9期生第2回 語る存在と見る存在のはなし

はじめまして。9期生2回目のブログを担当します、高山花恋と申します。

最初なので簡単に自己紹介をしようと思います。

とにかく猫が好きです。友人からもはや猫派ではなく猫過激派だと言われたことがあるくらいには好きです。(犬派を弾圧とかするつもりは毛頭ありませんが)

あとは前回阪口さんがサークルの話をしていたので、私もサークルの話を。
実は3つのサークルに入っております。どれもガチサーではないのですが、どういうわけか忙しい時期が被りがちなので結果的にセルフガチサーをやっている状態になったりもします。余裕を持って生活できるときは来るのでしょうか。

そんなことを言っていますが、2回目の授業から2週間が経過してしまい、既に余裕がないので早速4月27日の授業の内容に参りましょう。

[前座]

前座は白井翔大くんでした。

前の週の前座を担当した滝沢くんに引き続き、アイスの話から始まりました。pinoが好きだそうです。

また、おすすめの漫画として『これ描いて死ね』を教えてくれました。
漫画好きの女子高校生が、自ら漫画を描くことに挑む物語。作品を生み出す苦しみも歓びも余さず描かれるとのこと。

漫画好きとしては興味を持たずにはいられないなぁと思います。

3限を担当したのは阪口緑さんでした。
重要なところはその都度「ここ重要なのでマーカーを引いておいてください!」と言ってくれたので、レジュメがあとから見返しても大変わかりやすいものになりました。ありがたい。

[語り手]

まず語り手について。
小説には、「語り手」が必要である という一つ大きな約束事があります。

語り手は、大きく以下の二つに分けられます。

①一人称で語る、物語世界内的語り手
②三人称で語る、全知の語り手・物語世界外的語り手

ここで「二人称で語る語り手はいないのか?」と疑問に思う方もいるかもしれませんが、ゼロではないにしろとても稀です。

次に、信頼できる語り手・信頼できない語り手、含意された作者について説明してもらいました。
この概念は、文献で(私からしてみれば)無駄に受動態が使われていたりするせいでかなりみんなを悩ませていました。

結論から言うと、

含意された作者=読者が、作品内の規範などについて「作者がこういう規範を決定したんだろう」と作者を観念化した存在
◎含意された作者と同じ価値観の語り手 ⇒ 信頼できる語り手
◎含意された作者と価値観が異なる語り手 ⇒ 信頼できない語り手

ということになります。

[焦点化]

ここから焦点化の話に入ります。
焦点化については4限を担当した柴田千華さんも説明してくれたので、二人の説明を私なりにまとめて書いてみようと思います。

注意すべきなのは、あくまで“視点”の話であること。普段小説を読んでいてもなかなか意識しない部分なので混同しやすいですが、語り手とは区別する必要があります。

焦点化は大きく①外的焦点化 ②内的焦点化 ③焦点化ゼロ の三つに分けられ、内的焦点化はさらに固定内的焦点化、不定内的焦点化、多元内的焦点化に分けられます。

まとめると以下の通り。

外的焦点化:焦点人物が物語の外側にいる場合。登場人物の思考や感情は記述されない。

内的焦点化:焦点人物が物語の内側にいる場合。ある登場人物を焦点人物とし、焦点人物の思考や感情のみが記述される。
  ・固定内的焦点化:焦点人物が固定されている場合
  ・不定内的焦点化:焦点人物が変わる場合
  ・多元内的焦点化:同じ出来事に対し複数の焦点人物がいる場合

焦点化ゼロ:「神の目」「全知の語り手」すべての時・場所の出来事、あらゆる登場人物の内面を記述できる。

ここで先生から、議論を深めるために二つ質問を挙げていただきました。

まず一つ目。
・焦点化ゼロと内的焦点化は1つの作品に共存するのか?

結論としては、共存する という答えになりました。
あくまで焦点化ゼロは、物語外に焦点人物が設定されているものです。なので、焦点化ゼロの中で、一つの方法として内的焦点化を採用することも、どこにも焦点を決めないことを採用することもできる、という。
「神の目」なのでなんでもできるということですね。

そして二つ目。
・焦点化ゼロと外的焦点化の違いは?

この二つは、物語外に焦点人物がいることは同じです。
何が違うかと言うと、登場人物の内面について書かれる際、焦点化ゼロでは内的焦点化を採用しますが、外的焦点化では「~と思われた」などの伝聞・推定のような書き方になる部分という結論になりました。

最後に、「ともにある視像」が重要な概念として挙げられましたが、時間が足りず未解決案件となりました。

以上、第2回のゼミの内容でした。ここまでお読みいただいたみなさま、ありがとうございます。

本来ブログを2週間以内に書かなければいけないのに少し過ぎてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいです。GWと休講のおかげで一応第3回のゼミの前には記事を上げることができたので許されたい…
完全に言い訳ですが、今月が冒頭に言ったセルフガチサー月間なので…なんとか乗り越えたい…

次回私がブログを書くときにはきちんと2週間以内にアップしたいと思います!

高山花恋

9期生第1回 全ての物事はテンションを上げればなんとかなる。

こんにちは!皆さま初めまして。

9期生ブログ、記念すべき第1回担当の阪口緑です。

明治大学マンドリン倶楽部という毎週末に演奏会があるガチサーで、1stマンドリンと司会を務めています。1stマンドリンは主旋律パートです。司会は、お客様に次の曲の解説を伝えつつ演奏会の雰囲気を変えたり、裏方の舞台さん、音響さん、照明さんと結託して、なんとか演奏会を進めたりする指示役です。

今の私にはガチサー、ガチゼミ、フル単の三拍子が揃いました。たまにはゆっくり寝たいです。

趣味は舞台鑑賞、特に2.5次元と宝塚歌劇団と劇団四季が好きです!月に一度は何かを観劇しに行っています。こういった趣味からメディアミックス作品に興味があって、描き方の違いに注目して卒論を書けたらいいなと思っています。

長いですね。司会をやっているくらいなので、おしゃべりなんです。

自己紹介はこのくらいにしておいて、早速4/20の授業内容を振り返っていきましょう。



3時間目 プレゼミ

○前座

4/20の前座担当は滝沢桃介くん。

彼はアイスが大好物なんだそうです。そして彼はおもむろにビニール袋からアイスを取り出しました。

「明治エッセルスーパーカップ大人ラベル とことんショコラ」

一番上にはチョコレートソースが。チョコレート特有のしっとり感が味わえる。その下のチョコレートアイスはコク深く、練りこまれたクッキーのサクサク感もまた堪らない…!

彼の味わって食べている姿に「をかし」を感じました。

また、彼は明治大学演劇研究部に所属しており、4/28から3日間公演を行うそうです。

https://stage.corich.jp/stage/249509

ちなみに、演劇研究部の部室はマンドリン倶楽部の部室の隣にあります。

猿楽町第二校舎1階にぜひ行ってみてくださいね。


○廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』

「1 冒頭」「2 ストーリーとプロット」

1 冒頭

レジュメ担当は高山花恋さんです。

メアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』はもともと短編小説の予定だったのですが、旦那パーシーの勧めで長編に。その際、冒頭部分が変更されました。

一一月のうら寂しい夜のことでした。苦労の成果を目にする時がやってきました。

手紙 I

ミセス・サヴィルへ、イングランド

一七**年一二月一一日

①を小説の冒頭部にすると、日時場所等が不明で、なぜ無生物に命を与えることが可能なのか不明で、いかにも作り話っぽいため、読者は虚構の世界に容易に入っていくことができません。しかし、②を冒頭部にすると、手紙という現実的な枠組みであり、日時場所等が明確なので、容易に入っていくことができます。

これを踏まえて、作り話と知っていて読んでいるのに、なぜ現実味が必要なのか?という議論を交わしました。結論から言えば、必ずしも現実味は必要ではないのではないかとなり、作り話っぽい印象であれ現実らしくあれ、いかに惹きつけられるかが大切だという考えに行きつきました。

なんだろう、私がまとめると賢くなさそうに見えるの、やめてもらっていいですか?


2 ストーリーとプロット

小説において、ストーリーは出来事が起こった「時間順」に並べた物語内容です。ビーズ玉を繋ぐ糸と考えられます。そしてプロットは物語が語られる順に出来事を再編成したものです。出来事の間の因果関係に重点が置かれています。これは、ビーズ玉が糸で繋がれている順序と方法と言えます。そして出来事がビーズ玉と例えられます。

このプロットを活かして作られるのが「サスペンス」です!

英語「suspense」は「精神的に宙ぶらりん」という意味ですね。出来事の時間的配列が組み替えられることで、不安と恐怖を感じさせることができます。

これを踏まえて、なぜ御伽噺や民話などでは出来事を時間順に並べていく形式が多いのか、という点を議論しました。これは語り手と聞き手の関係性に原因があるのではないかと私たちは考えます。リアルタイムで語られるからではないか。しかし、映画や舞台もリアルタイムだ。つまり、語り手の媒体に視覚情報があるかがどうかに起因するのではないだろうか。という結論になりました。


4時間目 ゼミ

○テリー・イーグルトン著 大橋洋一訳

『文学とは何か −現代批評論への招待−』 「はしがき」

レジュメ担当は室井亨太くんです。

ここで懺悔なのですが、私はこの文章を今でも理解できていません。室井くんのレジュメの一部をそのままお伝えします。

テリー氏によると、文学とは

1 その存在は客観的なものではない。

2 構成する価値判断は歴史的に変化を受けるものである。

3 価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係している。

  (社会的イデオロギーとは、特定の社会集団における前提事項のこと)


は〜…そう、なんですね…。室井くんのわかりやすいレジュメで要点は掴めました。ただ、本文のほうは「Aなのか?いやBだ。しかしそれも違う。ならCか?これも部分的に違う。」みたいなイタチごっこで訳がわかりませんでした。はしがきだけでは私はわからないので、いつか全文読みたいです。

また、ここではイデオロギーについて意見を交わしました。テリー氏は、イデオロギーとは「私たちが話し信じていることと社会構造や権力関係を結びつける仕掛け」であるが、「私たちが無意識のうちに抱えているすべての価値判断やカテゴリーすべてが即イデオロギーではない」と考えます。この考え方に室井くんは救われたみたいです。確かに、自分の発言のすべてが一貫したものではないし、こういう思想があるからそう思うんだねと決めつけられるのは気持ちいいものではないと私も思います。

最近、私の高校の担任が学校を辞めて、区議会かなにかの議員候補として出馬しました。同級生が彼の演説を見に行ったみたいですが、彼女は彼とは思想が違います。それでも、旧知の仲だから応援していると伝えたそうです。イデオロギーが違うだけで即敵対とか、そんな訳ないですよね。


はい、こんな感じでした。一発目から難しい文章を読んで、え、ついて行ける?と不安になりましたが、ゼミの同期の解説がわかりやすいので、なんとか耐えられそうです。何より、内容が興味深く面白いので、しっかり批評理論を身につけられるよう頑張ります!

阪口緑