第11回 アウトプットをしたいならインプットからはじめよう3

9期生の阪口です。

春学期の第11回の内容を振り返っていきます!!!

書籍は『映画の理論』第7章台詞、著者はジークフリート・クラカウアーさんです。

キーワードは以下の3点!

・映像>サウンド/台詞

・同期化/非同期化

・並列法/対位法

【大論点】映画で音声(台詞)を扱う際に、考えなければいけないことは何か?

【結論】考えるべきことは2つある。

    ①サウンドと映像のそれぞれの役割。

    ②サウンドと映像とが特定の瞬間に同期される方法。

・映像>サウンド/台詞

クラカウアーさんは、映像とサウンド・台詞の、適切な関係は何かという問いに対し、映像に重きを置き、サウンド・台詞の比重を軽くすることで、映像をストーリーの主軸にするとよいと論じます。映像とサウンド・台詞は、均衡をとることはできないとも述べています。

・同期化/非同期化

映画における同期化/非同期化とは?

同期化:画面上で同期しているサウンドと映像とが現実の生でも同期していること

非同期化:現実では同時に生じていないサウンドと映像が、スクリーンでは同時に起こったように処理されること

・並列法/対位法

映画における並列法/対位法とは?

並列法:言葉と映像が類似した意味を表現していること

対位法:言葉と映像が別々の意味を担うこと

ここが本論のポイント!

「同期の4つのタイプから、映像が優位な場合は同期化が適切」

タイプⅠ 同期化並列法

タイプⅡ 同期化対位法

タイプⅢ 非同期化並列法

タイプⅣ 非同期化対位法

音声優位な場合は、タイプIからタイプⅣまでの方法で特別な効果は得られない。しかし、映像が優位な場合は「画面上で同期しているサウンドと映像とが現実の生でも同期していおり、言葉と映像が別々の意味を担う」同期化対位法で特別な効果が得られる!

といった感じでした!映画のメモを全然残しておらず、今回はここまでです…!すみません。

第9回 アウトプットをしたいならインプットからはじめよう2

9期生の阪口です。

マイケル・ライアンらの『Film Analysis 映画分析入門』第2部第10章「編集」を振り返っていきましょう!

キーワードは以下の4点!

・夢 ・無意識

・同一化 ・境界

【大論点】心理学的に見た映画とは何を表しているのか

【結論】映画とは起きて見る夢である

まず夢とは何なのか。

本書では、夢とは「感情を表現したイメージの連なりである」と述べます。無意識の「影の部分」にある恐怖と欲望が、夢の中では人物や行動や語りを伴うストーリーとして出現するそうです。

では、夢と映画の類似性とは何かというと、無意識を無関係な要素の中に隠している点難度そうです。

つまり、無意識を表出させるものが夢や映画だと本書では説明します。

映画における無意識は、構造や一貫性を持った別のもので表現しています!

今回は映画『羊たちの沈黙』を用いて、ジェーミーがなぜ女性の皮を着るのかをフロイトの精神分析の考え方から考察しました。その結果、女性の服を着るよりも女性の皮を切る方が女性のパロディになるからだと結論づけました。女性は皮でさえもジェンダー化されていることに対し、社会への皮肉が込められていると予測できます。

第7回 アウトプットをしたいならインプットからはじめよう1

9期生の阪口です。

今更ですが、春学期の第7回の内容を振り返っていきます!!!

マイケル・ライアンらの『Film Analysis 映画分析入門』第1部第3章「編集」を振り返っていきましょう!

キーワードは以下の2点!

・つなげる ・組み合わせる

【大論点】編集はどのような技術であるのか

【結論】編集とは、シークエンスの選択と組み合わせの技術である。

まず、映画における編集の役割とは何か、本書ではずばり「映画の話の一貫性を作る役割である」と述べています!

編集による語りや時間経過などの効果を持たせることで可能にしているみたいですね。

では、その編集による語りとは何を表しているのかというと、「原因と結果、動機と行為」なのだそうです。つまり、因果やつながりを強調するそうです。

因果やつながりを強調する編集には、「類似」「並行」「対照」「皮肉」といった技巧があります。類似を例に考えてみると、類似のショットはアイディアやアクションにおけるメタファー的なつながりを表し、非類似のショットはテーマのコントラストに焦点を当て、個人内の葛藤の強調といった様々な機能を持つそうです。

ここが本論のポイント!

モンタージュとは:

脈略はないが、観客に連想させる断片をつなげる編集を指す。組み合わせによって様々な意味を表す可能性があるよ!

映画は『エイリアン』を見ました!

猫の役割は何かを考えていったところ、猫は人間を異なり、守るべき従順な存在として映画で表現されているのではないかと話しました〜。

9期生 第12回 可能性のある大人になりたい

みなさんお久しぶりでございます。9期生の高山です!

実は私はこれが今学期最初で最後のブログ担当回です。

学期始めに、授業内での発表とブログ担当の回数がゼミのメンバー内である程度平等になるようにしたはずだったのですが、色々変更などがあった結果、いつの間にかブログの担当は1回分になっていました。

これでよかったのか…?と後になって思ったのですが、発表は3回分担当していて、昨年度の研究発表会のブログも書いたのでそれでトントンということであってほしいです。

 

 

さて、今回扱ったのは『映画で入門 カルチュラルスタディーズ』の第3章 子ども でした。

この章で筆者が取り上げている映画は『亀も空を飛ぶ』です。

『亀も空を飛ぶ』は、戦争と民族迫害によって早く成長せざるを得なかった少年たちを描いた作品で、筆者は〈空〉〈戦争〉〈目〉〈四肢〉〈偶像〉の観点から、子どもにはまなざしとか身体の力が備わっており、可能性のある存在だと述べています。

 

具体的には、

登場人物が眼鏡をかけていることや登場人物の予知能力、登場人物の目が悪いことへの言及から、子どもの目の方が大人より真実を見通していることが表されている

といった具合です。

 

この作品では、夢や幻想は不幸の予兆ではありつつも、想像することや望むことの権利が示されており、子どもたちは憧れや夢を抱き続ける存在だそうです。

 

 

これを踏まえ、今回のゼミでは『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の解釈を行いました。

メインの視聴者層である子どもだけでなく、大人が見てもおもしろい感動作ということで、他の授業でも取り上げられていた記憶があります。

 

あらすじとしては、

春日部に20世紀博という万博を模したテーマパーク(?)が作られ、20世紀博の創立者らの企みによって大人たちは大人であることをやめ、20世紀博の懐かしい世界に取り込まれてしまう。子どもたちも20世紀博の組織の隊員らによって捕まってしまうが、しんのすけは逃げ切り、家族の正気を取り戻し、20世紀博の創立者の計画を止める。それにより、日本中の人々は元に戻り、現実の21世紀を生きられるようになった。

といったところでしょうか。

 

この作品を〈子どもの可能性〉の観点から見ていきました。

作品の中盤までは、子ども化した大人たちがヒーローごっこをしていたり、しんちゃんたち子どもがバーにいたり、〈子ども=何にでもなれる存在〉として描かれていました。

 

しかし、最終的には大人の子ども性は否定され、消費社会で大人たちは生産性を持っていきていかなければならないという結末に至ります。

大人たちが子ども化していた時は可能性が開かれていましたが、元の世界に戻ったらその可能性は閉じられ、大人と子どもでお互いの可能性を束縛し合う関係構築をしていかなければならない、実際には何にもなれないというバッドエンド…

かと思われたのですが、

そもそも〈子ども=何にでもなれる存在〉ということ自体が子どもにとっての幻想・偶像だったのではないでしょうか。

 

大人たちはこの幻想・偶像を破壊することができませんでしたが、子どもたちは自身で破壊します。

これは、何にもなれなかったという後悔のない今現在の子どもにしかできないことだったのです。

つまり、【子どもには幻想・偶像を破壊できるという可能性がある】ということを描いた作品だという結論に至りました。

 

一瞬、子どもは結局何にもなれない、可能性はないという暗い結論にたどり着きそうになりましたが、なんとか回避することができました。

 

 

実際、私はバイト先で小学生と毎週話しているのですが、子どもには可能性や選択肢がたくさんあるなぁと感じたりします。

自分自身に関して言えば、成人はしていてもまだ学生だし、実家暮らしで親に頼っている部分が多いし、なんとなくまだ子どもの意識がありつつ、早く大人になりたいというか自立したい気持ちもあります。就職したら大人だという自意識がはっきり芽生えるのでしょうか…。

何にせよ、大人になっても可能性を捨てずに選択肢を増やしていく人生を送りたいですね

 

では、おそらく秋学期にまたお会いしましょう~

お読みいただきありがとうございました!

9期生 第13回 「自然すぎるもの」の隠され方を見破ろう

こんにちは!今回のブログを担当する白井翔大です。今回は、内田樹『映画の構造分析』第一章 抑圧と分析的知性でした。

キーワード
抑圧、欲望、ラカン、フロイト

大論点「抑圧されたものとは、作品にどのような要素をもたらすのか」
→できるだけ多様な次なる解釈の起点となり得るような解釈を生み出すきっかけ

中論点1 抑圧されたものとは?
→意味はないもの。

 小論点1 どのようなものか?
 →自然すぎるところに生まれるもの。
 論拠
 ・物語の微妙な仕方での破綻の中にある。
 ・その中に意外なものを探そうとするが、その正体は「主体が期待していたものではない」

 小論点2 抑圧されたものに重要なことは何か?
 →それが何であるかより、どのように隠されているのかが重要である。
 論拠
 ・かくれんぼのように、その中身より(何が正体かより)、隠され方を見破ることに意義がある。

中論点2 抑圧されたものはどのように隠されているのか?
→手紙という記号に変えられることによって表されている。
論拠
エドガー・アラン・ポー『盗まれた手紙』の分析
手紙を持つと、マヒ状態になり、身動きが取れなくなる。

 小論点1 抑圧されたものはなぜ見えないのか
 →知りたくないという欲望をもつ私たちは「見落とそうと」するから
 論拠
 マクガフィンの機能を使う。
 ヒッチコックによると、「機能する無意味」
 「機能する無意味」…物語を起動させる力を持つ。=終わりなき欲望へ持ち込む。

 小論点2 どうすれば気づくことができるのか
 →分析者として、「パスする」立場につくことで可能になる。
 論拠
 ・分析者と患者の間に成立する「転移」と同じ形
 ・「第三の位置」に身を置くことによって可能=「手紙」の持つ能力を知っていることが条件。

しかし、構造分析であるにもかかわらず、どこに構造があるのか明確になっていなかったので、ゼミ内で整理しました。

ラカンによると、物語の中で、同型的な場面が2回繰り返されるらしく、「原場面」と「第二の場面」と名づけています。この二つの場面では相似的な行動をとる三人の人物が登場します。そして、三人の登場人物のそれぞれの「視線」によって特徴づけられています。

①「何も見ていない視線」

②「第一の視線が何も見てないことを見て、自分が隠しているものはそこから見えないと思い込んでいる視線」

③「さきの二つの視線からは隠されているものが、それを略取しようと望むものにはむき出しのままに放置されているのを知っている視線」

そして、三人の視線の先にあるものが「マクガフィン」です。

「マクガフィン」…小説や映画などのフィクション作品におけるプロット・デバイスの一つであり、登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる作劇上の概念のこと。作中人物にとって重要でありドラマもそれをキーアイテムとして進行するが、物語の成立を目的とするならそれ自体が何であるかは重要ではなく代替可能ですらあるものを指す。(Wikipedia1

これらを『盗まれた手紙』に当てはめてみると、

作品名マクガフィン①の視線②の視線③の視線
『盗まれた手紙』手紙王様、警察王妃、大臣大臣、デュパン

本書では、『盗まれた手紙』以外にも触れていました。(ここは時間が足らず、大雑把な把握になってしまいました。)

作品名マクガフィン①の視線②の視線③の視線
ヒッチコック『鳥』鳥(母なる超自我)主人公、母男(ミッチ)いない
ヒッチコック『北北西に進路を取れ』架空のスパイの名前(カプラン)主人公迫ってくる敵教授

応用

今回の理論を踏まえて、ジョーダン・ピール『Us』(2019年)を検討しました。

作品名マクガフィン①の視線②の視線③の視線
『Us』アメリカ人であること殺された人々主人公たち分身

この映画は、「アメリカ人であることに目を背けていた主人公たちが、自分たちの分身にアメリカ人であることを見せつけられて、アメリカという国に絶望し、メキシコに逃げる映画」と結論づけました。

分身がパスすることで、主人公たちが見ようとしなかった自然すぎるもの・抑圧されたもの(アメリカ人であること)に気づかされてしまったということです。

おそらく自分の理解不足なのですが、『Us』でラカンのいう二つの場面に分けたかは不明です。

ただ今回の考え方は、どのような作品に当てはめても、応用できると考えられるので、構造があったということだと思います。

雑記
ここからは雑談です。
この前池袋で飲んだのですが、その後バッティングセンターに行きました。
バッティングセンターの場所が、映画館(グランドシネマサンシャイン池袋、おすすめです)の上にあったことにも驚いていたのですが、久しぶりにバットを振っていて、楽しいと感じる自分にも驚きました。子どものころを思い出してなのか、純粋に体を動かすのが楽しかったのか、それとも酔っていたからなのか。いきなり60球を打ち込んでかなり筋肉痛だったけれども、楽しいのはたしかでした。

それで、バッティングセンターにハマりかけています。地元にもバッティングセンターがあって、200円で20球以上打てるコスパの良さに感激しています。池袋は1100円で60球だったので。

自分の地元は、世界農業遺産に認定されるぐらいには田舎な要素を持っているのですが、都会(台場とか、みなとみらいとか、海浜幕張のような場所)に魅かれる自分が地元に見落としていた部分があったような気がして、なんだか嬉しい気分です。

そう考えると、新しいことや普段やってないことをやってみるのは面白いなと改めて感じました。
自分は最近ライブに行くことにハマっていて、今度UNISON SQUARE GARDENとクリープハイプの対バンに行く予定です。それで、普段クリープハイプを聴くことは『栞』を除いて、全くないのですが、ライブに向けて聴いてみるとハマれる曲があることに気づきます。そして、それと同時に、普段聴いているアーティストの良さにも気づかされます。

つまり何が言いたいかというと、何か新しいことをやってみると、その面白さや奥深さを実感するのはもちろんですが、既に周囲にあるものであっても見え方が変化するかもしれないということです。

何か一つを信じていたいような気持ちもあるけれども、色々と知った方が、もっと面白いのかなぁと思ってます。それが原因で、自分は自分の軸がはっきりしてないような気持ちに陥るのかもしれませんが。

とにかく今学期も終わり、レポートも書かないといけないので、バッティングセンターやライブでリフレッシュしつつ、書き上げなければと思います。
読んでいただきありがとうございました!

  1. ウィキペディア(Wikipedia)『マクガフィン』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3 ↩︎

9期生第8回 『映画の理論』第9章 観客-映画は欲望という名のジャンクフード編-

こんにちは。2回目の宮澤登場です。

梅雨に入って、しばらく経ちましたかね。暑い、、ですね。

暑いのは人間だけではなく、猫も一緒みたいです。

うちの子(猫)、換毛期でして、もう抜け毛が、すんごい。ほんと、猫の毛だけでボールができるくらいなんです。

毛を刈っても刈っても、次の毛が出てくるんです(恐怖)

そのおかげで、部屋中毛だらけ、埃まみれで(絶望) 

掃除してもきりがないので、決めました。汚部屋で生きることを。(諦めるのはまだ早い)

と、個人的などうでもいい話から入ってしまって恐縮です。

ここから、本題に入るので許してください。

今回扱ったテーマは、「映画と観客の関係」。理論は、ジークフリート・クラカウアーの『映画の理論』第9章観客。作品は、『チャーリーとチョコレート工場』です。キーワードは、欲望

【学習内容】

今回は、映画と観客の関係性について学びました。ここでは、映画が観客に与える効果を

①(映画を見た)観客の反応

②(映画を見た)観客の状態

③(映画を見た)観客の満足感

の3つの要素に分けて、整理していきたいと思います。

①観客の反応

映画にはどのような効果があり、観客は映画を見てどのような反応をするのでしょうか。

まず映画は、観客の感覚に作用するという、特殊な効果を持っています。具体的には、観客の感覚に働きかけ、生理的な関与を要求することで、観客を知性的に反応できる状態を導く効果があります。これは、映画が人の感覚的・本能的な部分を刺激することで、観客の感情移入を促し、映画について知的に考える・反応できる状態をさします。

そして、映画が観客の感覚に作用できる理由は、主に3つあります。

1.物理的現実、それ自体の記録する(現実のリアルな事物が、そのまま映像で再現・記録されていること)

映画では、写真的な映像が再生されます。写真的映像は、自然のありのままの物体を、リアルに表現します。このようなリアルな映像を見た観客は、あたかも映像が本物・現前しているものだと感じるようになります。よって、映画は現実の記録という面で、観客の感受性に作用していると言えます。

2.世界の動きという相のもとで、示して見せる(事物の物理的な動きを、リアルに表現していること)

私たちは、常に動きのある世界で生きています。例えば、食べるという行為は、腕や口、手を動かす運動なしにはできません。映画は、この運動を映像としてリアルに表しています。静止画の写真では、現実世界の運動を表すことはできません。こうした動きは、観客の中で筋肉の反射反応や運動インパルスといった運動感覚的な感覚を誘発します。よって、映画は動きの提示という面で、観客の運動感覚に作用していると言えます。

3.映画は、そこに隠された領域を開示する(観客に見知らぬ形状に遭遇させ、新たな発見をさせること)

映画は、観客に見知らぬ形状を提示し、発見をさせることで、好奇心を掻き立てます。そして、観客をより感覚的な領域へ誘い込みます。よって、映画は隠された領域の開示という面で、観客の好奇心や感覚に作用していると言えます。

②観客の状態

では、①の映画の作用を踏まえた上で、映画を見た観客は、どのような状態になるのでしょうか。

一言で表すと、観客はトランス状態(意識が弱まった状況)になります。原因は、観客が暗闇に置かれれることで、現実との接点が減少するためです。適切な判断や精神活動を行うための、視覚情報などを奪い取られることで、観客の意識は弱まります。

また本書では、「意識が低下すると、へと誘われる」と記載があります。実際に、映画愛好家のガブリエル・マルセルは、「覚醒と睡眠のはざまの状態に置かれており、そこでは入眠時に見るさまざまな幻想が促進されている」と述べています。つまり、映画には夢と似たような性質があるということです。

では、夢と映画の似た性質とは何でしょうか? それは、剝き出しの現実性です。

剝き出しの現実性とは、私たちの目で見た現実のことを指します。そのため、俯瞰的・客観的な現実ではなく、近視眼的・主観的現実のことを指します。私たちが、私たちの目を通じてみるものは、ありのままの現実ではなく、私を通じて編集された現実でしかありません。例えば、砂漠でオアシスを見つけた場合、水がすごく輝いているように見えるかもしれません。一方、梅雨のじめじめした日に、水たまりを見た場合、すごく疎ましく感じるかもしれません。水は水でも、人の目線を通じると、違う見え方になってしまうのです。

このように、近視眼的・主観的な現実の見え方は、夢と映画に共通しています。夢は、人の視点で見える現実になぞって、ストーリーや映像が編集されます。また、映画も、誰かの人の視点で見た現実を、カメラワークや構図、編集で調整します。つまり映画は、剥き出しの現実性表す夢と似たような特徴があるということです。

では、映画はどのように観客を、夢を見ている状態にさせるのでしょうか?本書では、主に2つのパターンが提示されています。

1.観客を対象物の方へ向かわせる

単純に、観客が意識から解放されることで、映画に登場する事物や現象に引き付けるということです。映画の事物や現象に引き付けられることで、感覚を刺激され、映像が現実のことのように感じられます。これは、(睡眠時に見る)夢と同じ状態です。

2.観客の自我を撤退させ、意識的ないし、無意識的な経験、不安、希望が姿を現すように働きかけている

これは、観客が映画の範疇を超えて、自身の内面世界で妄想・想像することをさします。観客は映画の対象物に集中し、そこで感覚を刺激されることによって、その感覚に関連した別の事柄に関しても想像するようになります。これも、(妄想したり想像したりする)夢と同様の状態です。

このように、映画は観客の感覚に働きかけ、トランス状態・夢への誘導を行います。だからこそ、映画は強力なプロパガンダの道具にもなりえるのでしょう。

③観客の満足感

皆さんは、何のために映画を見ますか。また、どんな映画を見たときに、満足感を覚えるでしょうか?

本書では、観客は、映画によって生への渇望を満たされた時、満足するとされています。また映画は、観客の充実した生の代用品と言われています。

映画は大衆娯楽であればあるほど、一般大衆の欲望や願望とされるものに応えなくてはいけません。大衆の満たされない欲望や願望をかなえることこそが、映画の売り上げへとつながるためです。

例えば、本書で紹介された映画愛好家は、観客は苦しみの原因を孤立状態に求めていると提示します。この書が誕生した当初は、都市化とともに、個人化という概念が生まれました。そのため、大衆は孤立しており、他者との関わりという生への渇望・欲望を持っていたと考えられます。

このように、時代ごとに大衆が抱える生への渇望を満たすことこそが、大衆の心をつかむ技術なのです。

何もしなかった日の最後に映画を見たくなるというという人がいます。これは、それは何もできず充実していない現実に対して、その1日に価値があったと思えるように、映画で他者の物語を追体験することで、生への渇望を満たしているのかもしれません。

【作品分析】

今回の作品は、『チャーリーとチョコレート工場』です。学習内容を踏まえて、2つの観点から分析しました。

①作品には、夢に似た性質が現れているか

映画全体を通じて、夢と似た性質があると言えるでしょう。例えば、場所指定などが、夢に似た性質に当たります。本作品では、人物が登場する前に、場所の指定がされる場面がいくつもあります。具体的には、ニューヨークの街並みと字幕が出た後に、登場人物の説明がはじまるなど。

これは、とても夢に似た性質です。近視眼的・主観的な現実の見え方だからこそ、場所という情報が事前に提示される編集がされていると考えられます。ゼミ生の中には、夢を見る時、まず場所の提示から始まる方もいました。

②生の本質を満たしてくれる映画か

まず、この作品を見る観客(大衆)を、「工場労働者」と定義し、彼らの欲望を3つに整理しました。

1.工場という無機質な場所で、同じ作業をしている毎日がつまらない状況。面白くて、非現実的なことへの欲望。

2.工場で一日働いているのに、貧乏。一方、楽して稼ぐ資本家がいる不平等な状況。資本家を蹴落としたいという欲望。

3.貧乏で、生活が苦しい状況。脱貧乏・脱社会的弱者したい欲望。

これらの大衆の欲望は、充実した生への渇望へとつながります。では、『チャーリーとチョコレート工場』は、彼らの欲望・充実した生への渇望を満たせているのでしょうか。

1. 作中の工場内は、とてもファンタジスティックで、明るい雰囲気。本来無機質なはずの工場内に、面白み・非現実性が加わっている。つまり観客に、労働者の働く工場は、無機質でアンハッピーな場所ではなく、面白くてハッピーな場所であると認識させ、欲望を満たしている。

2.作中の工場内では、主人公以外の資本家の子供たちが、ウォンカの手によって、次々とひどい目にあう。観客の資本家への不満、蹴落としたいという欲望を満たしている。

3.物語の最後で、貧乏な主人公の家族は、資本家のウォンカと暮らすようになる。脱貧乏&脱社会的弱者を果たし、資本家の一員になるという欲望を満たしている。

以上の分析を踏まえると、本作品は観客の生への渇望を満たす作品と言えるでしょう。

結論:『チャーリーとチョコレート工場』は、社会的地位が低かったり、貧乏だったりする工場労働者たち(大衆)の生への渇望を満たす映画である。

今回の学習はここまで!少し長くなってしまってすみません。

最後に、猫の毛で作ったボールの写真をのせて、お別れしましょう。また次回のブログでお会いしましょう~

→自分の毛で作ったボールを頭にのせられて、不服そうな猫

9期生第5回 『映画講義入門』第5章 映画と観客 ~再現的イリュージョンの世界で生きる私たち~

皆さんお久しぶりです!9期生の宮澤です。

先日、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に行ったんです。

我がゼミの阪口さんが、コンマスを務める発表会だったのですが、とても感動したので、この場を借りて、叫ばせてください。

面白かった!阪口さん、ほんとに凄かった!小林幸子さん、歌うまいですね!

以上、宮澤の心の叫びでした。どうでも良くてすみません。阪口さん、本当に本当にお疲れさまでした。

さて、本題に入りましょう。

今回のゼミで扱ったテーマは、「観客」です。理論は、J.オーモンの『映画講義入門』の第五章映画と観客。作品は、『オリンピアー民族の祭典』なり。

学習内容

今回は、映画の観客に関する研究を学びました。

①観客の精神と映画の関係

②観客の心理を使った映画の技法

の2つに分けて、おさらいしていきます。キーワードは「再現的イリュージョン」です。

まず前提として、観客の研究は、大きく分けて2つの分類ができます。

1つ目は、観客の外在性に注目した研究。統計学や経済学、社会学の方法から、観客集団を分析する研究です。2つ目は、観客の内在性に注目した研究。心理学を応用して、映画の観客の精神を分析する研究です。今回は、2つ目の研究について、勉強しました。

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①観客の精神と映画の関係

映画は見る人、つまり観客がいないと成立しません。そして、映画の受け取り方は、個々の観客によって異なります。例えば、映画の作り手が想定していた通りに、観客が解釈してくれるとは限りませんよね。そのため、観客なしに映画を語ることはできないでしょう(多分)

でも、そもそも、観客とは何なのでしょうか。簡単に言うと、観客とは、映画に対して「再現的イリュージョン」などの精神活動を行う存在です。

では、再現的イリュージョンとは何でしょうか。「再現的イリュージョン」とは、観客の心的過程で勝手になされる補正精神のことを指します。よう分からん、詳しく(白目)

突然ですが、皆さんゲシュタルト崩壊を経験したことがありますか?1つの文字をずっと見ていると、その文字が何だか分からなくなってくるという、例のあれです。

これは、同じ文字をずっと見てると、文字の一画ばかりが見えてきて、文字全体が認識できなくなってしまうことが原因です。つまり、私たち人間は、物事を要素で捉えているのではなく、全体で捉えているということが分かります。

逆に言うと、私たちは、総合的(全体的)に物事を見る力を持っているといえます。

実はこの能力、観客が映画を見る時にも発揮されています。

そもそも映画(映像)は、静止画の連続にすぎません。てことは、本来肉眼で映画を見たら、高速で静止画が変わっていく様子が見えるはずです。しかし私たちは、映画を静止画ではなく、自然な映像として見ます。

つまり、静止画の連続(要素)を、つながった映像(全体)として認識してると言えます。つまり私たちは、肉眼そのものが見せる以上のものを、精神を通じて見ているということです。

そしてこれこそが、「再現的イリュージョン」です!!!!!

つまり、「再現的イリュージョン」とは、観客の心的過程で勝手になされる補正精神のことを指します。このように、観客の精神を通じて補正が起こるため、人によって映画の認識が異なったりするわけですね(自信ない)

②観客の心理を使った映画の技法

①では、心理学の研究を応用することで、観客は精神活動を行い、映画を見ていることが分かりました。次に、観客の精神活動に効果的に影響を与える映画の技法について、紹介します。

映画は、様々な情動を誘導できるような方法を模索してきました。人の情動を誘導する方法は、特にプロパガンダ映画を通じて、研究が進んでいきます。そして現在では、観客の感情を盛り上げたり、登場人物に共感できるようにしたり、様々な場面で応用されるようになりました。

要は、人間の心的過程を理解し、触発するような技法を使うことで、観客の思考を操作できるということです。モランの『映画あるいは創造的人間』では、同一化という技法が紹介されていました。同一化とは、観客に、自分と全く異なる他者である登場人物を同一視させること技法です。

心理学を応用して、観客の「再現的イリュージョン」が明らかになったことで、作り手側が見せたいものを見せる技巧の研究に繫がったと言えるでしょう。

作品分析

以上の学習内容を踏まえて、『オリンピアー民族の祭典』はどのような作品だと言えるでしょうか。

『オリンピアー民族の祭典』は、ナチス政権下のドイツで行った、ベルリンオリンピックの記録映画です。この作品は、ただの記録映画にとどまらず、独自の編集技術で、スポーツの普遍的な身体美や躍動感が表現されている作品として評価されています。一方、ナチス政権下で撮影されたこともあり、プロパガンダ映画であるという評価もされている作品です。

ここからは、ゼミ内での分析になります。

肉体美を表す独自の技術について

・スローモーション→選手の競技の瞬間を、スローモーションにしている。観客が息を飲んで見守る瞬間の感覚を、スローモーションで表す技巧。観客の再現的イリュージョンを理解した上で、映像表現をした技法だと言える。

・競技以外の演出→得点が入る場面や観客が盛り上がっている映像を、所々で差しはさんでいる。ただの記録映画ならば、選手の競技のみを映像にすればよい。そのため、観客目線のオリンピックのハイライトが上手く描かれていると言える。

プロパガンダ性について

・ヒトラー→ヒトラーの映像が所々差しはさまれている。(自国の選手が得点を入れた時など)しかし、ヒトラーの映像に威厳があるようにはあまり見えない。むしろ、オリンピックを成功させようと必死な表情が多く映っている。よって、ヒトラーやナチスのプロパガンダのために作られているわけではないのではないか。むしろ、観客の再現的イリュージョンで、プロパガンダ映画になってしまったのではないか。

以上を踏まえ、『オリンピアー民族の祭典』は、技法を活用して身体美を表した作品だが、観客の再現的イリュージョンによってプロパガンダ映画として認識されてしまった映画と分析しました。元々、『オリンピア』は、観客の再現的イリュージョンを理解した技法で、スポーツの肉体美や躍動感を表現した記録映画だった。しかし、枢軸国が形成された戦争下の世界では、製作者の意図に関わらず、プロパガンダ映画として機能してしまった可能性があると分析しました。特に、自国のために戦争に行く人たちにとっては、自国の強さを再確認し、自分を鼓舞する映画になっていたかもしれませんね。

私は普段観客であることが多いので、改めてこの理論を勉強すると大変興味深かったです。これから映画を見る時は、映画にどのような再現的イリュージョンがあるのか、意図されているのかを見ていくのも、面白いかと思います。

ここまで見てくださった方、本当にありがとうございました!次回のブログでお会いできることを楽しみにしています!

9期生 第6回『film analysis 映画分析入門』第1部 第2章 カメラワーク

こんにちは。白井翔大です。面白そうな映画やアニメがたくさんあることを再認識しています!もちろん授業を通じても、そうですし、鑑賞記録をつけていくアプリでもそのように感じています。
他の人の鑑賞記録を見ていて思うことのなのですが、この人は普段何をやっている人なのだろうと。というのも、記録の更新数が圧倒的だからです。作品への熱量が高いことはたしかなのですが、それにしてもどのような過ごし方をしていれば、これだけ多くの作品に触れることができるのか気になることがあります。

以下、授業内容になります!

キーワード:カメラワーク
観客は映画を「カメラという眼」を通して見ます。
→カメラがどこに置かれ、どのように動いているかは、映画の意味にとって極めて重要となります!

大論点:カメラワークは映画にどのような意味を与えるのか
それぞれのカメラワークが映画の内容を表す役割を持っています!

中論点1:ショットはどのような意味を持つのか
場面に応じて多様な意味を持ちます!
 小論点1:クローズアップショットは何を表しているのか
 ① 親密性②登場人物の心情について隠しています
 小論点2:ミディアムショットは何を表しているのか
 人物間の関係を表しています
 小論点3:ロングショットは何を表しているのか
 社会環境や自然環境を表しています

中論点2:アングルはどのような意味を持つのか
アングルの持つ意味は単一ではない!
 ハイアングルのショットはどのような印象を与えるのか
 ① 支配の印象②力や高潔さ、道徳などの喪失
 ローアングルショットはどのような印象を与えるのか
 ① 優越性や権威、何らかの価値②登場人物の感情を表します

中論点3:カメラの動きはどのような意味を持つのか
出来事や登場人物を強調したり、価値判断を行ったりします!
 小論点1:パンショットはどのような意味を持つか
 関係づけ(人間関係の樹立、社会集団の説明)のために使われます!
 小論点2:トラッキングショットはどのような意味を持つのか
 技術的進歩によって多様な意味を創り出すことが可能になりました

中論点4:レンズの使い分けにどのような意味があるのか
観念を伝える意味を持っています!

中論点5:焦点距離(ズーム)を変えることによってどのような意味があるのか
① ズームインにはある人や物へ焦点を絞っていく効果②ズームアウトには周囲の空間との対比の中で事物を消してゆく効果がある

応用
今回は、ヒッチコック『鳥』の分析でした。メラニー・ダニエルスが、ミッチ・ブレナー(メラニーが気になる男性)の家に愛の鳥を届けに行きます。するとメラニーがカモメに襲われるのですが、それ以降メラニーだけではなく周囲の人間までもが、鳥にひたすら襲われ続けるというパニックものになります。

今回扱った文献『film analysis 映画分析入門』によると、『鳥』は「強い男性によって社会秩序が維持される、男女の不平等を必要としていることを示唆する映画」です。
メラニー:独立心旺盛な「プレイガール」
→ヒッチコックの思う「女性の自然な役割」に逆らっている
→自然(鳥)が彼女に復讐

カメラワーク
たとえばメラニーが湾を一人で渡るシーンでは、
ミディアム・クローズショット:メラニーが状況を支配している
ロングショット:危うさ、不吉な予感
というように、二つショットが用いられています。

他にもショットがあって、
極端なハイアングル:誤った方向へ向かう人類を疫病で罰するという聖書のテーマが隠れていて、「神による配材」を喚起
といように用いられています。

ここからは、ゼミ内での解釈です。

バードウォッチングのカメラワーク(映画序盤)
バードウォッチングされるかのように、メラニーはミッチに覗かれます。
ミッチが覗く際は、クローズアップ
カメラはミッチをロングショットで撮りますが、鳥が飛ぶ姿も映します。その後ミッチが双眼鏡でメラニーを観察する際、メラニーをクローズアップします。
このクローズアップは、鳥とメラニーの親密性や、そのことによってメラニーが解放的な野生の鳥の仲間、すなわち、かごの鳥ではないことを表現しています。
ついでに言うと、このショットは男性(ミッチ)が女性(メラニー)を一方的に眼差しを向けるショットであり、男女の非対称性を読み取ることができます。

鳥に襲われてからのカメラワーク(映画終盤)
ミッチを中心のミディアムショット
→ミッチの母が家族の中心だった状態から、ミッチが中心になったことを表現
ローアングル
→ミッチが家族内での支配的な存在になったことを表現

鳥の役割は?鳥が襲う対象は?
家父長制や生権力から逸脱する存在を襲いやすいです。

野生/かご(鳥かごの鳥、つがいの鳥)
独り身は襲われやすいし、助け合うことができないので、生存できません。
実際に殺害されてしまった人は、独り身と考えられる人でした。

ではなぜ独り身が殺害されてしまったのでしょうか?
それは、家父長制(生権力)の視点に立つと、独り身は望ましいものではないからです。
その一方で、家族は襲われたとしても助け合い、生存し続けます。

用いた理論
① アブジェクション
メラニーの自立した女性を潜在的恐怖として、その恐怖を棄却。
対照的に支配する側からすると、かごの鳥は支配できているので安心感があります。

② 家父長制(生権力)
ミッチ中心で、その他の家族はミッチを支えます。つまり、ここでもメラニーの自立性は失われて、かごの中の鳥になってしまいます。
このように、『鳥』では近代以降の家族としての安定性を保つことが示されています。

カメラワークと二つの考え方(アブジェクション、家父長制)から『鳥』は次のようにまとめられます。
「メラニーは独立心旺盛で自由な雰囲気を漂わせていますが、鳥1に襲われたことで家族という『かご』に入り、その最下層に移ることを示唆する映画」です。ミッチによって、檻に戻されるメラニーが描かれています。
結果的にミッチと結ばれそうなメラニーですが、この映画がメラニー勝利の物語だったのか、あるいは想定外のことだったのかは、さらなる解釈次第となります!(記号論を用いて、移動の物語として読み取ることもできそうでした)以上が『鳥』の分析になります。

カメラワークも分析に用いることができそうです。ただ、このブログを書いていても思ったことなのですが、映画内の文脈に依存する場面が多々あり、カメラワークが意味を持つというよりは、意味の補強がしっくりくるような気がします。ありがとうございました。

  1. アブジェクションや家父長制、生権力の観点から望ましくない存在を襲いやすい生物、襲うのはメラニーの周囲の人間全員ですが、助かるのは家族 ↩︎

9期生第3回 『film analysis 映画分析入門』第1部第4章アートディレクション

2連続の阪口緑です。

みなさん、新緑の季節となりましたね。

新緑の季節といえば、そう、私の所属する明治大学マンドリン倶楽部の創設者の一人で、昭和の歌謡史に燦然と輝く偉業を残された古賀政男先生作曲の「緑の地平線」ですよね!!

※ここからしばらく宣伝です

阪口がコンサートミストレスを務める明治大学マンドリン倶楽部は、年に2回定期演奏会を行っています。

この春は6月1日土曜日に、神宮球場のすぐ近くにある「日本青年館ホール」にて第194回定期演奏会を開催いたします👏

今回のテーマは「古賀政男先生、生誕120年を祝して」です。

そしてゲストはなんと、あの小林幸子さんです✨

実は小林幸子さんは、古賀政男先生が審査員を務める番組でグランドチャンピオンを獲得し、デビューのきっかけを掴んだんです!

懐かしい古賀メロの旋律、そして小林幸子さんの代表曲や、学生なら誰しも歌える「千本桜」をマンドリンの音色でお楽しみいただけます!!!

昼の部は完売目前ですが、夜の部でしたらまだ小林幸子さんを近くで見られるお席もあります!

ぜひお越しください!!!!!

公式HP↓

http://mumc.jp/concert/?id=22

長文お付き合いいただきありがとうございました!

本日の課題文

さて、9期生3回目はマイケル・ライアン&メリッサ・レノス著『film analysis 映画分析入門』第1部第4章アートディレクションを扱いました。

今回のキーワードは「アートディレクション」です。

アートディレクションとは、プロダクション・デザインとも呼ばれ、映画の中の視覚・聴覚的な環境を構築することを指します。

著者の主張はこちら!

視覚・聴覚的な環境(セット、ロケ地、照明、色彩、音響など)は、単なる背景や映像・音ではない。そこには、何かしらの意味が込められている!

大論点:映画におけるアートディレクションとは何か?

結論:セット、ロケ地、照明、色彩、音響などの意味づけを行う重要な要素

Q.映画のセットには、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の4つ

①作品テーマの想起

②作品テーマの強調

③アクションの示すことの強調

④ストーリー内で起きる重大な変化の提示

Q.道具・衣装には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の3つ

①人物の内面の表現

②人物の内面の変化の表現

③作品テーマの表現

Q.照明には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の4つ

①作品全体を統一する雰囲気の提示

②人物の感情表現

③人物の性格表現

④観客のミスリーディング

Q.色彩には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の2つ

①人物の変化の表現

②作品全体を統一する雰囲気の提示

Q.音(音源、音響)には、どのような意味づけがされているか?どのようなアートディレクションの要素があるか?

→下記の2つ

①観客の感情的反応を引き出す、観客の注意を引き付ける

②作中のテーマやモチーフの提示

本日の応用

この理論を踏まえて、1980年のアメリカ映画『シャイニング』はどのように解釈できるのかを議論しました。

シャイニングの道具やセットには、本や写真、貯蔵庫、文化財のホテル、寒い場所といった「保管、貯蔵に向いたもの」が登場します。

これらは人工的かつ一方的に保管されてきたものなので、サバルタンとして機能しているアートディレクションなのではないかと考えました。

サバルタンとは、「自らを語る声を持たない従属させられた社会的集団※1」を意味します。

※1時事用語事典「サバルタン」

https://imidas.jp/genre/detail/L-101-0117.html

つまり、『シャイニング』に登場する「保管、貯蔵に向いたもの」をアートディレクションとして全面に出すことによって、視聴者に埋もれた歴史(=人工的かつ一方的に保管されてきた自らを語る声を持たないもの)を考えさせているのではないでしょうか。

また、『シャイニング』では、主人公が最後凍死します。

この描写を記述された歴史の一部として貯蔵されたと解釈するのであれば、主人公も最終t系に、人工的かつ一方的に保管されてきた自らを語る声を持たないサバルタン側になったと述べることができるのでは、と結論づけました。

私はアートディレクションめちゃくちゃ好きな理論でした!

9期生第2回 『映画の理論』第8章 音楽

9期生の4年ゼミ2回目を担当する阪口です!

4年春学期は映画の分析について学んでいきます!

本日の課題文

それでは早速参りましょう。

『映画の理論』第8章 音楽

ジークフリート・クラカウアー

今回のキーワードは「映像の写真的な生」

映画のショットは写真の延長である

=音があることで現実的なものとして感じられる。生がある!

写真:本質的に自己完結

映画:充溢した生を完全再現

無音の映像を長時間見続けるって、想像してみると結構退屈だと思います。

私は5分ももたないです。

これをクラカウアーさんは「色褪せた亡霊」と呼んでます

大論点「映画音楽にどのような機能があるのか」

結論「観客に映像へ向かわせる機能がある!」

  • 中論点1:映画音楽の生理的機能とは何か

結論:観客をスクリーン上の映像の流れに生理的に適合させること

映画音楽は美的欲求から必要とされたのではなく、「音楽が伴奏されていること」が必要だったから生まれた

Q.無声映画時代における音楽の役割とは?

→観客を無声の映像の中心に引き込み、映像の写真的な生を経験させること

・現実の生を実感させる

・聴衆の受容能力を刺激する(共感覚効果)

Q.有声映画時代における音楽の役割とは?

→音楽伴奏(「解説的な」音楽)の役割は、観客の焦点を映像に合わせること

・音楽が全部環境音の映画は、映像に集中できない

・自然な音は断続的にしか知覚されず、それによる空隙を保つために必要

・言葉の陰に隠れてしまいそうになった映像を支えることができる

  • 中論点2:映画音楽の美的機能とは何か

結論:聴衆を視覚的探求へと向かわせること

音楽は、解説的音楽や伴奏として機能するだけでなく、実際の音楽や作品の核としても使用される

Q.解説的な音楽とは?

→ショットに潜在しているさまざまな含意の一部を控えめに強調する機能を担っている

・並列法では、物語全体の雰囲気や特定の視覚的テーマを重視して表現し、強化している

・対位法では、映画と音楽との齟齬によって、観客が映像をよく調べるよう導く

Q.実際の音楽は映画に対して適切か?

→使われ方によって問題を含んだり、映画的になったりする

・音楽演奏を映像化することは映画とは相容れない

・ミュージカル映画のストーリーは現実の生に基づいており、歌の数々はプロットに基づいている。ゆえにプロット的リアリズム傾向と歌を使いたい造形的傾向の葛藤から緊張感が生まれる

・音楽演奏を中位の中心から外すことによって、映画の一要素に注目させる

Q作品の核として音楽が使われる場合の美的効果は?

→作品の核としての音楽は、映像の糧にありながら映像を強調する

・視覚化された音楽は、映画において映像の方が音声より優先される結果、音楽が主導的役割を放棄し、伴奏という役割に逆戻りする

・オペラ映画では、オペラの世界の前提がが映画的アプローチと異なっているため、融合するために一体感が生まれることがある。 

作品分析

応用では、2016年のアメリカ映画『ラ・ラ・ランド』を今回の理論を用いて分析したらどのように解釈できるかを話しました。

ラ・ラ・ランドでは繰り返し使われている曲があります(シティ・オブ・スター)

この音楽は映像に集中させていると考えられます。でも、ラ・ラ・ランドは最初の曲と最後のIFの世界のシーンしか覚えてないよねって話になり、ちゃんと論理的にこの理論を使わないと説得力は生まれないと結論づけました。最終的には、この理論を用いて分析を行うこと自体の難しさが争点になりました。