こんにちは。満身創痍の阪口緑です。
はじめに謝罪の言葉を述べさせてください。
このブログの締め切りはなんと4ヶ月前でした。
申し訳ございませんでした!!!
この年末年始、そして春休みは、あまりの忙しさに風呂場で気絶する日々でした。
「申し訳ない…!」という懺悔の念に苛まれつつも、腰だけでなく身体まで重く、今やっと筆を取った次第です。
本題
さて、私がブログを担当するのは、12月7日の第10回分です。
吉田香織著『アニメーションにおける他者表象──オリエンタリズムの観点から観たディズニーと宮崎駿の世界──』を分析していきます。
動く絵は無からの創造である。ゆえにアニメーションは「欲望のメディア」である。
また、アニメーションで国家的物語を創造することは、アニメをイデオロギー形成組織として分析する必要があると筆者の吉田さんは述べています。
つまり、本書ではディズニー作品とジブリ作品の「アジア表象」を分析し、どのように異なっているか比較しようと試みます。
第1章「アメリカにおけるアニメーションによるアジア表象例」で、ディズニーの『ムーラン』は再オリエンタル化を促していると分析します。また、第2章「日本のアニメによるアジア表象例」では、ジブリの『千と千尋の神隠し』が「東洋」の中の多様性を示唆し、オリエンタリズム的な「西洋/東洋」という二項対立を脱構築していると指摘します。そして、第3章は「結論」と題し、「『ムーラン』におけるオリエンタリズム的東洋の構築」と「『千と千尋の神隠し』におけるオリエンタリズム的思考の脱構築」を述べます。
ここで、上段で登場する「オリエンタリズム」とは何なのか、確認していきましょう!
「オリエンタリズム」(orientalism)とは、芸術作品や、歴史・政治資料などあらゆる言説の中に「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)」を読み解く理論です。ポストコロニアル批評の旗手であるパレスチナ出身のエドワード・サイード(1935-2003)さんが打ち立てました。
サイードさんは、オリエンタリズムとは「西洋にない属性が東洋にはある」と西洋が一方的に表象することで成り立つ、ヘゲモニー(支配)関係のある二項対立から生じると指摘します。そして、ルネッサンス以降、西洋優位的な世界の中で東洋を叙述した過程で、「東洋の『不変的』ないしは超自然的な性質」や「東洋のエロティシズムの『女らしさ』」といった典型的な東洋のステレオタイプは生産されたといいます。
特徴的な部分
さて、本書の興味深いところは、『ムーラン』の男性キャラクターは「非理性的で、受身的で、女性的な東洋」という他者として描かれているため、西洋の眼差しが反映されていると指摘します。吉田さんは、これを「アブジェクション」の一形態だと説明できるといいます。
この「アブジェクション」こそ、3年ゼミにとってはじめましての考え方でした。
「アブジェクション」(abjection)はブルガリア出身の文学理論家ジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva, 1941-)が著書『恐怖の権力〈アブジェクシオン〉試論』のなかで用いた概念です。元々は精神分析の用語で、主客未分化の状態にある幼児が、自身と精神的に融合した状態にあった母親を「おぞましいもの」として「棄却」することを意味したそうです。
しかし、クリステヴァは『恐怖の権力〈アブジェクシオン〉試論』において、アブジェクト(おぞましきもの)を、「同一性、体系、秩序を撹乱し、境界や場所や規範を尊重しないもの、つまり、どっちつかず、両儀的なもの」と定義します。そして、アブジェクト(おぞましきもの)は人間の生活や文化を維持するために棄却すべきものであると同時に、主体に対し反逆的であり、かつ誘惑し魅了するような不気味さを持つとクリステヴァは述べます。また、高度な変化を遂げた人間は、アブジェクト(おぞましきもの)を切り取り、アブジェクシオン(棄却作用)を放逐することで自己定義を行うとも指摘します。
つまり、『ムーラン』に登場する男性キャラクターの中には、このキャラクターが西洋の白人という属性であればそうは描かないよね、と思うような描写があると吉田さんは述べます。「西洋とは異なる不純なもの」を東洋の描写として描くことで、東洋の他者性を誇張し、再オリエンタル化を世界市場に普及させているとも述べていました。
『千と千尋の神隠し』に関して、吉田さんは「自己」と「他者」の二分法と本質主義の脱構築が行われていると述べます。「日本」「西洋」「アジア」の関係と、その中で日本アイデンティティの形成を示唆しているとも指摘します。
あまり理論が登場しなかったので、ここは省略します。
本書のまとめ
最後に、結論として吉田さんは「『ムーラン』におけるオリエンタリズム的東洋の構築」と「『千と千尋の神隠し』におけるオリエンタリズム的思考の脱構築」を述べます。
また、アニメーションは虚構の世界ではあるが、アニメーションを見るという行為は現実であり、アイデンティティの形成に寄与し得る芸術だと説明しています。
応用
授業ではこの議論を踏まえて、応用として実写版『アラジン』を鑑賞しました。
アニメ版と比較して、露出度合いが低くなったジャスミンの衣装、ジャスミンのソロ曲の増加、そしてジャファー(悪役)とのキスシーンがなくなったこと、これらのことがオリエンタリズムやアブジェクションの観点から説明できるのではないかと話し合いました。
この授業を踏まえて私は秋学期レポートを書いたので、改めて復習できてよかったです…!遅くなって申し訳ございませんでした!!!!!