10期生第12回 映画でないと作れないもの、演劇でないと作れないもの

第12回のブログを担当します。中村です。ついに私の担当するブログは最後になってしまいました。一年半は長いようであっという間でしたね。

今回は、前回の続きから『映画の理論』の「歴史とファンタジー」を読み終えて、映画『2001年宇宙の旅』の分析を行いました。

続いて、『スクリーン・スタディーズ』の「スクリーン・プラクティスの再設計」を読んだのち、舞台作品である『バクマン。THE STAGE』の分析をしました。

まず、「歴史とファンタジー」では、歴史に関しては前回のゼミで発表を終えまして、過去の出来事を映画にすることで舞台性や有限性が生じてしまう点で良くないことと、それを緩和するには歴史から離れるか、むしろ歴史に忠実になるかという手法があることをみていきました。ファンタジーを扱う映画は、<カメラの現実>を超えた夢のイメージによる視覚的な経験を有していて、人々が渇望するのだということ、そして舞台的な手法によって確立されたファンタジーは、映画媒体の基本的な美的原理に反しているため、特別な潜勢力を見過ごしてしまうが、ファンタジーが幕間劇の機能を果たしたり、舞台性が誇張されたりすると<カメラの現実>を引き立てることをみました。

今回は、その続きからみていきました。まず、映画的な手法で確立されたファンタジーは、一般的には簡単な方法で作り出したものとして低い評価を受けますが、ファンタジーが遊戯的に可笑しさを引き出す場合は、<カメラの現実>から逸脱せずに映画的性質を得ることができます。次に、物理的現実の観点から確立されたファンタジーは、超自然的なファンタジーの出来事には曖昧になり、<カメラの現実>に不随する現象であれば映画的になります。
様々な場合に分けてみていくと、主にファンタジーを主題的に扱うと映画的でないという評価を下されるのだとわかります。

これを踏まえて、映画『2001年宇宙の旅』をみていくと、この映画がつくられた1968年から未来を描いた作品になっていて、2025年を生きる我々からするとファンタジーではないシーンもいくつか存在しています。けれども、メカメカしい宇宙船や、中世的な調度品と白く発光する床を組み合わせた部屋など、現実に属しているが異常さを感じます。これは舞台装置を用いて舞台性によって超自然的な現象が確立されているといえるでしょう。

一方、この映画は冒頭の猿のシーンから一人の男が老いて新たな生が出現するまでの異次元の時空の流れを数時間に凝縮しているともいえます。このような時空のゆがみや異常な速度を実現させているのは、カメラを用いているからです。例えば、カメラの背後にいると思った男性は角度を変えた次の瞬間消えていなくなってしまいます。このようなカメラで撮影をした映像媒体でなければ実現しえない事象を描いていることから、映画でしか表現しえない作品であるとも考えられます。

次に、「スクリーン・プラクティスの再設計」では、スクリーンを用いた映像表現だけでなく、物理的なオブジェクトや装置を使うようになったことなどを取り上げました。ただこの技術は、近未来的な表現ではありますが、技術は過去のものを使用しているそうです。これからのスクリーンの関わりでは、装置の設計や開発が進み、映像・身体・装置の再設計が重要になっていくのだと考えられます。

これを踏まえて、『バクマン。THE STAGE』を見ていくと、通常使用されるようなスクリーンに映像を投影するだけでなく、舞台に設置された水に映像が投影されたり、漫画のコマが書かれた衣装を着た俳優の身体に投影されたりするなどの特徴がみられます。また、スクリーンに投影される映像自体も通常とは異質で、原作の漫画のシーンをそのまま使用したり、他の漫画作品の一部を使用したりしています。これらの表現は非常に特殊で独自的なものに見えますが、演技自体は古典的でべたなものなのだそうです。これらから、この作品は漫画という二次元の素材を用いていることで一見スクリーンに意識がもってかれそうになりますが、水や特殊な衣装によって演じている人間の身体性に注目させる効果があるのではないかと考えました。そのため、俳優の演技は古典的なものが採用されているのではないでしょうか。

第12回では、2つの作品を分析することにしましたので、振り返ってみればとてもボリューミーな回だったなと思います。個人的には、どちらの作品もゼミで取り扱うことになってから視聴したのでこれほど分析しがいのある、複雑な要素が詰め込まれた作品に出会えてよかったと感じております。

冒頭にも書きましたが、これが私にとって授業の様子を記す最後のブログになりそうです。ゼミの活動としては、合宿も今期のレポートも卒論もありますのでこれからも精進してまいりたいと思います。それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!

10期生第10回 映画に関わるコードが導くもの

第10回のブログを担当します、中村です。このブログの担当も、残すところあと2回となりました。あっという間に春学期が終わってしまいますね。

今回のゼミでは、第9回の続きからで『映画理論講義』の「映画と言語活動」という章の一部分を読みました。その後、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の分析を行いました。発表はフェンさんが担当してくれました。

続いて、第10回の発表である、『映画でわかるカルチュラル・スタディーズ』の「セクシュアル・サブカルチャー」という章を途中まで読み進めました。こちらの発表担当は山崎さんです。

まず、「映画と言語活動」に関してですが、ここでは映画の言語活動において多様な表現素材が組み合わされているということが示され、それらの素材と結びつく映画に固有なコードと非固有なコードが映画には存在しているそうです。これを踏まえて映画を分析すると、ラストのキスシーンをつなげたフィルムを見るシーンが、特徴的な音楽という映画に非固有なコードと、独特のフィルムのキズつきという映画に固有なコードから、それを見ている主人公と観客がノスタルジックな感傷にひたる時間を演出しているのだと分析できます。

次に、「セクシュアル・サブカルチャー」では、クィア・サブカルチャーの分析手法が書かれていましたが、今回は途中までしか読むことができませんでした。そこでは、ヘテロセクシュアルの白人男性が特権的に優遇されていることが書かれ、それに対抗する闘いとしてクィア・サブカルチャーが取り上げられていました。これは、覇権文化に対しての抵抗や拒否の語りを表現する集団です。特徴として、覇権的集団に取り込まれるために運動するのではなく、法益非剝奪者の立場にいます。後半部分では、マドンナを事例としてアイデンティティカテゴリーからの分析手法を見ていくことになります。

今回は前回の続きからのスタートでしたので、ブログの内容は少し短めですが以上で第10回のブログを終わります。

10期生第8回 その出来事は因果か偶然か

第8回のブログを担当します。中村です。
今回は、第7回でも読んだウォーレン・バックランドの「フィルムスタディーズ入門」から、『第二章 映画の構造ー物語と語り口』を勉強し、映画『パルプ・フィクション』について分析をしました。

まず、「フィルムスタディーズ入門」では映画作品のマクロ構造を見るべく「物語」と「語り口」という2つのカテゴリーがでてきます。
「物語」は登場人物にとって動機づけられた原因-結果の論理に基づいた出来事に構成されているといわれています。もちろん、原因と結果が全てではなく、単なる描写的なショットも存在していますが。
次に「語り口」は制限された語り口と全知の語り口の2つがあるのです。制限された語り口は一人の登場人物に結び付けられており、人物と同じだけの情報のみが観客に与えられます。それはその人物が見たもの、聞いたものを含めてその人が知り得た出来事すべてです。しかし、その人が知らない情報は観客にも与えられることはありません。一方、全知の語り口は、カメラが自由に登場人物を飛び移るため、一人の登場人物のもつ情報よりも観客の知る情報の方が多くなります。
全知の語り口が採用される映画作品の観客は、次に何が起こるかを予測できるためむしろ登場人物たちがそれに対してどう反応するかを楽しむことができるのだそうです。

しかし、この2つの語り口の理論は曖昧で、果たしてこの定義が多くの映画に応用できるかは疑問が残りました。

次に、映画『パルプ・フィクション』については、出来事が直線的に並べられていないが構造化されている、と述べられています。そのため、原因と結果の論理は時系列順に並べられる必要はないのだとも言っています。

我々は、『パルプ・フィクション』に関して、この映画は因果関係によって出来事が繋がっていないのではないかと考えています。確かに、バラバラにスクリーンに映し出される出来事を時系列に直す際に、因果によるつながりを見出してしまいそうになります。しかし、男女の強盗と2人の殺し屋がレストランで出会うのも、時計を取りに戻ったアパートやそこからの帰り道で敵対する相手に会うのも、全て偶然の出来事なのではないでしょうか?さらに『パルプ・フィクション』にはいくつかの出来事が時系列をバラバラにして配置されていますが、その出来事の関係はすべて因果関係と言えるのでしょうか?例えば、殺し屋たちがレストランで強盗に出くわすことはその後の展開に関わることがないのです。ボスの妻とヴィンセントが過ごした夜も。確かに殺し屋が足を洗うことを決めてそれ以降出てこないことはある種の原因と結果の関係といえるでしょう。

この映画が出来事をバラバラに見せているのはなぜでしょう。それは、人々が物事に対して原因やそれに伴う結果を求めていることを揶揄する意図があるのではないでしょうか?
今日はいい天気だからきっといいことが起こる。髪が上手く巻けたからいいことが起こる。そう感じたことがあるかもしれませんが、天候やヘアスタイルの調子は試験の結果にも親の機嫌にもなんら関わらないのです。
もしそんな出来事に何かの繋がりを見出したならそれは奇跡かもしれません。

10期生第6回 映画を物語の内容から分析する

第6回のブログを担当します、中村です。今回はベトナムからの留学生のフェンさんが発表を担当してくれました!
読んだのは、ジークフリート・クラカウアーの「映画の理論 物理的現実の救済」から『内容の問題』という章です。その後、黒澤明の映画『羅生門』を分析しました。

ここでは、映画なストーリーに着目して、映画的な物語の内容、主題、モチーフがどのようなものか検討しています。
まず、映画的といえない内容は、映像によって伝えられない要素がある内容で、概念的思考と悲劇的なものがあるといいます。概念的思考は、台詞に頼るなど言葉による伝達が求められる場合です。悲劇的なものは精神的な出来事のためそれを伝えるには映像だけでは難しいです。
次に主題とモチーフの観点では、主題は物理的現実の諸要素を描いている場合は映画的といえますが、モチーフにも影響されるといいます。
そこで、映画的なモチーフが紹介されますが、それらは1.生の流れ、2.探偵活動、3.ダヴィデ-ゴリアテといわれています。生の流れは現実に生きる我々が経験する人生の経過であり、ドキュメンタリー映画で特徴的です。次に探偵活動は、物理的現実を参照して真相究明の過程を描くために映画的モチーフといえます。ダヴィデ-ゴリアテは、弱者が強者に打ち勝つ力を描くことであり、あらゆる小さくて弱いものにインパクトを与えてクローズアップという映画の手法に類似しています。

これらを踏まえて、映画『羅生門』をみていきます。これは芥川龍之介の「藪の中」を元にした作品で中世日本を舞台にした犯罪物語です。
羅生門で男たちがある事件について話しています。彼らが話しているのは森の中で侍が殺された事件に関する証言です。男たちが羅生門に来る前に関係者たちは検非違使の前で事件に関してみたことを語り、それを再現する形で物語が進んでいきます。山賊、木こり、侍の妻といった関係者に加えて、死んだ侍自身も巫女に霊を呼び出して森での出来事を証言します。しかし、それぞれの証言の食い違いから真相はわからないまま物語は進み、男たちは羅生門で赤子を拾います。

この作品を物語の内容のモチーフでみていくと、侍の死という事件の真相を究明しようとする探偵活動の物語であると考えることができましょう。それは非常に映像的な要素を含んでおり、映画的です。その上、侍の死と赤子という新たな生の誕生が含まれており、生の流れを感じずにはいられません。単純に時間の真相を追う、探偵活動だけを描くのではなく、生の流れを取り入れることで、より現実をとらえた映像作品になっていると考えられます。

モチーフの問題から検討することで、映画における物語内容のレベルでも映画を分析することができました。今学期の学習では、形式のレベルでの分析が比較的多かったので意義深い回だったと思います。選んでくれたフェンさんありがとうございました!

10期生第4回 意図的な演出の価値は何か

第4回のブログを担当する中村です。今回は、マイケル・ライアンの『Film Analisis 映画分析入門』のアートディレクションを読み、映画『シャイニング』を分析しました。


まず、アートディレクションについてですが、アートディレクションは視覚的または聴覚的に作品のテーマや場面の状況を観客に伝わりやすくする手法です。例えばセットであったり衣装であったり音響であったりするものです。カメラに映る人間の対立関係を際立させるように窓枠が配置されたり、照明によって観客に特定の印象を与えたりすることが例示されています。


しかし、この説明ではアートディレクションの独自性や他の理論との差別化ができませんでした。そこで我々の理解では、映画の作り手が意図を伝えるために使う映画的な手法なのだと一致しました。この理解において重要なのは、意図的にカメラに映るものを調整しているということなのだと考えます。つまり、偶然そこに映り込む地形や常態化している演出は含まれないのではないかということです。

ではこの理解を踏まえて、『シャイニング』をみていきます。この映画はスタンリー・キューブリック監督によるホラー映画です。山の上にあるホテルで、冬季の住み込み管理人としてやってきた家族が怪奇現象に遭遇して精神が蝕まれ、父親である男が妻と子供を殺害しようとする様子が描かれます。


『Film Analisis』では、ホテルのあちこちにアメリカ先住民のモチーフが見られることが、アメリカが先住民を殺戮してきた歴史を見てみぬふりをしてきたメタファーになっているとしています。また、セットの縦線が二つの領域、ここでは文明と獣の領域の間の葛藤を強調するとも言っていますが、これは二項対立的に映画作品内でそれぞれの領域を描いているとしてもセットに見られる縦線では説得力が足りないと感じます。一方で、色の観点では赤色が、統制の利かない怒りや暴力に結びつき、青色が文明や自己統制に結びつくという主張は、セットのトイレの色や管理人の家族の服装から理解することができました。

このアートディレクションという概念について、応用が難しいと感じます。単純にこうではないか、と類推をすることは可能ですが果たしてそれがアートディレクションとして意図的に構築されているか否かを判断するのは容易ではなく、説得力に欠ける主張になってしまうように思います。

未だ、アートディレクションを用いる最適な手法がわからぬままブログを書き始め、大幅に遅くなりましたが、今回は以上です。
最後までお読みくださりありがとうございました。

第2回 繰り返される構図が持つ意味とは

久しぶりのブログの執筆で若干緊張しております。内藤ゼミ10期の中村です。今回は4年ゼミ第2回の内容をお届けしていきます。

初週はオリエンテーションのため、4年生になって発表や議論をするのは今日が初めてでした。やっぱり楽しい!これにつきます。今学期は映画の理論を中心に勉強するので、映像を分析するという新しい試みが出来るのはワクワクします。前置きはこの辺りで終わりにして早速本題に入りたいと思います。

今週の理論書はマイケル・ライアンとメリッサ・レノスの『Film Analysis』でその中の「構図」を山崎さんが発表してくれました。これは配置に意味が付与されるというもので、さまざまな映画のカットを紹介するような形で説明をしていました。 議論としては、前半では果たして「構図」の分析は我々が映像分析を行う上で使えるものなのか?という論点で話が進みました。その後、後半では実際に映画『第三の男』をこの「構図」を用いた分析をすると何が言えるか?を話し合いました。

まず、「構図」は特定の1つのカットそれだけで何かを断定したり論証していくには論拠が弱いという意見がありました。そこでより普遍的に応用するためには、1つのカットを検討するのではなく、連続した映像を通して意味を持つ構図が変化していくもの、例えば権力関係に変化が見られるなど、そして繰り返し同じ構図が用いられるものであれば構図を用いた論証が可能なのではないかと考えました。 我々が1月に行ったワークショップでも映画を分析しましたが、その際も窓枠が使われる同じ構図が3.4回みられることから特定の意味を含んだカットだと考えたので、この意見はかなり有力なものになりました。

次に『第三の男』の分析ですが、この映画は非常に不思議な構図がいくつも見られます。例えば、主人公が乗り物に乗って歩いている女性を追い越すシーンが物語の最後にありますがこれは序盤にも全く同じ構図で見られます。さらに、主人公が死んだはずの友人を見かけて追いかけるシーンでは、低い視点で視界が斜めになっている構図が使われていて不穏な印象を与えてきます。我々はこのようなさまざまな構図の妙の中でも、繰り返し同じ構図が見られることについて検討していきました。 そこから得られた結論は、構図が登場人物の距離感を示す要素として用いられているということです。具体的には、主人公のマーチンスと死んだはずの友人ハリーの距離は物語を通してどんどん近づいていき最後にはマーチンスが追いつきます。しかし、マーチンスがハリーの死の謎を追う中で出会った女性アンナとマーチンスの距離は物語を通して縮まることなく一定に保たれています。

まず、マーチンスとハリーの距離ですが、これは彼らが追いかけ合うシーンの中で同じ道を通る時に同じ構図で撮られているのですが、同じ構図が再度現れる間隔が終盤にかけて短くなっていきます。これは2人の距離が近づいているだけでなく追われるハリーが焦る心理的状況も示していると考えられます。 次にマーチンスとアンナのシーンは先ほども説明した乗り物に乗ったマーチンスが道の端を歩くアンナを追い越す構図です。序盤ではその後アンナが出てくることはありませんが、最後のシーンではアンナを追い越したマーチンスは乗り物から降りて道端に立ち止まりアンナを待ちます。しかし、道を歩いてきたアンナは立ち止まることなくマーチンスを追い越してどこかへ行ってしまい、そのまま物語が閉じられます。 物語を通してマーチンスがアンナに好意を寄せていることは明確に見られますが、アンナがどう思っているか不明なまま最後のシーンで判明するのです。しかし、同じ構図が序盤と最後という大きな隔たりをもって採用されていることからアンナとマーチンスの距離は離れているということが暗に示されていたと言えるのではないでしょうか?

100分という短い時間の中でかなり納得のいく面白い結論が導けたと思います。改めて楽しい!と感じるのはこういう瞬間があるからですね。 今回のまとめとしましては、構図の概念は映像、特に物語を通して構図を見る時に誰かの視点であり、心理的な要素や人間関係が示される可能性があるという意識で見ることで面白い論証ができるということがわかりました。 最後までお読みくださりありがとうございました!

第13回 自分の言葉で語ること

10期生、13回目のゼミのブログを担当します。中村です。

今週は、エレーヌ・シクスーの「メデューサの笑い」の冒頭部分を読みました。そして理論を用いて映画『バービー』についての議論を行いました。

まず、「メデューサの笑い」で言われていることは、男根中心主義な社会にたいする抵抗として女性が女性の言葉で女性について語る必要があるということでした。それは、女性が男性優位社会において彼女たちの欲望が抑圧されているため、その欲望が女性に戻ってきて解放をするときに女性のエクリチュールが重要なのです。次に、シクスーは古典的ではない両性具有の概念として、自己の中に2つの性があることを突き止め、どの性も排除しないことを主張しています。これは女性は男性性と女性性のどちらも表象することができるが、男性は男性性のみを追求することを教育されているため、2つの性をもちどちらも排除しないと考えることが女性にとって利益のあることなのだといいます。最後に、飛び盗むという表現を使って、男性優位な社会で用いられてきた言語や道具を異なる使い方をしてその制度を壊すことを女性の動作であると説明します。女性が男性の言語の中にいるようで、その実男性の言語を盗んで女性の言語として使うようになれば、既存の秩序はかき乱されるのです。私たちはこの文章を読んで、男性について非常に極端で限定的な表現をしていることに疑問を持ちました。これについての意見として、敢えて女性の言葉で男性について書く時に偏見に満ちた表現をすることで、女性たちが男性の言葉の中で書かれてきたことをやり返しているのではないかと言われました。

次に『バービー』についての分析をしました。この作品は、バービーたちの住むバービーランドから物語がスタートします。毎日楽しいガールズナイトを過ごしていたバービーが死を考えてしまったり、脚にセルライトができたり、ベタ足になってしまったりとショックなことが起こりそれを解消するために現実世界にいってバービーの持ち主に会いにいくことになります。バービーの現実世界への冒険に、なぜかついてきてしまったケンは現実世界で男性が中心となり生活しているのをみて興奮し、バービーより先にバービーランドに戻って改革をはじめます。バービーがバービーランドに戻ったときにはケンランドがつくられており、ほかのバービーたちはケンの洗脳によって本来の自分とは違う行動をしています。バービーは自分の持ち主と共にバービーランドを取り戻すためにバービーたちの洗脳を解いて、ケンの支配から脱しようと計画を立て遂にはケンからバービーランドを取り戻します。

この作品について、どのようにすればケンが上手くバービーランドで生きていくことができたのだろうかと疑問に思いました。そこでシクスーの理論を踏まえて考えると、ケンがケンの言葉でケンのことを語ることができなかったのが問題だったのではないでしょうか。ケンはバービーと現実世界に行った際に男性が中心となった社会を目にしてバービーランドでも改革をおこないます。その改革で行われていたことは、現実世界やバービーのしてきたことのまねごとでしかありませんでした。最終盤で、バービーはケンに「ケンについて」尋ねますがはっきりと答えることができません。我々の議論では、ケンが馬が好きなことをケンの言葉で主張すべきだったという意見が起こりましたが、まさにそういったことが今後バービーランドで行われていくことを望みます。

また、議論では深く話し合いませんでしたが、バービーランド自体がマテル社が作ったものであるということも重要な要素だと思っています。マテル社によって作られる際にバービーは女性が望む女性ではなく、男性が女性に押し付ける女性になっているようにみえます。バービーがケンと現実にいった時の服装が男性からは賞賛される一方、女性にはあまり良い顔をされていませんでした。バービーが現実にいく箇所はケンと共にいく場面と最後の婦人科にいく場面ですが、この2箇所のバービーの服装は大きく違っています。今後この作品について検討する際にはこの服装の違いにも着目をして分析をしたいと思います。

私はこのブログが、今年最後になります。1年間ブログを書いて、確実にゼミの内容を文章にすることになれましたし、ゼミでの学びがより身についたと感じます。

まだまだ今学期のゼミの活動は続きますが、1年間お疲れ様でした!

第9回 カニになるように何になるのか

10期生第9回ブログを担当します、中村美咲子です。

今回は、千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』の序章と1章について、秋尾さんに発表をしてもらい、映画『佐々木、イン、マイマイン』についての議論をおこないました。

『動きすぎてはいけない』では、ドゥルーズの提唱した生成変化という理論を主に取りあげており、このブログではそれについて説明をしたいと思います。

まず意味を持ちすぎる接続を避けるために生成変化がよいとされます。

この生成変化は、別のなにかになる、とも言い換えることができます。

これはカニになる例を用いて説明がされているのですが、これは、ロバート・デ・ニーロがある映画でカニのような歩き方をしたことを生成変化としてしています。ここでいわれていることは、生成変化は知覚しえない動作をしていること、そしてカニの分身としての特異なふるまいを得たということです。つまり、生成変化は、あるものに実際になるわけではなく、特定のものの性質を無自覚的に会得するようなことなのだと考えられます。生成変化がおこなわれることで、動きすぎで接続過剰な現状を切断することができるのです。

この生成変化の理論を用いて、映画『佐々木、イン、マイマイン』について議論をおこないました。まずこの映画は、売れない役者の石井悠二が高校の同級生の多田と再会して、佐々木という破天荒な同級生と過ごした高校時代を思い返していきます。

私たちは、主に佐々木コールという特徴的なシーンについてと悠二が再度役者として舞台に立つシーンについて議論し、悠二に生成変化が起こったかどうかを検討しました。

佐々木コールとは、「佐々木」「佐々木」とはやし立てるもので、そのコールが起こると佐々木はどこでも脱いで踊り出していました。このコールについて、コールが起こるから佐々木が脱いでいるのか、佐々木が脱ぐからコールが起こっているのか、悠二が考えます。つまり、佐々木は脱ぎたかったのか、それとも脱がされていたのかということです。これについて、最終的に佐々木は脱ぎたくて脱いでいたのだろうと考えたのではないかと思います。そして、この佐々木がやりたいことをやり続けるという特質を会得した悠二が役者をやることになるという生成変化がみられたと考えられます。

今回のブログは取りかかりが遅く、内容もかなり物足りないものになってしまいましたが、個人的に生成変化は面白いと感じているためもっと勉強しようと思いました。

最後までお読みくださりありがとうございました。

アフィニティによる連帯

第7回のブログを担当します、中村美咲子です。

今週は、ダナ・ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』から「サイボーグ宣言」について学びました。そして、後半では映画『オーシャンズ8』の分析を行いました。

「サイボーグ宣言」に述べられていることを端的にいえば、我々はサイボーグであるということです。サイボーグとは、おそらく多くの人が思いつくそのまま、機械と生体の2つの特徴を兼ね備えた存在です。そして、この2つの特徴の境界をあいまいにすることで脱構築がおこなわれます。さて、我々がサイボーグであるというのはどういうことでしょうか。ここでは、サイボーグの機械と生体という特徴を「人工」と「自然」という二項対立的なものとして、このような二項対立がさまざまな世界に棲んでおりもちろん我々人間もその二項対立とみられる2つの要素を兼ね備えた存在で、サイボーグ同様に脱構築が可能なのです。

ハラウェイは、さらに再構築も可能であるといいます。そこでは今まで信じられてきた資本主義や家父長制によってつくられてきたアイデンティティによる連帯ではなく、アフィニティを介した連携を考えることを推奨しています。まず、今まで信じられてきた資本主義や家父長制は、ジェンダーや階級、人種などの階層的な二項対立を生み出してきました。これらは、自然なものとして信じられてきています。けれども、それは搾取の構造であって当然自然なものではありません。このような人為的に生まれたアイデンティティによる紐帯には限界があります。なぜなら、アイデンティティの断片化が起こっているからです。つまり、特定の1つのアイデンティティのみで構築されている存在はおらず、我々はいくつものアイデンティティを有しています。このように複数のアイデンティティで構築されることから、ある1つのアイデンティティでは、安定した連帯を築くことができません。そこで、アフィニティによる連帯が検討されます。アフィニティは、血縁によらず自己の選択によって繋がるということで、既存の二項対立的思想を生み出したさまざまな制度に対抗する方法なのだと考えられます。

ここからは、『オーシャンズ8』の分析です。『オーシャンズ8』は、主人公のダニーが刑務所から出所する場面からはじまり、女性のみの犯罪集団で1億5000万ドルのダイヤのネックレスを盗み出すことで巨額の報酬を得て物語が終結します。この作品において、特筆すべき点はやはり女性のみで盗みをおこなうという点です。ダニーによって集められた6人の女性たちは、さまざまな犯罪に必要な技術をもっており彼女たちは無事に作戦を成功させます。この『オーシャンズ8』を「サイボーグ宣言」を踏まえて分析を行うと、彼女たちの紐帯は女性のみであるという点ではアフィニティといえるが、資本主義の制度に対抗するわけではないという結論が出されました。理由としては、彼女たちの中に一定程度の差別意識が見られることと、儲けたお金で資本主義社会に巻き込まれる形で物語が終わることが挙げられます。彼女たちが計画のメンバーを集める際に人種における差別や偏見に似た表現を感じることがありました。それは、ハッキングやスリといった明確な犯罪をおこなうのが西欧人ではないことや、ロシア人がハッカーであるという職業と人種が結びつくような発言などです。また、多くの女性はダイヤを売却して得るお金が目的で計画に参加します。そして、得たお金で望んだ生活を手に入れていくのだと考えられます。彼女たちは資本主義国家において、社会を変化させるわけではなくその社会でうまく生きるすべを模索するだけなのです。この2つの点から、彼女たちの関係を完全なるアフィニティだということはできませんでした。

最後までお読みくださりありがとうございました。

10期生 第2回 脱構築された世界

みなさま、こんにちは!秋学期第2回のブログを担当します、山崎日和です。

あっという間に春学期が終わり、夏休みも終わって、秋学期も学園祭期間に突入しました。最近どんどん1日が過ぎるのが早くなってきているような気がして、毎日時間が足りない!と焦ってしまう日々です。この回も受けてから1か月が経ってしまい、本当に遅ればせながらの執筆で申し訳ありません… 記憶を掘り起こしながら書いていきます。

秋学期からは春学期と打って変わって3限では理論についての論文等を、4限では何らかの作品を取り扱い、3限で学んだ理論を用いて4限で作品分析を行うという形式で進んでいきます。そして、春学期までは3限と4限で分けていた担当者も分けずに行うことになりました。何をやるかは担当者の興味に合わせて、ということなので、春学期とはまた少し雰囲気が変わると思います。

ということで、秋学期最初の(第1回はオリエンテーションだったので)担当者は中村さんです。今回はジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』を取り扱いました。

『闇の奥』は、テムズ川のヨットの上で元船乗りのマーロウが語る、自身のアフリカへの旅の話です。小説のほとんどがマーロウの語りで進んでいきます。叔母のつてで貿易会社に就職したマーロウは、コンゴ川の船の船長になり密林の奥へと旅に出ます。その道中では労働する黒人やそれを束ねる白人に出会いますが、みな「クルツ」という白人の優秀な社員のことを話します。クルツが気になるマーロウは船を進め、原住民からの襲撃の危機も乗り越えて、ついにクルツと彼を慕う青年と出会います。クルツは病気でしたが、未開部族の王となり象牙を集めていたことがわかりました。マーロウはクルツを保護し、アフリカについて話を聞きますが、思っていた回答は得られません。そうしているうちに船の中でクルツは「恐怖だ、恐怖だ」という言葉を残して死んでしまいます。ヨーロッパに帰るとクルツの関係者から次々訪問を受けましたが、最後にやってきたのはクルツの許嫁でした。彼女はクルツをとても尊敬しており、彼女にせがまれてマーロウはつい「クルツの最後の言葉はあなたの名前だった」と嘘をついてしまいました。

3限は『闇の奥』について脱構築批評を行った田尻芳樹さんの文章『空虚な中心への旅―脱構築批評』を読みました。

まずここで用いる理論「脱構築」について簡単に説明します。脱構築については春学期第10回の授業でも取り上げていますので、ご興味ある方はそちらも併せてご覧ください。

脱構築は、1967年、アルジェリア出身のフランスの哲学者ジャック・デリダによって提唱された考え方で、階層構造をもった二項対立が成り立たないことを主張するものです。デリダはその主張のために、ロゴス(音声)中心主義への批判を行いました。ロゴス中心主義では、音声こそが真理を純粋に体現するのであって、文字は音声を書き写した二次的なものだとされてきました。しかしデリダは、音声言語を説明するときには文字言語を例に取らざるを得ないことを指摘し、音声と文字の二項対立が成立しないことを明らかにしました。

また、アメリカの文芸理論家ポール・ド・マンは、すべての言葉は修辞的で意味は決定不可能なため、テクストの意味は常に誤読されると言います。これは、テクストは自らを脱構築し続けるとも言うことができます。

さらに脱構築と植民地の関係について、香港出身でアメリカで活動するレイ・チョウやイギリスのロバート・ヤングは、かつての構造主義といった理論はヨーロッパで生まれたものであり、それを批判する脱構築をはじめとしたポスト構造主義はヨーロッパの植民地主義への批判であると言います。簡単に言うと、脱構築とはポストコロニアル批評だったというわけです。

では次に、本題である『闇の奥』の分析へと入っていきます。

『闇の奥』の作者であるジョセフ・コンラッドは、ウクライナ生まれのポーランド人で、20代後半でイギリス国籍を取得した人物です。船乗りから作家になったという経歴を持ち、『闇の奥』も彼自身のコンゴへの旅に基づいています。

田尻さんは、この作品のテーマとして、文明と未開、西洋と非西洋、白人と黒人、男と女、光と闇といった様々な二項対立の脱構築を挙げています。これらの脱構築がマーロウの自己同一性に揺らぎを与え、さらに脱構築批評がポストコロニアル批評と関連することを明らかにしているのです。そしてその脱構築が起こる契機となったのがアフリカへの旅でした。田尻さんは、この旅を地理的にも心理的にも「暗黒で空虚な中心への旅」だと述べます。地理的には、空白だったアフリカの地図が、植民地主義によって暗黒の場所になったという描写から、マーロウが向かうアフリカという暗黒の土地の中心は空虚であると言えます。また心理的には、クルツの心に空虚さと暗黒が重ねられています。マーロウはこういった空虚に触れることで自己同一性が崩壊し(脱構築され)、ある種の自己認識に達したと、田尻さんは言います。

4限の議論では、3限の田尻さんの分析に登場する「暗黒」と「空虚」、「空白」の意味について考えました。アフリカの地図の描写から、「空白」は意味がつけられていないもの、「暗黒」は意味が定義されているものだということがわかります。さらに、アフリカに行き空虚になった白人のクルツを考えると、「空虚」は脱構築されたものであると言うことができます。これは「暗黒」と対立するため、「空虚」は意味が定義できないものだと言うことができます。

また、田尻さんの分析はマーロウの語りのみを取り上げていることについても考えました。『闇の奥』はマーロウの語りがほとんどですが、一部その語りを聞いている船乗りの視点も描かれています。つまり、作中のクルツなどの人物はマーロウの視点と語りを聞く船乗りの視点という2つの視点を通して描かれているのです。田尻さんはマーロウの語りのみを取り上げましたが、そこには別の船乗りの考えも反映されていることを考慮に入れる必要があったのではないかという結論に至りました。

今回のブログは以上です。今回の授業では春学期よりも深く脱構築について考えられたと思います。脱構築はその後の批評理論に大きな影響を与えているので、秋学期の最初で取り扱えてよかったです。

それではみなさま、また他の記事でお会いしましょう!