10期生 第13回 労働者が世界を変える

みなさま、こんにちは!春学期第13回のブログを担当します、山崎日和です。

今回も春学期の授業内容です。秋学期に入っているのに… アップが遅くなり申し訳ありません。前後の授業内容を確認したい方は、さかのぼってご覧ください。

前座

今回の前座ではユニバーサルスタジオジャパン(USJ)の常設ショー、「WATER WORLD」について紹介しました。

このショーは同名の映画が元になったアクションショーです。その魅力は何といってもアクションやスタント!ハリウッド仕込みの本格的なものがいつでも楽しめるんです。

USJではほぼ毎日、1日約4回公演が行われているので、もし遊びに行く機会があればぜひ見にいってみてください!

3限 「マルクス主義批評」「文化批評」

今回の3限は秋尾さんの担当で、『批評理論入門』から「マルクス主義批評」と「文化批評」について学びました。

「マルクス主義批評」

マルクス主義とは、ドイツの哲学者、カールマルクスによって提示された考え方です。マルクスは、社会の歴史を階級闘争の歴史だと考え、その闘争が起こる原因が生産関係であること、またそういった生産関係や経済といった下部構造が政治や法、思想などの上部構造を規定することを主張しています。階級闘争というのは、ブルジョワジーと賃金労働者の対立といった生産関係において搾取―被搾取の関係にある者同士の間に起こります。搾取されていた人々が搾取に気付くことで闘争が起こり、その結果社会が発展してきたのです。マルクスは、その究極として共産主義があるとしています。また、そうした生産関係の闘争から社会が変化することから、下部構造は上部構造を規定すると言うことができます。

マルクス主義批評はこのマルクス主義を作品分析に適用した批評理論です。具体的には下部構造から上部構造を読み取ったり、生産力と生産関係の矛盾を見出したりすることで分析を行います。

この理論を用いて『フランケンシュタイン』を見てみると、作品内で描かれる歴史的状況や怪物という存在などがマルクス主義的だと言うことができます。

今回の議論では、『批評理論入門』ではマルクス主義批評の内容は詳しく説明されておらず曖昧だったため、読んでいて違和感があるという意見がありました。

また、『フランケンシュタイン』に登場する「怪物」を市民や労働者階級だと考えると、「怪物」の行動を同情的であれ悪いこととして描くこの作品では、闘争や革命を悪と考えているのではないか、という意見も出ました。こうした描かれ方から、作者であるメアリ・シェリーは革命を良く思っていなかったのではないか、そしてそれはメアリ自身が上流階級、つまり搾取する側だったからなのではないか、と結論付けました。

マルクス主義については4限でも取り扱ったので、そちらも併せてご覧ください。

「文化批評」

文化批評とは、知識階級向けの「ハイ・カルチャー」だけでなく、一般大衆向けの「ロウ・カルチャー」も文化として捉え、それらの境界を取り払うことを目指した文化研究(カルチュラル・スタディーズ)の考え方を土台とした批評方法です。これは、マルクス主義批評の影響を受けたものでもあります。具体的には、文学テキストがいかにしてハイ・カルチャーとロウ・カルチャーの間を行き来してきたかという過程を検証する方法や、原作を映画やドラマ、漫画などの翻案と比較する方法、文学作品を通俗的な読み物として読む方法、時代の文化的背景において重要なモチーフやテーマを作品から取り出す方法など、様々な方法があります。

『批評理論入門』では『フランケンシュタイン』について文化批評を試みていますが、その内容は『フランケンシュタイン』の翻案を並べただけであり、それによって何が言えるかまで書かれていなかったため、批評としては不十分ではないかとゼミ生同士で意見が一致しました。

その後、この理論を用いるのにはどのような作品が良いかについて議論を交わし、『パラサイト』や『レディ・プレイヤー1』などが挙がりました。

私は、この理論は上手く分析に用いれば面白い結論を出せるのではないかと感じました。

4限 カール・マルクス『資本論』、『共産党宣言』

4限は中村さんの担当で、カール・マルクスの『資本論』と『共産党宣言』の一部を読みました。

『資本論』

ここでは、商品についての箇所を取り上げました。

マルクスは、商品とは外的対象として、人間の何らかの欲望を満たすものであり、使用価値と交換価値をもつものだと述べています。欲望を満たすものである、というのはわかりやすいですが、使用価値と交換価値とは何でしょうか?

使用価値とは、物自体を使う価値のことです。ここでは時計を例に出して考えます。時計は時間を確認するという属性を持っています。この属性が使用価値です。使用価値は使用されることでしか実現されません。

一方で交換価値とは、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率のことです。そしてそれは絶えず変化します。これは物々交換や売買について考えるとわかりやすいです。小麦について考えてみると、1クオーターの小麦がある量の靴墨と交換できるとき、それは異なる使用価値が交換されていることになります。さらに、1クオーターの小麦をお金で買うこともできます。これがいくらかは時代や場所によって変化します。この比率が交換価値です。

この交換価値は交換されるもの同士で共通するものです。つまり、その2つのものは同じ価値を持っていることを意味します。なぜ同じ価値であるのか。マルクスはその理由を労働力が同じであるからだとしています。労働力が多ければ多いほど価値は上がります。しかしこれは生産力とは反比例します。同じ量を生産する時、生産力が大きいほど労働時間は短く、その分労働力が少なくなるからです。このように、商品の価値には労働、生産が大きく関わっているのです。

この文章を読んだ後の議論では、労働力の変化と価値の大きさが比例するのであれば、労働賃金が最低賃金で一定なのはおかしいのではないかという意見や、人件費を抑えるのは交換価値を上げないためだという意見が出ました。

『共産党宣言』

ここではブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争についての箇所を取り上げました。

マルクスは、これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史であるとし、抑圧者と被抑圧者の絶え間ない対立は革命か共倒れに終わってきたと述べています。

ブルジョワジーも元々は封建領主に支配されていた存在であり、自らの力でその関係を打ち壊した革命者でした。それまでの宗教的な支配を取り払い、利害関係に重点を置いた社会へと変革したのです。具体的には、生産用具を改良し通信を容易にすることで農村を都市に依存させ、生産力を高めると同時に政治もブルジョワジーに集中させました。これにより階級支配が行われました。

これに対抗したのがプロレタリアートです。かつては労働者だった彼らは、ブルジョワジーによる機械と監視によって奴隷化され没落しました。機械と監視によって、均一化させられたのです。彼らは自らの地位を取り戻すために、まずは個々の労働者が個々のブルジョワジーと戦い始めます。そこから次第に労働賃金の維持を求める同盟を結ぶようになります。プロレタリアートにとって、この同盟、団結が闘争の成果でした。それは、結びつくことによってそれぞれの小さな闘争が一つの国民的な闘争、階級闘争、ひいては政治闘争になるからです。このようにしてブルジョワジーとプロレタリアートの闘争は行われたのです。

この文章を読んだ後の議論では、本文の内容から派生して、労働者と雇用主の関係はある程度相互的な依存関係にあるのではないかということについて話し合いました。労働者がいなければ商品などの価値は生まれないため、雇用主は労働者をないがしろにはできないのではないでしょうか。しかし実際にはどうしても労働者の方が苦しい思いをするのが現状です。これを解決するにはどうすればよいのでしょうか。私たちの議論では、相互評価や第三者の介入によって解決していけるのではないかという結論になりました。

今回の授業ではマルクス主義について詳しく学びました。生産関係など、現実の自分の身の回りにも当てはめて考えることができたと思います。みなさんはどうお考えになりますか?ぜひこの記事をきっかけに考えてみてください!

10期生 第10回 脱構築って何???

みなさま、こんにちは!今回のブログを担当します、山崎日和です。

この記事は春学期の第10回のものです。気づいたら授業からものすごい時間が経ってしまいました… 順番が前後し申し訳ありませんが、前後の記事はだいぶ下の方にありますので、さかのぼってご覧ください。

今回、3限では「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」の3つのテーマを、4限ではジャック・デリダの『根源の彼方に―グラマトロジーについて』を取り上げて「脱構築」について学びました。

前座

今回の前座は私が担当でした。紹介したのは、まらしぃさんというピアニストの方です。

この方は、主にYouTubeでアニソンやボカロなどのピアノアレンジを投稿しています。ピアノ、ということは歌詞がないわけです。そのため、私はよく作業用BGMや睡眠BGMとして聞いています。

特におすすめのものとして、「ちょっとつよいクラシック」と「メドレー」を上げさせていただきました。詳細は省きますが、気になった方はぜひYouTubeで調べて聞いてみてください!

3限 「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」

今回の3限は秋尾さんの担当で、『批評理論入門』から「ジャンル批評」、「読者反応批評」、「文体論的批評」の3つのテーマについて学びました。

「ジャンル批評」

ジャンル批評とは、その名の通りジャンルに関わる諸問題を扱う批評です。ジャンルには、形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあり、このことから文学作品が既存の作品群と関係を持つことがわかります。

本文では『フランケンシュタイン』に関する4つのジャンルについて紹介されていました。

①ロマン主義文学

ロマン主義とは、啓蒙主義への反動として現れたもので、自我や個人の経験、無限なるものや超自然的なものを重視するものです。初期ロマン主義では、恐怖、情念、崇高さなどが作品に取り込まれました。後期ロマン主義では、旅、幼年時代の回想、報われない愛、追放された主人公などがテーマとして取り上げられました。

『フランケンシュタイン』は、恐怖や無限なるもの、超自然的なものをテーマとしているという、ロマン主義文学的な側面を持ちます。また、作中に登場する『若きウェルテルの悩み』もロマン主義文学であることから、ロマン主義の思想の影響が濃く反映されていると言えます。

②ゴシック小説

ゴシック小説は、18世紀後半から19世紀初頭を中心に流行した、ロマン主義文学の一種です。中世の異国的な城や館を舞台として、超自然的な現象や陰惨な出来事が展開する恐怖小説です。

『フランケンシュタイン』は、恐怖を主題とし、不気味な描写や陰惨な出来事などを有しているため、ゴシック小説的な要素を持つと言えます。しかし、リアリスティックな描写や自然の神秘に乱入することなど、伝統的なゴシック小説とは相反する要素も持っています。

③リアリズム小説

リアリズムとは、人生を客観的に描写し、物事をあるがままの真の姿で捉えようとする考え方で、ロマン主義とは対極に位置するものです。小説では具体的に、非現実的な描写や美化を避け、人生における日常的・即物的側面を写実的に描くという方法がとられます。

『フランケンシュタイン』では、前述のように、リアリスティックな描写がなされています。たとえば、怪物の超人的な身体特徴や言葉を話す理由付けが描かれていたり、人造人間を造ることへの化学的説明がなされていたりします。一見するとロマン主義的性質の強い『フランケンシュタイン』ですが、相反するリアリズム的性質も取り入れられているのは、この作品の特徴と言えます。

④サイエンス・フィクション

サイエンス・フィクション、通称SFとは、空想上の科学技術の発達に基づく物語を指します。この定義が確立したのは20世紀初頭ですが、この要素を取り入れた作品はそれ以前から存在したと考えられています。

『フランケンシュタイン』は、科学者によって新しい生物が製造されるという発想や、怪物に生命を吹き込む際、電気が関与した可能性がある点から、しばしば最初の本格的なSFとして位置づけられています。

発表の後の議論では、2つのことについて取り上げました。1つ目は、ゴシック小説の舞台はなぜイギリスではないのかについてです。ゴシック小説はイギリスを中心に流行したものですが、その舞台はイタリアやフランス、ドイツなどです。その理由として、近代化していない国を舞台としたかったということが挙げられました。当時、ゴシック小説の題材は超自然的な怪奇現象であり、これは近代化したイギリスでは起こるはずがないこと、中世的な異国で起こることという偏見があったようです。この思想は、日本の怪談の舞台として都会よりも田舎が用いられる、ということに似ている、という意見もありました。

2つ目は、ジャンルを有効に用いるにはどうすればよいかについてです。本文中にも登場したツヴェタン・トドロフによると、「ジャンルとは、つねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるもの」です。この考えに則すると、ロマン主義とリアリズムは両立しえないことになります。しかし、『フランケンシュタイン』はその両方の要素を併せ持つものと今回定義されました。今回の定義から一般化すると、反発するジャンルでも両立し得ると言うことができます。また、1つの作品に含まれるジャンルは1つではないことも『フランケンシュタイン』の例からわかります。さらに、『フランケンシュタイン』に新たな包括的なジャンルを付与することもできると考えられます。このように考えていくことで、ジャンルそのものの発展へ繋がっていくのではないか。今回はこのように結論付けました。

ジャンルを批評理論として用いることができるのか、みなさんはどうお考えになりますか?

「読者反応批評」

読者反応批評は1970年代頃に登場し、テクストが読者の心にどのように働きかけるかという問題に焦点を置いた理論です。従来、読者は作者がテクストに埋め込んだものを受動的に受け取る者として捉えられていました。しかしこの理論では、テクストに活発に関わりテクストとの共同作業によって意味を生産する存在として再定義されています。これを見ると、読者がどんな読み方をしてもいいと言っているように見えますが、実際にはそうではありません。この理論では、一定の水準に達した資質の持ち主(文学を読んだ経験が豊富な読者や作品に想定されているような読者)のみが読者なのです。また、この理論の対象となるテクストは、読者を刺激し挑発するようなものが想定されています。『フランケンシュタイン』においては、作中の「読む」という行為や手紙という形式、語りの入れ子構造といった点が読者反応批評的に解釈できます。

この「一定の水準に達した資質の持ち主のみが読者である」という定義には疑問を感じますが、この理論が誕生した当時は小説はハイカルチャーであり、それを研究できるのは大学に行ける上流階級の人のみだったため、それに当てはまるような人しか想定されていなかった、と考えられます。

この理論に関してはすでに上がっている記事「第9回 読書ってどうなってるの?」において、同様の理論を提示したヴォルフガング・イーザーの文章について記載がありますので、興味のある方はぜひそちらも見てみてください。

「文体論的批評」

文体論とは、テクストにおける言語学的要素、つまり単語や語法などに着目し、作者がいかにしてそれらを用いているかを科学的に分析する研究方法です。

この理論を用いて『フランケンシュタイン』を分析すると、長く複雑な文や曖昧な内容からはフランケンシュタインの人物的特徴が読み取れ、そこから逸脱した短い文や単純な構造によってより出来事への緊張感が高まるように描かれています。

4限 ジャック・デリダ『根源の彼方に―グラマトロジーについて』

4限は中村さんの担当で、ジャック・デリダの『根源の彼方に―グラマトロジーについて』を読みました。

デリダは、アルジェリア出身のフランスの哲学者で、「脱構築」という概念を提唱しました。今回読んだ文章はその概念を用いたものです。では、文章の内容に入る前に、脱構築とはどういう概念か確認しましょう。

脱構築とは、あるテクストからその中心的思想とそれと対立するような思想を同時に取り出し、後者によって前者を、あるいはその思想総体そのものを相対化する方法です。もっと砕けたように言うと、Aという思想とBという思想が対立していると考えられるとき、Aの中にBの要素を見出す、もしくはその対立の背景を見ることによって、AとBが対立していないことを示す方法です。今回の文章は脱構築の具体例なので、以下でさらに詳しく見ていきましょう。

デリダは本文でロゴス中心主義があらゆる世界を支配していると述べています。ロゴス中心主義とは、ロゴス(真理)は事象の背後に存在する、つまり言葉よりも先に意味があったという考え方です。デリダはこの考え方を表音文字の形而上学であり、強力な民族中心主義であると言います。この考えの支配が表れているものとして、文字言語(エクリチュール)の概念、形而上学(哲学)の歴史、科学の概念の3つが挙げられています。ロゴス中心主義では文字言語よりも音声言語の方がよりロゴスが伝わりやすいと考えられており、文字言語は単に音声言語を文字化したものであるとされていました。これは文字言語が音声言語、ひいてはロゴス中心主義に支配されていると言い換えることができます。また、ロゴス中心主義とは形而上学における考え方です。そのため、形而上学を支配しているとも言えるでしょう。さらに、科学は非音声的な表記を行っているため、一見するとロゴス中心主義に対抗しているように感じますが、実際は形而上学と同様のロゴス中心主義から成り立っています。つまり、科学もロゴス中心主義に支配されているのです。

デリダはこれらを指摘し、中でも文字言語と音声言語の関係に関して、グラマトロジーという概念を提示しました。これは、音声言語の文字化が文字言語なのではなく、思考を文字化したものが文字言語なのだということを意味します。これはアルファベットと漢字について考えてみるとより理解しやすくなると思います。アルファベットは表音文字、つまり音声を文字化したものです。しかし、漢字は表意文字、つまり意味を文字化したものです。こう考えると、音声言語→文字言語という先後関係が必ずしも正しいわけではないことがわかります。これが、音声言語→文字言語の脱構築です。

脱構築という概念について、少しはご理解いただけたでしょうか?この概念はこれ以降の授業で扱う理論の成立のきっかけになっています。なかなかに複雑な概念なので上手く説明ができたか不安ですが、なんとなくでも脱構築について知っていただけたら嬉しいです。

それでは、今回のブログはこのあたりで。みなさま、また他の記事でお会いしましょう!

10期生第14回 生の権力はいかにしてできたのか

10期生春学期第14回のブログを担当します。中村美咲子です。

今回は、山崎さんに、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「ポストコロニアル批評」と「新歴史主義」について、秋尾さんに、ミシェル・フーコーの『性の歴史Ⅰ 知への意志』について、それぞれ発表をしてもらいました。

『批評理論入門』は、それぞれの理論についての説明があり、その理論を使って『フランケンシュタイン』を分析していました。

ポストコロニアル批評

ポストコロニアル批評は、西洋によって植民地化された第三世界の文学作品を扱う批評で、植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する方法と、帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品に植民地がいかに描かれているか分析する方法に分けられます。

『フランケンシュタイン』は、帝国主義文化圏から生まれた文学作品です。この作品でポストコロニアル批評を実践すると、オリエンタリズム的描写や帝国主義的な描写が描かれているといいます。それは、トルコ人親子や怪物に関する描写から見られるそうです。トルコ人親子は民族的な偏見のために無実の罪を着せられた犠牲者と、狡猾な忘恩者の2つの側面を持つ存在として描かれます。しかし、娘のサフィーはキリスト教徒であることから肯定的に描かれていると考えられます。

また黄色人種のような見た目の怪物が言葉を学ぶ場面では、アジア人の劣性とヨーロッパ人の先天的・文化的優性が対比されます。このようにいくつかの点で、『フランケンシュタイン』はオリエンタリズム的で、帝国主義的だといえます。

発表の中で、『ピーターパン』においても、インディアンを描いた場面で偏見の含まれた描写があることを知りました。

新歴史主義

新歴史主義は、ニュー・クリティシズムに対抗するものとして誕生しました。また、既存の歴史主義は、出来事を重視して歴史を文学作品の「背景」であるとみなしますが、新歴史主義は出来事としての歴史だけでなく社会学や文化人類学含めた「社会科学」という領域のテクストと文学テクストの境界を取り払って分析を行います。

『フランケンシュタイン』においては、怪物の創造に関して、新歴史主義で分析を行っています。そして、歴史資料の中で、人造人間製作や自然科学といった点で影響を受けていることを指摘しています。

性の歴史Ⅰ 知への意志

今回の授業では、この文章の一部分のみを取り上げて発表をしてもらいました。

その中で、主張されていたことは、現代における権力のメカニズムが、生の権力であることとそれが性と結びついて性の政治的な文脈を生み出しているということです。

まず告白という行為が、性に関する言説を産出していることがいわれています。そして、「性的欲望」によって、その告白が科学と結びつけられたとされます。そしてこの「性的欲望」はわれわれの主体と形成するものなのです。

次にこの性的欲望は権力において、道具として形成されます。それは性的欲望の装置であり、家族という形態の中に組み込まれて発展します。

最後に、「死」の権利が「生権力」に移行していったことがいえます。つまり、政治が生を管理することに興味をもちはじめたのです。そしてそれは、資本主義の発達に不可欠なものでした。さらに、性的欲望が身体の規律や人口の管理に結びつくことから重要視されます。このように生を管理する政治がおこなわれ、性的欲望と結びついているのだといいます。

若干飛び飛びの内容になってしまいましたが、発表の内容は以上です。

更新が遅くなってしまいましたが、今回が春学期の最終回でした。この半年間たくさんのことを学び、ゼミ生同士もたくさん交流ができたので、秋学期も多くのことを学べるようにがんばりたいと思います。

最後までお読みくださりありがとうございました。

10期生第11回 セックスは構築物である

10期生春学期第11回のブログを担当します。中村美咲子です。

今回の3限では、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「脱構築批評」と「精神分析批評」についてダンドレアさんに発表してもらいました。

4限では、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の一部分を秋尾さんに発表してもらいました。

脱構築批評

まず、脱構築批評とは、ジャック・デリダの提唱した理論で、テクストが矛盾や不一致を内包していることを示し、その矛盾がテクストの意味を決定不可能にすることを証明しようとしました。つまり、テクストに焦点をおいて、そこに見られる二項対立を解体するのです。

『フランケンシュタイン』においては、死体から生命を創造する試みによって多くの犠牲をもたらします。そこで、生と死、美と醜、光と闇といった二項対立が崩壊し、境界が曖昧になります。また、フランケンシュタインと怪物の関係の優劣や主従階層が逆転する様子が描かれていると指摘しています。

この文章において、脱構築の手法については詳しく書かれているものの、二項対立が崩壊したことによって何が起きているのかという解釈を導くことに触れられていなかった点が問題であると議論しました。

精神分析批評

精神分析批評については、フロイトの理論、ユングの理論、神話批評の3つを取り上げていました。まず、フロイトの理論については、自我やイド、スーパーエゴが『フランケンシュタイン』の分析を応用できるとして、エディプス・コンプレックスとファミリー・ロマンスの影響を指摘しています。エディプス・コンプレックスは、幼い男児が母親に対して抑圧された欲望を持つというもので、ヴィクターのもつこの欲望が怪物として具現化されたと解釈しています。また、親から十分な愛情を受けなかった子供が創作を通じて欲望を満たすことを「神経症患者のファミリー・ロマンス」と名づけたのですが、この『フランケンシュタイン』もファミリー・ロマンスを反映させた作品だといっています。

次にユングの理論では、集団的無意識によって継承された心象=「原型」が夢や文学作品にあらわれるといいます。『フランケンシュタイン』にみられる「原型」のパターンとして、「影」「ペルソナ」「アニマ」を挙げている。「影」は、フランケンシュタインにおける怪物で、彼の抑圧された本能や汚れの象徴とされます。「ペルソナ」はフランケンシュタインが良家の息子であるということで、その内部の抑圧された本能や欲望が怪物としてあらわれたのです。「アニマ」はフランケンシュタインにとってのエリザベスで、彼女が怪物によって殺されてしまうことで、人格の統一を失い、自身の影との対決を決意するのです。

神話批評では、個人を超えた人間経験の原型を文学作品に探し当てる批評法です。『フランケンシュタイン』においては、フランケンシュタインが神話のプロメテウスのように、人類に恩恵を与える英雄であることがうかがえます。また、フランケンシュタインは英雄としての試練に失敗し、怪物という災いをもたらします。この災いから、英雄の死をもって国を救うというモチーフを、フランケンシュタインと怪物の死からみることができます。

ジェンダー・トラブル

ここでは、セックスとジェンダーの概念の捉え方について、セックスからジェンダーが規定されるのではなく、ジェンダーによって社会的にセックスが構築されていると主張されます。さらに、ジェンダーはセックスのように、固定化されたものではなく、身体が身に纏う文化的意味でこれも構築物だといいます。

この主張を踏まえて、現代の日本においては、セックスやジェンダーが構築物であるという認識は広まっていないだろうという意見がありました。この認識がより共有されることが重要であるが、メディアにおいてはあまり的を得た議論はされておらず、むしろ特定のマンガやアニメにおける表象の方が適切にこの主張が反映されているのではないかと話し合いがおこなわれました。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。

10期生第4回 奇妙で信頼できない語り手

第4回のブログを担当します、中村美咲子です。

今回のゼミでは、ドイツの小説家、イェンゼンの『グラディーヴァ』について分析を行いました。

まず、『グラディーヴァ』のあらすじについて説明します。物語は、主人公のノルベルト・ハーノルトが若い娘の浮彫作品に惹きつけられて、「グラディーヴァ」という名前をつけるシーンからはじまります。その後大まかに第一の夢、イタリア旅行、第二の夢、ツォーエと結ばれるという流れに分けられます。

第一の夢では、グラディーヴァの妄想を繰り返すハーノルトが、古代ポンペイの夢を見ます。その中で、グラディーヴァを見つけ彼女の死を目の当たりにします。

夢を見たあと、主人公はイタリア旅行に出発します。そこでは、グラディーヴァによく似た女性ツォーエに出会いますが、ハーノルトはツォーエをグラディーヴァと同一人物だと思いこみながら関係を続けます。

第二の夢では、夢の中の「どこか太陽の下」でグラディーヴァと出会います。そこで彼女は、蜥蜴を捕まえようとしています。

夢からさめたハーノルトは、現実でグラディーヴァに会いにいきます。そこで彼女の肌に触れてしまい生きた人間であることに気づきます。さらには、ツォーエがハーノルトの近所に住んでいる幼いころの友人であることを知らされます。幼いころの恋心を思いだしたハーノルトがツォーエと結ばれて物語を終えます。

ゼミの前半では、オーストリアの神経科医で精神分析の創始者であるフロイトが行った「グラディーヴァ」の夢解釈についての発表を山崎さんがしてくれました。

フロイトは詩人が夢を通して主人公の心の状態を描こうとすることから、夢を研究する意義があると述べています。さらに、無意識と抑圧という言葉を用いて、幼年期の印象が無意識的なもので意識に到達できなかった結果妄想や空想が出現しているといいます。

そして、第一の夢は、ツォーエへの恋着がポンペイ没落とグラディーヴァ喪失へと作り替えられたものであるとしています。次に第二の夢については、夢を見る前に起こった複数の出来事を取り込んでおりハーノルトの無意識下で知っていることや気づいていることが夢として現われているのだそうです。

フロイトはツォーエについて、彼女はハーノルトの病的な状態を治療する存在として扱っています。その治療は、本質的に精神医学と根底を同じにしていることを指摘し、詩人も医者と同様に無意識の法則を知っているためにこのような小説がつくられたのだとしています。

わたしたちは、このフロイトによる批評について検討したのちに、この小説についての語りに奇妙な点を2つ見つけました。

1つは、ツォーエとグラディーヴァを同一人物であることを強調するように物語が進行していく点です。そしてもう1つは、ハーノルトの行動について評価をするような語りが行われていく点です。

なぜこのような語りになっているのかについて検討を行い、わたしたちは、この語り手はハーノルト自身なのではないかという結論に達しました。ただし、彼が後生になって行った自伝的な語りだと考えられます。この結論であれば、妄想の影響でツォーエとグラディーヴァを同一視していたハーノルト自身の語りであるから、二人を同一人物とする語りが行われているのだといえます。また、ハーノルトの行動を評価する語りについても、後生の彼が、若いころの自分の行動について教育的な語りを行っていると考えられます。

この結論を補う発見として、ハーノルトの心的描写が複数あるにも関わらず、ツォーエについてはたった1箇所のみしか心的描写が行われていないということがあげられます。これは、語り手がハーノルト自身であること、またすべてを知っていてそれを語りに反映させないことでトリックを見せないようにするためだったと考えると自然に思えます。

最後までお読みくださりありがとうございました。

10期生 第3回 虚構世界の秩序とそこで起こること

秋学期第3回のブログを担当します。中村美咲子です。

長い夏休みも終わりついに秋学期がはじまって1ヶ月ほど経過しました。今学期はベトナムからの留学生のフエンさんともゼミの活動が行えるので、ますますよいゼミ活動になっていけたらと思います。

今週取り上げたのは、ジョルジュ・アガンベンの『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』です。この本では、ホモ・サケルについてローマ古法に存在する殺害可能で犠牲化不可能な存在であるとしています。つまり法律上では、彼を殺しても裁くことができないのです。これまでのフーコーなどによる生政治は、近代に特有なものだとされていましたが、アガンベンはホモ・サケルが現代にも適用されることから、この「生政治」の在り方が古代ローマから続くものであると主張しています。

この『ホモ・サケル』について理解を深めたあと、われわれはスティーブン・スピルバーグ監督の映画『レディ・プレイヤー1』の分析を行いました。

この作品では世界的に普及したVRオアシスの設立者であるジェームス・ハリデーが死後、オアシス内に3つの鍵を残したといいます。その鍵を手に入れたものはオアシスの管理権限を得ることができるため多くのプレイヤーが鍵を求めて争いをおこなっています。そして、この映画は主人公のウェイドが鍵を探す冒険の物語だということができます。

現実の世界とオアシスの世界が存在していることから、『レディ・プレイヤー1』におけるオアシスがどのような世界なのかホモ・サケルの理論を踏まえて検討しました。最終的に、オアシスでの殺害行為は、アバターを消すことしかできずそれを咎める法が存在していないことから、オアシスはホモ・サケルが存在しない世界だと結論づけました。

さて、この『レディ・プレイヤー1』については第5回の議論でも取り上げることになりました。今週の議論では、作品の構造について検討する時間が長くなってしまい内容の分析の時間をあまり取れなかったため、第5回はもっとおもしろい議論ができるよう精進していきたいです。最後までお読みいただきありがとうございました。

10期生 第7回 日常は思ったより奇妙かも

みなさま、こんにちは!今回のブログを担当します、山崎日和です。

今回も前回同様投稿期限を過ぎているのですが、なんともだもだしている間にものすごい時間が経ってしまいました…!本当にすみません… 反省しながら執筆にとりかかります。

前座

今回の前座は私が担当でした。紹介したのは「ビリーヴ~シー・オブ・ドリームス~」。東京ディズニーシ―で毎晩行われている水上ショーです。

2022年から上演されているこのショーは、ピーターパンとウェンディが中心となって、さまざまなディズニーキャラクターたちの夢を見てまわり、諦めずに信じ続けることで夢は叶うということを学ぶ、といった内容です。

見どころはなんといっても演出です!水上に現れる大きな船やレーザー、さまざまなところに映し出されるプロジェクションマッピング、水や花火を使った演出など、空間と技術を詰め込んだ演出は、迫力満点です。

また、ショーが行われる場所は360度どこからでも見ることができ、座席の予約や購入をしなくても誰でも見ることができます。その手軽さもこのショーの特徴のひとつだと思います。

美しく壮大な夢の旅、みなさまも是非一度体験してみては?

3限 「反復」「異化」

今回の3限は秋尾さんの担当で、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「反復」と「異化」の2つのテーマについて学びました。

「反復」

反復は文学において重要な修辞技法です。反復されるものはさまざまあり、それは大まかに2つの種類に分けられます。

・文法的なもの:音(頭韻、脚韻)、語句(リフレイン、前辞反復)、韻律、    文法構造など

・物語内容に関わるもの:筋、出来事、場面、状況、人物、イメージ、出来事など

本文では、『フランケンシュタイン』に出てくる反復として、出来事、人物の反復や、言葉の反復といった例が挙げられていました。

これに関して、反復は読者の記憶により残りやすくするために行われるものなのでは、という意見が出ました。

確かに、何度も同じものが繰り返されることで、印象に残りやすくなるというのはあると思います。

また、反復が用いられているものとして、ループする物語が挙げられました。ループする物語は、同じ出来事の中で一部が変化していることに登場人物が気付くことで、ループしていることに気付く、といった内容なので、同じ出来事が反復されているといえます。

「異化」

異化とは、見慣れた事物からその日常性を剥ぎ取り、新たな光を当てることです。

この異化を起こすために、ある要素や属性を強調し、読者の注意を引き付けるように際立たせる「前景化」という方法が用いられます。

こう書かれてもどういうことかわかりづらいですが、例えば「人以外のものから見た人間」を考えると想像しやすいと思います。

ここでは芥川龍之介の『桃太郎』から、鬼が人間について話している場面を例とします。

「人間というものは
つの

えない、生白
なまじろ
い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に
なまり

をなすっているのだよ。それだけならばまだ
いのだがね。男でも女でも同じように、※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)
うそ
はいうし、欲は深いし、焼餅
やきもち
は焼くし、己惚
うぬぼれ
は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒
どろぼう
はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」

この文章を読むと、普段は当たり前の存在である「人間」がなにか奇妙なものに見えてきませんか?これが異化です。

つまり、異化とは自分の常識を覆すような概念なのです。

『フランケンシュタイン』でも同様に、怪物の目から人間や言葉といったものが異化されていると考えることができます。

この異化は、ヴィクトール・シクロフスキーが用いた言葉です。シクロフスキーは第6回で登場したミハイル・バフチンと同時代の人で、バフチンと同様に言論で社会を変えようとした人です。そのため、本来の異化は見る世界が変わるほどの強烈なものであり、読んでいて好ましい感覚にはあまりならないものです。

現代の日本ではここまで強いものはあまりないと思いますが、授業中で秋尾さんが紹介してくださったジョージ・オーウェルの『動物農場』などはこれに近いもののようです。気になった方はぜひ読んでみてください。

4限 ヴィクトール・シクロフスキー『手法としての芸術』

4限は中村さんの担当で、3限でも登場したヴィクトル・シクロフスキーが書いた『手法としての芸術』を読みました。

本文でシクロフスキーは、芸術の目的は異化の手法によって対象物を「直視」させることであるとし、従来の「芸術はイメージによる思考」だという定義を否定しました。

詳しく見ていきましょう。

従来は、イメージなくして芸術は存在しないと考えられており、イメージは変化するものだとされていました。しかしシクロフスキーは、イメージは不変のものであり、芸術の目的はもっと違うものだと考えました。

このような従来の考え方は、詩と散文を区別しなかったことによって生まれてしまったとシクロフスキーはいいます。つまり、散文における知覚のされ方が、根本的に違うものである詩においても用いられてしまったということです。この知覚のされ方が「自動化」です。

「自動化」とは、いわゆる無意識化であり、物事が習慣化されることによって起こるものです。これは日常生活を送る上では必要なことですが、芸術には適していません。

ではどうすればよいのでしょうか。シクロフスキーによると、芸術の目的は直視することであり、なるべく知覚のプロセスを長引かせる必要があるそうです。ここで登場するのが「異化」です。異化によって知覚までに時間がかかるようにするのです。

本文を読み、授業ではさらに「異化」について考えを深めました。

中でも中村さんがおっしゃっていた「異化は絵画を鑑賞する際の感覚に近いのかもしれない」という意見には、納得しました。

先ほども書きましたが、異化とは知覚のプロセスを長引かせるものです。絵画の鑑賞も、その絵画が何を表しているのか考えることに楽しみを見出しているといえます。これらを比較すると、知覚に時間がかかるほど楽しいという点で共通していると考えられます。また、ここからたとえそれがあったとしても、素通りしては意味がないこともわかります。私たちはそれが何を表しているのか、考えなくてはいけないわけですね。

いかがでしょうか?異化、難しいですね… 正直に言うと、私はシクロフスキーの文章を予習で読んだとき、どういうことかいまいち理解できませんでした。なんかわかりそうでわからないもやもやした感じがありましたが、授業でほかの方の意見を聞いて、自分なりに咀嚼してなんとなくわかったような気がします。少しでも読者の方に伝わっていたらいいな…と思います!

ではみなさま、また今度お会いしましょう!

10期生 第9回 読書ってどうなってるの?

こんにちは。三年ゼミ第9回のブログを担当します、秋尾藍歌です。

いつのまにやら春学期も半ばを越え、もう第9回。いつのまにやら夏休みになり、そしていつのまにやら終わってしまうことになりかねないほどの体感速度のはやさ…。恐ろしい話です。

前座 (担当:わたし)

今回の前座では、キリンジ(KIRINJI)という音楽アーティストを紹介しました。ポップなサウンドとオシャレな歌詞が特徴的なバンドです。メンバーはちらほら変わっているみたい…

私のおすすめソングは、「エイリアンズ」「十四時過ぎのカゲロウ」「時間がない」です。とはいえ本当に当たり曲が多いので(私的に)、おすすめはベストアルバムを聴くことです。「KIRINJI Archives SINGLES BEST」を、聴こう!(私は、このアルバムと先ほどおすすめした曲だけを聴いてキリンジを知った気になっていた時期があります。ちょっとずつ開拓して今に至る)

3限 (担当:中村さん)

第9回の3限では、もはやお馴染みの『批評理論入門』から、「結末」「伝統的批評」「透明な批評」の三つのテーマについて学びました。

「結末」

物語には、大きく分けて二つの終わり方があります。

・閉じられた終わり— はっきりした解決に至って終結する方法。

・開かれた終わり— はっきりとした解決なしに終わり、結末について多様な解釈が可能である場合。

「閉じられた終わり」→ハッピーエンド(主人公の結婚など幸福な状態で締めくくられる)、悲劇的結末(主人公の死や破局によって終わる)、意外な結末(読者の意表をつく終わり方)など。

「開かれた終わり」→二重の結末(二通りの解釈の可能性を含む)、多重の結末、結末が冒頭へとつながり円環をなすような形の実験的な作品などがある。

批評理論入門では、これらの結末を紹介した後で『フランケンシュタイン』の結末について考察しています。そこでは、『フランケンシュタイン』の結末は、フランケンシュタインの死・怪物の消失という悲劇的結末の「閉じられた終わり」である印象を受けるが、「開かれた終わり」として見ることもできるということが語られています。「開かれた終わり」として見ることができる根拠として、①「手紙」の形式をとっている作品であるが訣辞も署名もなく終わっていること、②怪物は消えてはいるが、死んだという描写はないこと、が挙げられています。

ゼミでの議論では、『フランケンシュタイン』が「開かれた終わり」であるとするならば、「閉じられた作品」とはどういったものになるのか、といったことからはじまり、このような解釈の多様性が生まれるようになった原因として、読者の自由な読み方が肯定されたことや、誰の視点で物語が展開していくのか(=誰が焦点人物となっているか)について不定内的焦点化(焦点人物が変わっていく)の手法が取られることが多いことなどが挙がりました。

また、日本だと「開かれた終わり」の作品が多い傾向にあることや、ファンタジーは「閉じられた終わり」が多いこと、なども指摘がありました。

どの登場人物の視点から語るかによって”開かれて”いるか”閉じられて”いるかは変わってしまい、どの作品もどちらの結末とも取れるため、あらすじなど大きい部分から判断する必要があるだろう。そしてそれに基づいて考えると、やはり『フランケンシュタイン』は「閉じられた終わり」の結末の作品であると言えるでしょう。

「伝統的批評」

この章では、『フランケンシュタイン』がこれまでどのような批評をされてきたのか、ということについて紹介されていました。

道徳的観点からの批評

作者メアリー・シェリーの夫、パーシー・シェリーの最初の『フランケンシュタイン』批評では、道徳的テーマを持つとされたこの作品は、その後長らくの間、信仰の影響などから道徳的に悪影響を与えかねない作品であるとされてきました(ジョン・クローカー、『エジンバラ・マガジン』など)。しかし、時代が進むにつれて、道徳的目的に基づいて書かれた作品だとする主張がなされるようになったそうです(M・A・ゴールドベルク、モーリーン・クレイマン)。

フランケンシュタインのモデル

また、伝統的批評では、『フランケンシュタイン』の主要な登場人物ヴィクター・フランケンシュタインのモデルについても議論がなされています。夫パーシー・シェリーや、そのパーシー・シェリーが影響を受けた人物であるエラズマス・ダーウィンをモデルとする説などがあるそうです。

ゼミでは、これらの伝統的な批評に関して今利用しても有効であるかなどが話題に上りました。こういった批評から、当時の社会的な価値観が判明することを考えると利用はできるが、今同じ方法で批評をすることだけでは主張として物足りなくなってしまうのではないかと思います。

また、『フランケンシュタイン』が書かれた当時は、作者は『女性』というだけで未熟とされ批判されるようなこともあり、そのこともこころよい評価があまりなされなかった理由のひとつであるのではという指摘もありました。

「透明な批評」

批評の分類のひとつに、「透明な批評」「不透明な批評」というものがあります。

テクストの外側に立って形式上の仕組みを分析するものが「不透明な批評」であり、一方で「透明な批評」は、テクストのなかに入り込んで(作品世界を現実のものとして扱って)論じます。現在論文で行われているようなものより、アニメや漫画などの考察として動画などになっているものの方が「透明な批評」には近いかもしれません。

『フランケンシュタイン』では、アーネスト・フランケンシュタインの消息や、怪物の肌の色などについての透明な批評があります。

しかし、実際今この方法を用いて批評を論理的に展開することは難しいのではないかと思います。

4限 (担当:山崎さん)

4限では、ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』を読み、読者行為論について学びました。

イーザーは、テクストは読者が受容することによって初めて完成するものであり、テクストと読者は相互に働きかけあいつつ成立していると主張しました。

イーザーによると、読者は文章を読み進めることによって、自身の中にその文章全体が持つイメージを形成していきます。そのイメージは、読み進めるとともに形成されていき、また、そのなかで修正が加えられ変形していきます。読者が持つイメージと文章のあいだに生じる矛盾から、その文章に対する期待が生まれます。また、視点の移動によって読者のなかにイメージの分節が生まれ、それらの視点ごとのイメージ同士が違いを際立たせ、また修正しあうということも述べています。

イーザーによれば、テクストにはつねに、読者の想像を促す「空所」や読者やそのイメージへの「否定」があり、読者はそれらに取り組みつつ読書を行うことになります。「否定」は先ほど触れたように読者の読書行為を促し、かつ読者に未知の経験をあたえます。イーザーはこの未知の経験が、読書における「美的行為」であるとしています。一方「空所」は、「否定」とともに、読者の内部に言葉にできないようなイメージを生み出します。そのイメージも美的なものとして考えられます。

ゼミでは、いくつかの指摘がされました。

  • イーザーの主張について、当時は有効な意見であったが現在では当たり前である。
  • 読者を構造化し普遍化しているが、それにあてはまらない人もいるのではないか。→環境によって読者の読みが異なるとする主張がある。
  • イーザーが対象としている読者は、空所や否定に耐えうるような真面目な読者のみなのではないか。空所や否定を受け入れず、最後のオチの部分から読む読者などについては想定されていないのではないか。

うまく言い表すことができませんが、私にはイーザーの主張について受け入れ難く思っている部分があります。

例えば、イーザーは、読書はつねに読者への否定(=未知の部分や読者の想像を超えてくる部分)と空所によって成り立っているとしていますが、読者に想像できる部分ももちろんあるはずだと私は思います。否定の部分は、ところどころで登場し、読書へのモチベーションを保つ補給場所になっていると考える方がしっくりくる気がするのです。

みなさんは、イーザーの考える「読書」の構造についてどう思いますか?

今度本を読む時などになんとなく考えてみることもおもしろいかもしれませんよ。

10期生 第8回 彼らはなにを訴えたいのか

3年ゼミ第8回のブログを担当します。中村美咲子です。

前座

今回の前座は私が担当しました。

そこでは私の好きなVtuverのアニメプロジェクトについて紹介しました。普段はゲーム配信を主に活動されているのですが、視聴者からアニメ制作のできる人を募集して実際に3分のアニメ動画を作成しました。そのアニメは彼の活動をなぞるような内容で、ファンにとってはとても思い出深いものであると同時に、彼の周囲の人との関係性も浮かび上がるものとして、紹介しました。

3限

早速発表の内容についての紹介なのですが、3限では山崎さんが批評理論入門の「間テクスト性」と「メタフィクション」について発表してもらいました。

「間テクスト性」では、「フランケンシュタイン」に影響を与えた作品や、その特徴がみられる作品を具体的に挙げられていました。それについて我々は、それらの作品について、「フランケンシュタイン」との間テクスト性がみられることを認めつつ、果たしてその間テクスト性によって、なにがいいたいのかが曖昧であること、そこに存在するイデオロギー素についての分析がなされていないことを指摘しました。4限でも触れたのですが、クリスティヴァは「間テクスト性」を用いて、その世界を変えようと影響を与えようとしていたのですから、我々もその文脈を受けついでいくことが求められてなりません。また、もう一点議論されたのが、間テクスト性として挙げられた作品が小説や絵画にとどまっていることです。より歴史的・社会的文脈に沿って考えられるのではないかと究明されました。

そして、過去の作品を取り込んでいるという点が、いわゆるパクリの問題につながってしまうのではないかという疑問があがりました。我々は、その類似性の高さや利益の侵害性がひとつの基準軸になるのではないかと考えました。また、作品の中で、独自の創作性がどれだけ含まれているのかという視点でも考えられるのではないかとされました。

次に「メタフィクション」は、語り手が語りの前面に現れて、読者に向かって「語り」自体について口上を述べるようなものとして紹介されました。我々はこの手法が実際にどのように使われているのか、またそれを用いることでなにが起こるのかを話しました。そこで、第4の壁という、舞台などで使われる特殊な表現方法を知りました。また、本文では、作り物にすぎないことを伝えることができるものと紹介されていましたが、作り物であることを読者や観客が意識している状態で、メタフィクションを使うと没入感を強める効果もあるのではないかと考えました。

4限

4限は、秋尾さんによる、ジュリア・クリスティヴァの「セメイオチケ」についての発表でした。そこでは、文学テクスト記号論がどうあるべきか、という論点に対して、言葉の結びつきかたを研究し、対話空間の中でさまざまな結合の仕方に対応する形式表現を見いだすことという結論をあげていました。また、テクストが歴史と社会に位置づけられることや、言語学や論理学との差異を提示し、独自の展開が求められることを指摘しました。

発表の中で先週学んだ異化のように、社会に訴えるような意味をもった理論だという指摘があり、シクロフスキーと同時代のロシアフォルマリズムの系譜であることも再確認されました。

さらに、発表のあとには、連辞と体系という二重性という部分について、先生が詳しい事例を挙げて説明してくださいました。それによって、二重性とは統語的な文章の正しさと連合によって補完される意味という二つの対話的特徴があり、これらが水平と垂直に交わることで、二重性の構造を生み出しているのだと思いました。

今週も非常に難解な文章でしたが、なんとか乗り越えることができたと思っています。

最後までお読みくださりありがとうございました!

10期生 第6回 テクストは作者の意図の反映か

みなさま、はじめまして!今回初めてブログを担当します、10期生の山崎日和と申します。初めてなのにすでに授業から3週間が経っております… 遅くなり申し訳ないです… 3週間前の記憶を掘り起こしながら書いていきたいと思います!

前座

今回の前座は留学生のダンドレアさんが担当でした。

紹介されたのは「Blood borne」というゲームです。このゲームはH.P.ロブクラフトの小説がベースとなったPlayStation用アクションRPGで、主人公である「ハンター」がアイテムを探しながら悪夢から逃げるという内容だそうです。

このゲームの良さの一つとして、グラフィックの綺麗さが挙げられていました。発表用のスライドで何枚かゲーム内の写真を見せていただいたのですが、本当に綺麗で、写真を見るだけでも世界観が伝わってきました!

私はそこまでゲームに詳しいわけではないのですが、いつかやってみたいと思いました!(残念ながらPlayStationを持っていないのですぐにはできないのですが…)

3限 「声」「イメジャリー」

今回の3限は中村さんの担当で、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「声」と「イメジャリー」の2つのテーマについて学びました。

「声」

小説には2種類の形式があると示されました。それは「モノローグ」と「ポリフォニー」です。

モノローグとは、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を指します。

一方ポリフォニーとは、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を指します。

これだけではいまいちどういう違いがあるのかわからず議論をしたのですが、

モノローグ=結論が1つにまとまるもの

ポリフォニー=結論が1つにまとまらないもの

なのではないかという結論に至りました。

このポリフォニーについては4限でより詳しく学んでいきます。

「イメジャリー」

イメジャリーとは、読者の想像力を刺激し、視覚的映像など(イメージ)を喚起する作用、またイメージの集合を指します。

本文ではイメジャリーの種類として「メタファー」、「象徴」、「アレゴリー」の3つが挙げられていました。

・メタファー:あることを示すために別のものを示し、それらの間にある共通性  を暗示する。

・象徴:特に類似性のないものを示して連想されるものを暗示する。

・アレゴリー:具体的なものを通してある抽象的な概念を暗示し、教訓的な含みを持たせる。

授業では象徴とアレゴリーの違いについて議論をしました。その結果、2つには明確な違いがあることがわかりました。

象徴は、言葉とそれが指す意味に類似性がないため、普遍的でなく、学習しないとわからないものだという特徴があります。たとえば「鳩」は平和の象徴ですが、鳩と平和には類似性はありませんし、知識がなければ鳩を見ても自然と平和を思いつくこともないので、普遍的でないといえます。

一方アレゴリーは、象徴よりも類似性があり、一定程度普遍性が高いという特徴があります。また、具体的なものに抽象的なものが重ねられたものでもあります。上記の説明にも書きましたが、アレゴリーは教訓的な意味を持つものであり、これを物語化したものが寓話にあたります。たとえばグリム童話やイソップ童話です。

つまり、この2つの違いは類似性の有無と普遍的であるかどうかが主なものであるわけです。

また、今回の内容に関連して、内藤先生から「メタファー(隠喩)」、「メトニミー(換喩)」、「シネフドキ(提喩)」の3つの比喩の違いについても解説がありました。

・メタファー(隠喩):あることを示すために別のものを示し、それらの間にある共通性を暗示する。例)白雪姫(実際に雪ではなく、雪のように白いことを表している)

・メトニミー(換喩):あることを示すためにそれと深い関わりのあるもので置き換える。例)赤ずきん(赤いずきんを被った女の子)

・シネフドキ(提喩):あることについて、その一部にあたる言葉で全体を、また全体を指す言葉で一部を表す。例)ペンタゴン(アメリカ国防省)(国防省の建物の形で国防省そのものが表されている)、「人はパンのみにて生くるにあらず」(人間は物質的に満たされるだけでなく、精神的にも満たされて生きることを求めるという意味。パンは物質の具体例)

ひとえに比喩といってもさまざまな種類があるんだと勉強になりました。

4限 ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』

4限は私の担当で、3限で取り扱った「ポリフォニー」を提唱したミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を読みました。

このテクストはドストエフスキーの小説の特徴が語られたもので、その中でポリフォニーの概念が登場します。

ドストエフスキーはロシアの小説家で、19世紀のロシア・リアリズム文学の代表者と言われています。以前のドストエフスキー批評は作品に登場するイデオロギー的な問題ばかり扱い、構造上の特徴は見過ごされてきました。そこに一石を投じたのがバフチンです。

バフチンは、ドストエフスキーの本質的な特徴は真のポリフォニーにあるといいます。真のポリフォニーとは、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま作品に織り込まれていくことです。わかりやすく説明すると、ドストエフスキーの作品に登場する主人公たちはそれぞれが独立した考えを持っており、それは作者の考えに収束していかないということです。

ここまでを読んで、「作者が書いてるものだから、少なからず作者の考えが反映されているはずだ」と考える人もいるでしょう。これは「作者も意図せずに無意識のうちに書くことがある」ということを考えると解決できます。私たち人間は何かを書くときいつも自分の意志のままに書いているわけではありません。たとえば、なにかの感想文を書いているとき、書き終えてみると本来自分が書きたかったことからずれていた、なんてことはありませんか?私は筆が乗るとよくそのようなことがあります。また、二項対立的に一人を生み出したらもう一人も生み出される(正義と悪みたいな)ということもあります。こういったことを考えると作者の考えが反映されていないテクストが生まれることも納得できるのではないでしょうか。

次にポリフォニー的な小説の具体例について、私はあまり思いつかなかったので他の方にも例を尋ねたところ、内藤先生から芥川龍之介の『藪の中』が、中村さんからはやみねかおるさんの公式ファンブックの最後の書き下ろし小説がそれにあたるのではとおっしゃっていました。

私はどちらも読んでみたのですが、確かにポリフォニー的な作品だと感じたので、もしこれを読んでいて「ポリフォニー、なんだかよくわからないな。」と感じた人はぜひ読んでみることをおすすめします。

また、内藤先生からバフチンがポリフォニーを提唱した背景についても解説がありました。バフチンもドストエフスキーと同様にロシアの人です。この『ドストエフスキーの詩学』は1929年に発表されたもので、その当時のロシアはロシア革命によってソビエト連邦が成立したあとの時代になります。内藤先生によると、バフチンは文学で社会を変えようとしたそうです。レーニンのような一人の意見だけが強い力を持つ社会に対して異議を唱えるために、モノローグよりもポリフォニーを推し進めたということです。バフチンはまたカーニバルも提唱しています。カーニバルとは非日常であり、カオスでもあります。このカオスがないと日常が平凡でつまらないものになると主張しました。これも当時の社会状況の反映ですね。

このように、バフチンの理論には社会を変えようとした背景があります。現代は革命的な動きが少ない分、こういった価値観は新鮮でした。また、だからこそ最初はポリフォニーについてうまく理解できなかったのかもしれないとも感じました。

長くなってしまいましたが、今回のブログは以上となります!さて、このブログはきちんと授業内容が伝わるものになっているでしょうか… 無意識のうちに自分の書く意図のなかったことまで書いているような気がして、これこそまさにポリフォニーへの第一歩ですね!と、雑なまとめをして終わろうと思います笑

ではみなさま、また次回お会いしましょう!