7期生ブログ第18回『現実逃避?いや、現実と戦うためのパワーチャージだ』

12月2日(木)のゼミでは、オリエンタリズム研究の題材として、ソフィア・コッポラ監督の「ロスト・イン・トーキョー」を扱った。この作品は、家庭や仕事について悩みを抱えているアメリカ人の男女2人がそれぞれ東京のホテルに宿泊し、言語や文化もわからない孤独の中で出会い、交流を深める筋書きだ。

そもそもオリエンタリズムにおいて、西欧の男性はアジアの女性を肉感的でエロチックな存在であると規定し、それとは対照的な自分を理性的な人間だと確立する。つまり、他者を規定することによって、それとは違う自分を初めて確立できるようになるのだ。本作で、物語の前半で精神的に日本から疎外されていたアメリカ人である2人が、後半にいくにつれ自らを取り戻せたことは、人を疎外されている人とされていない人に分けるのではなく、アメリカ人、日本人といった人種では他者を規定できないのだという考えにシフトできたことが要因ではないかと考える。その根拠は2人が東京の夜の街で様々な言語を使う人と会話、交流をしたことや、他のアメリカ人、ドイツ人のような白人が近くにいてもそこには馴染もうとしなかったことなどが挙げられる。単なる彼ら2人と日本人との対比構造ではなく、様々な人種の人間が作品には出てきて、その中には彼らと同じアメリカ人もいたのに彼らは異国の地で心を通いあわせることはなかった。

2人の主人公−−−−−−シャーロットとボブは、何もオリエンタルな枠組みからのみ脱出した訳ではない。彼らは様々な面で疎外を感じていたし、そのたび孤独を感じてもいた。シャーロットが東京に来たのはフォトグラファーである旦那さんの付き添いであるが、自身は物書きを目指しているがまだ芽は出ていない。そんな夫との関係にも違和感を感じていた。だが東京で高尚な神社や花道に全く何も感じなかったがアングラカルチャーに自ら飛び込み楽しんだ経験により、夫からはお高くとまっていると言われていたシャーロットはこれから旦那さんのカルチャーをフラットに見ることができるかもしれない。もう1人の主人公、ボブは俳優だが最盛期は過ぎ、日本のCMには出演するものの、本国での俳優としての活動は思うようにいかなくなっていた。そして結婚して長い妻との関係にも倦んでいた。普段の夫や俳優という属性が東京という地でアンロックされることを彼は望んでいたのかもしれない。アメリカ人のファンに対応を求められた時、遠慮して引く態度をとったことも関係があるだろう。2人は同郷なのだからアメリカに帰っても交流を続けようと思えばできたはずだがそうはなりそうになく、2人の関係は東京の地でだけ成り立つものだ。それはお互いにとってお互いが非日常でなければその地で得たもの、感じたことが無駄になってしまうからで、もしアメリカで出会ったとしたらこのマジックはかからなかった。

物語のはじめ、男性主人公のボブがタクシーから東京の街を眺めるとき、その目は目新しい景色に泳ぎ、戸惑っていた。しかし、ラストシーンでアメリカに帰る際に乗ったタクシーからは、落ち着いた眼差しで東京の街を眺めていた。他者と自分の規定が変わったことで、彼らの見ている世界は変わった。今見ている現実は自分の見方によって変わるということを知った彼らは、アメリカでの普段の生活に戻った時、それまでとは違うようにそれらを見ることができるだろうし、自ずと家族や仕事とも向き合うことができるようになるだろう。

非日常は私たちの世界の見方を時に変えてくれる大切なものだ。だからこそ日々に疲れた時はフィクションの世界に浸ったり、旅に出ることは悪くないと思う。そこで世界と自分に対する、自らの先入観を捨て、元の現実と戦うパワーを身につけて帰ってくることができるかもしれないから。

(最後になりましたが、先日の無用之用さんでのイベントに来てくださった皆様、ありがとうございました。たくさんの人が来てくださって、お話できてとっても楽しかったです。また、一緒に店長をした徳村さん、機会を与えてくださった先生もありがとうございました。本来なら何か企画をするべきだったのに、私の力不足でできなくてごめんなさい。でもやって良かったと思います。今回来られなかった皆様も、無用之用さんはとっても素敵な本屋さんで売られている林檎も美味しいので機会がありましたらぜひ立ち寄ってみてくださいね。私も林檎をたまに買いに行くつもりです。)

村上菜々子

7期生ブログ第16回『ずれ上等!!!!!!』

「サザエさん時空」って知ってますか?

春夏秋冬はあるけれど、1年がすぎても彼らが歳をとったり、急激に状況が変わったりすることはないような時間の流れのことです。特に長寿アニメに多くて、サザエさんの他にも、名探偵コナンや、ドラえもん、クレヨンしんちゃんなどに当てはまります。キャラクターは確固たるアイデンティティーを持っているし、それが変わることもありません。

しかし、私たちが住んでいる世界は、時間が流れゆき、決して止まることはないですよね。今自分が見ている世界が全てではないし、今見ているものは、明日には姿を変えているかもしれないし、無くなっているかもしれません。私たちはよく、自らのアイデンティティについて考えるし、かなりそれにこだわっている人もいると思います。

「クイア」という概念は、ずっと変わらないその人の本質(アイデンティティー)ではなく、そのひとのその時の状態をさすといいます。それは本質なきアイデンテティーです。何かからずれる状態そのものがクイアです。その考え方に立ってみると、私たちは誰もが少なからずクイアの要素を持っていると言えるかもしれません。

私が子供の頃読んでいた児童書青い鳥文庫の「黒魔女さんが通る!」では、すべてが全国平均である男の子のキャラクターがいました。彼はあらゆることにおいてすべて全国平均をとりますが、それだって日本においては平均なだけで、世界規模では平均ではないですし、そもそも身長や体力測定などすべてで世界平均をとったとしても、所属するコミュニティーでは平均ではないので、周りから「普通」だとは認識されないでしょう。もし仮にそんな人が実際にいたら逆にすべてで平均をとること自体が確固たるアイデンティティーにもなりそうです。

今回、授業教材として、映画『ぐるりのこと』をクイア性から分析した卒業生の小野寺さんの論文を扱いました。『ぐるりのこと』は英訳すると『all around us』 映画のラストシーンで主人公カナヲが街ゆく人々の雑踏を見ながら、「人、人、人」とつぶやくシーンは、カナヲと翔子を絶対化しないための描写だとも取れます。クイア性は誰もが持っているものだということを示唆しているようです。

先日徳村さんとある長い話合いをした際に、彼は私よりもかなり楽観主義者で、明るいという新たな発見をしました。私はこれまで、彼と自分は割と似ている方だと思ってきました。もちろん、似ている部分もあるのかもしれません。しかし、そうではない部分の方が大きく、それはとても根本的な違いでした。そしてその違いがあったからこそ、闘争ができました。価値観が違う人同士は分かりあえませんが、それでも2人にとってもっともいい結論を導き出したいという思いが共通しているとき、そこには闘争がおき、そしてそれを乗り越えた先には、それまでなかった平和が訪れるのだと知りました。

闘争を通して、私は徳村さんへの理解が深まると同時に自分についての理解がさらに深まりました。普通に過ごしていて、自分自身の新たな性質に気づける機会はそうありません。しかし、自分と異なる考えの人と、共通の答えを出さなければならない段階になって、初めて見える自分というのがいるのです。その自分は他人からの期待を内面化して自分を追い込んでおり、何かを完璧にこなして認められないくらいならそれをやる必要はないと考える人間でした。しかしそんな自分に気づけたのは、失敗しても、楽をしてもいいから、楽しんでやることが大切だという、真逆の思考を持った徳村さんがいたからです。

それはちょうど、『ぐるりのこと』で「ちゃんとしなきゃ」と思いすぎてそうできない自分に疲れてしまった翔子にカナヲが言った言葉「おってくれたらいい」に通ずるものがあるように、後から思いました。(まあ、ちょっと違いますが)

つまりは「ちゃんとやる」ことができる人間ばかりじゃないけど、ちゃんとできない自分に絶望しないことは難しい、今の自分の限界を思い知るのは苦しいけれど、限界を受け入れられたら、自分がやるべきことがわかってくる、ということです。

ちゃんとできない人に向かって、自分が今まで抱いてきた思い「努力すればちゃんとできるのに、ちゃんとしないやつは甘えているかサボっている」を内面化しては、自分がちゃんとできなくなったとき、それが自分に還ってきて私のように追い込まれてしまうでしょう。

クイアの状態にいる人に対して、自分とは違う、自分はああならないと思うことは、結局自分を苦しめることになります。自分もどこかの一面ではクイアだと認めること。そしてクイアである人やことに抵抗を感じないこと。それが自分も周囲も楽な気持ちで生きていける秘訣だということをシェアしたところで、今回のブログは締めようと思います。

皆さんも、どうか「ずれ」に寛容に。

村上菜々子

(「なんだかいつもより短い」と思った人のために懺悔すると、実は「ぐるりのこと」を扱う前に同じくクイア研究で夏目漱石の「こころ」を扱ったのですが、私が本作のファンでありすぎるためにクイア研究で「こころ」を批評した論文にどうしても納得することができず、納得できてないことをブログに書くことはできなかったのです。それで分量が少なくなってしまったのです、懺悔。)

7期生ブログ第15回『ハズレじゃないよー。゚(゚´ω`゚)゚』

みんなー!滞ってるかーい!?

どうも、お久しぶりです。7期の徳村です。

秋学期が始まって早2か月くらい経ってしまっていますが、一度もブログを更新できておりませんでした。

理由としましては、ギリすぎる春学期レポートの執筆と、ギリすぎる明大祭準備スケジュールが挙げられます(以下言い訳パート)。

まず春学期レポート(1万字)なんですけど、これがマジで終わらなくてメチャメチャ精神的な不調に陥り、発表会にもほとんど出来上がっていない状態で参加し、失態を晒すなどした後、先生の助けを借りながら締め切り一週間前にテーマを変更して、締め切り当日に図書館に籠ってなんとか仕上げた、っていう経緯がありました。それ書きながら授業もやってたわけなので、当然ブログなんて書いてる暇ないワケなんですよね!

次に明大祭準備なんですが、私は軽音サークルであるケーパースとお笑いサークルである木曜会Zを兼部しておりまして、今年は初めてそのどちらにも参加することになり、結果的に春学期レポートを終えた後、雪崩れ込むように明大祭準備に飛び込まざるを得なくなってしまったのです。

軽音サークルではレッチリのボーカルだったんですが、私洋楽なんて今までロクに歌ったこともないし、ラップなんてズブの素人だし、もう必死で聴き込んで歌の練習してなんとか形にしました。他のパートの人はメチャメチャ上手い人ばかりなので足を引っ張らないように頑張りました。

そしてお笑いサークルでは、なんと私史上初めて『3日で4ネタやって、そのうち3本のネタを書く』という暴挙に出まして、ネタ披露の当日朝にネタを相方に送って一緒に合わせながら覚えたり、徹夜でコントで使う音楽を編集したりして本当にギリギリのスケジュールをこなしました。ギリギリだった割にはウケてた方なので良かったなと思います。ちなみに私が書いたネタは『フルーチェの黄金比率』『レストラン強盗っぽい人』『パソコンっぽい人』で、私は『~っぽい人』ネタが好きなのかもしれないと思いました。

そんな感じでメチャメチャ多忙を極めた今年の明大祭でしたが、個人的にはもう大満足で、過密スケジュールの中、本番3日間をちゃんと完走できたことが何より嬉しいし、大学生活の中で一番充実感がありました。一夜明けた翌日に「なんか楽しかったなあ」と思えたことって最近あんまりなかったので、私久しぶりに感動してます。過密スケジュールは精神を追い詰めますが、なんとか乗り越えるとこんな感情になるんですね。たぶん現状、私の走馬灯候補のトップ3くらいには入ってるんじゃないでしょうか。もっと走馬灯候補を増やしていける人生でありたいと思っています。過去そして未来のマイ・スウィート・メモリーズの諸君おかれましては、今後一層の熾烈な走馬灯争いを期待したいものです!

さて本題に入りますが何せ1か月前のゼミのブログを書こうとしているため、正直言って記憶がメチャメチャ曖昧です。なので今回は本当に大事なところ(覚えているところ)だけ皆さんにお届けしたいと考えています。ちょっち短くなるカモなんですがヨロシコ!ってなカンジで宜しくお願いします!

※なお、この記事の執筆に際し、同期の村上氏と村上氏がゼミ中に書き留めていたメモに対して最大限の感謝とリスペクトを送りたいと思います。ダンケ!

今回のゼミ前編で精読したのは『異化としてのメディア』という論文で、メディアという『身体を拡張する道具』が知覚を刷新することによって異化作用が生じることが論じられていました。ここでいうメディアとは、新聞や雑誌、テレビやYouTubeだけでなく、『人間の身体機能を拡張するもの』という意味で、車や飛行機なども含んでいます。

例えば、映画『ベッドとソファ』では夫に従属的な立場を取っていた女性が、新聞やラジオ、飛行機、映画などのメディアに触れることで知覚がどんどん刷新され、意識まで変容していく姿が描かれています。

また面白いのは、メディアによって知覚が拡張した場合に起こる『逆転現象』です。例えば『ベッドとソファ』の場合、夫は「妻にもっと家事を頑張ってもらいたい!」「家事の合間に気分転換できればもっと家事をしてもらえる!」という思いから妻にラジオを与えますが、妻はラジオにのめり込んでしまい、結局家事が疎かになり、夫は自分で家事をしないといけなくなってしまったのです。これがメディアによって知覚が刷新された際に、本来の目的とは逆の方向にメディアが作用してしまう結果として起こる逆転現象です。実際、洗濯機が発明された際には「女性にもっと効率的に洗濯をやらせよう」という男性が嬉々として洗濯機を家庭に導入しましたが、結局「誰にでも洗濯ができる」という洗濯機の特性によって、逆に男性が洗濯をする機会が増えてしまったという話があります。

ゼミ後編では、「異化」をテーマにレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を読み解きました。『華氏451度』は本を読むことも所持することも禁止された世界が舞台で、主人公のモンターグは本が見つかり次第出動し、本を家ごと燃やし尽くす「昇火士」として働いているものの、クラリスという少女との出会いをきっかけに本が禁止された世界を疑うようになっていくという物語です。本やクラリスによって異化されていく主人公の知覚が克明に描写されていて、今回のテーマにぴったりだと思いました。選書した村上さんに2度目のリスペクトを。

『華氏451度』の考察に関しては、7期生ゼミ史上最もアツい激論が交わされることとなりました。私と村上さんとで意見が対立したり、噛み合ったり、説得したりさせられたり、そして最後には先生も含めた三者の考察が綜合されたより高次の考察がされるに至り、ヘーゲルもにっこりの弁証法的な議論になったことには一種の感動を覚えました。その内容はメチャメチャネタバレなのでここでは書きませんが、ひとつの作品に対して少人数でここまで深く話し合う機会って他のゼミではできない経験だと思いました。みんなも内藤ゼミでヘーゲルをにっこりさせよう!

最後急に宣伝臭くなってしまいましたが、コレなぜかというと、最近他の情コミ生とゼミについて話す機会があって、その際に「徳村はどこのゼミに入ってるの?」と訊かれたので「俺はファッキン刺激的な内藤まりこゼミでファッキン忙しくしてるぜ」的なことを答えたら、「内藤ゼミ?えーそれってハズレゼミじゃない?」と言われて衝撃を受けたからなんですね。

えっ!?俺のゼミってハズレゼミ扱いだったの?

私はすぐさま反論し、当ゼミの素晴らしいところと辛いところを2:8くらいの割合で紹介した(※実際の比率です)のですが、まあこれは価値基準の違いに終始する話になってしまうのでその人には届かなかったすね。

確かにコスパの良さ、単位取得のためにかかる時間と労力の観点からみると、内藤ゼミはゼミもゼミの準備もメチャメチャ時間かかるのでハズレゼミと言わざるを得ないのかもしれませんが、もっと長い目で見て、そのゼミが自分のためになっているかどうか、という観点から考えてみると、私は内藤ゼミをあたりゼミだと思うことができます。

このゼミは文学批評のゼミなので、文学と向き合い続けるだけのゼミだと思われがち(私もそう思ってました)が、実際には意外と文学よりも世界・社会、そして自己と向き合うことの多いゼミだと私は感じています。なぜなら文学はいつも社会や世界、そして自己を映しているからなんですね。だから文学批評をするには社会や世界や他者や自己を読み解かないといけないんですよ、マジ大変ですよねコレ。でもそれは他のゼミではなかなかできないことなんじゃないでしょうか。内藤ゼミは決してハズレゼミではありません!ちょっと大変なだけです!ちょっと授業時間が長かったり(200分)、ちょっと隔週で論文をまとめてレジュメにして発表する課題があったり、ちょっと学期末に1万字の論文書いたりするだけです!そしてちょっと病むだけです!こわくないよー!ぜーんぜんこわくないよー!ぜーんぜんハズレじゃないよー!

という訳で最後にはゼミ試を受ける2年生向けてのブログになってしまいましたが、次からはしっかりと書けるように頑張ります。もう滞らせません。たぶん。2年生の方々のブログが凄い熱量なのでプレッシャーも感じつつですが、私は私でマイペースにやっていきたいと思います。

ではまた次回~。再见!

第14回 7期生 発表会blog『このブログは読まれることを(そんなに)想定されていません』

お久しぶりです。どうやら長い夏休みが終わり、3年ゼミの後半が始まろうとしているようですね。(というかもう始まってますね)大好きな秋です。私は夏に敢えてマライアキャリーを歌ったり、冬に夏の終わりを歌ったりして季節を逆行するのが好きですが、この秋は素直な心で「オータムインニューヨーク」を観はじめました。映画から季節を感じるというのもいいものですね。

皆さんはどんな夏を過ごされたでしょうか。わたしはというと宿題の存在を心に留めつつ、半分罪悪感に苛まれながらも遊ぶ小学生の心境でした。もちろん、ここでの宿題にあたるのは「春学期レポート」です。9月の最終日曜日に、ゼミの卒業生の方にレポートの概要を発表する会が開かれるとのことで、なんとしてでもその日までに書き終えたいと、日毎予定ページ数を書いたカレンダーを睨む日々でした。今回のブログはその発表会の回記録です。

まずはお忙しい中発表を聞き、意見をたくさんくださった卒業生をはじめとする出席者の皆さん、ありがとうございました。私だったら平日にお仕事をしていたら、土日ぐらいは家でゆっくりしたいと思うと思うのですが、日曜日の、しかも短くない時間を、私たちゼミ生のレポートの構成について考えることに当ててくださるなんて、内藤ゼミにはなんて素晴らしい先輩方がいるんだ…!としみじみ感動しました。そして私もゆくゆくは(ゼミを無事走り終えられたら)後輩たちのために同じようにできればいいなと、若干の不安とともにそんな将来を思い描きました。

さて、本題に参ります。私はゼミでレポートを書くと決まった時、「物語作品は世界を変えうるのか」という壮大なテーマを思いつき、ぜひこのテーマを2年かけて考えたいと思いました。なぜそう思ったかというと、詳しいことは私のレポートを読んでほしいのですが(いつか公開されたら、、、されるんでしょうか?)私自身、物語に何度も心を救われた経験があり、その一方で物語が世の中の常識を押し付けてきているのも同時に感じていたんですね。物語の持つそうしたパワーを、これまでは感覚で感じるしかなかったのですが、このゼミで文学批評理論を学ぶうち、これらを使えば、私がこれまで気になっていたこの問いに対する答えを提示できるのではないかと考えたのです。レポートで、「物語は世の中を変えることができる」と提示できたら、世の中にもっと多様性を認める作品が増え、そしてそれがまた誰かの心を救ったり癒したりすることにつながります。大げさですが、それくらい壮大な気持ちで書かないとレポートなんて書けません。ちょうど、中島みゆきの荘厳な唄をかけながら部屋の掃除をするように。(なんだか自分がすごいことをしている気分に浸れるのでオススメです)それはともかく、このような意図、目的で書いた私のレポートの概要を皆さんの前で発表しました。

その後は皆さんからの鋭いご指摘やお褒めの言葉などをもらいました。たくさんもらったこの日のアドバイスはメモ用紙10枚分を軽く超えていました。特に山下さんからいただいたご意見からは、「世界を変えうるか」という元の主題が大きすぎるので「変えるきっかけを与えうるか」に変更すればしっくりくることがわかったり、日高さんからの意見からは、私は同性と異性の恋愛を分けて考えたくないのかもしれないという新たな気づきを得たりすることができました。もちろんこれは一例で、皆さんから色とりどりの意見をいただくことで、それまでは自分の頭の中でだけこね回していたアイデアや思想を、初めて人と共有することで、(しかも人生の先輩方に)自分にはない視点からの意見をもらい、私の意見に対して「こう感じたり考えたりする人がいるんだ」ということは新たな発見でしたし、それに従ってレポートも見直すことができました。他者からの視点を聞かなけば自分本位の人間になってしまって、いいレポートも書けないと思うので、このような機会を作ってくださった先生に感謝です。

他者からの視点に関連して、このブログの公開がだいぶ遅くなってしまった(すみません)のもそれが関係している気がします。春学期では、ブログを読む人として私は内藤先生と徳村さんだけを想定していて、なんだか身内にメールを送るような気持ちで気楽に書いていたのですが、レポート発表会などを経て、ブログを読んでくださっている人に直接会う機会があり、「こんなにちゃんとしている方々に読んでもらうなら変なことは書けない、、、」と妙なプレッシャーを感じてしまったのです。今こうやって文章を書けているのは、一旦誰が読んでいるかなどは忘れて、自分の好きに楽しんで書こうとマインドセットし直したからです。誰かが読んでいると思ったらその人に気を使い、本当の自分の気持ちが書けなくなってしまうことがあると思います。私が文章を好きなのは、話す時ほど相手に気を使わなくていいからという理由もあります。書いている時点では誰にも届かない文字だから、本音になれるんです。そしてそれを相手に届ける前に見返して修正ができる。それに対して喋りなら、すぐに相手に届いてしまうから、相手を傷つけないよう慎重になるし、相手本位になって本来の自分を少し歪めることもありますよね。自分の心の声に従って書けるのがブログの良さかなと思うので、私はこれからも読者におもねらず、正直な書き手でいることをお許しください。

脱線してしまいましたが、私の発表の後には徳村さんの発表があり、徳村さんの、誰の意見も否定しない中立的な人間性とかが現れていてとても面白い発表でした。CMという着眼点もならではでさすがですね。レポートが出来上がって読めるのを本当に楽しみにしています。徳村さんの文章ってなんか本当に面白いんですよね、読みやすいですし。しっかり起承転結というか、なんの文にしても一本筋が通っているから読後感もいいのかもしれないです。それに関連して、私の発表への徳村さんの意見を当日は聞けなかったので、後日長文で送ってくださいとお願いいたところ、本当に送っていただいた(!)文章も、構成がやっぱり綺麗でした。お忙しいところわざわざありがとうございましたとこちらでもお礼を言わせてください。

さて、書いてみましたが、普段の授業内容と違い、発表会のブログとはこんな感じで良かったのだろうかと不安です。もっと発表自体の内容を書いた方が良かったような気もします。

ゼミを楽しいものにするか、厄介なものにするかは自分の向き合い方次第だと思います。「秋学期のゼミも楽しむ!」という決意表明とともに今回のブログは締めようと思います。ですが少なくとも、夏より秋の方が涼しくて私は元気なので心配はありません。それよりも、食欲の秋も重なって最近お酒や美味しい食事をいただく機会が多く、順調に体重を増やしていくのではないかということの方が目下対処すべき問題かもしれません。ヘルシーで美味しいレシピを知っている方がいらっしゃいましたらご教授願いたいです。(運動せんかい!と思いましたか、私もそう思います)

村上菜々子

第13回『最後までこんなブログだけど、エピステーメー、許してーね。』

チョリーッス。今季ブログの殿(しんがり)を務めさせてもらいやす、徳村でござんす。お控えなすって。最近藤本タツキの漫画にハマってます。チェンソーマン、おもれーっすね。ファイアパンチ、イカれてますね。ルックバック、圧倒されますね。発想力の暴力ですな。もっと早く知りたかったぜ。そして今回のブログは情緒がジェットコースターラブ/KARA状態なので、躁鬱みたいな文章が各地に見られる予報です。エッッッッッッッッッ?なぜかって?なぜってそりゃあ、そうでもしないと滞らせることなくブログ書けないからに決まってるジャーーーン!

今回の前座では岩井俊二の映画『花とアリス』をご紹介。岩井美学が造り上げる映像美はもちろん、劇伴が素晴らし散らかしてんだよなぁ!コレ!!!各種ストリーミングサービスでもオリジナル・サウンドトラック『H&A』が配信されてるだろうから、要(Yo)要(Yo)要(Yo)チェケラだぜ~!!!これ聴けばもう一瞬で花とアリスの世界にトリップできちゃうっていうバリ☆ヤバな代物!!!おっしゃ~花とアリスでレッツ彩ろうぜ日々~!ビバ日々~!

さて、今回メインで扱ったのは、「オリエンタリズム」と「新歴史主義」です。「オリエンタリズム」っていうのは、簡単に言うと西洋人から見た「西洋でない文化」に対するイメージのこと。よく意味の分からない漢字をタトゥーにしたり、やたら仏像を集めてる西洋人がいますよね。そういった西洋人の非西洋的な物に対する好奇の思考・行動様式っていうのをオリエンタリズムというのです。このオリエンタリズムって、一見「非西洋に対する興味があって価値を認めている人」みたいな印象を抱いてしまうのですが、実際にはそんな単純な話ではなくて…。実は西洋っていうのは、そんな感じで非西洋的なものを『他者』として、『異物』として扱って、ある種そうやって非西洋から自らを疎外することによって自己のアイデンティティを確立していたっていう側面があるんですねー。文明が他の地域よりも発達していた西洋っていうのは、非西洋に対して感情的で魔術的で、野蛮な存在だというイメージを抱いていて、それに対比させる形で自らを理知的な存在であると認識していたんです。今となっては、非東洋人、ことさら日本に対して野蛮であるとかそういうイメージを持っている人はごくわずかだと思うのですが、それでも西洋人にとって漢字のタトゥーを自分の身体に入れるっていう行為は、非西洋的な物である漢字に対してある種の魔術的なパワーを感じていることに由来しているんだと考えられます。これはオリエンタリズムの思考様式が未だに西洋において普遍的なコードであるということを示しています。ただ、そういうオリエンタリズムとかを超えて非西洋な物を愛してくれている人も中にはいるわけなんですよね。ただ単に「めずらしいからなんかいい」とかじゃなくて、どういうところが好きで、こういうところが素晴らしくて憧れなんだと言ってくれる人はオリエンタリズムを超えた人なのかなと考えたりします。

で、問題はそういったオリエンタリズムを、非西洋人が受け入れて内面化しちゃってるところにもあるんです。日本でも一般的に、肌が白いことっていうのは優越されていますよね。美白至上主義っていうか。そういうのも、知らず知らずのうちに西洋人(白人)の価値観であるオリエンタリズムに染まっちゃってるってことなんですよね。日本は明治期の文明開化に際に西洋諸国の文化・生活様式を積極的に取り入れたっていう経緯もあって、西洋に対して自分たちは見習わないといけない、みたいな観念があるのかもしれませんよね。文化帝国主義を甘んじて受け入れてしまっているというね。またそういう文化の上下関係っていうのはアジア内でもあったらしいです。例えば日本にはかつて、朝鮮と自国を比較して「日本人は男性的で理知的、朝鮮人は女性的で感情的」という価値観があり、日本も朝鮮や中国などの周辺国から自らを疎外することで自己のアイデンティティを確立していたのです。なので日本ってオリエンタリズムとかポストコロニアルにおいては立ち位置が微妙なんですよね~。そこがなんか陰湿な日本らしいというか何というか…。

続きまして最後の厄介者「新歴史主義」にあたっていくぜぇ~!!!まず(旧)歴史主義っていうのが「歴史を直線的・発展的なものとして捉え、文学を特定の時代精神と結びつける」方法であるのに対して、新歴史主義は「歴史を、ある点では断絶したりある点では繋がっていたりするものであると非直線的・非発展的に捉え、あらゆる文学(書かれたもの)に表象され編み込まれているものとして読み解く」方法であると言えちまうんだなぁ!!!ちょっと何言ってるかわかんねぇと思うんだが、まずはこの方法の元となったフーコーの考えを整理していくんだぜ~!!!フーコーは自身がホモセクシュアルであったこともあって、研究対象を『性』として「なぜホモセクシュアルが排斥されるようになったのか」という問いを解き明かすことに尽力してたってワケなんだが、フーコーは「ホモセクシュアルという異常者は隔離する」という言説が普遍的なものではなく、歴史的な考えに過ぎないということを示すために様々な言説にあたったんだぜ~!!!過去のさまざまな言説を比較することで、歴史上のどのタイミングでそのような言説が生まれたのかその境目を見出そうとしたって事なんだよなぁ~!すげえよなあ!マジで!

で、そういう過程を経て、新歴史主義の「歴史は直線的でも発展的でもない」っていうのを示したのがフーコーなわけだ!これはフーコーの「パノプティコン」っていう刑務所に対する意見を例に挙げて説明するとちょっとわかりやすいかもだから、頑張って説明してみるぜ~!!!パノプティコンっていうのは、看守を受刑者から見えないところから監視させる構造を持った刑務所なんだが、これって、かつての刑罰が見せしめ的に公衆の面前で行われてたことを考えると、受刑者に対して権力の内面化が行われていると考えられるんだぜ~!パノプティコンでは、監視されているかどうかわからないのに、規律に従わざるを得ないわけじゃん???それってもう権力をわざわざ可視化しなくても受刑者をコントロールできちゃってるわけ。これを別の言い方で『身体の規律訓練』って云ったりするんだけど、これって歴史主義的に解釈すると刑罰の方法が発展したってことになりそうじゃん???でもでもでもでも、ここで新自由主義的な解釈をブチ込んでみると、こうやって権力を内面化したり、身体の規律訓練を行っていたのは、元々中世にもあったことなんだよなぁ~実は!!!中世の修道院では自らの罪を自ら告白して、自らに規律訓練を課すっていう風習があったらしきくて、つまり権力の内面化とか身体の規律訓練は、発展して生まれたもんじゃなくて、前にもあったことが再び近代に現れただけってことなんだぜ~!!!こんな感じで、フーコーは社会において覇権的な思考の枠組み=エピステーメー(パラダイム)っていうのが連続的にも間歇的にも現れるっていうことを示したワケよ!!!!いや~なかなかムズイこと言ってくれるよな~、コンチキショー!!!!だぜ~!

そんなわけで今回のブログも終わりが近づいてきました。こんなのが今季最後のブログになってしまうことは心許ないですね。終わってみると色々感慨深いですが、一つ言えることは毎回毎回本当に億劫でした。だってあんなに意味の分からないことにもう一回向き合わなくちゃいけないなんて…。辛すぎるよ…。こんなのってないよ…。あんまりだよ…。こんなの絶対おかしいよ…。と鹿目まどか状態になりながら這いつくばって書いたブログはきっと俺の糧になっていると俺の中のリトルファンキー加藤が言っている(ような気がする)のでいい経験になったと思っています。私のブログを村上さんのブログと比較すると、品質と品格に歴然とした差があることに関して私は極めて自覚的であり、反省の余地はありあまるほどですけども、そうしなければ書き上げられなかったので許してニャンの構えです。

それではみなさん読んでくれてありがとうございました。お腹が空いたので終わります。またいつか/どこかで。

第12回 7期生 『Dolce&Gabbanaは香水の専門店ではありません』

「ファッションは毎日を生き抜くための鎧である」

これは写真家ビル・カニンガムの言葉ですが、服は着る人やそれを見る人の心に大きな影響を与えます。今回の前座では内藤先生のジェンダーと絡めたコムデギャルソンのデザインの話を聞いてとても興味深かったです。かくいうわたしも、ラグジュアリーブランドのコレクションを見るのが好きで、毎回発表されると、動画を検索して見るのが高校生の頃からの習慣になっています。

その中でも1番印象的だったのが、2019年春夏のDolce&Gabbana Alta Modaのコレクションです。Valley of the Temples で開催されたウォーキングの動画があり、50分弱と長めですが、今でも何度も繰り返し見ているくらいお気に入りです。何がいいかというと、撮影している場所と、音楽の荘厳さに、お洋服のデザインが絶妙にマッチしていてただただ美しいのです。それでいてたくさん登場する服からはひとつのコンセプトを感じられ、見ているだけで想像力を掻き立てられます。まるで物語の世界のように世界観に入り込めるようなコレクションはほかに知りません。お時間ありましたらぜひ検索してみてください。インスピレーションを得られるかもしれません。

さて、本題にはいります。今回はマルクス主義批評を勉強しました。マルクス主義で大切なのが「下部構造」と「矛盾」です。下部構造は、ピラミッドの下部に経済があり、その上に思想や政治が乗っかっているのをイメージするとわかりやすいです。経済的なことが、社会的、政治的なことを決定付けているという考え方です。矛盾は、文学においてあるべきものが欠落して書かれることで、社会の中の経済的な矛盾が歴史性を生み出します。具体的にいうと、生産体系の歴史はこれまで

アジア的→古代的→封建的→ブルジョア的→[革命]

と移り変わってきました。マルクス主義はこの後に、社会主義的→共産主義的が続くとよいと考えます。これはなぜかというと、生産体系(つまり経済)が牧歌的なものから奴隷を利用するもの、契約によるもの、資本主義によるものと移り変わっていたことで社会に矛盾が生じて、それが労働者の桎梏になり、階級闘争が生まれてしまうからです。そしてその度に争いが起こりました。もし社会主義的、共産主義的生産体系になれば、桎梏は生まれず、平和が訪れると考えるからです。

とはいえ、これを今すぐ実現するのは現実的ではなく、さまざまな問題が残っています。完全に社会主義的生産体系にするのは難しいですが、ベーシックインカムの制度の導入などから考えてみるのもいいかもしれません。これにも教育面や資金面などの問題があり難しいところですが。

このようなマルクス主義を、文学批評に応用してみます。マルクス主義批評です。ゴジラを例に取って考えてみましょう。ゴジラはシリーズ化されており、最初の作品は1954年に発表されていますが、今年にも「ゴジラvsコング」が公開されるなど、関連作品はコンスタントに発表され続けています。もちろん、作品が作られる時代背景も変わっています。時代背景とはマルクス主義でいう経済のことです。一作目が公開された頃、日本の経済は伸びておりそんな中起こった第五福竜丸事件の残留物からゴジラは生まれました。日本のアッパークラスが生み出したゴジラですが、家が潰されるなど、その被害はミドルクラスが受けます。にも関わらずゴジラを倒したアッパークラスはまるで英雄のように描かれる。ここに矛盾が生じます。

この矛盾を解決するのがそのあとに続くシリーズということになります。原子力発電が主流になってからは、それがゴジラを生み出した世界を作り、被害を受けるミドルクラスを描き、国策が間違っているのかもしれないと、日本経済をシニカルに描いています。

よく、原作とそれに続く2次創作についての議論がなされますが、たいていはオリジナルのファンが2次創作を批判して終わりになりがちでした。しかしただ表現を小説から映画、漫画からドラマに変えるだけでなく、2次創作では、階級などの観点でオリジナルでは解決しきれない問題を解決することで原作との差異を生み出せば、それは唯一無二の価値ある2次創作物になりそうです。

マルクス主義批評の話から、現代でも盛んな2次創作についての議論まで展開することができるなんて驚きでした。難しいイメージで今まで手をつけてこなかった経済の分野ですが、これを機に関連本を読んでみようと思いました。とっつきにくそうな分野でも、自分の好きな分野と結びつけて考えると理解しやすくなったりしますね。昨日かの有名な「博士の愛した数式」を初めて読んだのですが、高校時代あんなに嫌っていた数学に少し優しい気持ちになっているのに気付きました。やはり本は偉大です。文学や映像で、理系分野や政経分野を扱った面白い作品がありましたら教えていただけると嬉しいです。

わたしが春学期に書くのは最後のブログになりました。読んでいただきありがとうございました!

村上菜々子

第11回 Can the Subaltern Speaks on Twitter?~サバルタンはツイッターで語ることができるか~

ごきげんよう皆さま。返品と滞りに定評のある徳村です。前回ご紹介した空より青いギターは無事返品しました。そして代わりに御茶ノ水でおニューのギターを購入いたしました。

うん、シンプルイズザベストですね。何よりネックの色がたまりません。このネックの色を見つけるまでどれだけ苦労したことか。。。ボディのクリームっぽい白と、ピックガードの溌溂とした白の組み合わせも絶妙です。美ギター。エレガントで瀟洒で高貴なパリジェンヌを連想させます。仮にマルジェラの新作だと言われても疑いません。もう絶対裏に白い布縫い付けられてますよねコレ。あ、あと勿論音も素晴らしいです。弦一本一本の音がしっかり聞こえて、まるで大阪王将のチャーハンのようなパラパラさ。でも大阪王将のチャーハンあるいは天津炒飯のように最初の一口が一番美味しいけど二口目から惰性で食べざるを得ない、みたいなことはなく、逆に弾けば弾くほど楽しくなってずっと弾いていたくなるような音です。皆さんもぜひ最寄りの大阪王将でチャーハン(天津炒飯でも可)を注文して、このギターの魅力を感じ取ってください!!!

さて皆さんが大阪王将でパラパラしてる間に本題に入ります。今回のゼミで扱ったのは、フェミニズム批評とジェンダー批評、そしてガヤトリ・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』になります。

フェミニズム批評は、長い間男性中心に形成されてきた文学伝統の中で行われてきた性差別を暴く批評として登場しました。女流作家であるメアリー・シェリーによって書かれた『フランケンシュタイン』も、そのフェミニズム批評の対象になります。『フランケンシュタイン』ではフランケンシュタインに関係する女性が次々と殺害されることから、女性が抑圧され、再生や代替の可能なものとして扱われている世界を表しているとみることができたりします。

次にジェンダー批評は、フェミニズム批評のように女性の問題のみに焦点を当てるのではなく、生物学的・社会学的に男女区別の基準から逸脱し周縁に追いやられている存在も対象とします。ゲイ批評やレズビアン批評などもジェンダー批評に含まれます。

ジェンダー批評の中でも面白かったのが『ホモソーシャル』と『クイア』という概念でした。

ホモソーシャルというのは男性の社会という意味。アメリカの社会学者ルネ・ジラールは「自分の欲望は他者の欲望の模倣である」という『欲望の三角形』理論を唱え、男二人が一人の女性を取り合う構造について説明しました(つまり、他人の好きな人を好きになっちゃうっていうこと)が、ホモソーシャルの研究を行っていたイヴ・セジウィックはこの理論に異を唱え、「その二人の男性は欲望を共有する(女性を取りあう)ことによって仲を深めている」と主張しました。つまり、ホモソーシャルは女性を利用することでコミュニティーの結束を固くしているということをイヴ・セジウィックは明らかにしたのです。また、このようなホモソーシャルを維持するために、その内部ではホモフォビア(同性嫌悪)やミソジニー(女性嫌悪)も醸造されることとなります。それは、ホモソーシャルが再生産を重視する社会の中で顕著であり、同性愛は生産性に欠け、男性のコミュニティーに女性が入ると結束が崩れてしまうという共通認識を持っているからなんです。しかし、このようなホモソーシャルというのは決して普遍的ではありません。かつては階級によって女性の方が男性よりも重視される社会も存在しましたし、古代ギリシアではホモソーシャルの中でもホモセクシュアルが普通に認められていたといいます。我が国の江戸時代に流行した春画も、性別の違いというよりは階級の違いを重視していて、異性愛も同性愛もどちらも描いていたそうです(異族愛も)。

次にクイアについて。クイアは元々「奇妙、気狂い」といった意味で、主に性的マイノリティを侮蔑する言葉として用いられていました。しかし現在ではそれを逆手にとって「性的マイノリティに対する差別に対抗する」という意味で、あらゆる性的マイノリティの人々を包括的に表す言葉として使用されています。このクイアという概念は人間の属性を常に変化するものと捉え、男女の区別を確定できないものとして考えており、その意味で非常に脱構築的だと言えます。つまりそのことを理解している人はみんなクイアなのです。このクイアという概念を今回のゼミで理解したことで、昨今のフェミニズムや性的マイノリティに対する扱いに個人的に抱いていたモヤモヤが少し晴れた気がしました。近頃、ネット上のフェミニストは女性の権利だけを求めがちだし、性的マイノリティに対する世間の扱いも腫れ物に触れるみたいに神経質すぎると考えていた私なのですが、クイアという単純明快でロックな概念には好感を持てます。結局、みんな人間なんだぜっていう。自分がどう生きるかは自分が決めることで、しかも決めた後でも迷っていいし変更してもいいっていうことなんだと思うんですよね。勿論制度設計の上で考えることは山ほどあると思います。例えばトイレ問題とか、スポーツ問題とか、たぶん私が思いつかないだけで沢山の問題がそこにあるんだと思うんですが、そういう問題を解決するにあたっても土台になるべきなのはやはりクイアなんじゃないかなと思います。

そして締めに『サバルタンは語ることができるか』ですが、まずサバルタンというのは被抑圧民のことで、植民地時代に列強によって支配されていた国々に住んでいた人々のことを指します。今回のサバルタンは特に「女性、非白人、非インテリ」の人々のことを指しているのですが、結論から言ってこのようなサバルタンは語ることができません。それは知識人や権力者がつねにサバルタンの声を代弁してしまい、当事者であるサバルタンの声は聞こえてこないからです。仮にサバルタンの意見を取り上げようと直接話を聞いたとしても、日常的に男性の言いつけを守ったり支配されたりしているサバルタンは本音を言えなかったり、そもそも自分の本音がなんなのかよくわかってなかったりするのであまり意味がないんですね。それでも、著者であるスピヴァクは書き手・読み手が白人のインテリに限られていたこれまでの文学やその他の学問の中にある、彼らが気づけなかった「空白」のようなものを見つけ出すことができるのは、有色人種や女性や非インテリなどのサバルタンであると期待を寄せているのです。サバルタンに語らせることは難しいことですが、どうしたらサバルタンの声を掬い上げることができるのかを考えていかなければなりません。

サバルタンの声について考えると、2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんってすごかったんだなあと思います。彼女は非白人の女性でしかも当時はまだ10代だったわけで、そんな彼女の声を掬い上げたメディアの功績は大きかったのですね。。。今になってその凄さがわかりました。もしかしたら、メディアやSNSを有効に用いることで、サバルタンは語れるようになるのかもしれません。勿論そこにもデジタル・ディバイドの障壁など様々な課題が残っているでしょう。サバルタンはツイッターで語ることができるか、それともインスタグラムで語ることができるか、あるいはまったく別の方法で語ることができるようになるのか、そして誰が語らせるのか、答えはまだ出ませんが、考えてみると面白いかもしれませんね。

今週はここまでとします。僕の滞り癖も今週は落ち着いていますね、よかったです。しかしながら今週の発表がまだ残っています。一難去ってまた一難、いつになったら凪になるやら。何も考えずギターの練習ができる日が来るとイイナ、と夢想する徳村なのでした。

第10回 7期生『アルカイックに脱構築を語る-archaic smile-』

こんにちは。仏の菜々子はんです。突然何を言い出したのかというと、徳村さんの前回のブログの締めの感じだと、私とても怖い人みたいじゃないですか!なので中学、高校時代のあだ名をここで披露して、わたしのイメージ補正をしてみました。正確には、中学のときの異名が、「微笑みななさん」テスト前はいい点がとれるよう、仏のように拝まれていました。高校では京都キャラで、「ななこはん」と呼ばれていました。これだけでもわたしがちょっとやそっとのことでは怒ったりしない、温厚な人だとわかると思います。徳村さん、安心してください、私は仏のように心が広いです。

さて、本題にはいります。今回は主に「脱構築」の話でした。すんなり理解するには難解で、だからこそとっても面白い内容で、きちんと記録できるか分かりませんが、全力を尽くします。まず、構造主義というものがあります。これは、作者の意図には関係なく、テクスト自体が意味を持っているという考えで、今回の課題文の著者ジャック・デリダはこの考えに疑問を持ちます。そこに脱構築批評というものが生まれます。これは、2つのテクストが矛盾した解釈を示すとき、両者の衝突を解決するのではなく、対立を深めさせる事によって、中立的意味の存在を否定することをいいます。ふたつの境界を曖昧にして、片方にもう一方の要素を見出せるかを考えるのですね。

具体的に考えてみましょう。いつものように浦島太郎を例に用います。浦島の世界で対立するもの、それは海と地上です。浦島にとって地上はホーム、海中はアウェイです。たくさんもてなされ、贅沢できて最高に思えそうな竜宮城を、浦島は最後には離れて、地上に帰りたいといいます。この浦島の行動から、どんな場所でも故郷、ホームは大切だ、素晴らしいという主張を、わたしは作品に見出しました。この、対立構造を見出そうとする考えが、構造主義の考えです。

次にこう考えてみます。ホームとアウェイが対立して見えるのは、わたしの前提にある価値観がそう見せているだけなのではないか?ホームにもアウェイにも共に自分を必要としている人はいて、これからホームで過ごした時間より長い時間をアウェイで過ごすことになれば愛着はアウェイにも湧くだろう、それなのにやっぱり自分の生まれたところ、ホームが尊いという価値観が知らずわたしの中にあるから、そのふたつが対立して見えてしまうのでは?これが脱構築です。

これをグランマトロジー(文字自体を中心に据えた学問)に当て嵌めて考えてみます。音声中心主義の考えでは、現前に音声があって、文字はその死体です。しかし、同じ動物の同じ音でも、言語によって動物の鳴き声が変わるように、文字の中に音声があるという考え方もできます。これも脱構築ですね。

かつて文字が無く、文明の発展によって文字を得たヨーロッパの国々は、自国を愛しすぎるが故に、全ての国は文字を発明するべき、または使うべきだと考えるようになりました。先程の音声と文字の他に、セックスとジェンダー、先と後など、どちらかが上でどちらかが下だという見方はすべてなんらかの偏見に基づいています。

男と女をふたつに分けて考えるのも、別にそのふたつに分ける必然性は無いわけですが、その分け方をするのは、ふたつの違いに目をつける認識の枠組みが、わたしたちの世界にびっしりとあって、無意識レベルの偏見となって存在しているからなのです。

人々がそのふたつにどうしても区分したがるので、そのどちらにも当てはまる人や、どちらにも当てはまらない人が居場所を無くしてしまうという問題が起きます。国力=人口の時代には、子どもを産むことができる性なのかそうではないかの区分はとても重要なものでしたが、AIの進歩などで、必ずしもそうでは無くなった場合、これらの区分は今ほどの意味を持たなくなるでしょう。

何かと何かを対比させて考える時、そこにはなんらかの偏見があること、それはとても無自覚なものであることを、今回の脱構築の話から学びました。自分の中の、そして世間の常識を、なぜそうなのか、それで本当にいいのか、考えながら生きていくことが本当に重要なのだなと気づけたとてもいい回でした。考えすぎて動けなくなるのは良くないですが、いい考え方ができると、そのあとの動きにも自信を持てるので、考え方ってとても大事ですね。

さて、本物の仏様には程遠いただの人間のわたしですが、少しでも徳高い人間様になれるよう、これからも精進していきます。脱構築について、記録したいことは全部書けたので満足して眠りにつこうと思います。

おやすみなさい。

第9回 7期生『村上さん本当にすんませんでした』

ついに1週間以上滞らせてしまいました、”徳村 the KING OF 滞り”です。いやー、先週は結構忙しくてー。外部のお笑いライブに出たり色々やってたらもう1週間経過していました。申し訳ないー。ちなみにライブではコントをやったのですが、ややウケでした。私ネタ書いてないので、あまりそこに関しては言及できないのですが、まあウケるところはめちゃくちゃウケて、ウケなかったところは空調の音が聞こえるくらいシーンとしてました。久々の舞台でしたが焦りました~!ネタを当日朝に貰ったので練習不足感は否めませんでしたが、できる限りは尽くしたんじゃないかなと思っています。3年生はお笑いもバンドもできる限り全力で取り組んでいきたいと思っているので、本当はブログを滞らせている場合ではないのですが。。。次回からは当日に書けるようにします!!!

さて、今回のゼミ前半はジャンル批評について。ジャンルには、形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあり、このようなジャンルにまつわる諸問題を扱う批評をジャンル批評といいます。

例えば、カナダの原型批評家フライによると、文学作品は四季に関連する4つの原型的物語のグループ、喜劇(春)、ロマンス(夏)、悲劇(秋)、風刺(冬)のいずれかに分類されるとのこと。一方でフランスの構造主義批評家のトドロフは「ジャンルはつねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるものである」とフライの恣意的な分類を批判します。実際、今でも支持されているのはトドロフの考え方です。トドロフはまた、ジャンルの存在を認めないのは、文学作品が既存の作品群と関係を持たないと主張することに等しいということも述べています。

文学には様々なジャンルがありますが、ある小説がどのジャンルに属するか議論するのもジャンル批評のテーマのひとつです。例えばフランケンシュタインは、ロマン主義小説としても読めるし、ゴシック小説としても読める。さらにはリアリズム小説としてもSF小説としても読むことができ、複数ジャンルにまたがって多角的な読みをすることができる作品となっています。

次に取り上げたのは、作品を自立した存在として捉えた形式主義批評に対して異議を唱えた読者反応批評でした。読者反応批評は、読者によって作品に対する反応の仕方が異なることに着目し、テクストが読者の心にどう働きかけるかという問題に焦点を置きます。従来、読者とは作者がテクストに埋め込んだものを受動的に受け取る者として捉えられていましたが、読者反応批評はこれを再定義し、テクストに活発に関わりテクストとの共同作業によって意味を生産する存在として「読者」を捉え直したのです。

しかしながら、読者反応批評はどんな読みも許容するわけではなく、作品によって想定された「含意された読者」を演じることで読者は作品を真に理解できるという考えがあることには注意が必要です。出鱈目な読みは許されません。

また、読者反応批評はテクスト中の空白に注目します。テクスト中の空白には、読者の活発な読みを引き出す機能があるからです。このように読者を刺激するような文学表現を「弁証法的な示し方」と言います。逆に、読者がすでに持っている意見を反映し、強化する方法を「修辞的な示し方」と言います。

こんな感じで3限の分は終わりました。正しくは、終わったような気がします。やはり1週間経つと記憶も曖昧になってきますね。。。反省しました。ハァイ。確か、その後のペアワークでは浦島太郎のジャンル批評をやりました。いろんな観点から浦島太郎を分類するのは骨の折れる作業でしたが、面白かったのは『浦島太郎』と『鶴の恩返し』の構造が似ている点でした。どちらも、困っている動物を助けたのちにその報酬として贅沢ができるが、約束を破ってしまったことによって不利益を被ってしまうという物語になっています。鶴と亀という縁起の良い動物の物語であることにも運命的なものを感じますね。

さて4限の方に移りましょう。4限ではヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』を読みこんでいきました。イーザー曰く、「テクストの言語記号および構造が、読者の理解行為、すなわち読者の意識へのテクストの転移を誘発することによって、その機能を果たすというところにある」ということで、これは小説は読者に読まれることで初めて成立するという考えなんですね。そして読者がどう理解するかっていうのはテクストにはコントロールできないということも指摘しています。つまり、小説を読むという行為は、作者と読者の想像力のゲームということなのです。ただ、テクストがすべてを明らかにしすぎたり、逆に難しすぎたり過度に混乱させたりすると読者はゲームから降りてしまうことには注意が必要なので、そこは作者の腕の見せ所というわけです。

さらにイーザーは、文学の世界を構成しているのが文どうしが結合した意味単位である相関体であり、読者は物語を読み進めながら相関体の中にある欠落部分を見つけていくということを述べました。その欠落は次の相関体への期待となり、予測を生み出すことになりますが、その期待は読み進めていくうちに現れる新たな相関体によって修正されたり裏切られたりします。つまり、相関体は未来の相関体に対する期待を生むとともに、過去の相関体に遡及して影響を与えているのです。読者は読書をしながら、そのテクストをリアルタイムで綜合していくことによって自分の意識に翻訳して転移させているのです。この作業はテクストによって指示されているのではなく、読者の領域に属しているとイーザーは述べています。個々の相関体において、どこに視点を置くか、どこに視点を置かないかというのは作者が目印を置いている場合もありますが、常に読者が作者の想定したように読んでくれるわけではないのです。

また、イーザーの面白いところは読者の読みが弁証法により高次のものに進化していくとしているところで、イーザーはその読むという行為中に生まれたものを「美的対象」と表現しました。イーザーのこの考えは当時の日本の教育にも歓迎的に導入されたらしいのですが、学生があまりにもアナーキーな読みをするということであまり長続きしなかったらしいです。まあ読者反応批評って本をわかる人にしか批評を認めてませんから、読書や批評の基礎を学ばせてからじゃないとそりゃ失敗するよなあと思いますが。。。

またイーザーの考えの問題点として挙げられるのは、弁証法的により高次の解釈を希求していくために常に解釈の更新・修正を迫られるために確定させることができないということ。確定していないということは、まだ存在していないことと同じになってしまうので、いつまで経っても批評が終わらないんですよね。また弁証法という発展思想的な考え方そのものも、第二次世界大戦の勃発によって批判されることになります。常に高め合って上を目指していこうぜ!という考えにも限界があるということですね。。。

さて、なんとか1週間前の記憶とメモを頼りに最低限のことをさらえたと思います。なんやかんやで執筆開始から3日経ちました。個人的には好きな回だったのでまだなんとか記憶がセーブされていて助かりました。やっぱりすぐ書いた方がいいですね、ブログって。でもゼミ終わった後ってめちゃくちゃ一気に疲れが押し寄せてくるんですよね。何もする気になれない。無気力になってしまう。あと一応の達成感もあるので、しばらく浸っていたいっていうのもありますよね。そこからすぐブログっていうのは、もうちょっと勘弁してくれよ。。。という気持ちになります。。。でもそれってつまり一週間のうち2日間ゼミのことしかやってないということになるんですよね。私の場合、火曜日全部使ってレジュメ用意していて、で、水曜日の午前中とかにブログ書いたりしてるので。いやーーーーー。これはーーーーー。まずいよーーーーーー。

まあでも大学に入って一番研究っぽいムズカシイことしてるのってこのゼミなんで。それは大きな意義あるよなって。ということで一応のフォローを入れておきます。

あと余談なんですけど、ヤフオクで買ったギター、実物見てみたら写真よりもだいぶ鮮やかな色で笑っちゃいました。久しぶりに草生やしました。「鮮やかすぎだろwww 舐めてんのかwww 今どき空でもそんな鮮やかじゃねえよwww」って。

いや彩度マイナス80くらいしてんだろコレ。たぶん返品します。返品はロックの基本なので。でも慣れると意外と可愛いかもなあと思ったりもします。

それではここいらでお暇させて頂きたく思います。あと村上さんゼミから2日も引っ張ってしまって本当にすいませんでした。許してください。いや本当にアレだけは勘弁してください。。。アレだけは本当に。。。お願いします。。。どうか。。。すいませんでした。。。ハイ。。。徳村でした。。。

第8回 7期生『疲れた脳にはマリトッツォを』

こんにちは。村上菜々子です。

最近流行ってるスイーツ?パン?みたいなもの、その名も「マリトッツォ」。皆さんは食べたことありますか?ブリオッシュ生地にたっぷりの生クリームを挟んだスイーツで、イタリア・ローマの名物らしいです。

私はその存在は知っていたのですが、なんだか甘すぎるんじゃないか?どうせ甘いならシュークリームの方が美味しいんじゃないか?などと考え、手を出していませんでした。

ところがある日バイト先の人とマリトッツォの話になり、気になったので休憩時間に食べてみました。すると、一口目から想像以上の味で、これは流行るわ!となりました。まずクリームに柑橘がはいっており、さっぱりした味。それがふわふわのパンと良く合って、噛む顎が止まりません。立ち仕事に疲れた私の心を癒してくれました。

一仕事終えた時など特におすすめです。皆さんもぜひ食べてみてください!

と、グルメ日記のような出だしになってしまいましたね。今回の前座で最初マリトッツォの話をしようと思っていたのですが、迷ってゼミの直前にしていた瞑想の方の話をしたので、代わりにこちらで紹介しました。

さて、本題です。今回はロラン・バルトの『作者の死』を読みました。テーマは、作品と作者の結びつきにあるようです。作品は、誰によって書かれたのかを強く意識されます。作品は作者に支配されるとも言えます。

こうした作者による作品の支配を揺るがそうと、シュールレアリズムが生まれます。氷山の見えている部分がエゴだとすると、その下の見えない部分の氷はスーパーエゴ。ここから生まれる作品は人の理性を超え、神や自然現象のメッセージを書き写します。

作品と作者の関係について、二つの考え方があります。一つは、作者は自分の作品に先行して存在しているというもの。もう一つは、作者が書くのと同時にテクストが誕生するというものです。

一つ目の考え方は、書くことが記録や確認、再現を指しており、思考に書くスピードは敵わないのだから、時間をかけてより良い表現を模索するべきだという古典主義的な考え方。

二つ目は現代の考え方で、作者は考えながら作品を書いているので、書く前頭の中にあったビジョンとは違うものが、書くときには生まれている。テクストは書くのと同時に誕生するというものです。

書く前から一言一句同じ文は頭の中に無く、書いている間に考えが熟成されたり、違う考えと結びついたりしている感覚が私はあるので、二つ目の方がしっくりきます。このブログにしても、2週間前に書いたブログをもう一度同じように書くことはもうできないし、書かれる言葉も話し言葉と同じで生きているような気がします。

ゼミでは、関連して日本の国語入試についての話も出ました。テクストの読者にはそれぞれの生きてきた文脈があるので同じ作品でも読み方が異なってもいいというのが『作者の死』的考え方でした。

しかし日本の入試は、作者や登場人物の考えを記述・選択させ、それに成否をつけるという効率的ではあるが今回の考えとは逆の方式をとっています。しかも作者自身が自分のテキストが使用された入試問題に不正解になるということもあったらしいです。

人それぞれが異なる読み方をするし、それが正しいのだとすると、国語のテストの形式自体に無理があるのかもしれませんね。

もっとも、入試問題を解くことを塾で訓練しすぎた私からすると、自分の認識など入れず、テクスト内にある答えを探すのが国語入試の王道であり、入試はテクストを楽しむ読書とは違うのだと割り切ってしまうのですが。

その作品を読んでどう解釈したのかを自分の言葉で話させるテストを実現できるのなら、その方が本当の意味での思考力を問えるのかなとは思います。

作者と作品の関係についてここまで考えてきました。自然現象や数字の世界と違って、言葉はいつも人から生まれます。だから単純に言葉そのものを分析するよりも、その言葉を発した人をも分析したいと思うのは自然なことなのかもしれません。

人がいなければそこに言葉は存在していなかったのならそれを切り離して考えることはできないからです。

でも本当に人がいなければ言葉は無かったのでしょうか。0から1を作ることが人間には本当にできるのでしょうか。もし人が世界にいなくても、言葉の意味、概念、思想はそこらじゅうにあって、それをたまたま人間が表出しただけなのかもしれません。

だとしたらその言葉を誰が発したのかは問題ではなく、テクストはテクスト自体で存在するということになり、そこに作者はもはや介入しないということになりますね。

好きな作品の作者がもし極悪人だったと知ったとしても、自分の中で作品の価値は1ミリも変わらない。

作者に敬意は払いつつも、世の中に出た以上、作品は作者だけのものではなく、それを楽しむ人みんなのものになっていくんですね。

次回のゼミの課題テクストはなんだかこれまで以上に難しそうです。がんばります!