第14回 7期生 発表会blog『このブログは読まれることを(そんなに)想定されていません』

お久しぶりです。どうやら長い夏休みが終わり、3年ゼミの後半が始まろうとしているようですね。(というかもう始まってますね)大好きな秋です。私は夏に敢えてマライアキャリーを歌ったり、冬に夏の終わりを歌ったりして季節を逆行するのが好きですが、この秋は素直な心で「オータムインニューヨーク」を観はじめました。映画から季節を感じるというのもいいものですね。

皆さんはどんな夏を過ごされたでしょうか。わたしはというと宿題の存在を心に留めつつ、半分罪悪感に苛まれながらも遊ぶ小学生の心境でした。もちろん、ここでの宿題にあたるのは「春学期レポート」です。9月の最終日曜日に、ゼミの卒業生の方にレポートの概要を発表する会が開かれるとのことで、なんとしてでもその日までに書き終えたいと、日毎予定ページ数を書いたカレンダーを睨む日々でした。今回のブログはその発表会の回記録です。

まずはお忙しい中発表を聞き、意見をたくさんくださった卒業生をはじめとする出席者の皆さん、ありがとうございました。私だったら平日にお仕事をしていたら、土日ぐらいは家でゆっくりしたいと思うと思うのですが、日曜日の、しかも短くない時間を、私たちゼミ生のレポートの構成について考えることに当ててくださるなんて、内藤ゼミにはなんて素晴らしい先輩方がいるんだ…!としみじみ感動しました。そして私もゆくゆくは(ゼミを無事走り終えられたら)後輩たちのために同じようにできればいいなと、若干の不安とともにそんな将来を思い描きました。

さて、本題に参ります。私はゼミでレポートを書くと決まった時、「物語作品は世界を変えうるのか」という壮大なテーマを思いつき、ぜひこのテーマを2年かけて考えたいと思いました。なぜそう思ったかというと、詳しいことは私のレポートを読んでほしいのですが(いつか公開されたら、、、されるんでしょうか?)私自身、物語に何度も心を救われた経験があり、その一方で物語が世の中の常識を押し付けてきているのも同時に感じていたんですね。物語の持つそうしたパワーを、これまでは感覚で感じるしかなかったのですが、このゼミで文学批評理論を学ぶうち、これらを使えば、私がこれまで気になっていたこの問いに対する答えを提示できるのではないかと考えたのです。レポートで、「物語は世の中を変えることができる」と提示できたら、世の中にもっと多様性を認める作品が増え、そしてそれがまた誰かの心を救ったり癒したりすることにつながります。大げさですが、それくらい壮大な気持ちで書かないとレポートなんて書けません。ちょうど、中島みゆきの荘厳な唄をかけながら部屋の掃除をするように。(なんだか自分がすごいことをしている気分に浸れるのでオススメです)それはともかく、このような意図、目的で書いた私のレポートの概要を皆さんの前で発表しました。

その後は皆さんからの鋭いご指摘やお褒めの言葉などをもらいました。たくさんもらったこの日のアドバイスはメモ用紙10枚分を軽く超えていました。特に山下さんからいただいたご意見からは、「世界を変えうるか」という元の主題が大きすぎるので「変えるきっかけを与えうるか」に変更すればしっくりくることがわかったり、日高さんからの意見からは、私は同性と異性の恋愛を分けて考えたくないのかもしれないという新たな気づきを得たりすることができました。もちろんこれは一例で、皆さんから色とりどりの意見をいただくことで、それまでは自分の頭の中でだけこね回していたアイデアや思想を、初めて人と共有することで、(しかも人生の先輩方に)自分にはない視点からの意見をもらい、私の意見に対して「こう感じたり考えたりする人がいるんだ」ということは新たな発見でしたし、それに従ってレポートも見直すことができました。他者からの視点を聞かなけば自分本位の人間になってしまって、いいレポートも書けないと思うので、このような機会を作ってくださった先生に感謝です。

他者からの視点に関連して、このブログの公開がだいぶ遅くなってしまった(すみません)のもそれが関係している気がします。春学期では、ブログを読む人として私は内藤先生と徳村さんだけを想定していて、なんだか身内にメールを送るような気持ちで気楽に書いていたのですが、レポート発表会などを経て、ブログを読んでくださっている人に直接会う機会があり、「こんなにちゃんとしている方々に読んでもらうなら変なことは書けない、、、」と妙なプレッシャーを感じてしまったのです。今こうやって文章を書けているのは、一旦誰が読んでいるかなどは忘れて、自分の好きに楽しんで書こうとマインドセットし直したからです。誰かが読んでいると思ったらその人に気を使い、本当の自分の気持ちが書けなくなってしまうことがあると思います。私が文章を好きなのは、話す時ほど相手に気を使わなくていいからという理由もあります。書いている時点では誰にも届かない文字だから、本音になれるんです。そしてそれを相手に届ける前に見返して修正ができる。それに対して喋りなら、すぐに相手に届いてしまうから、相手を傷つけないよう慎重になるし、相手本位になって本来の自分を少し歪めることもありますよね。自分の心の声に従って書けるのがブログの良さかなと思うので、私はこれからも読者におもねらず、正直な書き手でいることをお許しください。

脱線してしまいましたが、私の発表の後には徳村さんの発表があり、徳村さんの、誰の意見も否定しない中立的な人間性とかが現れていてとても面白い発表でした。CMという着眼点もならではでさすがですね。レポートが出来上がって読めるのを本当に楽しみにしています。徳村さんの文章ってなんか本当に面白いんですよね、読みやすいですし。しっかり起承転結というか、なんの文にしても一本筋が通っているから読後感もいいのかもしれないです。それに関連して、私の発表への徳村さんの意見を当日は聞けなかったので、後日長文で送ってくださいとお願いいたところ、本当に送っていただいた(!)文章も、構成がやっぱり綺麗でした。お忙しいところわざわざありがとうございましたとこちらでもお礼を言わせてください。

さて、書いてみましたが、普段の授業内容と違い、発表会のブログとはこんな感じで良かったのだろうかと不安です。もっと発表自体の内容を書いた方が良かったような気もします。

ゼミを楽しいものにするか、厄介なものにするかは自分の向き合い方次第だと思います。「秋学期のゼミも楽しむ!」という決意表明とともに今回のブログは締めようと思います。ですが少なくとも、夏より秋の方が涼しくて私は元気なので心配はありません。それよりも、食欲の秋も重なって最近お酒や美味しい食事をいただく機会が多く、順調に体重を増やしていくのではないかということの方が目下対処すべき問題かもしれません。ヘルシーで美味しいレシピを知っている方がいらっしゃいましたらご教授願いたいです。(運動せんかい!と思いましたか、私もそう思います)

村上菜々子

第13回『最後までこんなブログだけど、エピステーメー、許してーね。』

チョリーッス。今季ブログの殿(しんがり)を務めさせてもらいやす、徳村でござんす。お控えなすって。最近藤本タツキの漫画にハマってます。チェンソーマン、おもれーっすね。ファイアパンチ、イカれてますね。ルックバック、圧倒されますね。発想力の暴力ですな。もっと早く知りたかったぜ。そして今回のブログは情緒がジェットコースターラブ/KARA状態なので、躁鬱みたいな文章が各地に見られる予報です。エッッッッッッッッッ?なぜかって?なぜってそりゃあ、そうでもしないと滞らせることなくブログ書けないからに決まってるジャーーーン!

今回の前座では岩井俊二の映画『花とアリス』をご紹介。岩井美学が造り上げる映像美はもちろん、劇伴が素晴らし散らかしてんだよなぁ!コレ!!!各種ストリーミングサービスでもオリジナル・サウンドトラック『H&A』が配信されてるだろうから、要(Yo)要(Yo)要(Yo)チェケラだぜ~!!!これ聴けばもう一瞬で花とアリスの世界にトリップできちゃうっていうバリ☆ヤバな代物!!!おっしゃ~花とアリスでレッツ彩ろうぜ日々~!ビバ日々~!

さて、今回メインで扱ったのは、「オリエンタリズム」と「新歴史主義」です。「オリエンタリズム」っていうのは、簡単に言うと西洋人から見た「西洋でない文化」に対するイメージのこと。よく意味の分からない漢字をタトゥーにしたり、やたら仏像を集めてる西洋人がいますよね。そういった西洋人の非西洋的な物に対する好奇の思考・行動様式っていうのをオリエンタリズムというのです。このオリエンタリズムって、一見「非西洋に対する興味があって価値を認めている人」みたいな印象を抱いてしまうのですが、実際にはそんな単純な話ではなくて…。実は西洋っていうのは、そんな感じで非西洋的なものを『他者』として、『異物』として扱って、ある種そうやって非西洋から自らを疎外することによって自己のアイデンティティを確立していたっていう側面があるんですねー。文明が他の地域よりも発達していた西洋っていうのは、非西洋に対して感情的で魔術的で、野蛮な存在だというイメージを抱いていて、それに対比させる形で自らを理知的な存在であると認識していたんです。今となっては、非東洋人、ことさら日本に対して野蛮であるとかそういうイメージを持っている人はごくわずかだと思うのですが、それでも西洋人にとって漢字のタトゥーを自分の身体に入れるっていう行為は、非西洋的な物である漢字に対してある種の魔術的なパワーを感じていることに由来しているんだと考えられます。これはオリエンタリズムの思考様式が未だに西洋において普遍的なコードであるということを示しています。ただ、そういうオリエンタリズムとかを超えて非西洋な物を愛してくれている人も中にはいるわけなんですよね。ただ単に「めずらしいからなんかいい」とかじゃなくて、どういうところが好きで、こういうところが素晴らしくて憧れなんだと言ってくれる人はオリエンタリズムを超えた人なのかなと考えたりします。

で、問題はそういったオリエンタリズムを、非西洋人が受け入れて内面化しちゃってるところにもあるんです。日本でも一般的に、肌が白いことっていうのは優越されていますよね。美白至上主義っていうか。そういうのも、知らず知らずのうちに西洋人(白人)の価値観であるオリエンタリズムに染まっちゃってるってことなんですよね。日本は明治期の文明開化に際に西洋諸国の文化・生活様式を積極的に取り入れたっていう経緯もあって、西洋に対して自分たちは見習わないといけない、みたいな観念があるのかもしれませんよね。文化帝国主義を甘んじて受け入れてしまっているというね。またそういう文化の上下関係っていうのはアジア内でもあったらしいです。例えば日本にはかつて、朝鮮と自国を比較して「日本人は男性的で理知的、朝鮮人は女性的で感情的」という価値観があり、日本も朝鮮や中国などの周辺国から自らを疎外することで自己のアイデンティティを確立していたのです。なので日本ってオリエンタリズムとかポストコロニアルにおいては立ち位置が微妙なんですよね~。そこがなんか陰湿な日本らしいというか何というか…。

続きまして最後の厄介者「新歴史主義」にあたっていくぜぇ~!!!まず(旧)歴史主義っていうのが「歴史を直線的・発展的なものとして捉え、文学を特定の時代精神と結びつける」方法であるのに対して、新歴史主義は「歴史を、ある点では断絶したりある点では繋がっていたりするものであると非直線的・非発展的に捉え、あらゆる文学(書かれたもの)に表象され編み込まれているものとして読み解く」方法であると言えちまうんだなぁ!!!ちょっと何言ってるかわかんねぇと思うんだが、まずはこの方法の元となったフーコーの考えを整理していくんだぜ~!!!フーコーは自身がホモセクシュアルであったこともあって、研究対象を『性』として「なぜホモセクシュアルが排斥されるようになったのか」という問いを解き明かすことに尽力してたってワケなんだが、フーコーは「ホモセクシュアルという異常者は隔離する」という言説が普遍的なものではなく、歴史的な考えに過ぎないということを示すために様々な言説にあたったんだぜ~!!!過去のさまざまな言説を比較することで、歴史上のどのタイミングでそのような言説が生まれたのかその境目を見出そうとしたって事なんだよなぁ~!すげえよなあ!マジで!

で、そういう過程を経て、新歴史主義の「歴史は直線的でも発展的でもない」っていうのを示したのがフーコーなわけだ!これはフーコーの「パノプティコン」っていう刑務所に対する意見を例に挙げて説明するとちょっとわかりやすいかもだから、頑張って説明してみるぜ~!!!パノプティコンっていうのは、看守を受刑者から見えないところから監視させる構造を持った刑務所なんだが、これって、かつての刑罰が見せしめ的に公衆の面前で行われてたことを考えると、受刑者に対して権力の内面化が行われていると考えられるんだぜ~!パノプティコンでは、監視されているかどうかわからないのに、規律に従わざるを得ないわけじゃん???それってもう権力をわざわざ可視化しなくても受刑者をコントロールできちゃってるわけ。これを別の言い方で『身体の規律訓練』って云ったりするんだけど、これって歴史主義的に解釈すると刑罰の方法が発展したってことになりそうじゃん???でもでもでもでも、ここで新自由主義的な解釈をブチ込んでみると、こうやって権力を内面化したり、身体の規律訓練を行っていたのは、元々中世にもあったことなんだよなぁ~実は!!!中世の修道院では自らの罪を自ら告白して、自らに規律訓練を課すっていう風習があったらしきくて、つまり権力の内面化とか身体の規律訓練は、発展して生まれたもんじゃなくて、前にもあったことが再び近代に現れただけってことなんだぜ~!!!こんな感じで、フーコーは社会において覇権的な思考の枠組み=エピステーメー(パラダイム)っていうのが連続的にも間歇的にも現れるっていうことを示したワケよ!!!!いや~なかなかムズイこと言ってくれるよな~、コンチキショー!!!!だぜ~!

そんなわけで今回のブログも終わりが近づいてきました。こんなのが今季最後のブログになってしまうことは心許ないですね。終わってみると色々感慨深いですが、一つ言えることは毎回毎回本当に億劫でした。だってあんなに意味の分からないことにもう一回向き合わなくちゃいけないなんて…。辛すぎるよ…。こんなのってないよ…。あんまりだよ…。こんなの絶対おかしいよ…。と鹿目まどか状態になりながら這いつくばって書いたブログはきっと俺の糧になっていると俺の中のリトルファンキー加藤が言っている(ような気がする)のでいい経験になったと思っています。私のブログを村上さんのブログと比較すると、品質と品格に歴然とした差があることに関して私は極めて自覚的であり、反省の余地はありあまるほどですけども、そうしなければ書き上げられなかったので許してニャンの構えです。

それではみなさん読んでくれてありがとうございました。お腹が空いたので終わります。またいつか/どこかで。

第12回 7期生 『Dolce&Gabbanaは香水の専門店ではありません』

「ファッションは毎日を生き抜くための鎧である」

これは写真家ビル・カニンガムの言葉ですが、服は着る人やそれを見る人の心に大きな影響を与えます。今回の前座では内藤先生のジェンダーと絡めたコムデギャルソンのデザインの話を聞いてとても興味深かったです。かくいうわたしも、ラグジュアリーブランドのコレクションを見るのが好きで、毎回発表されると、動画を検索して見るのが高校生の頃からの習慣になっています。

その中でも1番印象的だったのが、2019年春夏のDolce&Gabbana Alta Modaのコレクションです。Valley of the Temples で開催されたウォーキングの動画があり、50分弱と長めですが、今でも何度も繰り返し見ているくらいお気に入りです。何がいいかというと、撮影している場所と、音楽の荘厳さに、お洋服のデザインが絶妙にマッチしていてただただ美しいのです。それでいてたくさん登場する服からはひとつのコンセプトを感じられ、見ているだけで想像力を掻き立てられます。まるで物語の世界のように世界観に入り込めるようなコレクションはほかに知りません。お時間ありましたらぜひ検索してみてください。インスピレーションを得られるかもしれません。

さて、本題にはいります。今回はマルクス主義批評を勉強しました。マルクス主義で大切なのが「下部構造」と「矛盾」です。下部構造は、ピラミッドの下部に経済があり、その上に思想や政治が乗っかっているのをイメージするとわかりやすいです。経済的なことが、社会的、政治的なことを決定付けているという考え方です。矛盾は、文学においてあるべきものが欠落して書かれることで、社会の中の経済的な矛盾が歴史性を生み出します。具体的にいうと、生産体系の歴史はこれまで

アジア的→古代的→封建的→ブルジョア的→[革命]

と移り変わってきました。マルクス主義はこの後に、社会主義的→共産主義的が続くとよいと考えます。これはなぜかというと、生産体系(つまり経済)が牧歌的なものから奴隷を利用するもの、契約によるもの、資本主義によるものと移り変わっていたことで社会に矛盾が生じて、それが労働者の桎梏になり、階級闘争が生まれてしまうからです。そしてその度に争いが起こりました。もし社会主義的、共産主義的生産体系になれば、桎梏は生まれず、平和が訪れると考えるからです。

とはいえ、これを今すぐ実現するのは現実的ではなく、さまざまな問題が残っています。完全に社会主義的生産体系にするのは難しいですが、ベーシックインカムの制度の導入などから考えてみるのもいいかもしれません。これにも教育面や資金面などの問題があり難しいところですが。

このようなマルクス主義を、文学批評に応用してみます。マルクス主義批評です。ゴジラを例に取って考えてみましょう。ゴジラはシリーズ化されており、最初の作品は1954年に発表されていますが、今年にも「ゴジラvsコング」が公開されるなど、関連作品はコンスタントに発表され続けています。もちろん、作品が作られる時代背景も変わっています。時代背景とはマルクス主義でいう経済のことです。一作目が公開された頃、日本の経済は伸びておりそんな中起こった第五福竜丸事件の残留物からゴジラは生まれました。日本のアッパークラスが生み出したゴジラですが、家が潰されるなど、その被害はミドルクラスが受けます。にも関わらずゴジラを倒したアッパークラスはまるで英雄のように描かれる。ここに矛盾が生じます。

この矛盾を解決するのがそのあとに続くシリーズということになります。原子力発電が主流になってからは、それがゴジラを生み出した世界を作り、被害を受けるミドルクラスを描き、国策が間違っているのかもしれないと、日本経済をシニカルに描いています。

よく、原作とそれに続く2次創作についての議論がなされますが、たいていはオリジナルのファンが2次創作を批判して終わりになりがちでした。しかしただ表現を小説から映画、漫画からドラマに変えるだけでなく、2次創作では、階級などの観点でオリジナルでは解決しきれない問題を解決することで原作との差異を生み出せば、それは唯一無二の価値ある2次創作物になりそうです。

マルクス主義批評の話から、現代でも盛んな2次創作についての議論まで展開することができるなんて驚きでした。難しいイメージで今まで手をつけてこなかった経済の分野ですが、これを機に関連本を読んでみようと思いました。とっつきにくそうな分野でも、自分の好きな分野と結びつけて考えると理解しやすくなったりしますね。昨日かの有名な「博士の愛した数式」を初めて読んだのですが、高校時代あんなに嫌っていた数学に少し優しい気持ちになっているのに気付きました。やはり本は偉大です。文学や映像で、理系分野や政経分野を扱った面白い作品がありましたら教えていただけると嬉しいです。

わたしが春学期に書くのは最後のブログになりました。読んでいただきありがとうございました!

村上菜々子

第11回 Can the Subaltern Speaks on Twitter?~サバルタンはツイッターで語ることができるか~

ごきげんよう皆さま。返品と滞りに定評のある徳村です。前回ご紹介した空より青いギターは無事返品しました。そして代わりに御茶ノ水でおニューのギターを購入いたしました。

うん、シンプルイズザベストですね。何よりネックの色がたまりません。このネックの色を見つけるまでどれだけ苦労したことか。。。ボディのクリームっぽい白と、ピックガードの溌溂とした白の組み合わせも絶妙です。美ギター。エレガントで瀟洒で高貴なパリジェンヌを連想させます。仮にマルジェラの新作だと言われても疑いません。もう絶対裏に白い布縫い付けられてますよねコレ。あ、あと勿論音も素晴らしいです。弦一本一本の音がしっかり聞こえて、まるで大阪王将のチャーハンのようなパラパラさ。でも大阪王将のチャーハンあるいは天津炒飯のように最初の一口が一番美味しいけど二口目から惰性で食べざるを得ない、みたいなことはなく、逆に弾けば弾くほど楽しくなってずっと弾いていたくなるような音です。皆さんもぜひ最寄りの大阪王将でチャーハン(天津炒飯でも可)を注文して、このギターの魅力を感じ取ってください!!!

さて皆さんが大阪王将でパラパラしてる間に本題に入ります。今回のゼミで扱ったのは、フェミニズム批評とジェンダー批評、そしてガヤトリ・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』になります。

フェミニズム批評は、長い間男性中心に形成されてきた文学伝統の中で行われてきた性差別を暴く批評として登場しました。女流作家であるメアリー・シェリーによって書かれた『フランケンシュタイン』も、そのフェミニズム批評の対象になります。『フランケンシュタイン』ではフランケンシュタインに関係する女性が次々と殺害されることから、女性が抑圧され、再生や代替の可能なものとして扱われている世界を表しているとみることができたりします。

次にジェンダー批評は、フェミニズム批評のように女性の問題のみに焦点を当てるのではなく、生物学的・社会学的に男女区別の基準から逸脱し周縁に追いやられている存在も対象とします。ゲイ批評やレズビアン批評などもジェンダー批評に含まれます。

ジェンダー批評の中でも面白かったのが『ホモソーシャル』と『クイア』という概念でした。

ホモソーシャルというのは男性の社会という意味。アメリカの社会学者ルネ・ジラールは「自分の欲望は他者の欲望の模倣である」という『欲望の三角形』理論を唱え、男二人が一人の女性を取り合う構造について説明しました(つまり、他人の好きな人を好きになっちゃうっていうこと)が、ホモソーシャルの研究を行っていたイヴ・セジウィックはこの理論に異を唱え、「その二人の男性は欲望を共有する(女性を取りあう)ことによって仲を深めている」と主張しました。つまり、ホモソーシャルは女性を利用することでコミュニティーの結束を固くしているということをイヴ・セジウィックは明らかにしたのです。また、このようなホモソーシャルを維持するために、その内部ではホモフォビア(同性嫌悪)やミソジニー(女性嫌悪)も醸造されることとなります。それは、ホモソーシャルが再生産を重視する社会の中で顕著であり、同性愛は生産性に欠け、男性のコミュニティーに女性が入ると結束が崩れてしまうという共通認識を持っているからなんです。しかし、このようなホモソーシャルというのは決して普遍的ではありません。かつては階級によって女性の方が男性よりも重視される社会も存在しましたし、古代ギリシアではホモソーシャルの中でもホモセクシュアルが普通に認められていたといいます。我が国の江戸時代に流行した春画も、性別の違いというよりは階級の違いを重視していて、異性愛も同性愛もどちらも描いていたそうです(異族愛も)。

次にクイアについて。クイアは元々「奇妙、気狂い」といった意味で、主に性的マイノリティを侮蔑する言葉として用いられていました。しかし現在ではそれを逆手にとって「性的マイノリティに対する差別に対抗する」という意味で、あらゆる性的マイノリティの人々を包括的に表す言葉として使用されています。このクイアという概念は人間の属性を常に変化するものと捉え、男女の区別を確定できないものとして考えており、その意味で非常に脱構築的だと言えます。つまりそのことを理解している人はみんなクイアなのです。このクイアという概念を今回のゼミで理解したことで、昨今のフェミニズムや性的マイノリティに対する扱いに個人的に抱いていたモヤモヤが少し晴れた気がしました。近頃、ネット上のフェミニストは女性の権利だけを求めがちだし、性的マイノリティに対する世間の扱いも腫れ物に触れるみたいに神経質すぎると考えていた私なのですが、クイアという単純明快でロックな概念には好感を持てます。結局、みんな人間なんだぜっていう。自分がどう生きるかは自分が決めることで、しかも決めた後でも迷っていいし変更してもいいっていうことなんだと思うんですよね。勿論制度設計の上で考えることは山ほどあると思います。例えばトイレ問題とか、スポーツ問題とか、たぶん私が思いつかないだけで沢山の問題がそこにあるんだと思うんですが、そういう問題を解決するにあたっても土台になるべきなのはやはりクイアなんじゃないかなと思います。

そして締めに『サバルタンは語ることができるか』ですが、まずサバルタンというのは被抑圧民のことで、植民地時代に列強によって支配されていた国々に住んでいた人々のことを指します。今回のサバルタンは特に「女性、非白人、非インテリ」の人々のことを指しているのですが、結論から言ってこのようなサバルタンは語ることができません。それは知識人や権力者がつねにサバルタンの声を代弁してしまい、当事者であるサバルタンの声は聞こえてこないからです。仮にサバルタンの意見を取り上げようと直接話を聞いたとしても、日常的に男性の言いつけを守ったり支配されたりしているサバルタンは本音を言えなかったり、そもそも自分の本音がなんなのかよくわかってなかったりするのであまり意味がないんですね。それでも、著者であるスピヴァクは書き手・読み手が白人のインテリに限られていたこれまでの文学やその他の学問の中にある、彼らが気づけなかった「空白」のようなものを見つけ出すことができるのは、有色人種や女性や非インテリなどのサバルタンであると期待を寄せているのです。サバルタンに語らせることは難しいことですが、どうしたらサバルタンの声を掬い上げることができるのかを考えていかなければなりません。

サバルタンの声について考えると、2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんってすごかったんだなあと思います。彼女は非白人の女性でしかも当時はまだ10代だったわけで、そんな彼女の声を掬い上げたメディアの功績は大きかったのですね。。。今になってその凄さがわかりました。もしかしたら、メディアやSNSを有効に用いることで、サバルタンは語れるようになるのかもしれません。勿論そこにもデジタル・ディバイドの障壁など様々な課題が残っているでしょう。サバルタンはツイッターで語ることができるか、それともインスタグラムで語ることができるか、あるいはまったく別の方法で語ることができるようになるのか、そして誰が語らせるのか、答えはまだ出ませんが、考えてみると面白いかもしれませんね。

今週はここまでとします。僕の滞り癖も今週は落ち着いていますね、よかったです。しかしながら今週の発表がまだ残っています。一難去ってまた一難、いつになったら凪になるやら。何も考えずギターの練習ができる日が来るとイイナ、と夢想する徳村なのでした。

第10回 7期生『アルカイックに脱構築を語る-archaic smile-』

こんにちは。仏の菜々子はんです。突然何を言い出したのかというと、徳村さんの前回のブログの締めの感じだと、私とても怖い人みたいじゃないですか!なので中学、高校時代のあだ名をここで披露して、わたしのイメージ補正をしてみました。正確には、中学のときの異名が、「微笑みななさん」テスト前はいい点がとれるよう、仏のように拝まれていました。高校では京都キャラで、「ななこはん」と呼ばれていました。これだけでもわたしがちょっとやそっとのことでは怒ったりしない、温厚な人だとわかると思います。徳村さん、安心してください、私は仏のように心が広いです。

さて、本題にはいります。今回は主に「脱構築」の話でした。すんなり理解するには難解で、だからこそとっても面白い内容で、きちんと記録できるか分かりませんが、全力を尽くします。まず、構造主義というものがあります。これは、作者の意図には関係なく、テクスト自体が意味を持っているという考えで、今回の課題文の著者ジャック・デリダはこの考えに疑問を持ちます。そこに脱構築批評というものが生まれます。これは、2つのテクストが矛盾した解釈を示すとき、両者の衝突を解決するのではなく、対立を深めさせる事によって、中立的意味の存在を否定することをいいます。ふたつの境界を曖昧にして、片方にもう一方の要素を見出せるかを考えるのですね。

具体的に考えてみましょう。いつものように浦島太郎を例に用います。浦島の世界で対立するもの、それは海と地上です。浦島にとって地上はホーム、海中はアウェイです。たくさんもてなされ、贅沢できて最高に思えそうな竜宮城を、浦島は最後には離れて、地上に帰りたいといいます。この浦島の行動から、どんな場所でも故郷、ホームは大切だ、素晴らしいという主張を、わたしは作品に見出しました。この、対立構造を見出そうとする考えが、構造主義の考えです。

次にこう考えてみます。ホームとアウェイが対立して見えるのは、わたしの前提にある価値観がそう見せているだけなのではないか?ホームにもアウェイにも共に自分を必要としている人はいて、これからホームで過ごした時間より長い時間をアウェイで過ごすことになれば愛着はアウェイにも湧くだろう、それなのにやっぱり自分の生まれたところ、ホームが尊いという価値観が知らずわたしの中にあるから、そのふたつが対立して見えてしまうのでは?これが脱構築です。

これをグランマトロジー(文字自体を中心に据えた学問)に当て嵌めて考えてみます。音声中心主義の考えでは、現前に音声があって、文字はその死体です。しかし、同じ動物の同じ音でも、言語によって動物の鳴き声が変わるように、文字の中に音声があるという考え方もできます。これも脱構築ですね。

かつて文字が無く、文明の発展によって文字を得たヨーロッパの国々は、自国を愛しすぎるが故に、全ての国は文字を発明するべき、または使うべきだと考えるようになりました。先程の音声と文字の他に、セックスとジェンダー、先と後など、どちらかが上でどちらかが下だという見方はすべてなんらかの偏見に基づいています。

男と女をふたつに分けて考えるのも、別にそのふたつに分ける必然性は無いわけですが、その分け方をするのは、ふたつの違いに目をつける認識の枠組みが、わたしたちの世界にびっしりとあって、無意識レベルの偏見となって存在しているからなのです。

人々がそのふたつにどうしても区分したがるので、そのどちらにも当てはまる人や、どちらにも当てはまらない人が居場所を無くしてしまうという問題が起きます。国力=人口の時代には、子どもを産むことができる性なのかそうではないかの区分はとても重要なものでしたが、AIの進歩などで、必ずしもそうでは無くなった場合、これらの区分は今ほどの意味を持たなくなるでしょう。

何かと何かを対比させて考える時、そこにはなんらかの偏見があること、それはとても無自覚なものであることを、今回の脱構築の話から学びました。自分の中の、そして世間の常識を、なぜそうなのか、それで本当にいいのか、考えながら生きていくことが本当に重要なのだなと気づけたとてもいい回でした。考えすぎて動けなくなるのは良くないですが、いい考え方ができると、そのあとの動きにも自信を持てるので、考え方ってとても大事ですね。

さて、本物の仏様には程遠いただの人間のわたしですが、少しでも徳高い人間様になれるよう、これからも精進していきます。脱構築について、記録したいことは全部書けたので満足して眠りにつこうと思います。

おやすみなさい。

第9回 7期生『村上さん本当にすんませんでした』

ついに1週間以上滞らせてしまいました、”徳村 the KING OF 滞り”です。いやー、先週は結構忙しくてー。外部のお笑いライブに出たり色々やってたらもう1週間経過していました。申し訳ないー。ちなみにライブではコントをやったのですが、ややウケでした。私ネタ書いてないので、あまりそこに関しては言及できないのですが、まあウケるところはめちゃくちゃウケて、ウケなかったところは空調の音が聞こえるくらいシーンとしてました。久々の舞台でしたが焦りました~!ネタを当日朝に貰ったので練習不足感は否めませんでしたが、できる限りは尽くしたんじゃないかなと思っています。3年生はお笑いもバンドもできる限り全力で取り組んでいきたいと思っているので、本当はブログを滞らせている場合ではないのですが。。。次回からは当日に書けるようにします!!!

さて、今回のゼミ前半はジャンル批評について。ジャンルには、形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあり、このようなジャンルにまつわる諸問題を扱う批評をジャンル批評といいます。

例えば、カナダの原型批評家フライによると、文学作品は四季に関連する4つの原型的物語のグループ、喜劇(春)、ロマンス(夏)、悲劇(秋)、風刺(冬)のいずれかに分類されるとのこと。一方でフランスの構造主義批評家のトドロフは「ジャンルはつねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるものである」とフライの恣意的な分類を批判します。実際、今でも支持されているのはトドロフの考え方です。トドロフはまた、ジャンルの存在を認めないのは、文学作品が既存の作品群と関係を持たないと主張することに等しいということも述べています。

文学には様々なジャンルがありますが、ある小説がどのジャンルに属するか議論するのもジャンル批評のテーマのひとつです。例えばフランケンシュタインは、ロマン主義小説としても読めるし、ゴシック小説としても読める。さらにはリアリズム小説としてもSF小説としても読むことができ、複数ジャンルにまたがって多角的な読みをすることができる作品となっています。

次に取り上げたのは、作品を自立した存在として捉えた形式主義批評に対して異議を唱えた読者反応批評でした。読者反応批評は、読者によって作品に対する反応の仕方が異なることに着目し、テクストが読者の心にどう働きかけるかという問題に焦点を置きます。従来、読者とは作者がテクストに埋め込んだものを受動的に受け取る者として捉えられていましたが、読者反応批評はこれを再定義し、テクストに活発に関わりテクストとの共同作業によって意味を生産する存在として「読者」を捉え直したのです。

しかしながら、読者反応批評はどんな読みも許容するわけではなく、作品によって想定された「含意された読者」を演じることで読者は作品を真に理解できるという考えがあることには注意が必要です。出鱈目な読みは許されません。

また、読者反応批評はテクスト中の空白に注目します。テクスト中の空白には、読者の活発な読みを引き出す機能があるからです。このように読者を刺激するような文学表現を「弁証法的な示し方」と言います。逆に、読者がすでに持っている意見を反映し、強化する方法を「修辞的な示し方」と言います。

こんな感じで3限の分は終わりました。正しくは、終わったような気がします。やはり1週間経つと記憶も曖昧になってきますね。。。反省しました。ハァイ。確か、その後のペアワークでは浦島太郎のジャンル批評をやりました。いろんな観点から浦島太郎を分類するのは骨の折れる作業でしたが、面白かったのは『浦島太郎』と『鶴の恩返し』の構造が似ている点でした。どちらも、困っている動物を助けたのちにその報酬として贅沢ができるが、約束を破ってしまったことによって不利益を被ってしまうという物語になっています。鶴と亀という縁起の良い動物の物語であることにも運命的なものを感じますね。

さて4限の方に移りましょう。4限ではヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』を読みこんでいきました。イーザー曰く、「テクストの言語記号および構造が、読者の理解行為、すなわち読者の意識へのテクストの転移を誘発することによって、その機能を果たすというところにある」ということで、これは小説は読者に読まれることで初めて成立するという考えなんですね。そして読者がどう理解するかっていうのはテクストにはコントロールできないということも指摘しています。つまり、小説を読むという行為は、作者と読者の想像力のゲームということなのです。ただ、テクストがすべてを明らかにしすぎたり、逆に難しすぎたり過度に混乱させたりすると読者はゲームから降りてしまうことには注意が必要なので、そこは作者の腕の見せ所というわけです。

さらにイーザーは、文学の世界を構成しているのが文どうしが結合した意味単位である相関体であり、読者は物語を読み進めながら相関体の中にある欠落部分を見つけていくということを述べました。その欠落は次の相関体への期待となり、予測を生み出すことになりますが、その期待は読み進めていくうちに現れる新たな相関体によって修正されたり裏切られたりします。つまり、相関体は未来の相関体に対する期待を生むとともに、過去の相関体に遡及して影響を与えているのです。読者は読書をしながら、そのテクストをリアルタイムで綜合していくことによって自分の意識に翻訳して転移させているのです。この作業はテクストによって指示されているのではなく、読者の領域に属しているとイーザーは述べています。個々の相関体において、どこに視点を置くか、どこに視点を置かないかというのは作者が目印を置いている場合もありますが、常に読者が作者の想定したように読んでくれるわけではないのです。

また、イーザーの面白いところは読者の読みが弁証法により高次のものに進化していくとしているところで、イーザーはその読むという行為中に生まれたものを「美的対象」と表現しました。イーザーのこの考えは当時の日本の教育にも歓迎的に導入されたらしいのですが、学生があまりにもアナーキーな読みをするということであまり長続きしなかったらしいです。まあ読者反応批評って本をわかる人にしか批評を認めてませんから、読書や批評の基礎を学ばせてからじゃないとそりゃ失敗するよなあと思いますが。。。

またイーザーの考えの問題点として挙げられるのは、弁証法的により高次の解釈を希求していくために常に解釈の更新・修正を迫られるために確定させることができないということ。確定していないということは、まだ存在していないことと同じになってしまうので、いつまで経っても批評が終わらないんですよね。また弁証法という発展思想的な考え方そのものも、第二次世界大戦の勃発によって批判されることになります。常に高め合って上を目指していこうぜ!という考えにも限界があるということですね。。。

さて、なんとか1週間前の記憶とメモを頼りに最低限のことをさらえたと思います。なんやかんやで執筆開始から3日経ちました。個人的には好きな回だったのでまだなんとか記憶がセーブされていて助かりました。やっぱりすぐ書いた方がいいですね、ブログって。でもゼミ終わった後ってめちゃくちゃ一気に疲れが押し寄せてくるんですよね。何もする気になれない。無気力になってしまう。あと一応の達成感もあるので、しばらく浸っていたいっていうのもありますよね。そこからすぐブログっていうのは、もうちょっと勘弁してくれよ。。。という気持ちになります。。。でもそれってつまり一週間のうち2日間ゼミのことしかやってないということになるんですよね。私の場合、火曜日全部使ってレジュメ用意していて、で、水曜日の午前中とかにブログ書いたりしてるので。いやーーーーー。これはーーーーー。まずいよーーーーーー。

まあでも大学に入って一番研究っぽいムズカシイことしてるのってこのゼミなんで。それは大きな意義あるよなって。ということで一応のフォローを入れておきます。

あと余談なんですけど、ヤフオクで買ったギター、実物見てみたら写真よりもだいぶ鮮やかな色で笑っちゃいました。久しぶりに草生やしました。「鮮やかすぎだろwww 舐めてんのかwww 今どき空でもそんな鮮やかじゃねえよwww」って。

いや彩度マイナス80くらいしてんだろコレ。たぶん返品します。返品はロックの基本なので。でも慣れると意外と可愛いかもなあと思ったりもします。

それではここいらでお暇させて頂きたく思います。あと村上さんゼミから2日も引っ張ってしまって本当にすいませんでした。許してください。いや本当にアレだけは勘弁してください。。。アレだけは本当に。。。お願いします。。。どうか。。。すいませんでした。。。ハイ。。。徳村でした。。。

第8回 7期生『疲れた脳にはマリトッツォを』

こんにちは。村上菜々子です。

最近流行ってるスイーツ?パン?みたいなもの、その名も「マリトッツォ」。皆さんは食べたことありますか?ブリオッシュ生地にたっぷりの生クリームを挟んだスイーツで、イタリア・ローマの名物らしいです。

私はその存在は知っていたのですが、なんだか甘すぎるんじゃないか?どうせ甘いならシュークリームの方が美味しいんじゃないか?などと考え、手を出していませんでした。

ところがある日バイト先の人とマリトッツォの話になり、気になったので休憩時間に食べてみました。すると、一口目から想像以上の味で、これは流行るわ!となりました。まずクリームに柑橘がはいっており、さっぱりした味。それがふわふわのパンと良く合って、噛む顎が止まりません。立ち仕事に疲れた私の心を癒してくれました。

一仕事終えた時など特におすすめです。皆さんもぜひ食べてみてください!

と、グルメ日記のような出だしになってしまいましたね。今回の前座で最初マリトッツォの話をしようと思っていたのですが、迷ってゼミの直前にしていた瞑想の方の話をしたので、代わりにこちらで紹介しました。

さて、本題です。今回はロラン・バルトの『作者の死』を読みました。テーマは、作品と作者の結びつきにあるようです。作品は、誰によって書かれたのかを強く意識されます。作品は作者に支配されるとも言えます。

こうした作者による作品の支配を揺るがそうと、シュールレアリズムが生まれます。氷山の見えている部分がエゴだとすると、その下の見えない部分の氷はスーパーエゴ。ここから生まれる作品は人の理性を超え、神や自然現象のメッセージを書き写します。

作品と作者の関係について、二つの考え方があります。一つは、作者は自分の作品に先行して存在しているというもの。もう一つは、作者が書くのと同時にテクストが誕生するというものです。

一つ目の考え方は、書くことが記録や確認、再現を指しており、思考に書くスピードは敵わないのだから、時間をかけてより良い表現を模索するべきだという古典主義的な考え方。

二つ目は現代の考え方で、作者は考えながら作品を書いているので、書く前頭の中にあったビジョンとは違うものが、書くときには生まれている。テクストは書くのと同時に誕生するというものです。

書く前から一言一句同じ文は頭の中に無く、書いている間に考えが熟成されたり、違う考えと結びついたりしている感覚が私はあるので、二つ目の方がしっくりきます。このブログにしても、2週間前に書いたブログをもう一度同じように書くことはもうできないし、書かれる言葉も話し言葉と同じで生きているような気がします。

ゼミでは、関連して日本の国語入試についての話も出ました。テクストの読者にはそれぞれの生きてきた文脈があるので同じ作品でも読み方が異なってもいいというのが『作者の死』的考え方でした。

しかし日本の入試は、作者や登場人物の考えを記述・選択させ、それに成否をつけるという効率的ではあるが今回の考えとは逆の方式をとっています。しかも作者自身が自分のテキストが使用された入試問題に不正解になるということもあったらしいです。

人それぞれが異なる読み方をするし、それが正しいのだとすると、国語のテストの形式自体に無理があるのかもしれませんね。

もっとも、入試問題を解くことを塾で訓練しすぎた私からすると、自分の認識など入れず、テクスト内にある答えを探すのが国語入試の王道であり、入試はテクストを楽しむ読書とは違うのだと割り切ってしまうのですが。

その作品を読んでどう解釈したのかを自分の言葉で話させるテストを実現できるのなら、その方が本当の意味での思考力を問えるのかなとは思います。

作者と作品の関係についてここまで考えてきました。自然現象や数字の世界と違って、言葉はいつも人から生まれます。だから単純に言葉そのものを分析するよりも、その言葉を発した人をも分析したいと思うのは自然なことなのかもしれません。

人がいなければそこに言葉は存在していなかったのならそれを切り離して考えることはできないからです。

でも本当に人がいなければ言葉は無かったのでしょうか。0から1を作ることが人間には本当にできるのでしょうか。もし人が世界にいなくても、言葉の意味、概念、思想はそこらじゅうにあって、それをたまたま人間が表出しただけなのかもしれません。

だとしたらその言葉を誰が発したのかは問題ではなく、テクストはテクスト自体で存在するということになり、そこに作者はもはや介入しないということになりますね。

好きな作品の作者がもし極悪人だったと知ったとしても、自分の中で作品の価値は1ミリも変わらない。

作者に敬意は払いつつも、世の中に出た以上、作品は作者だけのものではなく、それを楽しむ人みんなのものになっていくんですね。

次回のゼミの課題テクストはなんだかこれまで以上に難しそうです。がんばります!

第7回 7期生『メタフィクション的連絡先交換術のすすめ』

またまた更新が滞ってしまいました。【滞りの徳村】の通り名でおなじみの徳村です。今回の滞りに関しましては、モチベーションの問題と家のWiFiが使えない問題の両方の側面から言い訳をすることが可能ですが、まあそれは置いといて。。。

第7回のゼミがおよそ1週間前のことなので、少し記憶が曖昧になっているのですが頑張って思い出しながら復習のつもりで書いていこうと思います。本当は授業後すぐに書いた方がいいのですけどね。でもどうしても疲労で体が動かんのですよ。。。

まず前座では、私が自らの写真撮影スタイルを見直した話をさせていただきました。結構なんでもありなんですねこのコーナー。わたしって、とっても人見知りでシャイボーイなので、いつも人を撮るときには後ろから撮ったり隠し撮りに近いやり方で撮ったり、望遠レンズでステルス的に撮ったりすることが多くなります。このスタイルには被写体を風景の一部に見立てたり、被写体の自然な表情を映したりすることができるっていう狙いがあるのですが、個人的に一番大きい理由は「被写体とコミュニケーションを取らなくても良い」っていうことだったんですね。やっぱり、正面から人を撮るってこと、目線をカメラに向けさせるってことは、被写体とのコミュニケーションがあって初めて成立するわけですよ。で、そうやって被写体と一緒に作り上げた写真っていうのはなんていうか、強度があるんですよね。ディスコミュニケーション状態で撮った写真と比較すると、写真としてのパワーが違うわけです。まあどちらにも良さがあるんですけど、私に関してはこれまで被写体と向き合うことから逃げてきた節があるので、やっぱり、そこを変えていった方がいいなと思ったわけです。そんなことを思い立ったエピソードももちろんあるのですが、それは長くなるので割愛させていただきたく思います。

さて今回のテーマは前半が「間テクスト性」と「メタフィクション」、後半が「相互テクスト性」でした。ちなみに「間テクスト性」と「相互テクスト性」はだいたい同じ意味です。

「間テクスト性」というのは、「あらゆるテクストは他のテクストを吸収し変形したものである」というテクスト同士の関係性のことです。作品の中で作者が先行作品に言及したり、意識的にも無意識的にもそれについてほのめかしたりするケースがよくありますが、つまりそれのことです。これは広義には「小説と小説」だけではなく「小説と絵画」や「小説と映画」など他の芸術作品との関係も含みます。実際、『フランケンシュタイン』では先行する小説や絵画などから色々なモチーフを借用しているんです。音楽家の坂本龍一氏が「世界の99%の曲はパクリです。1%のオリジナリティーがあればいいんです」と言っていたとか、ジョンレノン氏が「ビートルズは盗作バンド」と言っていたとかそういう話がありますが、つまりめちゃくちゃ世界的に評価された曲でも、それより前に誰かが書いた曲を聴いて参考にしていたわけです。私が好きなバンドのART-SCHOOLなんてもうUSインディーバンドとかUKポストロックバンドからやりたい放題メロディー借りまくってますし、なんならそのまま使ってますから。歌詞も村上春樹とか中原中也からフレーズとかモチーフとかもらってますし。それでも私はART-SCHOOLが大好きですし良い曲だと思いますし、ART-SCHOOLにしかできない曲だと思っています。それは、どれだけ数々のテクストを吸収して変形させて生み出された作品であっても、それらのテクストが収斂する読者(リスナー)という地点において必ず1%のオリジナリティーが付与されるからなのです。『セメイオチケ』にてジュリア・クリステヴァが「文学の言葉はひとつの点(固定した意味)ではなくて、いくつものテクストの表面の交錯、いくつもの文章が、すなわち作家、受け手(すなわち登場人物)、当時のあるいは先行する文化のコンテクストが交わす対話となる」、また「作家が歴史に参加するただひとつの方法は、読むことー書くことをとおして、いいかえれば意味構造をもうひとつ別の意味構造に連結させ、あるいは対立させて作り上げてゆくことをとおして、この抽象化を侵犯するということになる」などと述べているのは、ART-SCHOOLのように自分の中で交錯した先行するテクストを自分なりに紡ぎ、それだけでなくオリジナリティーの雫を一滴垂らすことによってただの引用や編集に留まることなく新しいテクストを作り上げることを指しているのかもしれないと思いました。

次にメタフィクションですが、これは簡単に言うとフィクション小説を読んでいる読者に、作中でフィクションの構造を見せちゃうということです。例えば、小説内に作者が登場して語りだしたり、作中の登場人物が自分のことを作品の登場人物であると自覚していたりすることがこれに当たります。かつて毎月コロコロコミックを読んでいたであろう皆さんならすぐに思いつくかもしれませんが、「でんじゃらすじ~さん」にはこのような反則スレスレな手法がよく使われていました。よく曽山先生が本人役で登場したりしてましたし、登場して三コマで死んでしまうキャラクターである「三子間弟下ヌ」の存在自体、漫画であることが前提とされています。ジャンプだと「銀魂」がメタフィクションの手法を良くとります。現実世界が舞台の作品ではないのですが、実際の時事ネタをふんだんに盛り込んだり、他作品のパクリ、パロディーは常套手段という実に凶悪な漫画でした。しかしそれに終始することなくシリアスパートや人情噺も盛り込まれているのでそのバランスが癖になるんですよねえ。ここで「なぜ作家はメタフィクションを書くのか」という話題になった(と思う)のですが、自意識と承認欲求の話にまで発展したのが面白かったですね。私が小学生時代に無茶やってた話が暴露されるなどしました。メタフィクションを書く理由は~。なんでしょうか。簡単にアイロニーが起きて面白いからでしょうか。最初に銀魂観たときなんて私呼吸できなくなるくらい笑ってましたからね。絵本とか漫画とかを経て、普通の物語がだいたいどんなもんかわかってきた小学生の常識がパロディのメタフィクションにぶん殴られたのは鮮烈でした。あとは照れ隠しの線もありそうです。私もたまに照れ隠しでメタすることあります。例えば連絡先交換したい人がいるとき、「どうやら巷の陽キャラ大学生は、仲良くなりたい人と連絡先を交換するときに、その人の写真を撮ってあげたり一緒に写真を撮るなどして、その写真を共有するという口実のもと自然な流れで連絡先を交換しているらしいですよ。いやーすごいですよね。その手があったかというか。よく考えたな~って感じですよねホント。…で、今から私もその方法であなたと連絡先を交換したいと画策しているんですけど、それについてどう思われますか?」といった感じで。これなんか良くないですか?ひねくれものが健気に頑張ってる感じが心をくすぐりませんか?ちょっと洒落てませんか?いや~、考えついたはいいもののまだ試してはいないんですよね~。…えっ?回りくどくて気持ち悪いって?う~ん。言われてみれば確かに。引かれたら嫌なんでやめときましょうか。

そんなこんなでなんとかブログを書くことができました。ありがちょす。次回はもうちょっと早く書きたいです。反省~。わたしは今からエヴァの薄い本を貰いに映画館まで行ってきますー。みなさんごきげんよう!

第6回 7期生『朝起きたら違う誰かになれたらいいのにって思ったこと、誰でも一回はあるんじゃない?』

こんにちは。村上です。更新の間隔が空いてしまいました。モチベーションの問題です。ところでみなさんはどのように仕事や課題へのモチベーションを維持していますか?私のモチベーション遍歴は色々ありましたが、”人”ということが共通しています。ただ単に好きだからその人に好かれたいという理由だったり、この人がこんなに自分のために行動してくれているのだから自分も頑張ろうという理由だったりです。そうしたモチベーションがないときに行動だけは正しく行うことはいいことなのでしょうか?自分を内側から突き動かすものはないにも関わらず外部から求められる正しさに沿って行動することに意味があるのでしょうか。それをできる人は素晴らしいですが私はそれをするとどんどん自分の中の声が死んでしまうような気がするのでできません。結局自分自身の声に従って生きるしかないのだと思います。自分で自分の機嫌を取り、やる気を出させられるのが大人なのかもしれませんね。

さて今回は、反復と異化がテーマです。反復に関しては、発表者の徳村さんが挙げていたART -SCHOOLというバンドのサビが反復表現であり、それはバンドの世界観である退廃的で破滅的なイメージに向かって後戻りできない勢いで進んでいくことを表しているという例を聞いて、反復への考えが覆されました。もともとそういった曲は手抜きというマイナスなイメージしか持っていなかったからです。(曲聞いてみたらかっこ良かったです)そこで他の音楽の例を考えると、The BeatlesのI Want To Hold Your Handという曲はほとんどタイトルの繰り返しですが、なんだか落ち着くし、繰り返しとあまり意識せず聴いていました。この曲は聴くと平和的な気持ちになるのですが、それは同じ歌詞の反復によって安心するからではないかと思いました。反復はただ曲をポップで軽快にするのではなく、その単調さがどこまでも続いていきそうな曲の世界観の広がりを演出する効果があります。

異化とは、日頃見慣れた世界からその日常性を剥ぎ取り、事物に新たな光を当てることと定義されています。この間『ビューティーインサイド』という映画を観ました。主人公は眠ると体が別人に変わってしまうという話で、老人や子ども、外国人、男、女など様々に変わり、視力や聴力、話せる言語まで変わってしまいます。そのような人なら毎日同じ場所で寝起きし、同じ仕事をしていても世界を新鮮に観ることができるでしょう。しかし大体の人は寝て起きてすぐ変化を感じるほど成長(老化)のスピードは早くないし、混沌とした世界を生きてもいないので眼に映る色々は日々色あせて、自動化され、身の周りにあるものやシステムについて改めて考えることをやめてしまいます。その安心しきった心にストレスを与え、(悪い意味ではない)世界をまっさらな心で、違った方向から見させてくれるのが、異化の効果です。

異化について言語学者ポテブニャーは、眼に見えるものは移り変わるが、その事物に対して人間が思い浮かべるイメージは一定不変だと述べました。今回の文献の著者ヴィクトール・シクロフスキーは、眼に見えるものは変わらないが、その事物に対するイメージは移り変わると主張しました。これらは対比されるものではなく、どちらも自立した意見です。私は目の前にあるコップを、「雨の日の花のように受け止める存在」と比喩してみました。コップは人間から見るとただ飲み物を注いで飲むという実用的なもので、当たり前にそこにあるので改めてそれについて考えたりしません。ですが比喩され、異化されることによって、コップに対するイメージが変容しませんか?この比喩からは、コップからどことなく儚げなイメージを抱くと思います。自動化されていた世界の見方がまた一つ豊かになりましたね。これがヴィクトールのいう異化であり、文学の大事な役割なのです。

例に出したThe Beatlesの曲は反復の作用も相まって癒されます。『ビューティー・インサイド』は主題が恋愛で、主人公は家具職人なので綺麗な家具がたくさん出てきて観ていて楽しいので観たことない方はぜひどうぞ。今世では毎朝鏡で対面するはずの自分のことがきっと愛しく感じられる作品だと思います。違う誰かにはなれなくても、こうした作品に触れることで自分の中の世界の認識を変化させ続け、新鮮な気持ちで生きていけたらいいなと思います。

ではまた再来週。

第5回 7期生『声とイメジャリーに魅せられて』

 ご無沙汰しております、徳村です。諸事情が重なりまして、更新が遅れてしまいました。申し訳ありません。

 今回の前座では私のカメラを紹介しました。Olympus Pen Dというフィルムカメラで、同じフィルムでも他のカメラと比べて2倍の量の写真が撮れるという優れもの。最近購入したものですが、現在はこの子をメインにどこへ行くにも持ち歩いてつれづれなるままに撮り暮らししています。露出決定からピント合わせまでフルマニュアルなので操作が難しいですが、ミスも味になってると思えるのがフィルム撮影のよいところ。作例がこちら。

 なんのフィルムで撮ったのか覚えてないんですが全体的に赤みがかった柔らかく懐かしい印象の写真が多いですね。フィルム代と現像代が嵩んでくるとくらくらしますが、こうやって桜の季節に撮った写真に思いを馳せたり、撮った記憶のない写真が意外と良い感じだったりするのが面白いので皆さんもやってみてください。

 さて、今回のゼミのテーマは「声」と「イメジャリー」でした。

 たまーに、ご都合主義といいますか、作者が「こういう流れにもっていきたい」という意思をもって、登場人物に作者の都合の良い言動をさせることがあります。また、登場人物を単に自分の意見のスポークスマンにさせることとかもありますよね。こういう、作者ひとりの意識だったり視点だったりから物語が進められていく作品というのは「声がひとつしかない」という意味で、モノローグ的であると言われます。逆に、ひとつの小説の中で登場人物が各々の意思を発露させていて、同じくらいの強度をもってぶつかり合っていることがあります。例えば、それは村上さんが指摘したように漫画『ONE PIECE』に顕著で、登場人物たちは様々な立場において、様々な過去とそこから形成された価値観を持ち、各々が信念をもってぶつかり合うわけです。このような形の作品というのは、「複数の声が独立性をもってぶつかり合っている」という意味でポリフォニー的であると言われます。

 小説『フランケンシュタイン』においては、主に手紙から複数の人物の独立した声を聴くことができるため、この作品はポリフォニー的だといえます。また、ポリフォニー小説のパイオニアであるとされるドストエフスキーの小説では、登場人物がドストエフスキーと肩を並べるほどに独立しており、自らの創造主に反旗を翻すことができる自由な人間であると評されています。ポリフォニー的な作品を創作するためには、自身の価値観を超えた範囲のことに関して想像力を働かさなければならず、時には自分の意見と真逆の人間を創造しなければならないため、クリエイターにとっては相当難易度の高いことだと言えるでしょう。ちなみに私が以前、授業の課題で小説を書いたときも、その小説は自分の実体験や価値観を反映させた内省的でモノローグ的な小説でした。きっとそうしないと上手く書けなかったのでしょう。。。ドストエフスキーをはじめとした小説家の凄さが身に染みてわかるなあと思いました。他人の価値観や感情を想像したり創造したりっていうのはホントに難しいっすよ。まあ我々の人生、普通に生きてる分には基本的にモノローグですから。。。自分のことだけを考えていればまあ割と生きていけるでしょうし。優先順位で常に自分が一位になるので迷いもなく、合理的に生きていくことができます。でもそこで一歩踏み出して、他人の感情に思いを馳せてみると、おぼろげながらも色々な声が聞こえてくるもので。そうすると、人生がポリフォニー的になっていく。人生がポリフォニーになることで、声どうしがぶつかり合って選択に迷いが生まれたり、葛藤が生まれたり、そういう人生の無くてもいい部分、ない方がいい部分が増えちゃうと思うのですが、そこの感情の機微っていうのが我々、生きている意味に繋がっていくのではないかと思ったりします。てか私ってすぐ生きるか死ぬかとか人生とかみたいな話する癖ありますね。なんでもそういう話に繋げられる才能かしら。いらねー!てか全ての事は人生とは何かっていうのに繋がってるから繋がるだけなのかも。

 脱線が過ぎました、もうひとつのテーマである「イメジャリー」について書かねば。

 イメジャリーっていうのは要するに、読み手の想像力を喚起させる表現の作用のことですね。主なイメジャリーは3つあって、ひとつは『メタファー』。「白雪姫」っていう表現を使うことで、読み手に「肌が雪みたいに白い美人さんなんだろうなあ」みたいな想像をさせます。次に『象徴』だったら「女は海~♪」みたいに類似性の無いものどうしを結び付けることで読み手に関係を連想させます。最後の『アレゴリー』は具体的なものを通して、抽象的な教訓だったり意見だったりを読者に暗示したりする、童話とか昔話に顕著なイメジャリーですね。『フランケンシュタイン』においては月や水などが不幸の象徴として用いられていました。こういうのも言葉の意味とか成り立ちとか結びつきとか知識がないとできないですよね~。インプットの大事さがわかります。

 そして先生が追加した『提喩(シネクドキ)』と『換喩(メトニミー)」』についても触れなくてはいけません。しかしながら、この二つには類似点も多く、換喩を提喩のひとつとして扱う場合もあるので区別の難しいところがあります。そこで今回は野内良三氏が書いた『レトリック入門』という本の記述に基づいて頭を整理しながら書いていきたいと思います(先生の説明とは多少異なる部分もあるかと思いますがご了承ください!)。

 まず提喩には2つのパターンがあり、ひとつは「花」といって「桜」を指すとき(「花見」など)や「酒」が「日本酒」を指すときの、類概念(花、酒)で種(桜、日本酒)を表す『特殊化の提喩』のパターン、もうひとつは「ご飯」といって「食事」を表すときなどの、種(ご飯)で類概念(食事)を表す『一般化の提喩』のパターンです(野内,2002)。つまり提喩とは上位の概念を下位の概念で表現したり、下位の概念で上位の概念を表現するイメジャリーであるといえます。

 次に『換喩』ですが、提喩について野内氏は「二つの事物のあいだの隣接性(有縁性)に基づく言葉の彩」(野内,2002,p59)と説明する一方で、「この世のありとあらゆるものは『なんらかの関係』で結ばれ、他の物の代わり(記号)になりうる。」(野内,2002,p59)、「換喩は広く現実世界と結びつく。したがってその守備範囲があまりにも広すぎて、統一原理を抽出しにくいのだ。」(野内,2002,p60)とも述べています。しかし、そんな換喩にも一定のパターンはあります。それは、

  • 全体ー部分:「笑う門には福来る」の「門(部分)」→「家(全体)」、「彼は大陸から戻ってきた」の「大陸(全体)」→「中国(部分)」
  • 入れ物ー中身:「お銚子(入れ物)」→「お酒(中身)」、「球場が燃えている」の「球場(入れ物)」→「観客(中身)」
  • 産物ー産地[主題ー場所]:「西陣(産地)」→「西陣産の織物(産物)」、「永田町(場所)」→「首相官邸、政界(主題)」
  • 原因ー結果:「ユニフォームを脱ぐ(原因)」→「引退する(結果)」、「冷や汗が出る(結果)」→「恥ずかしい(原因)」
  • 主体ー属性:「黒帯(属性)」→「有段者(主体)」、「白バイ(属性)」→「警官(主体)」
  • 人ー物:「シェイクスピアを読んだ」の「シェイクスピア(人)」→「シェイクスピアの書いた小説(物)」、「サングラスはお断り」の「サングラス(物)」→「サングラスをつけている人(人)」

の6つのパターン(野内,2002)です。このパターンを見ればわかるように、確かに換喩の守備範囲は広いですね…。提喩はしばしば換喩のひとつとしてみなされることも多いようですが、確かに換喩の「全体ー部分」のパターンなんていうのは提喩の「上位概念/下位概念を下位概念/上位概念で表す」という特徴に似ている気がします。強いて相違点を挙げるなら、提喩はカテゴリーの上下の話をしていて、換喩は横の関係性の話をしていることでしょうか。

 すっかり説明で長くなってしまいました。小説家もさすがに換喩や提喩まで意識して創作活動はしていないでしょうが、これらのイメジャリーを駆使して読者に想像力を喚起させるという芸当はやはり優れた想像力と連想力をもった人間にしかできません。話の筋を作るのはまあ頑張ればそれなりになるでしょうが、修辞法にはセンスが要るでしょうなあ…。

 今回のブログはここまで。疲労がスンゴイ。最近はめちゃくちゃ寝てます。家のwifiが調子悪いので図書館でしか勉強できず、図書館から帰ったらもうすぐ寝てます。今日も寝ます。明日も同じように寝れますように、という願いが続きますように。私の中でお眠りなさい。徳村でした。