10期生 第5回 シンデレラって実は…

第5回のブログを担当します、中村美咲子です。

突然ですが、今このブログを読んでいるあなたは志摩スペイン村をご存知でしょうか。この回の前座は私が担当だったのですが、志摩スペイン村についてお話させていただきました。三重県にあるテーマパーク施設なのですが、とにかく、景色がよくてキャラクターも神対応で料理もおいしいなのでぜひ皆さんも近くにいくことがあったら訪れてみて欲しいです。

3限は山崎さんに『批評理論入門』から「性格描写」と「アイロニー」の発表をしてもらいました。「性格描写」では、小説の登場人物の描き方について、イギリスの近代小説以前から性格を重視した表現が行われてきたのだといいます。さらには、その性格によってキャラクターの運命が左右されているのだとしています。しかし、本当にそうなのだろうか、という議論がなされました。というもの、著者の展開における怪物が元々善良であったというのは違うと思われるからです。さらに、内藤先生から「分人」という考えが提示され、それぞれの考える性格や個人について話し合いをしました。

次の「アイロニー」では、言葉のアイロニー、状況のアイロニー、劇的アイロニーがあり、それらが用いられることによって作品に深みが増すのだという説明がされました。

4限は秋尾さんにウラジミール・プロップの「昔話の形態学」について発表してもらいました。

そこでは、昔話のもつ31の機能とその特徴について説明してもらったのですが、ここで登場したチャートのわかりやすいことなんのという話で、細かく説明と色分けとなされておりとても有用なものでした。

そして最後に作品を使って31の機能を試してみることになりました。

そこで、「シンデレラ」とは両親を失った少女シンデレラが継母や姉によって虐げられる日々の中で、魔女という助力者の助けを得て街の娘たちとの闘いに勝ち王子様に見初められる。つまり、みすぼらしい少女から美しい姫へと変身した少女が、結婚によって身分を成長させていく物語だと読み取ることができる、と分析することができました。

普段作品を読んでいるだけでは、全く見つけられない構造を見いだしていくのがとても面白かったです。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

10期生第4回 曖昧さの狭間を乗り越えて

第3回のブログを担当します、中村美咲子です。

今日の前座は山崎さんが宝塚について紹介してくれました。実は私は宝塚についてあまり知らなかったので、とても勉強になりました。

一番印象的だったのは、トップの役者が既に決まっており、それによって舞台での役がもらえるようになるという点です。そしてその順位があまり変動せず、多くの場合退団によって上の役がもらえるようになるというのも驚きました。

3限では、秋尾さんが『批評理論入門』の「提示と叙述」そして「時間」について発表をしてくれました。

まず、「提示と叙述」ではそれぞれの特徴の説明と事例を紹介したあと、実際にそれらをわける基準は何かということについて議論しました。「批評理論入門」では提示は情報量が多く、語り手の存在が小さいものだとし、一方叙述は情報量が少なく、語り手の存在が大きいものであるとしています。また、この提示と叙述がバランスよく使われることが小説の面白さや読みやすさを実現しているといいます。

しかし、果たして本質的にその違いはどこにあるのでしょう。我々は提示においては客観性があることがポイントなのではないかという議論をしました。正直なところこの議論は時間内ではうまく結論が出せなかったのでまたどこかで話したいと思ってしまいます。

次に、「時間」では物語の語りの速度について時間が操作されていることと、その4つの速度について説明されていました。まず、省略法はある期間を省略して一気に飛び越える方法であり、最速であるとしています。次に要約法は一定の期間を数ページで要約する方法です。さらに、現実と同じ速度で「提示」される情景法、語り手が物語の流れを中断させて、登場人物がだれも見ていないような光景や情報を示す方法として休止法が紹介されました。

4限では、山崎さんがジュネットの「時間」について発表をしてくれました。

これは、ジュネットが自身の考えを援用しながらプルーストの『失われた時を求めて』について分析しています。それによってに、プルーストが物語言説の速度の形式を変質させることで独自と律動を獲得したのだと考えました。

ここでいう形式とは、3限でも扱った、休止法、情景法、要約法、省略法の4つの形式です。『失われた時を求めて』では、要約法は使用されていません。また、休止法についても物語言説がある対象にとどまる時は主人公の静観的停止が描写され物語内容の時間からは抜け出すことがないため、ここでは存在しないとしています。とすれば、『失われた時を求めて』では省略法と情景法のみが使用されているわけです。さらに情景法については、通常は劇的な集中化が行われるものとして使用されるのにも関わらず、ここでは典型として用いることでいわば非劇的なものという機能の変化をもたらしているのです。

我々にとって、ジュネットのこの文章は難解であったのですが、素晴らしい発表をしてくださった山崎さん本当にありがとうございました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

10期生第2回 虚構を読ませるためには

第10期生はじめてのブログを担当いたします、中村美咲子です。

といっても、私の更新が遅く第2回の秋尾さんの投稿の後になってしまっております。。。

さて、 今回は4/18の授業について書いていきます。

我々10期生は3人でのスタートとなりましたが、幸いなことに春学期は留学生であるダンドレアさんも一緒に勉強できるということで、4人で多くのことを議論していくのが非常に楽しみです。

今回の授業では、まず廣野由美子による「批評理論入門」の1.冒頭と2.ストーリーとプロットについて、そしてロラン・バルトの「作者の死」についてそれぞれ議論をいたしました。

まず批評理論入門の発表を行ったのは、山崎さんです。 この理論から、我々は『フランケンシュタイン』の冒頭部分であるウィルトン氏の手紙についてとても活発に意見を交わしたのですが、先に理論から説明したいと思います。

『フランケンシュタイン』において、当初怪談話としてつくられた際の冒頭である「一一月のある陰鬱な夜のこと・・・」という文章を、物語になるにあたりウォルトン氏が姉にあてた手紙に変えています。なぜ冒頭の変更を行ったのでしょう。それは、読者にとって小説の冒頭は現実世界と虚構の世界を分かつ「敷居」であり、手紙という形式にすることでより現実味を帯びたものにすることができるからだ、と廣野は述べています。

次に、「ストーリーとプロット」では、廣野は、ストーリーは出来事の時間順に並んだものであり、プロットはそれを再編成したものだとしました。さらにプロットは物語を効果的に伝えることができ、それによりサスペンス効果がもたらします。例えば、物事の真相の提示を先延ばしにすることで、読者の不安をあおることができます。

この2つの理論から、『フランケンシュタイン』について、議論をしたのですが、そこでこの作品に現実味を与えているのは、冒頭の手紙という形式ではなくウォルトンという人物その人なのではないかという結論に達しました。

まず、ウォルトンの手紙は彼の姉に宛てた手紙であり、説明口調になっても違和感を与えないという効果があるのではないかということになりました。さらに彼の見聞したことが書かれている点で確からしさをもたらしているのです。そしてもう一つが、ウォルトンという人間が第三者目線で語られることがなく、ウォルトン自身による心理描写と行動の記録のみが彼を知る手立てとなっています。それが、フィクションよりも、日記のようにリアリティを持たせているのではないかと考えられました。

続いて、ロラン・バルトの『作者の死』について発表を行ったのは秋尾さんでした。

それは、エクリチュールにおいて本来は作者の存在はないのだが、近代社会においては「作者」が重要視されてしまっていること、しかし、それを揺るがすことに貢献した作家もいたという内容でした。ただ、今回の授業ではこの理論についての発表と議論が終わらなかったため、次週はこの理論についてさらに深めていくことを期待して初回のブログを締めようと思います。

10期生第2回 語り手ってなんだ

こんにちは。

ブログというものを初めて書きます秋尾藍歌です。

今年は葉桜になるのがはやくてびっくりしている気持ちと、とはいえ去年の桜がいつ散りきったかなんて覚えていない気持ちのせめぎ合いを抱えたまま、私は、今年も、花見をしそびれました。

卒業までには一回はうまい酒片手に夜桜見物としゃれこみたいものですが、はてさて、どうなるか…。

それでは本題に入りたいと思います。

前座

先週前座の発表をしそびれていたので、今日は中村さんと私の2人が前座を担当しました!

「やがて君になる」

中村さんは漫画「やがて君になる」を紹介してくださいました!

「やがて君になる」は、人間関係に悩みを持つ小糸侑が、誰のことも好きになれないという七海燈子と知り合い、その関わりの中で、互いに変化をしていく様子を描いた全8巻の恋愛漫画で、アニメにもなっています。

おすすめポイントは心理描写のこまやかさで、読み返すことで再発見できるような演出もあるみたいです!例えば、光と影を用いた心理描写などが出てくるのだそうです!

文字だけではなく絵などの要素を使って描写を行なっているなんて、素敵ですね。読み返すことで得られる発見があるというのもなかなか惹かれます…!

「塊魂」

私はゲーム「塊魂」を紹介させていただきました!

塊魂は、[なんでも巻き込める塊] にいろいろなモノを巻き込んでいって、大きい塊を作るというゲームです。できた塊は空に浮かべられて星になります。塊の大きさに応じて巻き込めるモノの大きさが変わり、塊を大きくするほどより大きなモノを巻き込めるようになります。

巻き込める範囲内でなるべく大きめなモノを効率的に巻き込んでいって、より大きな塊を作ることを目指すゲームです。ある意味、育成ゲーム?

巻き込めるモノは日常に溢れているモノ(信号機、雛人形、てんとう虫、鉢植えなど)から、ヒト(主婦、警察官、オジサンなど)、果ては建物(ビル、観覧車、球場など)や島、雲まで巻き込めるようになります。最初は巻き込めなかったモノも、他の小さいモノを巻き込んでゆくうちに、いつのまにか巻き込めるようになるのがなかなかのおもしろポイントです。

個人的に好きなのは、巻き込んだ時の効果音です。特にヒトを巻き込むとキャラごとに個性のある悲鳴?を聞くことができて面白いです。ヤンキーを巻き込むと単車の口真似をしてくれます。

他にも演歌歌手にラップを歌わせていたり、ステージが始まる時に色々な国の挨拶をしてくれるキャラがいたりなど、独特なセンスが各所に光る名作ゲームです。

ただ、このゲーム、とてつもなく酔います。画面酔いします。

なのでこのゲームが気になる方は、休みを入れつつやるか、気合いで耐えながらやるといいと思います。

以上!三分で終わらなかった分もここに詰め込んだら長くなってしまいました。ひょえ〜

3限

3限では、先週説明が終わらなかったバルトの『作者の死』を途中から読みました。

レジュメ作成は前回に引き続き私です。

今回は、「多元性を持つエクリチュールの意味が、どこで収斂しているのか」ということについて考察している部分を読みました。

書き手は自らのうちに取り込まれたエクリチュールの模倣を行うものであって、その意味の規定は出来ず、またテクスト自体も、多元性を保ちつつエクリチュールを記しているものであるので、多元性の収斂を行うものではありません。一方で、読者がテクストを読む時、読者は自身のうちでその意味を固定化しながら読書を進めていきます。

ここからバルトは、テクストの解釈は読者に委ねられるものであり、絶対的な解釈はないものと結論づけています。

道徳的な教えが国語教育に組み込まれていたり、ドイツでは、国語は文学史の功績を教えるものであったり、国語教育に担わされているものは、文章を読解するということだけではないようです。しかし、やはり主眼として、国語という教科には、文章の読解が教育目的に据えられているものであると思います。

とすれば、解釈が読者に委ねられる、自由な読み方が見出された今、教育が行う「文章の読解」とはどのようなものであるべきなのでしょうか。

多様な解釈を認める読み方は、教育では行えないのでしょうか。

そもそも多様な解釈とはなんでしょう?

より自由な読み方をしようとした運動として、ニュークリティシズムという運動があったようです。

ニュークリティシズムは、解釈するときに知識をなるべく入れないようにし、そのテクストそのものから解釈を行うことを目指した運動です。

授業教室に詩を一枚だけ置いておいて、学生にそれだけを参照して解釈させようとするなどのことを行っていましたが、結局は詩を読んでいる学生のそれまでの背景を投影して読んでいるに過ぎないとして多くの人に批判されました。

自身の背景を投影して読んでしまう私たちは、自身の持っている背景知識によって、読解はある程度制限されてしまって、完全な「多様な読み方」をすることはできないのではないでしょうか。

そんな中で、教育で「多様な解釈を認める読み方」を学生たちにさせることは、果たしてできるのでしょうか?

4限

4限では、廣野由美子著「批評理論入門」の「語り手」「焦点化」の項目を読みました。

レジュメ担当は、中村さんでした。

  • 語り手

小説は、比較的自由な形式をもっていますが、ただひとつ、「語り手」の存在が不可欠であるという制約だけは守らなければならないものです。

その「語り手」は、どのような位置にいるのかで以下のように分けられます。

  • 一人称の語り手:語り手が物語世界の中に属する場合。物語世界内的語り手ともいう。
  • 三人称の語り手:語り手が物語世界の外に属する場合。物語世界外的語り手、全知の語り手ともいう。
  • 二人称の語り手:語り手がつねに「あなた」と呼ばれる人物に向かって話しかける場合。

「フランケンシュタイン」では、ウォルトンとフランケンシュタイン、怪物が語り手であり、三者とも一人称の語り手に分類されます。

また、「フランケンシュタイン」においては物語のなかに、さらに物語が埋め込まれている「枠物語」の形式も用いられています。ウォルトンの語りのなかにフランケンシュタインの語りがあり、またそのなかに怪物の語りが埋め込まれているという入れ子構造がそれにあたります。

そして、この入れ子構造の一番外側のものとしてウォルトンが姉に書いた手紙というものがあります。よって「フランケンシュタイン」は手紙の形で書いた小説、つまり「書簡体小説」(epistolary novel)の特徴ももっているといえるでしょう。

〈信頼できない語り手〉

「語り手」というものを考える上で問題に上がってくる事柄として、「その語り手は信頼できるか?」という問題があります。 

ブースによると、「信頼できない語り手」は語り手の言葉が読者の疑いを引き起こす場合を指します。この場合において語り手は、作品のなかにいる観念化された作者ともいうべき存在を想定したものである、「含意された作者」(implied author)と価値観を共有しないものと考えられます。

「信頼できない語り手」がもつ効果を、ロッジは、見せかけと現実のギャップや、人がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを露わにすることである、といっています。

また、「信頼できない語り手」たりうる理由がいくつかあり、『批評理論入門』では三つがあげられています。

  1. 語り手が未熟でその表現力や理解力に限界がある。
  2. 語り手が知的障害者であるため判然としない。
  3. 語り手の性質や人格に内在する。

では、「フランケンシュタイン」の語り手は信頼できるといえるでしょうか?

残念ながら、完全に信頼できるとはいえないでしょう。

ウォルトンは情熱的で熱しやすく不安定な性質を持ち、南極に行くという目標を達せぬまま船員の要求を飲んで帰ってしまう部分に関して説明が少ないなどといった特徴があります。

またフランケンシュタインも、自身の行いのせいで死刑宣告を受けたジャスティーヌの苦しみと自分の苦しみを比して自身の苦しさを強調する子供じみた振る舞いがあったり、情熱の果てに怪物を作り上げてしまったことを後悔しつつも、最後のシーンでは南極へと赴くことを諦めた船員に対して喝を入れており、行動に矛盾が感じられ、自己欺瞞に陥っていることから完全に信頼しきるには足りません。

そして怪物。彼も一見論理的には見えるものの、フランケンシュタインが死んだ後にその遺体の前で懺悔をしているそのなかで自分の苦しみを強調する子供じみた振る舞いを見せており、信頼できない語り手の理由1.にあてはまるといえるでしょう。

語り手が「信頼できる/できない」という問題はなかなか面白いと思います。

語り手自身が読者に情報を伏せることでトリックを成立させるものはまさしく「信頼できない語り手」の好例なのですが、「語り手は信頼できる」という前提によって成り立っているものです。

また、中村さんが議論で指摘してくださったことで、「信頼できない語り手自身は、自分が『信頼できない語り手』であることを自覚できない」と考えられるのはとても興味深かったです。

  • 焦点化

もともとは美術用語であった「視点」という言葉は多く「語り手の立っている位置」を表す言葉として使われてきました。

しかし、ジュネットは、語り手が語る内容を、視覚的な意味で使われることの多い「視点」というだけでは説明として十分ではないとして「見る」という行為を「焦点化」、見ている人物を「焦点人物」と名付けました。

そして、ジュネットはその焦点人物のいる位置によって分類を行いました。

まず分類は大きく、「内的焦点化」「外的焦点化」に分類されます。

  • 内的焦点化」は焦点人物が物語世界の内側にいる場合。
  • 外的焦点化」は焦点人物が物語世界の外側にいる場合。

さらに、「内的焦点化」は以下の三つに分類されます。

  • 固定内的焦点化」:焦点人物が固定されている場合。
  • 不定内的焦点化」:焦点人物が変わってゆく場合。
  • 多元内的焦点化」:同じ出来事が複数の焦点人物によって語られる場合。

もちろん、一つの作品につきこの分類の一つのみが当てはまるということは少なく、ほとんどの場合、この複合体によって説明することになります。

「フランケンシュタイン」においては、語り手は複数おり、焦点人物が変わっていく「不定内的焦点化」の方法が主にとられているといえるでしょう。

また「フランケンシュタイン」には部分的に「多元内的焦点化」が用いられている箇所もあります。

怪物がウィリアムを殺害するシーンです。

アルフォンス・アーネスト・ジャスティーヌ・怪物、その多数人が証言をおこなっており、それによって事件の全貌が明らかになっています。

このさい特に注目したいのは、殺害をおこなった怪物自身も焦点人物になっていることです。怪物を焦点人物にしたことによって、フランケンシュタインの立場からはわからない、事件の偶然性や動機の存在が明らかになります。

「多元内的焦点化」は、焦点人物が一人に限られていないことによって描写できる量やその範囲が増すものであると言えるでしょう。

まとめ

今回の授業では、

3限:バルト    →エクリチュールの意味が決まるところはどこだろう

4限:批評理論入門 →「語り手」にはどんなやつがいるんだろう

ということについて学び、考えました。

「語り手」についての話では、物語世界の「内/外」ということが、ひとつの分類の指標になっているのが面白かったです。

私たちの世界には外側は、基本的にないと考えられます。(あるいは外側の世界があるとしても、少なくとも我々はそれを知覚できません)

なので、「物語世界の外側の存在」が存在していること自体が、物語のもつ虚構の一部になっているのだと考えられます。

このような小説の虚構性からは、どこまでの虚構が作り出せるのか、実際に読んだ人にどのような影響をおよぼすのか、などいろいろなことを考えることができます。

どうでしょう、皆さんも「虚構」というものに想いを馳せてみては。