9期生第8回「白井はカーニヴァルへと赴いた」

こんにちは!

今回のブログを担当する白井です。今回の授業後、緑黄色社会のライブに行ってきました。

おかげで授業の記憶が気持ちよく塗り替えられてしまっています。

それでは早速

『シライの日常』という漫画があったとして、物語内のシライがブログを書いているとします。

そんなとき「明日のゼミの文章読み切れてないから、ブログ書かずに逃げちゃってもいいかな?みんなはどう思う?」と漫画の枠を超えて読者に向けて言っちゃったとします。

これがメタ発言。

そんな発言をしちゃったとしても、

「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ! -やります 僕が書きます!」とシライの心が叫んでいる。

これが間テクスト性。      

※この物語はフィクションです

これで第8回の半分を書き終えたようなものです。

自己紹介が苦手なので、挨拶はここらへんにして、お二人のレジュメを頼りにしっかり書き上げていきたいと思います。

前座

授業内容に入る前に前座!

前座はヤンさんでした。ヤンさんはミュージカルが好み。

そんなヤンさんが紹介してくれたのは『イン・ザ・ハイツ』です!

『イン・ザ・ハイツ』は移民をテーマとしたミュージカル映画だそうです。

どうやらミュージカル版『イン・ザ・ハイツ』があるようで、そこから今回紹介してくれた映画版『イン・ザ・ハイツ』が生まれたみたいです。単純に映像美的な面でも面白いそうですが、ストーリー的にも面白いそうです。

自分は見たことがないのですが、温かさとパワーで溢れる映画なのかなと前座を聞いていて思いました。休暇中に見てみたいと思います!

3限

「間テクスト性」

文学テクストとは、常に先行する文学テクストから何らかの影響を受けており、孤立しているものは存在しない→そのテクストと他の文学との間にある関係性=間テクスト性

ジュリア・クリステヴァによると、あらゆるテクストは他のテクストを吸収し変形したものとされます。そして、作品のなかで作者は、先行作品について言及したり、意識的、あるいは無意識のうちにそれについて仄めかしたりします。

『フランケンシュタイン』における関テクスト性を少し確認してみましょう。

作者メアリーに身近の作品の内容や人物像と物語の構成で共通点がみられます。

たとえば、『アラスター』(1816)・ピグマリオン伝説・ファウスト伝説は主人公フランケンシュタインの人物像の原型と考えられるようです。

また『ドン・キホーテ』(1615)は社会から離れることで生まれる悲劇的破局へと向かう点で共通しているようです。

間テクスト性は絵画など他の芸術作品にも現れます。つまり、先行するテクストは文学作品には留まりません。

例として絵画「夢魔」があげられているのですが、苦戦しました。エリザベスが殺害されたシーンを読めば、「夢魔」が浮かんでくるそうなのですが、「夢魔」との関わりが薄い私たちにとって理解しづらい部分。その意味で間テクスト性においてやはり読者が重要となるのだと実感しました。

読者が「夢魔」がどのような絵であるかを社会や思想的な位置づけのレベルで認識している必要があり、同時にそれを読み解かなければこの「夢魔」の間テクスト性を理解しきれません。

そう考えると、「夢魔」が間テクスト性を備えているのではなく、「夢魔」に対する認識にこそ間テクスト性があるのではないでしょうか。

「メタフィクション」

メタフィクションとは語り手が前面にきて読者に向かって、「語り」自体について口上を述べるような小説。もちろん小説にかぎらず創作物全般に当てはまります。

『フランケンシュタイン』におけるメタフィクションをみていきましょう!

と言いたいところですが、『フランケンシュタイン』は枠物語の形式をとっているものの、厳密にいえばメタフィクションではないです。

しかしメタフィクション的な要素はみられます。

まず「語りについての語り」です。フランケンシュタインの語りを包括しているウォルトンの語りにおいて、編集方式や語りに対する言及があります。手紙を書くウォルトンが、どんな状況で書いているのかをウォルトン自身が説明してくれているということです。

次に「真実と語りとの距離」です。読者が目にするフランケンシュタインの物語はフランケンシュタイン→ウォルトン→フランケンシュタインという順番でテクストに手を加えられたものです。つまりウォルトンによる編集版とフランケンシュタインによる修正版が存在し、真実にいくつものフィルターがかけられてしまっています。

このように真実と語りには距離があり、これらによって物語があくまでもフィクションであることを暗示しています。

ではメタフィクションとは?

メタフィクションはジュラ―ル・ジュネットの理論で言い換えるならば「転説法」です。

転説法とはメタフィクション!

転説法の説明通りにいえば、語り手(および聴き手)が位置づけられる世界と物語世界(水準)との関係を扱うものを語りの水準といいますが、その語りの水準の境界を侵犯して登場人物が語ることを指します。

劇場版名探偵コナン『迷宮の十字路』のOP説明には明らかな転説法が使われているらしく、服部と和葉が言い合っている中で

和葉「アホは あんたやん 誰に向かって しゃべってんの?」

それに対して服部「誰って お前… 見てるみんなに 分かりやすう しゃべってんやないかい」と発言します。

この流れの中で服部は誰に向けて話しているでしょうか?

正解は和葉!

だけではないです。

そうです、和葉だけではなくこの映画をみている観客に向けても話しています。

プリキュアの映画もかなりメタフィクションのようです。

劇場で応援ライト(ミラクルライト)を受け取るらしく、プリキュアがピンチに陥ると、「プリキュアに力を!」や「ミラクルライトで応援して!」とプリキュアが観客に呼びかけるようです。

このメタ発言を受け取った観客は、ライトを振りながら全力で応援するわけです。

楽しそうですよね。

しかしここで問題が発生。

なんと、ライトが貰えるのは中学生以下らしく、ライトを受け取れない大人たちは全力で心の中で応援するそうです。

ライトが無くても心でつながっているなんてカッコ良いっす!

それでも必要だと思う人は自前のライトを用意して臨むそうです。覚悟が違いますね。

この話は置いておいて、

メタフィクション全体に関わる問題があります。それは「メタフィクションが興醒めな効果を持ってしまわないか?」ということです。

メタフィクションは物語の世界を侵犯して、語りかけてくることがあるために、そのフィクションの捉え方が良い意味でも悪い意味でも変化します。

個人の解釈が伴う部分であり、一概には言えませんがプリキュアのようなタイプの作品であれば問題がないのではないかと思います。

プリキュアのような状況だったら、呼びかけに応じてフィクション世界の一人としてプリキュアを応援しているかたちになり、他人事ではなくなります。このとき、より一層プリキュアと観客の心は通じ合うのではないでしょうか。(もはやプリキュアの一員まである)

メタフィクションが受け入れられるかどうかは作品の雰囲気にもよるかもしれないです。

3限はここらへんにしておきます。

4限

4限はジュリア・クリステヴァ『セメイオチケ1』です。セメイオチケとはギリシア語で「記号論」という意味になるようです。

クリステヴァはバフチンを褒めまくります。

そして次にクリステヴァは「言葉のあり方」という概念を導入して、「相互テクスト性」という考え方を提唱します。

「言葉のあり方」とは、以下のように定義できます。

まず水平的にみれば、テクストにおける言葉は、書く主体とその受け手との両方に属しています。

次に垂直的にみれば、テクストにおける言葉は、それに先立つあるいは同時点の文字資料の全体へと向けられています。

テクスト上の言葉は、「共時的」に見れば作者と読者それぞれの解釈があり、「通時的」に見れば他の様々なテクストと相互に影響を及ぼしあっているということです。

「作者」と「読み手」の間で、「先行するテクスト」と「テクスト」の間で、それぞれ相互作用によってテクスト上の言葉は理解されていきます。そしてこの部分に「対話」が存在しています。

その相互作用では、相反する考え方や価値観がテクスト空間の中で共存し(どれも排除されない)、対立しながらも相互に影響を与えています。

これについて発表者の高橋さんがナイスな例をあげてくれています。

「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまでは何が入っているかわからない」で有名な映画『フォレスト・ガンプ』の解釈です。

知能の低い少年の人生を温かく描いた、すべての人間を応援する優しい映画⇔反知性主義的で国を疑わない白人男性の主人公を描いた白人至上主義映画

というように

これらは相反する解釈なのですが、相反する考え方や価値観がテクスト空間の中で共存し、対立しながらも相互に影響を与えるからこそ、生まれる解釈でもあります。

「作者」と「読み手」の間

「先行するコンテクスト」と「テクスト」の間

この2つの軸がそれぞれで「対話」あるいは「対立するものの併存」が起きているのであれば、0から生み出されたテクストなんてものは存在せず、あらゆるテクストは何らかのテクストから影響を受けています。

「詩の言葉は、多面的な結合が可能であり、多面的に決定されていることによって、コード化された言説(ディスクール)の論理を凌駕する論理に従っている。」

その論理を研究するためにバフチンはカーニヴァルへと赴いた。

カーニヴァル?カーニヴァルとはなんでしょうか?

カーニヴァルの規範は「通常」の生の規範と対立します。カーニヴァルに投げ込まれたとき、それまでの通常世界の秩序に適合して「正しく」生きてきた人間は従うべき「正しさ」を失います。無秩序が秩序らしいです。

つまりカーニヴァル世界において、通常世界の構築された生の規範は通用せず、身分や宗教観、価値観など異なる人々と同じ空間で接触、すなわち、対話するということです。

文法や意味によって厳しく拘束された一義的な法則や「認識」といったものを凌駕するためにはダイアローグ的・多義的な論理が必要となるわけですが、バフチンは「対話」が絶えず行われる「カーニヴァル」を最適な場として考えたのではないか、ということでした。

カーニヴァル内では、文法と意味によって厳しく拘束された言語を支配する法則を破っています。それによって社会的、政治的異議申し立てなっているのではないかと考えられます。

このように多様な声がぶつかり合うカーニヴァルは、決まりきった言説を転覆させる場として最適だったのでしょう。

話が変わります。

「言葉のあり方」という概念を用いたことで、言葉が「対話を交わしている」あるいは「対立しながら併存している」要素の集合として三つの次元(主体—受け手―コンテクスト)において機能しています。

そうして言葉の特有の働きを記述するためには「言語学を超えた言語研究の方法」が必要となります。

その方法は以下の通り。

  • 文学のジャンルを、「言語の下にあるが、かならず言語とともに意味を表す」という不純な記号体系として捉えること
  • 言説の大きな単位、つまり文、応答、対話などによっておこなわれる操作・意味論の拡張という原理によって根拠が与えられる操作

ここから、文学のジャンルの進化はいずれも、言語構造をさまざまなレヴェルで無意識のうちに外在化することである」という仮説が立てられます。

文学ジャンルや表現の仕方は、時代や文化によって変化していきます。

ここでも高橋さんのナイスな例があげられています。

文体が変化したり、「ヤバい」「エモい」などの新しい言葉が使われるようになったりしますが、そうした言語構造の変化を、文学はとても「自然に」(無意識のうちに)取り入れています。

そして小説は、とくに言語に内在する対話を外に表わしています。

言葉に内在する対話(ダイアローグ)とは何なのか?

バフチンにとっては「対話」と「独話」の区分がフォルマリストたちの区分(直接話法が「独話」、間接話法が「対話」)のようなシンプルなものではないようです。

物語の中の独話的な一人称の独り言であったとしても、読者は作品全体や当時の社会全体の文脈のなかでその言葉を理解するので対話的。

一方で、物語の中の他者との対話的なコミュニケーションでも、その中の一人の視点・捉え方でのみ、そのコミュニケーションが描かれてしまったら独話的。

その意味でバフチンは完全な独話・対話は存在しないと訴えているようです。

バフチンによると対話関係が言語活動それ自体に内在しているようです。

言葉というものは一人の思考や表現から成立するものではなく、常に他者とのコミュニケーションによって成立します。その言葉を扱うのが言語活動であるために、対話が内在していると考えられるのでしょう。

バフチンの想定する対話関係は、主体性としてと同時にコミュニケーションの可能性としてのエクリチュール(書かれたもの)、すなわち、「間テクスト性」としてのエクリチュール(書かれたもの)です。

このような対立関係に突き合わせるとき、「個人=エクリチュールの主体」という考えは明確さを失いはじめ、もうひとつの考え、すなわち「エクリチュールにある対立するものの併存」という考えに場を譲り渡します。

本来エクリチュールというものは、単に書かれたものであり、主体=個人が使っているように思えるエクリチュールであっても、他者からの言語を使っています。

この考えに基づけば、

「作者」と「読み手」の間、「先行するコンテクスト」と「テクスト」の間という併存につながるのではないでしょうか。ここ自信ないです。

ここからは余談です。

白井はカーニヴァルへと赴いた。

カーニヴァル?カーニヴァルとはなんでしょうか?

ゼミの議論でもあがったのですが、社会学者のデュルケームが提唱した「集合的沸騰論」がカーニヴァルに似ているということでした。

集合的沸騰論は、緩んでしまったつながりを祭事によって改めてつなげ直すという考えです。お祭りにかぎらず、音楽ライブやスポーツ観戦なども集合的沸騰に当てはまります。

一方で、カーニヴァルは先述したように、通常規範から逸脱し無秩序世界の中での対話が行われる場です。

というわけなのですが

音楽ライブというカーニヴァルに投げ込まれた白井は、「正しさ」なんてものは失い、無秩序の中で対話していた気がします。

もうこれは、「白井はカーニヴァルへ赴いた。」と言ってしまっていいのでは?

これが言いたいだけのタイトルです。

タイトルを決めるのって難しいですよね?自分だけですかね……

作品とか商品とかってタイトルだけで大分印象変わっちゃうと思っています。

タイトルだけで引かれちゃうやつありますよね、惹かれちゃうやつもありますよね、特に知らない人からしたら。

カーニヴァルから帰還した白井は記憶が定かではありません。もちろんライブは素敵でした。

お二人のレジュメに助けられました。ありがとうございます。

第8回は以上です。ありがとうございました。

9期生第7回 みんな、赤毛のアンになってみない??

こんにちは!

第7回のブログを担当する、宮澤です!今回は、ヴィクトール・シクロフスキーの『手法としての芸術』、特に異化についてご紹介していきたいと思います!

では、早速今回の主題に入っていきましょう!!!

と言いたいところなのですが、、、

まずは、2週間以内に投稿できなかったことのお詫びを。

セルフガチサーしてる2回目担当高山さんのように、特殊な事情を抱えているわけではないのですが、何分忙しく、、、面目ない。

ということで、言い訳がましく始まった第7回目のブログですが、改めて宮澤水月が担当します!

あっ、今「みずき」って読んだ人いますよね?笑笑

実は、水月は、みずきではなく、みつきと読みます。自分で言うのもなんですが、珍しいし良い名前です。今まで、水月と書いてみつきさんに会ったことがないのが、密かな誇りだったりします。(他に同じ名前の人がいても、絶対言わないでくださいね。傷つくから!)

ちなみに、猫2匹、人間2匹と暮らしている、実家住み系女子です!アニメと飯と睡眠さえあれば生きていける、ぴちぴちの20歳です。(猫も必要ですね)

まぁそんなところで、特に自己紹介できるネタがなくなったので、授業内容に入っちゃいます笑

では、気を取り直して、授業内容にレッツらゴーです。

ー--ー----ーー

    反復

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今日のテーマ異化に入る前に、ちょっと違うテーマを。3限の授業で取り扱った反復について、ご紹介しておきます。

反復とは?読んでそのまま、同じことを繰り返し行うことです。

物語内の反復ってほんと多種多様で、筋や出来事、場面、状況、人物、イメージ、言葉など、使われ方は無限大だったりします。『フランケンシュタイン』の物語内でも、随所にみられる表現です。

例えば、最も頻繁に繰り返される「死」という出来事。『フランケンシュタイン』では、登場人物が次々に悲惨な死を遂げるという反復が起こっています。また、怪物の殺しの手口は、いつも絞殺で犠牲者の首に指の跡がつく様子が、3度も描写されています。残酷(´;ω;`)

さらに、言葉が反復されることもあります。例えば、「鍵盤がひとつ、またひとつとふれられた。弦がひとつ、またひとつかき鳴らされた。やがて私の心は、一つの思い、ひとつの概念、ひとつの目的で満たされた。」など。ひとつという言葉を何度も繰り返すことで、フランケンシュタインの熱烈な思いを表現しているんですね。同一語や類語が全編にわたって反復されてたり、同じ文章表現を違う登場人物が繰り返すなんてパターンもあります。

その他にも、deep,dark,deathlike,solitudeのように頭韻での反復や、月・海・湖・雨・雷といったイメジャリーの反復もあります!

つまり、『フランケンシュタイン』では、色んなレベルで反復が起きていると言えます!

反復は、言葉や場面の強調、さらには物語全体の統一性を持たせるために必要な要素です。反復が、『フランケンシュタイン』の作品としての魅力をマシマシにしてくれているんですね~。

ー--------ー

    異化

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お待たせしました!いよいよ、今回の主役の登場なり!

異・化です(^ω^) よろしくね。

まず、異化って何やねんっていうところから。

異化は、普段当たり前だと思っているものを異なるものにしちゃおうぜって考え方のことを指します。異化は英語で、defamiliarization。発表者の白井君が、de(離れる)+familiarization(慣れ親しませること)→ 当たり前と離れる、非日常化という風に考えると分かりやすいよ~、と教えてくれました!

もうちょっと砕いた表現をすると、物事をいつもとは違う角度から見てみようやーってことですね。

次に、異化が生まれた経緯には、『手法としての芸術』の著者であるヴィクトル・シクロフスキーさんが深くかかわっています。そう、彼こそが異化の生みの親なのです。

シクロフスキーさんが言いたいことは主に3つ。

・象徴主義への批判

・芸術は、直視(見ること)のレベルで物事を感じさせること

・自動化に対抗するには、異化

です。これだけ見ても、???って感じだと思いますので、異化という考えが生まれた流れをもうちょっと見ていきますね。

まず、当時は象徴主義的な詞が流行しておりました。象徴とは、抽象的な概念を具体的な事物に置き換える技法のことを指します。

そこで、シクロフスキーさんは象徴主義に対して批判しだすんですね。お前らの言う詩ってやつは、芸術などではないぞ!という具合に。

彼は、イメージが先にあって芸術が生まれる=手段としてのイメージだけが、芸術の在り方ではない。強い印象を生み出す=詩的イメージこそが、芸術なのだと主張します。※ここでのイメージは、比喩的形象のことを指す。

なるほど。んー----、分かりにくいですね。

さらに言い換えると、

今までは、抽象概念を具体的事物に置き換えるという、普段使っている日常レベルでしかない、上澄みの詩が芸術的だともてはやされてきた。けど、そうじゃない。できるだけ、強い印象をもたらす詩こそが芸術的だと主張したということです。

いや、強い印象って何やねん!!って突っ込みたくなりません?笑笑

ここで、例の異化が登場してくるわけです。

シクロフスキーさんは、私たちの知覚は、習慣化していくのと同時に自動化されてしまうと主張します。そして、彼はこの自動化を否定的に捉えます。

皆さん、朝起きたら何しますか?まずは、歯を磨いて、トイレいって、水飲んで、顔洗ってみたいな基本的なルーティンありません?別に、歯を磨きながら、「俺スゲー。今歯磨いちゃってるんだ。てか、歯磨くって何?歯ブラシって何?」とか思いませんよね笑笑 しかし、彼にとっては、歯磨きを何の違和感もなく、習慣として行っている私たちの日常行為こそが、習慣化、自動化された否定すべきものなのです。

彼は、こう思います。習慣化され、自動化されてしまうと、人間の知覚も鈍ってしまう。当たり前を当たり前だと認識し、事物を見慣れたものとしてスルーしてしまうと。(例えば、石が落ちていても、普通はスルーして歩きますよね。いちいち、一個ずつ拾って、これが石というものなのかと感銘を受けたりしないと思います。これが、シクロフスキーの考える自動化、スルーにあたります)

でも、スルーしちゃダメなんだ!何も感じない人間も、何も感じ取らせない詩も、そんなんは芸術じゃなー----------い!!(^ω^)

そして、芸術は、直視(見ること)のレベルで物事を感じさせること。石の石らしさを鮮烈に感じ、「生の感覚」を感じることこそが芸術なのだと主張しました。つまり、事物をスルーせず、一回一回立ち止まり時間をかけて、事物のそのものらしさを「生の感覚」を取り戻さなければならないということです。人々に「生の感覚」を取り戻させる手法こそ、異化という芸術であり、人々を立ち止まらせる異化を使用した詩こそ芸術であると、彼は主張しました。

そんなこんなで、別の視点を通じて当たり前を崩す手法として、異化が爆誕したのです。オメデトウ\(^o^)/

異化とは、実際どのように使われているか?『フランケンシュタイン』を通じて少しだけ見てみましょう。例えば、怪物が初めて人間を見たときに「今まで見たことのあるものと違う」と表現し、異星人が地球人を見るような視点で、人間を捉えます。また、怪物は、夜の闇を「暗い不透明のかたまり」、鳥を「羽のある小さな生き物」と表現します。事物の名称や人間すら知らない怪物の視点を借りて、世界に存在する一つ一つのものが、新鮮に捉えなおされている。これこそが、異化です。

以上、異化の説明はここまでになります。個人的に、シクロフスキーめちゃくちゃ難しくて。上手く伝わるブログになっているか、とても不安です。伝わってると嬉しいな、、、

余談ですが、異化が色濃い作品って、赤毛のアンなのかなって思います。あれって、結構日常ものなのに、なぜか面白いんですよ。その理由が、アンの視点を通じて、異化が多用されているからなのかなと改めて思いました。日常の中でも、アンという一風変わった女の子の視点を借りることで、異化した世界を見ることができるから楽しいのではないかと。むしろ、日常的なお話だからこそ、アンの異化ってる度合いが癖になるのかもしれません。まあ、なかなかアンみたいな感受性を持つことは難しいですよね笑笑

それでも、苦しいときや辛いときに、日常を少し異化してみると、救われるのかもしれないと思う今日この頃です。行き詰ったときでも、異化してみたら違う世界が見えるかも。

そゆことで、皆様もぜひ、異化ってみない??アンになってみない??

ここまで、ブログにお付き合いいただきありがとうございました!また、お会いできることを楽しみにしてます!じゃあねっ★

9期生第6回「もしかしたら私もドストエフスキー小説の主人公かもしれない」

はじめまして。第6回ブログ担当のヤンです。

簡単に自己紹介させていただきます。

ヤン・スビンです。ヤンが苗字で、スビンが名前です。

名前から分かるかもしれませんが、出身は韓国です。日本に来て450日目、孤軍奮闘しています。(笑)

趣味は映画とドラマを見ること、本を読むこと、音楽を聴きながら散歩することなどです。推理小説やドラマが大好きです。

昔クラシック音楽をやった経験があるのでクラシック音楽が好きで、その中でもオペラが一番好きです。オペラお好きな方がいらっしゃるか分かりませんが、もしいらっしゃったらいつでも声をかけていただければと思います。

それでは第6回の授業内容の振り返りに入ります。

3限「声」「イメジャリー」

第9節 「声」

声が物語の中でどう表現されるのかについて廣野さんは主に2つに分けて説明しています。

モノローグ的

:作者の単一の意識と視点によって統一されている状態。自分の考えを自分の視点で話すことが該当する。

ポリフォニー的

:多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態(第7節「性格描写」の「立体的な人物」を表す。)

ここで桃太郎の例を挙げると、

昔話の「桃太郎」:モノローグ的

芥川龍之介の「桃太郎」:ポリフォニー的

だとも言えます。

  • 昔話の桃太郎では善と悪が戦う二項対立が現れるので、「善」という正義が「悪」を勝つという作者の考え方と視点が入って、桃太郎という登場人物で統一される : モノローグ的
  • 逆に、芥川龍之介の「桃太郎」では鬼の立場を入れることで、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を作っている:ポリフォニー的

第10節 「イメジャリー」

イメジャリーとは、ある要素によって、想像力が刺激され視覚的映像などが喚起される場合、そのようなイメージ(心象)を喚起する作用のこと、または、イメージの集合体です。

ここでフランケンシュタインにおけるイメジャリーを考えると、主に2つの例が挙げられます。

  • 月:物語の中で重要な出来事が起こるとき、しばしばその前後に「月」が描写される。これは強烈な視覚映像を生じさせると同時に、何か別のものを暗示する象徴になる。
  • 水:湖や海などが「死」を象徴する場として描かれる。そしてメタファーとしても、フランケンシュタインが自分の運命について語る時、川に喩えて自分の破滅について比喩的に示す。

ここでイメジャリーを主に5つの分類に分けられます。

  1. メタファー(隠喩):あることを示すために、別のものを示し、それらの間にある共通点を暗示すること。(ex)夏空に浮かんだ綿菓子=雲)
  1. メトニミー(換喩):ある事物を、その属性と密接な関係がある他の単語を借りて表現すること。(ex)黒帯-有段者、やかんが沸騰している-でも実際沸騰しているのはやかんの中の水)
  1. シネクドキ(提喩):物事の一部として全体を、または一言でそれに関連するすべてを表すこと。(ex)お花見-桜を見ること-多くの花の中で「桜」を思い浮かべる)
  1. 象徴:特に類似性のないものを示して、連想されるものを暗示すること。(ex)ハト-平和(別に関係ないじゃん))
  1. アレゴリー:具体的なものを通して、ある抽象的な概念を暗示し、教訓的な含みを持たせること。(ex)イソップ寓話-ある童話を通して我々に教訓を与える)

4限「ドストエフスキーの詩学」

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821年~1881年)は19世紀ロシアを代表する文豪で、著作としては『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』などがあります。彼の著作は「現代の予言書」と言われています。

このドストエフスキーさんを研究して今日扱うテクストを書いたのは、ロシア(ソ連)の文芸学者であるミハイル・ミハイロビッチ・バフチン(1895年~1975年)さんです。

バフチンはこのテクストの中で「詩学」を、狭義の詩に関する理論ではなく、言語芸術の創作において題材、ジャンル、プロット、文体等の選択を支配する、作者の創作姿勢の全体を意味ものだと言っています。

[真のポリフォニー]

批評家たちは、ドストエフスキーの登場人物と対峙し、登場人物のイデオロギーを評価しようとしました。ここで批評家たちがイデオロギー的な側面に注目した理由は、イデオロギー的なのがドストエフスキー作品の特徴であり、彼が作家にさえ反旗を翻す能力を持った自由な人間たちを創造したということ、つまり真のポリフォニーを意味します。ドストエフスキーの主要人物は、作者が登場人物に何かをさせる(客体)のではなく、登場人物が自ら思想を持って行動する(主体)ことでした。彼の小説で登場人物たちは自主性を持って主体的に動きながら物語を進行させ、その点で伝統的な小説とは違うと言えます。

バフチンはここで、他の批評家たちがドストエフスキーの小説の中で登場人物という個別のイデオロギーに注目しすぎて、ドストエフスキーの芸術的特徴に気づいていないと批判します。そして、彼を作家であり芸術家だと表現します。

*バフチンが考えた芸術性は、以前にはなかったスタイルである「自由な登場人物で物語を作っていく」という新しいスタイルを作り出したこと、芸術家として小説の新しいジャンルを開いた開拓者(pioneer)という意味で芸術性が高いと言ったのではないかという議論を授業中に交わしました。

[ポリフォニー小説の創造者ドストエフスキー]

ドストエフスキーの作品は文学史上どの図式にも当てはまらない独自性を持っており、彼を「ポリフォニー小説の創造者」だと言えます。

従来のヨーロッパの小説が

  • 主人公の性格造形は、作者の客観的なイメージに従う
  • 作者の声のメガフォン
  • ストーリーが既に存在し、そのストーリーに合わせて登場人物の性格や行動を作者が決める

という特徴を持っていると言うと、ドストエフスキーの小説では

  • 登場人物の声が極度の自立性を持つ
  • 作者の言葉と登場人物の言葉が肩を並べる
  • 登場人物がいてストーリーが完成される、つまり、登場人物>物語の筋書き

という特徴があります。

また、モノローグ小説の結末が決まっていることが多く、すでに予想が可能な場合が多いのに対し、ポリフォニー小説では人物によって物語が進み、どうなるか予想できないという特徴があります。

そういう意味で、ドストエフスキーが創造したポリフォニー小説の構造は特殊だと言えます。

以上、第6回の内容でした。

ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます!

9期生第5回「近代の産物、“猫に餌をやるヤンキー”」

初めまして。今回のブログは柴田が書かせて頂きま~~~す!

~性格描写~

文学はキャラクターが命!というわけで本日扱った最初のテーマは「性格描写」。

突然ですが「二面性のあるキャラ」っていいですよね。

「ヤンキーが野良猫にこっそり餌やってた!」「優しい糸目キャラが開眼したらメッチャ怖かった!」

こういった「多面性」がキャラに深みを与えてるんではないかなと思います。

ですがなんと、このようなキャラクターが持て囃されるようになったのは近代以降!

割と最近なんですね。

ところで近代といえば…

_人人人人人人人人人_

> 個人主義の登場 <

 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

そう。個人主義です。

近代以前は「複雑な人間性」というものは認められていませんでした。

人は生まれながらに与えられた「天命」に従って生きればよい。貴族に生まれたら死ぬまで貴族らしく、百姓に生まれたら死ぬまで百姓らしく。そこに人格の多面性は要らなかったのです。

(近代以前の物語、例えば歌舞伎なんかだと善玉/悪玉がハッキリ分かれてますもんね。これを平面的人物というらしい)

ですが近代に入り、天命や身分ってそんなに大事か?みたいな風潮になってきました。

「生まれなんか知らねえ!俺は自分らしく生きる!」

しかし程なくして人類は気付きます。

「自分らしさって、何だ…?」

そう。生まれが関係無くなった今、自分で自分のアイデンティティを模索しなければならない。何者かになろうとする度に、何者にもなれない自分に直面する。そもそも一貫した自分なんて本当に存在するのか…?かくして人類は長きに渡る思春期に突入します。

そこで大切にされるようになったのが「一面的でない複雑な性格描写」だったのです!なるほど〜(こっちは多面的人物という)

〜アイロニー〜

次に取り上げたテーマはアイロニー。アイロニーとは「見かけと現実の相違から来る皮肉」のことを言うらしいです。

これだけだとよく分からないので、アイロニーについて自分なりにまとめてみました!↓

〜あらすじ〜

あるところにAちゃんとBくんがいました。

Bくんのことが好きなAちゃん。

しかしなかなか自分の気持ちに素直になれないご様子…。

【言葉のアイロニー】

Aちゃん「Bくんの、バカ………///」

  →言ってることと意味するところが違うので、言葉のアイロニー

【状況のアイロニー】

Aちゃん「Bくんの、バカ………///」

Bくん「ひっど…近寄らんとこ…」

Aちゃん「振り向かせようと思ったのに!ガーン」

  →意図したことと実際に起きたことが違うので、状況のアイロニー

【信頼できない語り手によるアイロニー】

(Aちゃんによる語り部分で)Bくんは馬鹿だと思った。

  →信頼できない語り手によるアイロニー

以上です!

〜昔話の形態学〜

最後に扱ったのはウラジミール・プロップの「昔話の形態学」です。

昔々誰かが言いました。

「文学も良いけどさ、やっぱり時代は科学だよね〜」

文学者プロップ「なんだと💢」

愛する文学を蔑ろにされブチギレたプロップは、どうやって文学を科学の仲間入りさせるか(どうやって科学的に分析可能にするか)を考え始めました。

そこで目についたのが生物学のいち分野「形態学」。

これは構造主義とも関わる学問で、個々の生物の形態に通底する「型」的なものを分析するものらしい。

これを文学に応用できるのでは?と考えたプロップ。そこで思いついたのが「昔話の形態学」でした。簡単に言うと、昔話には「型」(定項という)がある!という話です。その型とは以下の通り。

【7つの登場人物】

  • 主人公
  • 敵対者 …敵
  • 派遣者 …主人公を旅に出させる
  • 贈与者 …主人公に試練を与え、試練に勝ったらお助けアイテム・お助けキャラをくれる
  • 助手 …お助けキャラ
  •  …攫われたり主人公と結婚したりする
  • ニセ主人公

【31の機能】

  • 留守 …家族の成員のひとりが家を留守にする
  • 禁止 …〈主人公〉に禁が課される。依頼や忠告、命令、提案の場合もある
  • 違反 …禁が破られる
  • 探り出し …〈敵対者〉が探り出そうとする
  • 漏洩 …犠牲者に関する情報が敵対者に伝わる
  • 謀略 …敵対者は、犠牲となる者なり、その持ち物なりを手に入れようとして、犠牲となる者をだまそうとする
  • 幇助 …犠牲となる者は欺かれ、そのことによって心ならずも〈敵対者〉を助ける
  • 加害 …〈敵対者〉が、家族のひとりに害を加えるなり損傷を与えるなりする
  • 仲介 … 被害なり欠如が〈主人公〉に知らされ、主人公に頼むなり命令するなりして主人公を派遣したり出立を許したりする
  • 対抗開始 …探索者型の〈主人公〉が、対抗する行動に出ることに同意もしくは決意する。
  • 出立 …〈主人公〉が家を後にする
  • 贈与者の第一機能 …〈主人公〉が〈贈与者〉によって試され・訊ねられ・攻撃される。そのことによって、〈主人公〉が呪具なり助手なりを手に入れる下準備がなされる。
  • 主人公の反応 …〈主人公〉が、〈贈与者〉となるはずの者の働きかけに反応する
  • 呪具の贈与・獲得 …呪具あるいは〈助手〉が主人公の手に入る
  • 二つの国の間の空間移動 …〈主人公〉は、探し求める対象のある場所へ連れていかれる
  • 闘い …〈主人公〉と〈敵対者〉とが直接に戦いに入る
  • 標づけ …〈主人公〉に標がつけられる  ※カッコイイ傷、痣など
  • 勝利 …〈敵対者〉が敗北する
  • 不幸・欠如の解消 …発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される
  • 帰還 …〈主人公〉が帰路につく
  • 追跡 …〈主人公〉が追跡される
  • 救助 …〈主人公〉が追跡から救われる
  • 気づかれざる到着 …〈主人公〉がそれと気付かれずに、家郷か、他国かに、到着する
  • 不当な要求 …〈ニセ主人公〉が不当な要求をする
  • 難題 …〈主人公〉に難題が課される
  • 解決 …〈主人公〉が難題を解決する
  • 発見・認知 …〈主人公〉が発見・認知される
  • 正体露見 …〈ニセ主人公〉あるいは〈敵対者〉(加害者)の正体が露見する
  • 変身 …〈主人公〉に新たな姿形が与えられる
  • 処罰 …〈敵対者〉が罰せられる
  • 結婚 …〈主人公〉は結婚し、即位する

王道RPGですね〜。

ジャンプ作品にも通じるものがあります。

しかしこの物語形態、批判もあるらしい。

すなわち、マッチョイズム全開すぎる!

(姫との結婚など)主人公が男性である前提なのもそうですが、男はこうあるべし!という価値観も固定されているんだとか。男は黙って、冒険!男は黙って、戦闘!

しかし男女平等化が進んだうえ、人類が根性論に疲れ始めた近年。

アンチ・プロップ的な物語も増えているように感じます。(戦う女性キャラ、誰も戦わないほのぼの日常アニメ 等)

私は愚直を愛しているので王道的な物語も好きなのですが、一面的な価値観からの解放はよいことですね。いろんなお話があったほうが楽しいです。

本日はここまで!

8期生第5回「映像を編む」

度々すいません上西です。

第5回のゼミでは編集について学びました。

テキストいわく、編集とは「選択と組み合わせの技術」であるそうです。

そしてその選択と組み合わせの技術によって、編集者は視聴者にさまざまな印象を与えることができます。

また映像の部分をつなげる際には「類似」「並行」「対照」「皮肉」などさまざまな原理を使うことができます。

代表的なのが、切り返しショットと呼ばれる対面する二人を交互に写す編集です。

切り返しショットでは「類似」と「対照」の原理が主に使われます。

例えば天使と悪魔が切り返しショットで交互に写されていたら、天使と悪魔の「対称性」が強調されると言った具合です。

また「類似」するショットをつなげることでメタファー的なつながりを作り出すこともできます。

例えばならずものの集団が、通りがかりの紳士を襲って殴り殺し、金品を強奪するシーンの間に、ハイエナがウサギを捕食しているショットが挟み込まれていた場合には、そのショットは、ならずものの彼らの行動の動物性のメタファーになっていると解釈できると言った具合です。

また全く似ていないショットをつなげることで、映画のテーマのコントラストに焦点を当てることもできます。

例えば女性の自由がテーマの映画であれば、女性が「男」らしく車で颯爽と荒野を駆け抜けるシーンの後に、男性が「女」らしく家でテレビのメロドラマを見ているシーンがくることで、映画のテーマである女性の自由が強調されると言った具合です。

このように、映像は編集の仕方によって、さまざまな印象を視聴者に与えることができるのです。

ゼミの後半では「地獄の黙示録」(ベトナム戦争が舞台)のラストシーンを編集の視点から分析しました。

ラストシーンでは主人公がカーツというラスボス的な人を斬り殺すシーンと、カーツを崇拝する人々が儀礼的に牛を斬り殺すシーンが重ね合わせられています。そのシークエンスがどのような意味を持っているのかを分析しました。

結論としては、カーツの死を西洋側による殺しによるものではなく、東洋側の殺しによるものとしての意味を与えたかったからこのような編集にしたという話になりました。これだけでは意味不明なので説明します。

まず西洋側による殺しですが、これはアメリカ軍の命令によって主人公が行う裁きです。カーツは元々アメリカ軍にいましたが、ベトナム人のダブルスパイ4人を殺し、ジャングルの奥地で現地人を統治し王国を作っていました。軍はカーツに軍に戻ってくるようにと再三通告しましたが、カーツが無視したため、軍は主人公にカーツの暗殺命令を出します。主人公はカーツを暗殺しにジャングルへと向かいました。

ジャングルの船旅を経て、主人公はついにカーツと対面します。このとき、カーツは主人公に「俺を殺すことはできるが、裁くことはできない」的なことを言って、主人公はそれに納得します。ここで主人公は裁きとしての西洋側の殺しを実行することをやめました。

しかしカーツ本人が自らの死を望んでいること、またジャングルや彼の王国、王国の民がカーツの死を望んでいると感じた主人公は、儀式としてカーツを殺すことに決め、実行します。この殺しが東洋側の殺しです。主人公は西洋側の動機からカーツを殺したのではなく、東洋側の動機からカーツを殺したのでした。そのことを視覚的に表すために、カーツが斬殺されるシーンと牛が斬殺されるシーンが重ね合わせられているのだと結論付けました。

このように、編集は映画を構成する大事な要素です。映画を見るときは、その映画がどのように編集されているかを意識して見ることで、わたしたちの映画鑑賞がより豊かなものになるのではないでしょうか。

8期生第2回「映画で実践カルチュラルスタディーズ」

お久しぶりです、8期生の上西です。

今回のブログは少し簡潔に書かせてください。頑張って書いた下書きが消え、意気消沈なうだからです。生暖かい目で見守ってくれると嬉しいです。

第2回のゼミでは、映画「千と千尋の神隠し」を千尋のアイデンティティ獲得をテーマに分析しているテキストを扱いました。主に5つの観点から分析されています。

越境

越境は自己の変化、あるいは自己と他者との関係の変化をもたらします。境界を越える旅を重ねて千尋は成長していきます。

境界の例としては、現実世界と神様の世界を隔てると同時につないでいるトンネルが挙げられていました。千尋はこのトンネルを通り神様の世界に入り、冒険していく中で成長していきます。

名前

名前は自己と他者を区別し個人のアイデンティティを示す記号ですが、基本的に名前とは自分の意思で選択するものではありません。そのため自己と他者の常に移り変わり続ける力関係の指標として機能します。

湯婆婆は千尋に千という新しい名前を与えました。この描写から名前を与える湯婆婆と名前を与えられる千尋という上下関係を見てとることができます。

主体

主体は他者からの呼びかけによって成立しています。そして主体は可変的で、社会的差異が複合的に作用する中で形成されていきます。

物語の序盤では内向的でシャイな千尋でしたが、油屋の人々との関割りの中で社会的に応答責任を持つ存在として主体化されていきます。

食は自己と他者の混交をもたらす過程です。食べることは消費であると同時に自己の再生産であり、自己と他者の絆を確認する共同の営みでもあります。

千尋は銭婆の家で銭婆たちと共同作業をした後でお茶やお菓子を共に食べることで絆を確かめます。

物語とアイデンティティ

千がアイデンティティを獲得できたのは、彼らが自分達の現在を過去から連なる物語の中に位置づけることができたからです。アイデンティティの獲得には自らの言葉で語られる物語を他者に伝えるコミュニケーションが必要です。

テキストは以上5つの観点から千尋のアイデンティティの獲得のプロセスを分析していました。

テキストを読み終えて「千尋は本当にアイデンティティを獲得したと言えるのだろうか」という疑問が挙がりました。ラストシーンでは千尋はトンネルの中での一連の出来事を忘れているように描かれているからです。

話し合いの末、銭婆の「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」というセリフや、最後に銭婆からもらった髪留めがキラリと光ることから、トンネルの中での出来事は千尋本人は覚えていないが、潜在意識下で彼女に影響を与えているだろうという結論に至りました。

以上です。お読みいただきありがとうございました。