第2回 精神分析1ー呪いは解かれたか

こんにちは!

11期生の秋学期、最初のブログを担当する井上紬です。

毎回、あとがきで最近観た映画の話をしています^_^

本学期もよろしくお願いいたします!

11期生 秋学期 授業進行のしかた

秋学期が始まる前、私たちゼミ生4人はより深く学習したい批評理論を各々3つずつ提示しました。

それはマルクス主義批評だったり、ポスト・コロニアル批評だったり、今回学習する精神分析批評だったりです。

それに対し、学習に役立ちそうな論文あるいは専門書を内藤先生が用意してくださいました。

私たちは毎週、その課題文と分析する作品とを読了あるいは鑑賞し終えた状態で授業に臨みます。

第1回のテーマは精神分析批評です。

課題となる論文は 山田広昭「テクストの無意識はどこにある」(2003)

分析対象は 小説:『夢の浮橋』(谷崎潤一郎,1960)です。

ではさっそく授業内容に入っていきましょう!

精神分析批評 ー『夢の浮橋』

まず最初に、テクストを精神分析的にみるとはどういうことなのでしょうか。

それは、テクストにおいて反復される要素には一見意味がなさそうに思えるものもありますが、実はそれらを抽出して発見されるのは「個人的神話」であり、無意識的なものであり抑圧されたものであるということです。

その一例として、さまざまなテクストにみられるのがエディプス・コンプレックス

ギリシア神話の『オイディプス王』に由来し、精神分析の創始者であるフロイトが提示した概念です。

男児は無意識のうちに異性の親である母親に愛情を抱き、同性の親である父親を憎むようになるという心理的傾向、これをエディプス・コンプレックスといいます。

しかし男児は成長するにつれ、無意識下において「母親を求めたら去勢される」という不安に駆られます。その結果、母親への性的欲求を放棄することができ、エディプス・コンプレックスを乗り越えるのです。

今回分析の対象とした『夢の浮橋』は、主人公とその父母の関係性に焦点が当てられた物語でした。

主人公の糺(ただす)には実母と継母がいます。実母は糺の幼い頃に病死しており、父の再婚によって継母がうちにやってくるのですが、父が継母のことを実母と同じ名前で呼び、糺にもそれを求めていたために、糺の記憶の中では実母と継母が混同していきます。

この物語の奇妙なところは、糺と継母があやしい関係になっていくのを、父は分かっていたのか分かっていなかったのか、2人の関係を見守るに徹しているところです。

このことについて山田は、「昔の母(実母)と今の母(継母)を重ね合わせることで、浮かび上がる『父親の欲望』という個人的神話を抽出させて、その欲望の帰属先を私(糺)へと転移させる過程が、精神分析による無意識の概念を裏付けている」と説明しています。

父は病のためにそう長くありませんでした。そのため、ある意味で息子が継母と深い関係を持つのを期待していたのかもしれません。精神分析に倣っていえば、「父にとって息子とは、おのれ、そしておのれの死を乗り越える分身であるため、息子への愛がナルシシズムの色を強く帯びて、息子へと欲望が転移した」とこの物語は読むことができるのです。

以上が山田の『夢の浮橋』に対する考え方です。

それに対し、私たちゼミ生は、「本当に父親のナルシシズムは息子の糺へと転移してしまったのか?」という疑問を抱きました。そのうえで私たちは、父親のナルシシズムを「父の呪い」と呼び、「父の呪いは受け継がれてしまったのか」という問いを論点に議論を進めます。

結果として私たちが出した結論は、「父の呪いは受け継がれなかった。代わりに、〈親がいない兄と弟〉という対等な関係性の共同体を築いた」というものです。

父は病死し、継母も不可解な死を遂げ、妻とも離別した糺は、最終的に里子に出されていた弟の武を呼び戻し、一緒に暮らすことを決めます。

作中では2点、謎が明かされていません。ひとつは誰がこの武の父親かということ(糺と継母の不貞関係の末にできた子どもの可能性もある)、もうひとつは誰が継母を殺したのかということです。

ただ、それが分からないという事実を踏まえたうえで結果としていえることは、父も継母も死んだことで、糺と武は両親を亡くした可哀想な兄弟として対等な関係を築いていくことができるということです。仮に2人が親子であったとしても、糺を武の親に位置付けてしまう継母の存在が、もうこの世にはいないのですから。

最後に、『夢の浮橋』の2点の謎を明示しましたが、この物語は高度な叙述トリックのうえに成り立っています。終始「私(糺)」によって語られますが、この「私」が信頼できる語り手であるのかどうか、読者は試されるような読み方を強いられるのです。

あらすじはざっと説明してしまいましたが、『夢の浮橋』の不可解で甘美な文体の魅力は、このブログではお伝えすることができません。

ぜひ一度読んで、あなたの考えを聞かせてくださいね!

あとがき

皆さんは『チェンソーマン レゼ篇』はもう観られましたか?

私は観ました、今週末もう1回観に行きます!^_^

私はもともと原作の漫画を読んでいたのですが、正直に申し上げますと、このレゼという少女のエピソードはとりわけ印象に残っているわけではありませんでした。

しかし克明な映像化のおかげで、尾を引く映画体験となりました。

鑑賞してからしばらく経ちますが、いまだにレゼを始めとするキャラクターたちのことや、物語の閉じられ方について考えさせられてしまいます。

少し話は逸れますが、それこそ今回扱った精神分析批評、チェンソーマンにも応用できると思うんですよね。

主人公のデンジという少年と、彼が一目惚れしてしまったマキマという女性の関係性、精神分析批評をしてみたら面白いのではないかと考えています。

上手くいけば秋学期レポートのテーマになるかも・・・?

そこまではまだ、断言できません!(笑)

11期生 第8回 個性とは何か

こんにちは!暑くなってきましたね。

ゼミにサークル、バイトに就活という四足歩行で生活する日々に、心身が悲鳴を上げ始めている井上紬です。

そんな中で迎えた今回の授業ですが、4つのうちのひとつ、就活に頭を悩ませる私に新たな光を投げかけてくれる考え方に出会いました。

文学の批評理論を学んでいたはずなのに気がつけば自分の人生観にまで影響を与えられていたなんて、このような経験ができるのがこのゼミの面白いところですね。

今回はその影響を受けた考え方、「インターテクスチュアリティ(間テキスト性)」についてご紹介します。

ジュリア・クリステヴァ「インターテクスチュアリティ(間テキスト性)」

3限にて 廣野由美子著『批評理論入門』を読み解き、この考え方を解説してくれたのが藤田くん、

4限にて ジュリア・クリステヴァ著『セメイオチケ1』を読み解き、解説してくれたのがジョウくんでした。

ふたりとも、わかりやすく発表してくれてありがとう!

ジュリア・クリステヴァはブルガリア出身の女性で、フランスを拠点に現在も活躍中の文学理論家です。そんな彼女がまず主張したことは、「どのようなテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストは全て、もう一つの別なテクストの吸収と変形にほかならない」ということ。

これはすなわち、存在するすべてのテクストは、たとえそこに個として存在しているように見えても、必ず他に存在するテクストから影響を受けて存在しているということです。そのテクストとテクストの関連性を、クリステヴァは「インターテクスチュアリティ(間テクスト性)」と呼びました。

英語にすると”Intertextuality” と表記されますが、この表現からクリステヴァが、テクストとテクストの連関に “textile”(織物)の特性を見出だしていることがわかります。

彼女は織物でいう横の糸を「共時態」と定義し、縦の糸を「通時態」と定義しました。「共時態」では、テクストが書く主体と受け手との間でやりとりされることを指摘し、「通時態」では、テクストが同時代や先立つ文字資料に向けられていることを指摘しました。つまり主体と受け手と引用される文字資料とがあって、あるテクストは成り立っているのだと主張したのです。

ここで具体例をひとつ挙げてみます。たとえばAという漫画が出版され、「なんだこの漫画、新しい」との評価を受けてヒットしたとします。クリステヴァの主張とは、それがどんなに「新しい」と評価を受けていたとしても、実はその作品に含まれる要素自体は過去作品にも通じるような普遍的なもので、ただAの作者がその要素たちを新しい組み方で織り直しているからそれがオリジナリティとなって評価されている、というものです。

つまり、どんな作品も作者が目にしたものや体験したことが無意識下で引用された織物であり、ただ作者によってその織り方が違うから個々の作品として成立する、というのがクリステヴァの考え方なのです。

私はこの考えに触れたとき、作品だけでなく人間にも通用するのではないかと思いました。

就職活動についてまわる「あなたの個性や強みは何ですか?」という質問。実際にこの形で訊かれることもあれば、【自己PR】という形で回答を求められることもあります。この質問にどう答えるかと考えていると、私はよくこんな思考に行きつくのです。

「こんな人、ほかにもいる気がする。私らしさってなに?」

【ウェイクボードで日本一周】だとか、一発で目を引くエピソードがあれば話は変わるかもしれませんが、たとえばアニメ好きを語るにしたって私よりアニメを観ている人はごまんといるはずだし、作品を観て友人と語り合うことが好きですと言ったって今やそんな人は世界中に数え切れないほどいるはずです。「ほかと差別化」なんて言葉がありますが、そのようなことができる個性なんて私にあるのでしょうか。

もしかするとクリステヴァは、そんなものはないというかもしれません。あなたが触れた作品は必ず誰かも触れているはずだし、あなたが経験した喜びは必ず誰かも経験しているはずです。そのようなものは個性にはなり得ません、とぶった斬られてしまうかも(笑)

でも彼女は没個性的であることに肯定的です。あの人もあの人も、既にあるものの「引用のモザイク」だと言い、あなたと同様彼らの持つものにオリジナリティはないと言います。けれども、オリジナリティは確かにある。それは、持つものそれ自体ではなく、持つもの同士の組み合わせ方、織り成し方だと彼女は言うのではないでしょうか。「私」それ自体がテクストであり引用の織物だと考えれば、すべてが「ほかと差別化」されていく感じがします。自分には個性がないなんて、案じることはないのです。

授業の振り返りは以上となりますが、最後に恒例のイチオシ作品紹介をして、今回のブログは終わりにしたいと思います。今回紹介する作品は小説です。

「真珠王の娘(藤本ひとみ、2024)」

舞台は終戦間際の日本。自分の信念を大切にする少女が、その時代にはばかっていた強大な権力や理不尽な差別に立ち向かい、自分の道を切り拓いていく物語です。

本当はいろいろな側面から作品の魅力を掘り下げていきたいのですが、ここまで読んでくださっている方のお時間も頂戴していますし、今回はキャラクターに焦点を絞ってお話させてください。

あえて普遍的な言い方をしてしまうなら、この作品は三角関係が主軸のラブストーリーです。しかし、トライアングルの紅一点である少女・水野冬美が強く賢くエスプリの効いた返しができるために、食傷気味になることがありませんでした。むしろおかわりが欲しくなるようなやりとりの数々です。それに、彼女を取り巻くふたりの男性も魅力的な雰囲気をまとっています。名前は早川薫と火崎剣介。それぞれ品行方正と素行不良といったところでしょうか。ただどちらもこの四字熟語には意味を託すことができない一面を持っているので、どちらの男性により惹かれるか、読んだ人にアンケートを取ってみたいです。

さて、思い立ったが吉ということで、さっそく布教用にもう一冊買ってきました!明日のサークルでまず1人目に貸す予定です。今夏の自由研究の結果やいかになるでしょうか?