現実世界と結びつく。したがってその守備範囲があまりにも広すぎて、統一原理を抽出しにくいのだ。」(野内,2002,p60)とも述べています。しかし、そんな換喩にも一定のパターンはあります。それは、

  • 全体ー部分:「笑う門には福来る」の「門(部分)」→「家(全体)」、「彼は大陸から戻ってきた」の「大陸(全体)」→「中国(部分)」
  • 入れ物ー中身:「お銚子(入れ物)」→「お酒(中身)」、「球場が燃えている」の「球場(入れ物)」→「観客(中身)」
  • 産物ー産地[主題ー場所]:「西陣(産地)」→「西陣産の織物(産物)」、「永田町(場所)」→「首相官邸、政界(主題)」
  • 原因ー結果:「ユニフォームを脱ぐ(原因)」→「引退する(結果)」、「冷や汗が出る(結果)」→「恥ずかしい(原因)」
  • 主体ー属性:「黒帯(属性)」→「有段者(主体)」、「白バイ(属性)」→「警官(主体)」
  • 人ー物:「シェイクスピアを読んだ」の「シェイクスピア(人)」→「シェイクスピアの書いた小説(物)」、「サングラスはお断り」の「サングラス(物)」→「サングラスをつけている人(人)」

の6つのパターン(野内,2002)です。このパターンを見ればわかるように、確かに換喩の守備範囲は広いですね…。提喩はしばしば換喩のひとつとしてみなされることも多いようですが、確かに換喩の「全体ー部分」のパターンなんていうのは提喩の「上位概念/下位概念を下位概念/上位概念で表す」という特徴に似ている気がします。強いて相違点を挙げるなら、提喩はカテゴリーの上下の話をしていて、換喩は横の関係性の話をしていることでしょうか。

 すっかり説明で長くなってしまいました。小説家もさすがに換喩や提喩まで意識して創作活動はしていないでしょうが、これらのイメジャリーを駆使して読者に想像力を喚起させるという芸当はやはり優れた想像力と連想力をもった人間にしかできません。話の筋を作るのはまあ頑張ればそれなりになるでしょうが、修辞法にはセンスが要るでしょうなあ…。

 今回のブログはここまで。疲労がスンゴイ。最近はめちゃくちゃ寝てます。家のwifiが調子悪いので図書館でしか勉強できず、図書館から帰ったらもうすぐ寝てます。今日も寝ます。明日も同じように寝れますように、という願いが続きますように。私の中でお眠りなさい。徳村でした。

 

第4回 7期生『運命について考えてみた』

こんにちは。5月19日前座とブログ担当の村上菜々子です。前座では漫画『女の園の星』を紹介しました。すっごく人気で近くの本屋さんでも最新の2巻が売り切れていました。わたしはシュールな、そして日常のささいな出来事を切り取ったようなマンガが好きなのですが、これはまさにそんな感じで現実と虚構のバランスが絶妙です。主人公の星先生のキャラクターが特にお気に入りです。

キャラクターといえば、今回の講義のテーマの1つです。全体ではテーマは3つあります。E•M・フォースターによると、登場人物は平板な人物と立体的な人物に分けられます。わたしの大好きな漫画名探偵コナンの作者青山剛昌先生は、コナンについて、「コナンは成長しません、成長物語ではないので」との言葉を残していますが、このように、キャラクターがどんな場面でも同じ人物で安定している場合、このキャラクターは平板だと言えます。逆に物語の中の経験を通して心情の変化などがあり、行動や性格が安定しない場合、それは立体的な人物と言えます。

2つ目はアイロニーについてです。アイロニーには三つ種類がありますが、一番大事なのは劇的アイロニーというもので、登場人物が把握していないことを観客にはほのめかすことでドキドキやハラハラを生む効果があります。徳村さんはこれをコントにも展開させて考えていました。コントのネタは普通の物語ではなく、人を笑わせるために書かれているので、小説技法を強調させたものも多いのかもしれません。そういう視点で見てみるともっとおもしろいです。

3つ目は魔法昔話の構造についてです。古今東西どんな魔法物語も、プロップの提唱した31の要素のうちどれかで成り立っているという研究があります。物語というのはある程度パターン化されますが、それがよく分かる研究です。これに関連して、若い頃は感性が敏感だから芸術作品によく触れなさいと言われていますが、物語に関して言えば、大人より子どもの方が物語に感動して涙を流すのは、単に心が綺麗なだけではなく、使い回された物語の構造にいままで出会ったことがないことも要因なのではないかと考えました。

さて、今回大きく3つのテーマをまとめてきましたが、いかがでしたでしょうか。番外編として、ここから環境が人格を形成するのか、人格が運命を決めるのかという難しい問いを一緒に考えてみましょう。

小説技法「意識の流れ」というのは物語の筋とは関係がなく、人間が普段取り止めもなく考えている沢山のこと、例えば過去の後悔や今日しなければならないこと、将来への希望や、または不安などを小説に書くことです。私たちと同じように、小説の登場人物達もまた、物語の筋に関わることだけを考えている訳ではなく、あらゆる雑念や思想を平行して持っています。それらは時に矛盾することもあります。それらを敢えて書くことで登場人物の人間味は増します。しかしここで新たな疑問があります。これらの意識は登場人物の性格を表すのかということです。ここで私はマザーテレサのある言葉を思い浮かべました。

「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。」

というものがあります。意識を思考に言い換えると、思考というのは性格に繋がり、性格は運命につながるのです。自らの運命は自分自身が普段している思考や使っている言葉に導かれているという考え方ですね。しかしこれだけでは「環境によって人格が変わる」のか、「変えることのできない人格が運命を変える」のかという問いの答えにはなりません。人格を性格に置き換えてみても、自らの思考や言葉、習慣は人格に大きな影響を与えることは言えますが、環境が人格を変えるのかどうかについては書かれていないからです。ここで引用するのはヴィクトール・フランクルの名著『夜と霧』の中の一節。

「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。」

ここから言えることは、人間は自分ではどうすることもできないこと、例えば親や国籍や環境などによって変えられてしまうこと、制限されてしまうことはある、けれど最後の最後、そこから何をどう感じ、どう生きるかを決めるのは自分自身なのだということです。強制収容所というなにもかも、人間の尊厳すら奪われた場所でも人間の自由意志だけは奪えなかった。人生が終わる最後まで生きる意味や価値は普遍的にあるのではなく、自分自身の心や行動が作るものだということです。

本講義の教科書『フランケンシュタイン』には怪物がでてきます。怪物は自らの呪われた運命を嘆き、それによって人格が変わり、虐殺を繰り返します。しかしこれは本当に環境が人格を変えたと言えるのでしょうか。たしかにそういう見方をすることもできます。そう考えるほうが楽です。自分が悪いことをするのは自分を受け入れてくれない周りのせいだと信じれば、それを盾になにをしても許されると思えるからです。しかしそうではない見方もあります。周りの人はたしかに怪物を受け入れなかった、しかしそれは周りの人が彼らの行動を彼ら自身が決めただけ。それに傷つき怒った怪物が虐殺したのは怪物が決めて自分でしたこと。しないことも選択できた。結局自分の在り方を自分で決めているのです。しかし怪物はそれを環境のせいにしている。自分の人生の意味なんて、行動なんて自分で決めるしかないのに、怪物はその責任をとらなかった。

怪物のような考え方は楽だから、本当に自分が辛いときにはそう考えてもいい。でもいつも覚えておきたい。自分の心の在り方、環境の捉え方は常に自分が決めているということを。人生をどう生きるかは最期まで自分が決めるということを。

第三回 7期生ブログ 『にっくきプルーストVS死ぬ気で生き返りながら生きるわたし』

 ハロー マイネームイズ シズカクドウ ナイストューミーチュー

 嘘です。徳村です。先日の2億4千万のものまねメドレーGPめちゃくちゃおもしろかったですね。冒頭のミラクルひかるによる『工藤静香の自己紹介』モノマネは鉄板で、今大会でも爆笑必至でしたが、個人的に特に笑ったのはゆうぞうの加山雄三モノマネと、山本高広の『麻雀をする高橋克典』ですね。高橋克典本人の声自体は正直あまり記憶にないのですが、皆の中にある潜在的な高橋克典のイメージを呼び起こさせるような声だったと思います。元ネタがあまりわからないのに笑ってしまうという『細かすぎて~』の笑いを彷彿とさせるような大傑作でした。あと相変わらず渡部篤郎のモノマネでも必ず笑ってしまいます。何回見ても面白いですからねアレ。しかも渡部篤郎本人が「そんなセリフ言ったことがない」と証言しているので、完全に山本高広の創作っていうのもスゴイですよね。果たしてモノマネとはなんぞや???とその定義が脅かされるほどの芸当だと思いました。

 さて、爆笑したところで本題に入ります。今回なんてムズすぎて笑ってないとやってられないですからね。第三回の講義テーマは『提示と叙述』、そして『時間』でした。

 まずは【提示】と【叙述】についてまとめてみましょう。提示とは、語り手が出来事や登場人物について語る際、語り手が介入せずに黙ってあるがまま示す手法のことを指します。登場人物の会話がそのまま記録されている場合がこれに当たりますね。一方の叙述は、語り手が前面へ出てきて、出来事や状況、人物の言動や心理などについて解説する手法のこと。語り手が出来事をそのまま語るのではなく、要約などをして解説している場合には、叙述の手法が用いられていると言えるでしょう。この両者には優劣があるというわけではなく、小説は【提示と叙述】を適宜組み合わせることで成り立っているものなのです。

 そして厄介なのが『時間』なのですが、厄介なだけに残念ながら結構な文章量になります。。。皆さんは、小説にはつねに【時間】という要素がつきまとう、ということをなんとなくわかると思うのですが、ここでまず重要なのは【アナクロニー】という概念です。アナクロニーとは、時系列で語られる【ストーリー】と、因果関係で語られる【プロット】とで、出来事の順序が合致しない場合のことを指します。プロットではしばしばストーリーの順番が組み替えられるので、プロットが用いられている場合にはアナクロニーが生じている場合が多いと思われます。アナクロニーは基本的に2つに分類され、ひとつは出来事の継起を語っている途中で過去の出来事や場面に移行する方法である【後説法(フラッシュバック)】で、もうひとつはまだ生じていない出来事を予知的に示す方法である【先説法(フラッシュフォワード)】。後説法の例としては、登場人物の過去が語られたりする「回想シーン」が、先説法の例としては、未来に起こることを仄めかす「伏線」が挙げられそうです。

 そして、物語が進む速度にも様々な形式があります。主なものとして挙げられるのは、ある期間を省略して一気に飛び越える【省略法】、ある期間に起こった出来事を数段落や数ページで要約してしまう【要約法】、物語が【提示】され、物語内容と物語言説の時間の速度が等しくなる【情景法】、そして語り手が物語の流れを中断させ、物語のその時点では登場人物が誰も知らない情景や情報を示す【休止法】の4種類です。省略法と要約法はよく似ていて区別が難しいのですが、小説内で『それから2年が経過したー』のような表現があったとき、その2年間について数行の説明があるようだったら時間の速度が速くなっているので要約法と考えられ、2年間について説明がなく単に2年間が飛ばされただけだったら物語に空白が生まれているので省略法、という解釈で私は落ち着きました。村上さんにはこの『省略法と要約法の違い』について申し訳ないほど説明させてしまいました。この場を借りて謝罪の意を表明したく存じます。ごめす。

 さて、今回の講義で我々を苦しめたのはテキストの筆者であるジュネットの難解な文章だけではなく、ジュネットが紹介したプルーストという作家の特殊性でもありました。何が特殊化と言うと、プルーストは物語言説における先述の4つのテンポをすべて変質させて用いているのです。特に彼は休止法をこねくり回しており、ジュネット曰く「プルーストの作品の中に休止法は存在しない」そうです。なぜかというと、休止法はふつう静的で客観的なもので、そこに登場人物の主観的な視点が入り込むことはないのですが、プルースト作品の語り手は、休止法的に説明する際にも登場人物の視点が介入され、動的に主観的なことも語ってしまうからなんです。わかりやすくかみ砕いて言うと、ある男が窓の外の風景を眺めている、みたいなシーンを描くとき、普通の作家の語り手は『窓の外には草原が広がっていて、子供たちが遊びまわっている』くらいの表現しかしないものですが、プルーストの語り手は『窓の外には草原が広がってらあ!あの子供たちと一緒に駆け回りたいぜ!』くらいのテンションで表現しちゃうんです。「子供と一緒に駆け回りたい」というのはその男の心情であって、普通の休止法では絶対に述べられることはありません。

 ではなぜプルーストはそのように休止法を改変したのか。それはプルーストが「真に客観的な描写は存在しない」という考えを持っていたことに起因します。プルーストは、人間が情景を描写するとき、必ず個人的な体験や知覚に基づいた描写を行っているということに気づきます。確かに、10人が同じ花を見たとしても、その10人は全員が異なった経験や考えを鼻に対して持っているもので、それによって花をどう描写するかも変わってくることは想像に難くないと思います。プルーストはその考えから、「登場人物の視点から切り離されて存在する景色は存在しない」という結論に至り、作品においても休止法による客観的な描写は行わず、必ず登場人物の視点から主観的に世界を描写するようになったのです。

 私は、はじめプルーストが何を言っているのか皆目見当もつかなかったのですが、村上さんや内藤先生の考えを聞いて理解を深めることで、彼の言っていることにめちゃくちゃ共感することができました。私もこの世の中に客観的な描写とか客観的な評価とかって存在しないと思いますし、何ならこの今目の前に見えている世界も私の主観でしかないと思っています。だってそれはただ私の目が、耳が、鼻が、皮膚が、脳がそう判断しているだけに過ぎないので。もしかしたら、他の生物にはこの世界が全く違って見えているかもしれないし、宇宙人が私たちに見える物質が見えなくて、私たちに見えない物質が見えた場合、宇宙人はこの地球のあらゆるものの形や色や感触を私たちと全く違うように認識するわけですから。だから私はSFとかで宇宙人が「地球って青いよね~」とか言ってるのを見ると、「この宇宙人ってこの見た目で目の作りは人間と同じなんかい!」とツッコミを入れたくなります。もっと言うと、時々、この世界が実際に存在してるかどうかも疑うことがあります。我々の見ている世界はすべてプログラムされた仮想現実である、みたいな。所謂マトリックスの世界観です。これ割とあり得ると思うんです。結局脳にそういう信号を送っちゃえばそういうことになっちゃいそうですし。だって今だって目の前に見えてる景色は目が脳に「そう見える信号」を送っているからそう見えてるだけですし。でも、そぅ考ぇると、この世に確実に存在してぃるのゎ私だけ。。。我考ぇる故に我有り。。。とゆーコトゎ。私の意思以外ゎ全部フェイク。。。まがぃもの。。。もぅマヂ唯我論的。。。サルトルに訊こ。。。

「他我が存在することは、自負や恥じらいの感情でわかるだろう!」

 というわけで、日頃どんなにへんちくりんなことを考えていても、山本高広のモノマネで大爆笑するし、言語表現論で課題が褒められたら嬉しいし、ゼミは毎週水曜日やってくるし、授業のテキストはどんどん長くなっていくし、それらを死にながら、あるいは生き返りながら、あるいは死ぬ気で生き返りながら、やっぱり生きていくわけです私は。関係ない話が思いがけず長くなってしまいました。みなさん良い週末を。私の分まで。

 

第二回 7期生 「誰の焦点か分かると、小説ってもっと楽しい」

 こんにちは、村上菜々子です。前座でこの冬私がハマりにハマっていたアニメ「PUIPUIモルカー」をお二人に紹介させていただきました。言葉を使わないアニメーションでこんなに人々に癒しと感動を与える作品は未だかつて無かったのではないでしょうか。ちなみに私はポテトくん推しですが、同じ方いらっしゃるでしょうか。モルカーファンの人とは仲良くなれそうな気がします。

 そんな話から始まった第二回のゼミですが、本編では今回、焦点化について理解を深めました。今まで、物語には語り手がその視点に立って話を進めていて、それがたまに入れ替わったりすることで物語を多面的に見ることができる効果があるということは知っていましたが、それだけでは浅いということが分かりました。焦点化というのはそれよりも複雑で、まず大きく3つに分けることができます。一つ目は非焦点化、二つ目は内的焦点化、そして三つ目が外的焦点化です。二つ目の内的焦点化はさらに三つに分けることができ、それぞれ、内的固定焦点化、内的不定焦点化、内的多元焦点化です。こうやって説明するとなんて小難しいことを言い出したんだと思われそうです。わたしも読んだ時そう思いました。たしかに分かりにくいのですが、先生と徳村さんにわかりやすく説明してもらったので理解できました。特に難しいのは内的不定焦点化と内的多元焦点化の区別と、非焦点化と外的焦点化の区別です。

 まず内的不定焦点化と内的多元焦点化の区別から説明します。内的不定焦点化の例として挙げられるのは湊かなえさんの「告白」のように章ごとに語り手が変わったりして物語が推移していく作品です。対して内的多元焦点化は芥川龍之介の「藪の中」のように一つの出来事についていろんな人物が語るという方式の作品です。ここで見極めるのに重要なのは推移しているかどうかで、語り手が変わることで物語の時間軸が進んでいるのかいないのかが見分けるポイントになります。

 次に非焦点化と外的焦点化の区別ですが、簡単に言うと非焦点化は神の視点なので3人称でも全ての人の心理描写が可能ですが、外的焦点化は語り手が人物の内面に入り込まないので心理描写ができません。

 ここまで色々書いてきましたが、最後まで本当に難しかったのはジェラール・ジュネットの言う、「ともにある視像」です。完全に理解できたわけではないのですが、今分かっていることは、

「一発の銃弾が、鼻の脇から反対側のこめかみへと貫通していた。そしてこの銃弾のために、死体はおそろしいまでに変形していた。死体の片目は、見開かれたままであった。」

この文章が内的焦点化でありながら、外的焦点化にも見えてしまう理由は、これを語っている人は確かに本人で一人称なのだけれどもこれを体験した本人と全く同じではないからだと言うこと。自分の過去について説明する時今の自分は過去の自分をある種客観的に見ざるを得ないので、その語り方がまるで他者が自分を説明するようになってしまうのは当然のことと言えるかもしれません。ここでいう二つの目線が、先にでてきた「ともにある視像」です。このことから、完全なる内的焦点化というものは無く、私たちはいつも誰かの視点を借りているということが分かります。

 そのことに関連して、私はたまに日記を書くのですが、今日あったことを書いている私と今日実際にそれを体験したわたしとではやはり乖離があります。その時怒っていたことでも日記に書くとなると自分の感情だけではなくある程度出来事を整理して書くので客観的になります。日記を書くことによってこころがすっきりする効果があるのは文章にしようとするともう一人の自分がそうやって自分を客観的に見つめ直してくれるから、自分の感情だけに囚われなくなるからなのかもしれないと今回の話を聞いて思いました。

 生きていると誰しもやることが多すぎてパンクしそうな時や、めちゃめちゃないやなことが起きたりすることもあると思います。そんな時は文字に書いて可視化することで単純化したり、モルカーを見たりして癒されながら頑張っていきましょう。また再来週もよろしくお願いします。

第1回 7期生ブログ「追憶は浦島太郎による」

「ふとPCの画面右下に目をやると、現在の時刻が2021年4月22日の午前2時過ぎ、つまり我々7期生にとって2回目のゼミが終了して7時間が経過しているということに気づく。いや、7時間経過しているということよりもこんな時間にブログを書いていることの方がちょっとアレである。なぜ私が深夜2時に無意識と意識のあいだでPCを叩くことになったのか、その真相は約7時間前に遡る。」

というわけで7期生初ブログを担当する徳村です。はじめまして。現在、午前2時を周っております。ねみ~。

今日のゼミでは前半でストーリー(時系列)とプロット(因果律)について、後半では「文学とはなにか?」という問いについて議論しました。

後半の「文学とは何か?」パートはめちゃくちゃ難解で、同じ7期生の村上さんによる死ぬほどわかりやすい説明と、死に至らしめんとするほど要点がまとまっているレジュメをもってしても私はその全貌を理解するのに時間がかかってしまいました。。。猛省っス。

さて「文学とは何か?」について再考すると、私は個人的に広告のコピーとかも文学だと思っていて、あれってもはや実用的である範疇超えてると思うんですよ。私が今までに見て最も感銘を受けたコピーは、テレビ鳥人間コンテスト2019のキャッチコピー『最初は湖に飛び込むだけの大会だった』というものですが、ここまでいくともはやこのコピーは文学と言って差し支えないでしょう。所詮テレビ番組の広告なので本当は「見てね!」とかでもいいんです、本当は。でもこういうコピーを創ることによって、このコピーによって鳥人間コンテストという大会の歴史と進歩と出場者の努力が非常に強くいきいきと想起させられますよね。私は、広告であるコピーが生んだ経済効果よりも、そのコピー自体の素晴らしさに感動したわけです。その点において私は個人的に(あくまで個人的に)広告のコピーは文学であると確信しております。

また、今回のゼミではストーリーの形である既存作品をプロットに再構築してみようという試みがありました。我々7期生は「浦島太郎」をプロットにすることにしたのですが、これがなかなか難しかった。「そもそも浦島太郎ってタイムリープした挙句老化してしまうけど、全然悪いことしてないのにおかしくね?」と物語自体を問うてみたり、「竜宮国の人類に対する復讐と警告として人間を誘拐したのちタイムリープ&老化させる」みたいなもはやプロットでも何でもないような星新一ショートショートめいたアイデアが繰り出されたりして作業は困難を極めましたが、村上さんが「冒頭で開いた玉手箱と煙を描写し、その後竜宮城での楽しかった時間を追憶するカットと荒涼とした大地にひとり佇む老人のカットを交互に描き、煙によって老人と化す男のカットでラストシーンを迎える」みたいな非常にエッジィでコントラストの効いた悲劇的なプロットを考えてくれたのでなんとかまとめることができました。「楽しかった時間を追憶する浦島太郎」っていうのがめちゃくちゃいいですよね。

で、まあ今時計見たらもう3時40分なんですけど、なんでこんな時間までブログ書いてるかっていうと、実は私今回の課題文を事前に全く読まないまま授業に臨んでまして。というのも今回の発表担当が村上さんだったもんで、むしろまっさらな状態で村上さんのプレゼンを聞いて理解した方がいいのかしらん、という謎理論が自分の中で成立してしまっていたんですよね。幸い授業内でおおよそ理解できたものの、やっぱり一度課題文も読んでおいた方が良いだろうということで終業後に読もうと思いましたが一見して「ウワ長ーい」とひるんでしまって、やっと課題文に向き合えたのは1時ごろでした。そして1時間でなんとか全部読んで、急いでブログを書き始め今に至ります。猛省に次ぐ猛省でございます。ちなみにこのブログもプロットっぽくなってます。効果的であるかどうかはわかりません。ていうか初ブログめちゃくちゃ長くなってしまいました。これは猛省に次ぐ猛省に次ぐ猛省に…(n)。はい、それではそろそろおやすみなさい、或いはおはようございました。また次の次のブログで宜しくお願いします。