11期生 主人公は移動する。

みなさんこんにちは。

本日ブログを担当します土田麻織です。

今期ブログを溜めてしまっており、随分と前の回の内容となっていることをお許しください。

そして、このブログは先生とゼミ生くらいしか読まないだろう!と比較的自由に色んなことを書き連ねていたのですが、何かの間違いで話題にあがってしまい非常に戦慄しております。ブログを書く筆が乗らないのですが、早速授業内容に移ります!

3限

「文学と文学記号論」ユーリー・ロトマン

今回は井上さんが担当でした。私はこの文章をほとんど理解することが出来なかったのですが、井上さんの発表で何となく骨格が見えてきたような気がしました。わかりやすい発表をありがとう!

この文章の要点は「文化モデルとはどのような要素によって構成されているか」です。

まず本論では、物語の登場人物は【動的登場人物である主人公と、不動的登場人物である彼の敵対者たち】と区別することが示されており、不動的主人公という例外を覗いては、このような分類が可能なのです。

不動的要素を担う登場人物は、動かないため自分の環境を変えることができません。反対に、ある環境からある環境へと移動して自分の環境を変えるということが、主人公を主人公たらしめるのです。

不動的主人公は与えられた世界絵図の中に完全に収まり、最大限の「一般性、典型性」を特色とします。完全に物語世界の中に収まっているため移動を必要とせず、その欲や使命に駆られることがありません。

また、文化モデルは3つの要素によって特徴付けられています。

  • 普遍的空間の分割タイプ
  • 普遍的空間の規則性
  • 方向性

文化モデルにおける境界線の存在は内部と外部の対立、そしてさらに内部の中でも内部と外部を区切ることが出来ます。

そんな文化モデルは【我々(内部)⇆彼ら(外部)】という対立に簡単に分類することが出来ます。この対立は閉ざされた世界への加入とその対立項として解釈されます。

例えば世界を生者と死者の二項対立として捉えるのではなく、善神と悪神のような区別も存在するため、【組織化⇆脱組織化】という対立において組織内では境界線を引くことが出来ないということです。

境界について話してきましたが、この境界を越境する事こそが題材を構成する典型的な図式となるのです。境界は不変体として登場し、空間の連続性を破壊することも出来ます。

また、題材の最も典型的な構成法としては空間協会の越境があげられ、世界の更生との闘いとして題材の図式が生じるというのです。

また、題材におけるテキストは、登場人物によるモデル空間の境界の横断や、より個別的な区分の横断によって描かれ、これらの横断によって描かれる軌跡は、人間の道程や事件として描かれます。「事件」を別の構造へと移行させるために動的な要素が、自分の空間と他人の空間を持っていることが問題となります。

以上が3限の内容になります。

ここから4限では辻村深月さんの『傲慢と善良』を、登場人物の移動の観点から分析することにしました

4限

『傲慢と善良』辻村深月

傲慢と善良は、主人公の西澤架が婚約者の坂庭真実の突然の失踪を追うところから始まります。真実の居場所を探していくうちに、架は彼女の「過去」と向き合うことに。真実の失踪の本当の理由は何なのか、真相に近づくたびにそれぞれがが無意識に持つ傲慢さと善良さが浮き彫りになるようなお話です。

本ブログでは議論の内容を中心にしたいので、物語の詳しい内容は割愛させていただきます。

失踪していた真実はいくつかの土地を移動していたことが明らかになります。そして最終的には宮城県石巻市で地図を作る仕事をして、自分の意思で日々を充実させていました。そこで、今回私たちは「真実が東北に行ったことはどのよう意味があったのか。」という問いを立てて移動について考えました。

真実は群馬で生まれ育ち、30歳を過ぎたタイミングで東京に上京。架の前から姿を消した後は、一度実家のある群馬まで行きそのまま仙台へと住み込みのボランティアをしに移動しました。そしてその後石巻で新たな地図を作る仕事を始めて、物語内の真実の移動は終わります。

まず、私たちはそれぞれの土地は何を象徴しているのか、どのような出来事があったのかを書きだしていきました。

群馬(実家)

実家のある群馬では、狭いコミュニティの中で常に監視されているような生活であったことが明らかになります。

また、そのコミュニティの中での価値観、例えば真実と真実の両親は彼女が香和女子という地元では評判のいい女子高・大出身であることに過剰にステータスを感じています。実際に東京の頭のいい大学に進んだ人物が、香和女子大に何の執着もしていないようなシーンが描かれていますが、真実を始めとする両親は、自分たちが住んでいる小さなコミュニティ内での価値観に縛られていてそれが全てだと思っているのです。それゆえに、近所の他人と比較もしやすく、常に互いの状況を把握して審査しているような状況でした。

よって、群馬では

・他人との比較が日常茶飯事

・序列や差異を過剰に気にする

・優位性が求められる

・人と人が牽制しあう

社会であったと考えました。

続いては東京です。

東京

一般的に上京する、というとポジティブなイメージで、発展や進化といった意味合いが含まれると思います。真実も、前向きな理由で東京に来ました。一見すると、東京への上京は、群馬という閉鎖社会からの解放と考えられそうですが、本作品では違いました。

東京では確かに親からの束縛からは解放されました。しかし架の昔からの女友達は真実のことを詮索して審査して、架の以前付き合っていた女性や周りの人たちと比較して苦言を呈していました。つまり東京でも、他人との比較が行われ、その差異で序列が作り出されていたのです。

これらより、私たちは群馬と東京は監視社会であったと意味づけました。

そして失踪期に移ります。

失踪期

群馬

真実は東京を離れ、行く当てが実家の群馬しかなく、一度群馬に足を運びます。

ここでも監視社会の要素が含まれるのですが、群馬では知っている人に見られるかもしれないという恐怖が起こり、違うどこかへ行こうと決意します。

仙台

そこでボランティアとして東北地方で被災地の支援活動を行っていた人の話を思い出して仙台に行くことになります。

仙台では、震災で汚れてしまった写真を洗浄する仕事を任されました。写真館に住み込みで働き、そこにはもう一組小さなこどもを連れた女性がいました。しかし彼女は真実について詮索するようなことはしませんでした。また、写真館の人も、みんな事情があってここにいるしこれまでにも何人も来て何人もいなくなったから、と深く追求することはありませんでした。

これより仙台に来たことで真実は監視社会から解放され、また真実自身も監視を辞めるきっかけとなったのだと考えることが出来ます。

そして地図作りの仕事を紹介され、石巻市に移動することを決めます。

石巻

石巻市では、震災で一度は建物が無くなってしまった土地を歩いて回り、新しく建ったものを記録するという仕事をしていました。ここで初めて、真実は0から1を作るという、新しいものを想像するというフェーズに行きました。また、建物を一つ一つ確認していく作業、“在る”という存在を顕在化させることが、東京屋群馬での差異でしか物事を理解することが出来なかった状況との対比になっていると言えます。

そしてそこで自分の行く道を決めます。よって、真実は石巻の地図作りという仕事を通して、自分の幸せをも作れるようになった、と考えることが出来ます。

以上より、今回私たちが立てた「真実が東北に行ったことにはどのような意味があったのだろうか。」という問いに対して、「監視社会である群馬・東京から離れ、仙台の写真館で写真洗いをしたことで、監視する・されることを辞めるきっかけとなった。また、石巻での地図作りを通して、監視を辞めた先で自分の幸せを作ることが出来るようになった」として結論付けました。

お疲れ様でした!

今回は特に頭をフル回転させてああでもない、こうでもない、と沢山考えた回だったように思います。

ボツになった仮説ですが、東北パートでは「海」がキーワードとして挙げられるため、内陸の群馬・東京に対して海に面した東北、という構造で何か言えるのではないか、とも考えました。「まみ」の「み」が海で「真海」、真実の海だったら何か違ったかもしれないな、と思いつつ「真実(しんじつ)」であることに大きな意味があると思うので真実ちゃん海の神説はしまっておこうと思います。

長々と書いてしまいましたが、今回は「移動する登場人物が主人公である」という、今まで意識していそうで意識したことがない点に着目することが出来て非常に面白かったです。思い返すと確かにどんな物語も主人公は移動しているような気がします。

その移動先の土地などに対して、作者はここにゆかりがあるからなのかな、この風景を登場させたかったからなのかな、などのことしか考えていなかったのですが、今回のように分析してみるともっと深みのある結論が出せるのかもしれません。

このあたりで今回のブログは終わりたいと思います。ここまで読んでくださった方は、ここまでお読みくださりありがとうございました!

(年末の挨拶をする前にもう一本書きたい、、、!)

11期生 第6回 共同体に貢献しないで自由を得る

こんにちは!

前回に引き続き連続のこんにちは、になりました(笑)藤田雄成です。
もう12月ですね。だんだんと忙しくなってきてブログも忘れないうちに早めに書くことを意識しています。(投稿こそ遅くなってしまいましたが、この内容は11月中に書いています!)
では、ぼちぼち内容に入っていきましょう!

3限

この時間は土田さんがジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」について発表してくれました。
いやあ~、難しかった!正直何から書けばいいか戸惑っているとこであります(笑)
まず、ゾーエとビオスについて触れておきましょう。ゾーエとは単に生きているという事実、生物学的な生、むき出しの生のことを指します。一方、ビオスとはそれぞれの個体、集団における特有の生き方を指します。ここで重要なのが古代ギリシャと近代社会の構造の違いです。古代ギリシャにおいて都市(ポリス)には成人男性しか参入することができず、そこはビオスに覆われています。一方のゾーエは家(オイコス)のなかに閉じ込められていて、そこには女性や子供、奴隷などが存在します。それが近代社会になると一変します。ゾーエが政治に浸透し、生政治の時代となったのです。
 さて、続いてホモ・サケルについての話です。この文章ではホモ・サケルは狼男とも呼ばれています。これは殺害可能かつ犠牲化不可能なものであります。どういうことか。古代のポリスでは誰かを殺したりするなど特定の罪を犯した人はホモ・サケルとされ誰でも殺してもいい存在となります。また、彼らは一般的な市民ではなく例外的な存在なので供物としてささげられることもありません。
 なぜ、ホモ・サケルというものが存在するのでしょうか。それは国家が権力を確認するために例外的な存在が必要だからです。どういうことか。先生が分かりやすい例えを出してくださいました。いじめられっ子はなぜ存在するのか。それはいじめっ子が権力を確認するためです。全員が同じ立場であれば自分の権力を確認することができません。これと同じ原理が国家という規模においてなされているのです。ホモ・サケルは国家において必要な存在であり、そこにはとても悲惨な背景があるのです。
 フーコーとアガンベンの考えの違いについても触れておきましょう。フーコーは自然状態つまりゾーエが生まれてから主権が生まれたという考えをもっています。しかしアガンベンは違います。自然状態と主権は同時に生まれたという考えをもっています。ホモ・サケルは法の外の自然状態で生きています。そして上記に挙げた通りそこには国家の権力が深くかかわってきます。法の外という例外状態をつくることで同時に法というものが立ち現れてくるのです。

4限

この時間は朝井リョウの「生殖記」について自分たちなりの解釈を導き出しました。
まず、私個人の感想を述べますが、なかなか独特な本でした(笑)非常に哲学的な話が繰り広げられているのですが、とても頭にスッと入ってくるようなお話でした。私も尚成の就活についての描写には共感した部分がありました。
さて、分析ですが、尚成がどういう人物なのかということを中心として議論が進みました。尚成は同性愛者であり、共同体の拡大、維持からは逸脱した存在だといえます。しかし、彼は非常に器用です。体重の増量、そしてダイエットを繰り返すことで共同体の拡大、維持に参入しない独自の生き方を生み出しました。彼は共同体に抵抗しているのでしょうか。それとも逃げているのでしょうか。いや、どちらでもないでしょう。尚成は自分のなかですべてを回しているのです。自分のなかで真の自由を完結させているのです。3限の時間で、自由とは実は共同体の秩序のなかにある、という発言がなされていました。尚成は自由を手に入れるため共同体に抵抗したり逃げたりするのではなく自分一人ですべて完結する自由を生み出したのです。

今回は特に頭を働かせないといけない内容でした。
さて、これから就活が本格的になってきます。ということは、、、そうです共同体の拡大、維持に貢献しないといけないんです。まあ、そういう社会ですからね。尚成のように自分なりの生き方を見つけることができたら貢献しなくてもいいかもですね。でも私は尚成ではないので、とりあえず共同体の拡大、維持に貢献するため就活を頑張ります!

ではまた次のブログで!


11期生 第5回 実は「ほっこり」ではない

こんにちは!

藤田雄成です!秋学期はすでに5回目ですが、私は今学期初めてのブログ担当です。
秋学期はさまざまな作品を見て知ることができるのがとても良いですね。

ぼちぼち内容に入っていきましょう。

3限

この時間は近内さんの『世界は贈与でできている』の後半部分について井上さんが発表してくれました。

この文章の後半部分では、まず言語ゲームについて書かれています。私たちが言葉によって言葉を理解する以前、どうやって言葉を理解したのか。(言葉が多いですね笑)それは、その言葉がどのような生活上の活動や行為と結びついて使われているか、を通して理解するのです。言語は生活と密接にかかわっています。これが言語ゲームの考え方です。
 次に、求心的思考と逸脱的思考です。求心的思考というのは常識に重きをおきます。そして、その常識を地として発生するアノマリー、不合理を説明する思考のことをいいます。逸脱的思考とは私たちの世界像、常識の総体を書き換える想像力のことをいいます。これは例えばSFにみられて、この本では小松左京の作品やテルマエ・ロマエなどが取り上げられています。
 アンサング・ヒーローについての話もありました。アンサング・ヒーローは人知れず社会の災厄を取り除く人のことです。そして、「彼らという存在がいるはずだ、」と想像できる人のみが彼らからプレヒストリーを受け取りアンサング・ヒーローの使命を果たしていくことになるのです。
 最後に、贈与を受け取る、いわば受取人は差出人に使命を逆向きに贈与するということが書かれています。これはどういうことかというと贈与は差出人に与えられるということです。つまり贈与の受取人はその存在自体が差出人に生命力を与えるのです。

発表の後、先生が社会主義の社会と資本主義の社会について話をされました。贈与をこのような社会構造と結び付けて考えるとより深く贈与をとらえることができる、という考えからです。
そこで思ったこととして社会主義ってかなりきつくない?!って思いました笑 富を中央にあつめて平等に分け与えるとは言っていますが、その分け与える主体が誰かによってかなり左右されます。事実、ソ連や中国では汚職が多々発生したようです。今、社会主義の国家がほぼ?ないのも社会主義の社会の難しさを伝えていますね。

4限

この時間ではテルマエ・ロマエについて自分たちの解釈を導き出そうとしました。

 個人的に一番分析に苦労しました。全然、意見をだせず申し訳なかったです…
 「とてもわかりやすくおもしろい作品なのになぜこんなに苦労したのだろう」と考え、授業の終わりにぱっとひらめきました。この作品はほっこりさせようという意図が働いているのです。そうした意図は私たちが分析するにあたってはかなり障害となってしまいます。なんとなく学校で難しい映画や小説を取り扱うかわかったような気がします笑

 さて、私たちがだしたこの作品の解釈としてルシウスは自分の行動を縛られているあらがえない存在だという結論に至りました。
 まず、そもそもルシウスのいたローマ時代は身分が絶対的でした。ルシウスは平民であり、ハドリアヌス帝は皇帝。この上下関係は絶対的です。実際、ルシウスは皇帝のため、そしてローマのために風呂を作ります。(風呂づくりを断ったとき死罪は免れましたが追放されています)
 また、この映画の醍醐味でもあるタイムスリップについてもルシウスはあらがうことができません。ただ流されるままに現代の世界に放り出されてしまうのです。また、井上さんが言っていた涙によって過去に戻るという設定があらがえないルシウスの状況を表しているという発言がなるほど、と思いました。涙というのは生理現象でルシウスの手におえるものではありません。
 このように見ていくとコメディ映画のような作品が一気に自分の行動を縛られるという暗い話になってしまいました…

さあ、こんな感じで今週も終わります。諸事情あって来週も私がブログを書くことになりました…
ではまた次のブログで!

「みんな何かに酔っぱらってねえとやってられなかったんだな、みんな何かの奴隷だった」

                                   進撃の巨人  ケニー
                                 

第4回 贈与はいかにして成立するか

こんにちは!11期生の井上紬です。

今回は「贈与とはいかにして成立するか?」という話をしていきたいと思います。

そもそも『贈与』という単語は、日常生活ではあまり口にしない単語のように思いますが、辞書の上ではどのように定義されているのでしょうか。

広辞苑では以下のように説明されています。

①金銭・物品などをおくり与えること。

②(法)民法上、自己の財産を無償で相手方に与える意思を表示し、相手方がこれを受諾することによって成立する契約。

なるほど、①では解釈の余地がかなりありそうですが、②では法律にかかわっているのもあってより具体的に示されていますね。

「無償で」なんてワードがカギになりそうです。

今回扱う参考書は、近内悠太著『世界は贈与でできているー資本主義の「すきま」を埋める倫理学』です。

はじめに言わせてください。この本、めちゃくちゃ面白いです!

「なぜ親は孫を見たがるのか」や「鶴の恩返しで部屋を覗いてはいけない理由」、「無償の愛とは何か」だなんて哲学的な疑問まで、すべて『贈与』のしくみで解決してくれます。

是非一度、お手に取ってみてくださいね!

『贈与』の8箇条

では、本題に入っていきたいと思います。

私たちゼミ生は本著を精読して、『贈与』が成立する条件として以下の8つが挙げられることに気がつきました。

その1:相手となる他者が必要である

その2:お金で買えない価値がつく

その3:かつて誰かから『贈与』を受け取っていた、というプレヒストリーを必要とする

その4:『贈与』は、それが『贈与』だと知られてはならない

その5:計算不可能である

その6:差出人にとっては「届くといいな」という願いである

その7:受取人にとっては「届いていた」という気づきである

その8:それは不合理なものとしてあらわれる

ここでの肝は、『贈与』は『交換』ではない、というところです。

お金で買えない価値が発生するのが『贈与』である以上、与えた側はそこに見返りを求めることはできません。もし対価を求めるのであれば、それは計算可能で合理的な『交換』となってしまいます。

その4にある、『贈与』は、それが『贈与』だと知られてはならないというのは、「これは『贈与』です、あなたはこれを受け取りなさい」と語られてしまった途端に、受取人に対し「受け取ってしまった」という負い目を感じさせてしまい、返礼の義務を生み出してしまうということです。

それは、見返りを求めない『贈与』から『交換』へと変貌してしまっています。

また、その6その8について、想像していただきたいのがサンタクロースの存在です。

近内は『贈与』の理想的な体現者としてサンタクロースを挙げています。

サンタクロースというのは実に不思議な存在で、つまりその存在によって、「これは親からの贈与だ」というメッセージを消去することができるのです。つまり子が、親に対する負い目を持つ必要がないまま、無邪気にそのプレゼントを受け取ることができます。

このとき、親は名乗ることを禁じられているがゆえに「これが私たちからの贈与だったといつか気づいてくれたらいいな」という地点で踏みとどまることができます。そして子はいつか、サンタクロースが親だったことに気づく。「私は親からの贈与をすでに受け取っていた」ということに気がつくのです。

ここでのポイントは、気づいた時点ですでに親からの『贈与』は完了してしまっているということ。今ここにはもはや『贈与」という行為そのものは存在しないのです。

これこそが『贈与』の成功例、「差出人にとっては「届くといいな」という願いであり、受取人にとっては「届いていた」という気づきであるということなのです。

さて、ここで触れられていないのがその3です。

「かつて誰かから『贈与』を受け取っていた、というプレヒストリーを必要とする」とはいったいどういうことなのでしょうか。

それを解明するために用いるのが、今回授業でも分析対象とした映画『ペイ・フォワード 可能の王国』です。

以下、映画のネタバレになりますのでご注意ください。

「ペイ・フォワード(pay it forward)」とは、「誰かから善行を受けたら、自分も3人に善行を施す」という行為のこと。

主人公であるトレバーは、新学期に担任のシモネット先生から「世界をよくするための方法を考えろ」と言われ、この「ペイ・フォワード」を思いつきます。

彼はまずホームレスの男性に食事と住む場所を与え、次にアルコール依存症の母・アーリーンと心身ともに傷を負っているシモネット先生をくっつけようと奮闘します。

トレバーの善行はすぐにはうまくいきません。

しかし、それでも少しずつ伝わっていき、物語の最後には街の見知らぬ人々にまで「ペイ・フォワード」が広がっていたことが明らかになるのです。

ただ、その物語の最後にトレバー自身はいません。

トレバーは3つ目の善行として、いじめられている友だちを庇い、ナイフを持った不良の間に割って入ります。そしてその結果、刺されて亡くなってしまうのです。

なんとも悲しい物語ですが、なぜトレバーは亡くならなくてはいけなかったのでしょうか。

近内によれば、それは彼が「『贈与』を受け取ることなく『贈与』を開始してしまったから」だといいます。

つまり、『贈与』を受け取ってしまった、という負い目によって駆動されていないということです。

(注:ここでいう負い目とは等価交換における負い目ではありません。『交換』における負い目にはそのように感じる理由が確固としてあるけれど、『贈与』における負い目とは『無償の愛』という不当さ・不合理性を受けるということであるために、そのように感じる理由を説明できないのです。返すにもどう返したらいいか明確でないのが『贈与』です。)

トレバーは温かな愛情を知らずに育ちました。つまり、本人の主観で『贈与』を受け取ることができていません。この世界の「何もかもが最悪だから」、そんな世界を少しでも変えたくて、ペイ・フォワードを思いつくのです。あまりにもピュアすぎる動機だとは思いませんか?『贈与』の根源としてのトレバー、それはどこか『神』の姿に重なります。

近内はトレバーの聖性を「『贈与』つまり『不当に受け取ってしまった』という“罪”の意識を背負わない存在」として説明していました。

私たちはその解釈に加え、ペイ・フォワードの成功の裏で命を落としたトレバーの姿は、人類の“罪”の肩代わりをして死んだイエス・キリストに重なるとして、彼の聖性を説明しました。

映画『ペイ・フォワード』は贈与の物語ならぬ、贈与の失敗の物語だったのです。

今回のブログはここで終了です。

次回は藤田くんが『世界は贈与でできている』の後半部分のブログを書いてくれます。

私も読むのが楽しみです!

最後に、今回はちょっと趣向を変えて、いつものエンタメ感想記ではなく【いま観たい・読みたいエンタメ】について備忘録的に書かせていただきたいと思います。

・『かがみの孤城』辻村深月

・『コンビニ人間』村田沙耶香

・『モモ』ミヒャエル・エンデ

・映画『ラーゲリより愛を込めて』

・ドラマ『最愛』

この5本は、前々から興味を持っているのにもかかわらず、まだ手を出せていない5本なのです(!)

本年中にすべて履修したいと思っているのですが、なかなか忙しくてどうなるのやら…(泣)

遅かれ早かれ必ず鑑賞したいと思っています。

皆さんのお気に入りの作品はありましたか?

夏合宿 1日目〜2日目午前中

怠惰に心を支配され、すっかり執筆が遅れてしまったジョウです。秋学期が始まってしまった今、このまま授業開始後の発表ブログに埋もれてしまうのはさすがにまずい…という危機感に背中を押され、ようやく書き出しました。今回の夏合宿は、本当に盛りだくさんで、笑いあり真剣さありの時間でした。3・4年生の論文をめぐって面白くも有意義な議論が繰り広げられ、さらにOB・OGの皆さまと直接お話しできるなど、貴重な経験を得ることができました。このブログでは、合宿を通じて私が感じたことや学んだこと、そして今後の内藤ゼミでのビジョンをお伝えしていければと思います。

さて、私が担当するのは、合宿1日目から2日目午前中までの様子です。まずざっくりスケジュールをお伝えすると、こんな感じでした。

1日目:到着・チェックイン → 発表・議論(井上さん) → 夕食 → 発表・議論(ジョウ)
2日目午前:発表・議論(土田さん) → 発表・議論(藤田さん)

到着・チェックイン

実は「清里セミナーハウス」と聞いても、参加前の私はまったくイメージが湧きませんでした。3・4年生は新宿で集合し、あずさに乗って現地へ向かう予定でしたが、ここでいきなりハプニング。藤田くんの電車が遅延し、新宿到着が発車2分前!「これはもう無理だろう」と思いつつ、心の中で「走れ!藤田くん!」と祈っていました。結果は……なんと見事に間に合い、全員そろってあずさに乗車できました。いやはや、藤田くん、実は陸上部だったのでは?

さて、そこからは長い乗車時間。前期のブログでも少し触れましたが、最近は本当に慌ただしい毎日を過ごしており、ゆっくり自分と向き合える時間がなかなか取れません。そのため移動中は、ある意味で貴重な「ひとり時間」でした。せっかくなので読書をすることにし、手に取ったのは彬子女王の著書『赤と青のガウン』です。

選んだきっかけは帯に書かれていた一文。
「生まれて初めて一人で街を歩いたのは、日本ではなくオックスフォードだった。」
この言葉に強く惹かれました。皇室の教育を受け、日本国内では特別な存在である著者が、留学先のイギリスではまったく異なる日常を体験し、自分自身と向き合っていく姿が描かれています。「女王の冒険譚」というより、「彬子女王の自己発見の旅」といった趣が強い一冊です。興味のある方はぜひ手に取ってみてください。

到着時清里駅の様子

小淵沢駅でローカル線の小海線に乗り換え、高原に纏まる霧を抜けたあと、目の前にシーンとした駅が広がりました。さらに道を進むと、落ち着いた雰囲気のセミナハウスが現れました。予想したのと若干違ったのですが、期待の気持ちを心の中に抱えて、チェックインを済ませ、いざ研修室へ…

発表・議論(井上さん)

さて、いよいよ発表の時間です。トップバッターを務めたのは井上さんです。

タイトルは、「「童話物語」−−−− 信頼関係の構築における種族の枠組みの不在」。

(ちなみに私、井上さんとは1年生の頃から同じ内藤ゼミに所属しておりまして、『童話物語』が彼女にとってのバイブルだということは以前からよく聞いていました。誰かにこの作品を語るときの熱意は、まるで推し活のように感じます笑。そんな姿を見て、私も自然とこの作品に興味を持つようになりました。)

井上さんの論文は、プロップ理論とオリエンタリズムという2つの批評理論を軸に分析が展開されます。

まずはプロップの「物語の31の機能」。
登場人物であるペチカ(人間)・ルージャン(人間)・フィツ(妖精)の3人を主人公として設定し、それぞれの行動を機能に当てはめて整理した結果、次のような構造が明らかになりました。

1)ペチカにとっての助力者→フィツ 2)ルージャンにとっての助力者→フィツ 3)フィツにとっての助力者→ペチカとルージャン

つまり、人間と妖精という「種族の違い」を越えて、互いに「助け合う関係」が成り立っていることを示したのです。

続いて登場するのがエドワード・サイードのオリエンタリズム。
井上さんはこの考え方を「人間が妖精をどう見ているか」という視点に応用しました。
人間たちは妖精を「理解不能で危険な他者」とみなし、自分たちを「正常で理性的な存在」と位置づけていました。
しかし、物語が進むにつれてペチカやルージャンはフィツを「妖精」としてではなく、一人の個人として信頼するようになる。
この変化を、オリエンタリズム的な偏見を乗り越える過程として読み解いています。

井上さんは、「異なる種族間であっても、相互理解と信頼は可能である」という、オリエンタリズムの枠組を乗り越える一例として読むことができるとの結論に導きました。

この発表を聞いて、「オリエンタリズムでファンタジー作品を読む」という発想が私にはなかったので、とても新鮮でした。論文を読めば、『童話物語』を知らなくても、作品世界の解像度が一気に上がるはずです。

井上さんの発表が終わった後、夕食を挟んで次はいよいよ私の番です。
ちなみに、清里セミナーハウスの食事は――普通に美味しかったです。

(完全に主観ですが、学食の数倍は美味しかったです……!)

発表・議論(ジョウ)

次の発表を務めるのは私(ジョウ)です。正直、大学3年生になったいまも、多人数の前にプレゼンするのは若干緊張気味です。(特に満腹になった状態では頭が回らない)

私は、「『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』:「成功と失敗」神話の解体」をタイトルに議論を展開しました。本作のあらすじを簡潔に説明しますと、960年代のニューヨークを舞台に、不運続きのフォークシンガー、ルーウィン・デイヴィスの一週間を描いた映画です。主にクイア批評・間テクスト性・脱構築といった三つの着眼点から分析を行っています。

まず、クイア批評の観点から、主人公ルーウィンを「社会的に逸脱した存在」と「商業的に逸脱した存在」という二つの側面で捉えました。
彼は、当時のアメリカ社会が求めた「安定した生活を送る市民像」にも、音楽業界が重視する「ヒット曲=正義」という価値観に完全に逸脱する存在です。
つまり、彼はどちらの規範にも属さず、以上の二つの具体像から見れば、逸脱者そのものとして生きているのです。

そして、これら二つの理論を組み合わせて考えることで、私はこの作品が提示する「成功」と「失敗」という二項対立の構造明らかにしました。
社会や業界が定義する「成功」から外れた人間は、本当に「失敗者」なのか?
むしろ、歴史の中に去っていったルーウィンのような無数のアーティストに、これから焦点を当たるべきではないだろうかと私は考えました。

夜の飲み会

発表がすべて終わり、入浴でさっぱりした後はお待ちかねの飲み会タイムです。
食堂エリアで集まり、親睦会がスタートしました。

……ところが、どうやら隣のエリアにも他学部の学生たちが合宿に来ていたようで、これがまたものすごく賑やか。
いや、賑やかというより「騒音レベル」というレベルでした。
隣の人の声が聞こえないほどで、「これが合宿の夜か!」と妙に納得してしまいました。

そんな中でも、内藤ゼミの飲み会は終始和やか。
ほどよいテンションで語り合いながら、気づけば消灯時間になっていました。
消灯後は男子組の部屋に自然と人が集まり、二次会がスタート――。

OBの相田さんは、お酒にめちゃくちゃ詳しい方で、まるでバーテンダーのようにウィスキーやジンの魅力を一つひとつ丁寧に解説してくださいました。
私は普段から少しウィスキーを飲む程度ですが、あんなに豊富なコレクションを見せていただいたのは初めてで、正直かなり感動しました。「お酒って、深い…」と思った夜でした。

発表・議論(土田さん)

2日目の朝は、前夜の余韻がの中でスタート。最初に発表を務めたのは土田さんでした。

土田さんは、「救いようのない話」に惹かれる自身の読書経験から出発し、湊かなえの小説『未来』における登場人物たちの「救い」とは何かにフォーカスして考察しました。

「救いようのない話」というテーマは、私自身にも共感するところがあります。幼少期から物語を読むとき、無意識のうちに「ハッピーエンド」を期待してしまう一方で、「救いのある話」ばかりの世界にはどこか物足りなさを感じる。だからこそ、土田さんが扱うような「救いようのない話」は、かえって多層的で現実味のある物語構造を持っているように思います。

発表では、ジュネットの理論を用いて、語りの形式が登場人物の心情変化をどのように映し出しているかを分析していました。手紙や日記、モノローグといった多層的な語りの形式を通して、登場人物たちがそれぞれの苦しみを抱えながらも“過去を受け入れる”姿が浮かび上がります。土田さんは、こうした「過去を受け入れる行為」こそが救済の契機として機能していると指摘。私自身も、「他者に助けを求めることができた」という点において、苦しみからの脱出を「救い」と捉える解釈に強く納得しました。

発表・議論(藤田くん)

続いて藤田くんの発表です。扱うテーマは、私が高く関心を持っている『進撃の巨人』です。

藤田くんは、主に『進撃の巨人』を脱構築の理論で分析しました。まず、構造主義の考え方を導入し、「エルディア人vsマレー人」や「人間vs巨人」の二項対立の理論的根拠を提示しました。しかし、物語の進行につれて、二項対立の境界線は次々と曖昧になっていきます。例えば、巨人=敵ではなく、むしろ人間の一部だったということが明らかになった。(ここは厳密的に言えば「人間」ではなく、「エルディア人」しか巨人になれない設定になっています。なので、ここで「エルディア人」と「マレー」人の身体的対立を強調してさらに面白い議論が建てられるのかなと思いました。)

藤田くんは、この構造崩壊を「脱構築的な展開」として捉えています。また、主人公エレンの初期における「自由のための戦い」がやがて他社を支配する行為へと転化するという分析も説明されていました。

藤田くん自身は、どうやら今回のレポートに不満を持っているらしいですが、私個人的にそこで感じたのは残念さというよりかは、この論文に秘めた可能性は大きいと感じました。脱構築の考え方を『進撃の巨人』に応用したのは面白いし、これからもより良い論文が書けると信じていますので、そこからは頑張ってほしいですね。

おわりに

今回の合宿は、本当に充実した二日間でした。
畳の上でのルームシェアや、集団での生活など、これまでにあまり経験のなかったことばかりでしたが、そのすべてが新鮮で、かけがえのない時間になりました。

議論では多くの刺激を受け、夜は笑いあり学びありの時間を共有できて、まさに“ゼミらしい合宿”だったと思います。
こうした経験は、きっとこれからの研究や人生の糧になっていくはずです。忙しい時期ではありますが、これを励みに今後もゼミ活動に力を入れていきたいと思います。

多様な視点と温かいコメントをくださったOB・OGの皆さま、10期生の先輩方、外部からご参加いただいた方々、そしてロボさん、内藤先生――本当にありがとうございました!

11期生第3回 要らないものを持ち続けるということ 

みなさん、こんにちは。

急に寒くなって上着が必須になってきましたね。前回まではブログのはじめに毎回「暑い!」と書いていたような気がするので、時の流れを感じざるを得ません、、、。

秋学期が始まってからもう数週間たって新しい生活サイクルにも慣れてきたところですので今回のブログを始めます!

第3回授業ブログ担当の土田麻織です。

ということで、授業内容の前にブレイクタイムを挟もうと思います(?)

前座(仮)

私はこの夏、沢山の作品に触れて自分の世界を広げよう!と意気込んで、自分なりに様々なコンテンツを見たので、それらを前座で一挙紹介する気満々でいました。

しかし、秋学期1回目のゼミでこれからのスケジュールを決めて家に帰ると、前座担当を決めていないことに気付きました。なんと!せっかく温めていた前座ネタ、ないしはブログの導入ネタを書きだす場がなくなってしまいました、、、、

ということで、紙幅の都合もあるのでショートバージョンで、この夏に見た作品について、いくつか書かせていただきます。

➀光のとこにいてね/一穂ミチ

まずは小説です。タイトルにひと耳惚れして購入しましたが、本当にタイトルが良い!!この「光のとこにいてね」という言葉がキーなのですが、要所要所でこの言葉を思い出しては涙が出てきました。

読んでいる最中から、すごく好きな本だ!と思っていました。

今のところ2025マイベストブックです。

②モアザンワーズ

Amazon primeで見ることが出来るドラマです。

視聴自体2回目で、この作品は途中からしんどくなるので1回目はしばらく引きずっていたのですが、京都を舞台に、情緒あふれる綺麗な映像と素敵な音楽とで、夏の今にもう一度見たい!となってしまいもう一回見ました。

やっぱりこたえました、、、。がしばらくはサウンドトラックを聞いて物語の世界に浸っていました。

来年の夏も見ようっと。

③Nのために

ティーバーで配信されていたので視聴しました。原作が大好きで何回も読み返していましたが、ドラマだと違った魅力があり、それが全てプラスに働きかけていてとっても良かったです。これを見た後はしばらく主題歌のSillyを聞いていました。やっぱり好きなお話です。

余談ですが、これを2025年に再ドラマ化するならキャストを誰にするか、という議題でChatGPTとかなり盛り上がりました(笑)結論は内緒です。

④番外編

この夏はいろんな映画館にも足を運びました。見たかった映画がもうそこしかやっていなかった、等の消極的理由もあるのですが2本立ての映画を見たり、怪しげな劇場に行ったり、非日常的でワクワクしました。今後も開拓していきたいです。

(気合が入りすぎてこの紹介部分は夏休み中に書いていたものになります汗)

夏の終わりごろに怒涛のドラマブームが来て、今もたくさんの作品を絶賛視聴中ですので、また機会があれば紹介したいと思います。

お待たせしました。

ではここで3限の内容に入りたいと思います。

3限 精神分析・クィア批評

担当はジョウくんです。

課題文はキース・ヴィンセントの「夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り」

『こころ』の語りに着目しながら作中に存在しているセクシュアリティの問題について考えていきました。

本論文では、「先生」は男同士の絆と男性-男性間の性関係とが分裂していないホモソーシャル的な人物であるということが示されています。一方で語り手である「私」(若い青年)は男性間の愛の可能性から切り離された近代世界の象徴として描かれているというのです。そして『こころ』は同性愛から異性愛へと移行する成長物語であると示されています。

どういうことかと言いますと、『こころ』は「私」が一貫して語り手であるため、全て「私」視点で語られています。彼は、先生のことを時代に、過去に、取り残された人として語っています。一人の視点でしか語られないため実際のことはわからないものの、「私」は、先生との対比によって自分自身の成熟した状況(異性愛への変化)を強調したかったのだと考えられるのです。

では、先生の遺書で終わり、「私」の行く先が語られずに終わる物語についてはどのように考えられるのでしょうか。

本書では、ここには病に侵された父親が大きくかかわってくることが示されています。父の苦痛緩和のために浣腸薬を投入する際、まごついていた兄に代わって、「私」は油紙をあてがったり、医師を手伝ったり、様々なことをしたことが書かれています。父の死を目の前にして能動的に動く「私」は成熟した自己を獲得しつつあるのです。

そしてその後、先生からの手紙を受け取り東京行きを決めた「私」は、父親の尻をそのままに列車という主体的行為を奪われた状態に飛び込むのです。実の父親、そして父親のように慕っていた先生、二人の死を目の前にした中で、「私」は受動性と能動性の間で宙づりになるのです。

ここでフロイトの心理性的発達段階の理論が対応します。生後から1歳ごろまでと口唇期を経た先に肛門期があります。肛門期とは自分の身体を意識的にコントロールすることが可能になった時期であり、衝動や欲望を状況に合わせて調節するエゴが発達する段階です。

肛門期を抜けた先は、エディプス期であり性役割を獲得して超自我を形成する。そして潜伏期を経て、恋愛に向く性器期へと向かうのです。

父親の看病をする中で肛門期を卒業した「私」は、父親を置いて東京へ行ったことは自らの父を象徴的に去勢したといえ、「私」が性器的異性愛へ向かったことが示唆されているのです。

そして先生について、先生を再生産可能な異性愛者へと成長することを失敗した存在として語っているため、「私」自身の肛門期への対抗や同性愛性を否定していると言えるのです。

これを踏まえて4限では、

なぜ物語は「私」のその後を描かずに遺書で終えたのか、という点から「私」は本当に成長(異性愛者へと変化)したかったのだろうか。ということを考えました。

結論から言うと、答えはノーです。

論点は「私」が肛門期から抜け出せたのか否か、ということになりますが、私たちは「抜け出せなかった」、いや「抜け出さなかった」と考えました。

一般的な肛門期は排泄コントロールがうまく行くことで、体内の不要物を外に出したいという欲求が満たされて、次の段階へと移ることが出来ます。

つまりここでは、「私」が何らかの不要物を外へ放つことが出来たら肛門期を脱し成熟した存在になったと言えるのです。

先述したように、彼は確かに父親を置いて次のフェーズ(東京)へと旅立ちました。ここではある意味で排泄行為とみなすことが出来ます。一方で、その外へ発った先で、遺書を読んでそのまま物語は終わってしまいます。おそらく、東京に着いた先では先生の死を目の当たりにするのでしょう。それを「私」はあえて語らなかったのです。

遺書を先生から与えられた排泄物と考えると、「私」はその遺書を持ち続けることを選んだのです。それはつまり肛門期から脱出しないことを意味します。肛門期を脱出しない、ということは成熟した状態ではない、成長をやめ異性愛者へとも変化しないということです。

それは、「私」が恋愛感情に分類される前段階の愛おしむ気持ちをもって先生に執着しているからと考えることができます。

よって、この物語は語り手である「私」が遺書を持ち続け、語り続けることで先生のことを死なせないという意思が表れ、「私」は成熟した状態になることなく肛門期にとどまっている、と言えます。

何故、この物語は遺書で終わるのか、「私」は本当に異性愛者へと変化したのだろうか(キースの論文では物語のその後、「私」は先生の妻と一緒になったという説も紹介されている)という問いを立てて1時間議論をした私たちは、上記の結論を導き出すと思わず自分たちで拍手をしてしまいました。

大変長くなりましたが、以上が今回の授業内容になります。

かなり複雑な思考を必要としましたが、遺書=排泄物でそれをあえて持ち続けたという考え方は、一人では絶対に導き出せないものなのでゼミの面白さを改めて実感しました。

秋学期は、春学期とは少し異なり3限で扱う理論をもとに1作品を分析するため、より深い実りのある議論がこれからも出来るのではないか、とワクワクしています。

これからのゼミに期待が膨らむ、そんな回でした。

ちなみに、今回扱った理論的に、普段は躊躇する単語がポンポンと会話の中で登場して議論のキーでもあったため、どうブログに書こうか迷ったのですが、結果的に工夫できず中途半端な表現になってしまいました(反省)

んー、とにかく良い議論のできた実りのある回でした!

それではこのあたりで締めたいと思います。

ここまでお読みくださりありがとうございました。

また次回!

第2回 精神分析1ー呪いは解かれたか

こんにちは!

11期生の秋学期、最初のブログを担当する井上紬です。

毎回、あとがきで最近観た映画の話をしています^_^

本学期もよろしくお願いいたします!

11期生 秋学期 授業進行のしかた

秋学期が始まる前、私たちゼミ生4人はより深く学習したい批評理論を各々3つずつ提示しました。

それはマルクス主義批評だったり、ポスト・コロニアル批評だったり、今回学習する精神分析批評だったりです。

それに対し、学習に役立ちそうな論文あるいは専門書を内藤先生が用意してくださいました。

私たちは毎週、その課題文と分析する作品とを読了あるいは鑑賞し終えた状態で授業に臨みます。

第1回のテーマは精神分析批評です。

課題となる論文は 山田広昭「テクストの無意識はどこにある」(2003)

分析対象は 小説:『夢の浮橋』(谷崎潤一郎,1960)です。

ではさっそく授業内容に入っていきましょう!

精神分析批評 ー『夢の浮橋』

まず最初に、テクストを精神分析的にみるとはどういうことなのでしょうか。

それは、テクストにおいて反復される要素には一見意味がなさそうに思えるものもありますが、実はそれらを抽出して発見されるのは「個人的神話」であり、無意識的なものであり抑圧されたものであるということです。

その一例として、さまざまなテクストにみられるのがエディプス・コンプレックス

ギリシア神話の『オイディプス王』に由来し、精神分析の創始者であるフロイトが提示した概念です。

男児は無意識のうちに異性の親である母親に愛情を抱き、同性の親である父親を憎むようになるという心理的傾向、これをエディプス・コンプレックスといいます。

しかし男児は成長するにつれ、無意識下において「母親を求めたら去勢される」という不安に駆られます。その結果、母親への性的欲求を放棄することができ、エディプス・コンプレックスを乗り越えるのです。

今回分析の対象とした『夢の浮橋』は、主人公とその父母の関係性に焦点が当てられた物語でした。

主人公の糺(ただす)には実母と継母がいます。実母は糺の幼い頃に病死しており、父の再婚によって継母がうちにやってくるのですが、父が継母のことを実母と同じ名前で呼び、糺にもそれを求めていたために、糺の記憶の中では実母と継母が混同していきます。

この物語の奇妙なところは、糺と継母があやしい関係になっていくのを、父は分かっていたのか分かっていなかったのか、2人の関係を見守るに徹しているところです。

このことについて山田は、「昔の母(実母)と今の母(継母)を重ね合わせることで、浮かび上がる『父親の欲望』という個人的神話を抽出させて、その欲望の帰属先を私(糺)へと転移させる過程が、精神分析による無意識の概念を裏付けている」と説明しています。

父は病のためにそう長くありませんでした。そのため、ある意味で息子が継母と深い関係を持つのを期待していたのかもしれません。精神分析に倣っていえば、「父にとって息子とは、おのれ、そしておのれの死を乗り越える分身であるため、息子への愛がナルシシズムの色を強く帯びて、息子へと欲望が転移した」とこの物語は読むことができるのです。

以上が山田の『夢の浮橋』に対する考え方です。

それに対し、私たちゼミ生は、「本当に父親のナルシシズムは息子の糺へと転移してしまったのか?」という疑問を抱きました。そのうえで私たちは、父親のナルシシズムを「父の呪い」と呼び、「父の呪いは受け継がれてしまったのか」という問いを論点に議論を進めます。

結果として私たちが出した結論は、「父の呪いは受け継がれなかった。代わりに、〈親がいない兄と弟〉という対等な関係性の共同体を築いた」というものです。

父は病死し、継母も不可解な死を遂げ、妻とも離別した糺は、最終的に里子に出されていた弟の武を呼び戻し、一緒に暮らすことを決めます。

作中では2点、謎が明かされていません。ひとつは誰がこの武の父親かということ(糺と継母の不貞関係の末にできた子どもの可能性もある)、もうひとつは誰が継母を殺したのかということです。

ただ、それが分からないという事実を踏まえたうえで結果としていえることは、父も継母も死んだことで、糺と武は両親を亡くした可哀想な兄弟として対等な関係を築いていくことができるということです。仮に2人が親子であったとしても、糺を武の親に位置付けてしまう継母の存在が、もうこの世にはいないのですから。

最後に、『夢の浮橋』の2点の謎を明示しましたが、この物語は高度な叙述トリックのうえに成り立っています。終始「私(糺)」によって語られますが、この「私」が信頼できる語り手であるのかどうか、読者は試されるような読み方を強いられるのです。

あらすじはざっと説明してしまいましたが、『夢の浮橋』の不可解で甘美な文体の魅力は、このブログではお伝えすることができません。

ぜひ一度読んで、あなたの考えを聞かせてくださいね!

あとがき

皆さんは『チェンソーマン レゼ篇』はもう観られましたか?

私は観ました、今週末もう1回観に行きます!^_^

私はもともと原作の漫画を読んでいたのですが、正直に申し上げますと、このレゼという少女のエピソードはとりわけ印象に残っているわけではありませんでした。

しかし克明な映像化のおかげで、尾を引く映画体験となりました。

鑑賞してからしばらく経ちますが、いまだにレゼを始めとするキャラクターたちのことや、物語の閉じられ方について考えさせられてしまいます。

少し話は逸れますが、それこそ今回扱った精神分析批評、チェンソーマンにも応用できると思うんですよね。

主人公のデンジという少年と、彼が一目惚れしてしまったマキマという女性の関係性、精神分析批評をしてみたら面白いのではないかと考えています。

上手くいけば秋学期レポートのテーマになるかも・・・?

そこまではまだ、断言できません!(笑)

夏合宿 二日目午後~三日目

こんにちは!そしてお久しぶりです。藤田雄成です!

9月13日~15日にかけて清里のセミナーハウスにて内藤ゼミの合宿がおこなわれました。私はその後半戦のブログを担当させていただきます。

合宿の全体の感想を述べると、、、つらかった!そして楽しかった!なんかすごい矛盾しているけどそんな感じです笑 今まででこんなに長時間頭を使って議論することは経験がなかったのでとても疲れました。決してこのゼミをなめていたわけではありませんが、こんなにも奥深いゼミなのかと感じた3日間でした。では二日目午後から合宿を振り返ってみたいと思います。

中村さん

昼食を食べた後、10期生の発表に移りました。最初の発表者は中村さんです。

 「『A3!』のファンがキャラクターから呼ばれる呼称としての「監督」は何を指し示すのか」という問いを元として発表がなされました。使われた理論はベネディクト・アンダーソンによって提唱された「想像の共同体」とジュディス・バトラーによって提唱された「パフォーマティヴィティ」です。そして、「『A3!』のファンがゲームのキャラクターやゲームを舞台の作り手に「監督」と呼ばれるときの「監督」という言葉はファンが属する「監督」という想像の共同体を示し、ファンの行為によって作り上げられた「監督」というアイデンティティを示す」という結論が導き出されました。
 まず、『A3!』について中村さんは前回のレポートでも取り上げていました。2期生の板橋さんがおっしゃっていたように「前回はなぜ本作品を好きになったのか、そして今回は好きで居続ける理由」、というように同じ好きでも角度を変えた分析になっている点は面白いなと感じました。ちなみに私は『A3!』についてレポートを読むまで全く知りませんでした。そこで合宿後、本作品の舞台の紹介映像を見てみました。たしかに役者がファンのことを監督と呼んでいて非常に興味深かったです。
 また、私はレポートを読む中で自分が共同体のなかに存在すると認識することがどのような意味をもつのか疑問に思いました。考察に書かれていた共同体に存在するという意識によって共同体同士の対立が起きる、という記述はこの疑問に答えてくれているような気がしました。また、ロボさんがおっしゃっていた、ゲーム制作側がよりゲームを広めるために想像の共同体が一役買っているという指摘がとても府におちました。

 また、卒論構想についても発表してくれました。卒論構想の話になったとき私も来年はこれを考えなければならないのか、と重い気持ちになりました笑
 中村さんもまだ、具体的に決まっていないとおっしゃっていたのですが、社会に認められないことへの抵抗、そして貢献というのが大筋のテーマでした。抵抗だけでなく、貢献を目指しているのが素晴らしいという意見が多く出ました。これについて私もそうだと思いました。中村さんが3つほどあげてくださった社会に認められないと感じたエピソードは、ジェンダーに関する問題もありましたが、その枠にとどまらない思いもあると感じました。

山崎さん

次の発表者は山崎さんでした。ゼミ生のなかで最後の発表です。

 「依子と尚子は互いの出会いからどう変化したか」という問いを元に発表がなされました。使われた理論はクイア理論とジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが提唱した生成変化です。そして、「依子と尚子は互いの要素を取り入れ、さらに他者へのなりすましを行うことで生成変化し、依子は暴力性による生きづらさを、尚子は自分の意思に従った行動ができないことによる生きづらさを解消するすべを得た」という結論が導き出されました。
 まず、『ババヤガの夜』という作品は私が読みたいと思っていた本でした。なので先に論文で知ることになったかという思いもありつつ、楽しく論文を読むことができました。あらすじを読んで見ると、かなりハードな作品であることがわかりました。読むときは山崎さんのレポートを思い出して依子と尚子の変化に注目しながら読みたいです。
 また、質問のなかで中村さんが、依子と尚子が他者になりすまして生きていったことは生きづらさを解消したことになるのか、という指摘はかなり鋭い視点だと思いました。偽装することが二人にとってどのような意味をもったのかは、もう少し考えなければならないと感じました。また、ほかの人の意見とかぶっていたかもしれませんが、私の意見として、尚子が父親の支配から脱したことは男性社会からの脱却を表しているのではないでしょうか。そして尚子が男性の姿になったことは男性社会に支配される女性という存在から脱却したことを示しているのではないでしょうか。まだまだ考える余地がある素晴らしい作品ですし、レポートだと思いました。

 そして次に卒論構想についてです。山崎さんもまだ具体的には決まっていないとおっしゃっていましたが、生きづらさを感じた時どのように対処すればよいかというのが大筋の問いでした。生きづらさというのがまだぼんやりとしているのが課題点のようです。生きづらさというのはほとんどの人々が抱えていると思います。私も今、生きづらさというものに直面しています。卒論でどのような内容になるか楽しみです。

春学期積み残し

 ゼミ生全員の発表が終わった後、ゼミ生だけ残り、春学期に終わらなかったミシェル・フーコーの「知への意志」について議論しました。ちなみに発表者は私、藤田雄成です。春学期の最後の授業でこの内容に取り組んだのですが、挫折してしまいました。よって今回はそのリベンジです。最初はゼミ生のみんなに手伝ってもらうつもりでしたが、内藤先生のいったん一人で苦しんでみろという指摘を思い出し、一人で最初から読み直し、レジュメを完成させました。この時間では私が疑問に感じたところを4年生の先輩方も含めて話し合いました。まず、話題に上がったのがこの理論をどうやって用いるかという問いです。特定の人物に注目して分析するなどの意見がでた一方、ジョウ君が死と生に宗教を結び付けると面白いのではないかという発言をして興味深かったです。また、性的欲望の装置というのは新しい時代のものであり、死や血といったものは古い時代のものであるということを確認しました。

花火

長い長い議論が終わりました!夜は花火をおこないました。外はとても暗かったです(怖)
最後はみんなで線香花火で対決しました。私のやつはすぐに落ちちゃいました…..
みんな夏を感じてましたね(笑)

人狼

深夜はみんなで部屋に集まって人狼をおこないました。実は私、人狼というのをちゃんとやるのが初めてでした。まあ、とりあえずやってみるか~くらいの感覚だったのですが、、、いざやってみると楽しい(笑)最初のゲームで即、内藤先生が脱落したのも面白かったですし、ジョウ君の意味不明な言動も面白かったです。押入れが脱落者の墓場になるスタイルは、いいシステムですね笑
あと役職のパン屋ってなんだ????

映画「憂鬱の楽園」

 さて、合宿もいよいよ最終日、3日目に突入です!
 この日はジョウ君がおすすめしてくれた台湾映画『憂鬱の楽園』を見ました。
見て最初に感じたこととして、わからない!というのが正直な感想でした。特にラストのシーンが全くよくわかりませんでした。しかし、議論を重ねていく中でだんだんこの作品について理解できるようになってきました。議論ではまず、モチーフ、そして重要となる二項対立を話し合いました。二項対立に関して、台湾語を話すのが男性、中国語を話すのが女性、という二項対立があることを知ってとても興味深かったです。また、家族というのもこの作品で重要だという発言がありました。そしてガオという登場人物が血縁家族に縛られていたこと、途中からピィエンなどの疑似家族を優先したことなどが解釈として導き出されました。ラストの車がクラッシュする場面はガオの重視した関係(疑似家族)が旧来の関係(血縁)によって、なかなか前に進まないということを表しているのではないでしょうか。
 

私は合宿が終わったあと、みなさんの感想、意見も踏まえてもう一度映画を見てみました。最初に見た時よりも深く見ることができた気がします。例えば、ガオは「社会に出てから何もない」という発言をしていました。上海にレストランを開くという話も進んでおらず、無気力な印象です。そのぽっかりと空いた穴をピィエンのトラブルを助けることで埋めていたのではないでしょうか。他にも特徴的なカメラワークに表現された美しい自然の風景と人間の金をめぐる醜さというものが対立してあると感じました。

BBQ

すべての議論が終了した後はいよいよBBQです。肉がたっぷりとありました。焼きそばもおいしかったです。食材を焼くのがひと段落したところでみんなで感想を言い合いました。非常に濃い3日間になったと思います。

観光~帰宅

BBQのあと、何人かは帰宅し、残った人たちで清泉寮に観光に行きました。そこでまず、ソフトクリームを食べました。とても美味しかったですが、溶けるのがはやい!(汗)もうちょっと味わって食べたかったですね笑 そのあとは牧場にでて清里の自然を感じました。いやあ~気持ちが落ち着きますね。

 ここで清里駅前の廃墟について気になったので調べてみました。清里駅は1933年にできた歴史ある駅です。実は清里は昭和後期から平成初期のバブル時代に清里ブームがおき、駅前などは「高原の原宿」と呼ばれたほどに人々がたくさんいたらしいです。しかしバブル崩壊後はブームも過ぎ去り観光客は減り、清里は衰退の一途をたどります。駅前に多くある廃墟はかつての清里ブームの断片を見せているといえるでしょう。
ちなみに余談なのですが、清里駅からさらに小梅線で進むと野辺山駅という駅があります。これは帰りに井上さんに言われて気づいたのですが、野辺山は今年のコナンの映画の舞台となった場所です。いつか行ってみたいなあ笑

 この3日間で私の足りない部分がよくわかった気がします。秋学期は誰よりも頑張るぞ、という気持ちで臨みたいと思います。
 そして、最後に私を励ましてくれた11期生のみんな、そして素晴らしい運営をしてくださった10期生の先輩方、社会人の目線から新しい視点を提供してくださったOB,OG、外部の方々、ロボさん、厳しいながらも鋭い指摘をしてくださった内藤先生、ありがとうございました!

第12回 社会や文化によって形成される性別

ご無沙汰しております、11期生の井上紬です。

いよいよ夏のゼミ合宿が近づいてまいりました。

そして、その合宿の支度をしながら(やり残したことはないかな…?)と考えていたとき、ふと自分の担当だった春学期第12回のブログを投稿していないことを思い出したのです。

同期の仲間たちとこのブログを見てくださっている皆さまに心より謝罪を申し上げます。

11期生の春学期を締めるブログとして、もう少しだけお付き合いいただけますと幸いです。

前座

皆さん、「記録|読書も映画も」というアプリは存知でしょうか。

bondavi.Inc さんによってリリースされているこのアプリ。

名前の通り本や映画の鑑賞記録がつけられるのはもちろんのこと、ドラマやアニメ、ゲームやライブ、お酒や旅先まで、あなたを楽しませてくれるすべてのコンテンツを、感想や五つ星評価とともに控えておくことができるアプリです。

自分で記録したいジャンルを新規で増やすことができるので、あなただけのエンタメ備忘録になりますよ。ちなみに私は「イベント」の欄を作り、足を運んだ美術展や好きな漫画の原画展なども記録するようにしています。

記録が誰かに公開されるようなシステムではないため、「Filmarks」などと使い分けるのもおすすめです。

私のエンタメライフをさらに充実させてくれているこのアプリ、皆さんも是非インストールしてみてはいかがでしょうか?

3限 『批評理論入門』廣野由美子

この時間は藤田くんがフェミニズム批評とジェンダー批評について発表してくれました。

フェミニズム批評

フェミニズム批評にはいくつかの方法があります。

ひとつは、男性作家が書いた作品を女性の視点から見直し、男性による女性の抑圧がいかに反映されているか、あるいは家父長制的なイデオロギーが作品を通していかに形成されているかを明らかにする方法。

もうひとつは、「ガイノクリティックス(gynocritics)」と呼ばれる女性の描いた作品を研究対象とする立場で、男性文化によって無視されてきた女性作家の作品を発掘したり、除籍が描いた作品を再評価しようとしたりする方法です。

『批評理論入門』の分析対象である『フランケンシュタイン』の作者、メアリ・シェリーは女性でした。彼女が名前を伏せて『フランケンシュタイン』を出版したのには、自身が女性であることも理由のひとつに挙げられるといいます。著者が女性だと判明することで、作品が理不尽な評価を受けるのを危惧したのです。

また、『フランケンシュタイン』の内容自体にも男性文化の反映は見られます。『フランケンシュタイン』は “女性は家庭の私的世界で生きるべきであり、男性を癒す存在であるべき”というような当時の男性優位のイデオロギーが強く反映されて描かれていますが、一方で主人公の男性・フランケンシュタインの破滅から、そのイデオロギーに対する欺瞞を呈しているとの見方をすることもできます。

ジェンダー批評

前述のフェミニズム批評が男と女を本質的に違うものと見るのに対して、ジェンダー批評は、性別とは社会や文化によって形成された差異・役割であると見ます。

ここでは生物学的・社会的な男女区別から逸脱し、周縁に追いやられていた存在も対象となります。

それらは、男の同性愛者を扱うゲイ批評や、女の同性愛者を扱うレズビアン批評、両性愛者や性転換者なども対象に含めたクイア理論などに拡充されています。

ゲイ批評の観点から見る『フランケンシュタイン』が、個人的に印象深かったです。

そこではヴィクター・フランケンシュタインとヘンリー・クラヴァルの関係に注目し、妻のエリザベスにすら「愛しい愛しいエリザベス」という表現で言及するにとどまっていたフランケンシュタインが、クラヴァルには「最愛の」という最上級の呼びかけをしていると指摘していました。

この指摘自体瞠目するものであったのですが、結局怪物が殺したのもフランケンシュタインと血のつながった父や弟ではなくエリザベスとクラヴァルだったことから、「怪物は、自分の性的伴侶を奪われた苦悩をフランケンシュタインに味わせるために、フランケンシュタインの同性と異性の伴侶を選んだのではなかったか」という結論に辿り着いたことに舌を巻きました。

フェミニズム批評で述べたように、『フランケンシュタイン』には一見、男と女という明確な二項対立が存在しているように思えます。

しかしそこで「本当にそうなのか?」という懐疑の切り口で迫ってくれるのがジェンダー批評。

いつか自分の論文でも使ってみたいですが、奥が深い理論でもあるので、もっともっと勉強が必要です・・・。

4限 『パフォーマティヴ・アクトとジェンダーの構成』ジュディス・バトラー

この時間はジョウくんが発表してくれました。

ジェンダーとは、生まれつきの性的特徴(セックス)から生じるアイデンティティではなく、社会的な強制力のもとで人々が行為(パフォーマティヴ)と演技(アクト)をすることによって一時的に構成されたものである。

これが本著の最も言わんとしていることだと私たち11期生は結論づけました。

しかし、そこでひとつ疑問が生じたのです。

「ならば、この考え方に基づいたとき、トランスジェンダーとは一体どのように説明できるのか?」

一般に、トランスジェンダーとは生まれ持った性的特徴による身体の性と認識している性が一致しない人を指します。

バトラーの考え方によれば、トランスジェンダーとは自己意識が芽生えたときに身体が「かくあるべき(らしさ)」を求められていることに違和感を覚えた人たちのことであると説明できるのです。

あとがき

今回は3限から4限にわたって、性別の観点から見る作品分析について掘り下げていきました。

ここでいう性別を、生まれ持ったものではなく社会的に形成されたものと見るとジェンダー批評が始まっていくのですね。

では最後に恒例の作品紹介で「春」を終えたいと思います。

と、言いつつ今回はもうすでに多くの人が観たのではないでしょうか、

『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』

実は明日、合宿に向かう特急に乗る直前に、私はこの2回目を観るのです!(笑)

明日から配布される新しい特典(善逸 VS 獪岳のティザービジュアル)がどうしても欲しくて・・・。

あのふたりの因縁に関する物語は、原作を追っていたときから指折りに好きなエピソードだったんですよね。

他にも、大好きな水柱の活躍に目を奪われたり、劇伴の素晴らしさに感動したり、同情する鬼の過去に涙したりと感情が昂るポイントが数多くあったのですが、その中にはこのゼミに入っていたからこそ気づけたと思うこともありました。

それは、『鬼滅の刃』は「休止法(速度ゼロ)」で語られるシーンがものすごく多いということ・・・!

中学生や高校生の頃に漫画で読んでいたときには気になりませんでしたが、今回映画で観てみたらそのことが絶えず頭の中にありました。実際に口に出ているセリフはどのくらいあるんだ、とか、あそこからここまで実際には時進んでないよな、とか・・・(笑)

このゼミに入り新たな視座を得たことを実感できたいい機会でした。

秋学期もインプットとアウトプットを並行しながら頑張っていきたいと思います!

11期生 第14回 気づいたら夏が終わってしまいそうで、

暑い日が続いていますがいかがお過ごしでしょうか。

皆さんこんにちは。今回のブログを担当します土田です。

まずは長い間が空いてしまったことを謝罪申し上げます。

今回は第14回の春学期最終回の授業についてのブログになります。

最終回授業は7/14、本日は8/14と丸一か月も空いてしまい、猛省しております。(そして執筆時からアップロードまでも期間が空いてしまい大変申し訳ございません。そのため、以下内容にずれが生じていますがご了承ください)

先日やっとの思いで最後のレポートを提出し、ブログに取り掛かろう!と重いかもしれない腰を上げたものの、半分ほど書いたところでデータが消えてしまい(泣)一から書き直している所であります。軽く絶望しながら、春学期最後のブログに参りたいと思います!

前座

今回の前座は私が担当しました。今回紹介したのは『鯨が消えた入江』という台湾の映画です。最近ネットフリックスで見て、この映画の映像、ストーリー、音楽、演技全てが素敵で大好きになった作品です。

詳しく語るのは控えますが、井上さんもこの作品を見た!と言っていて色んな点で共感出来てとても嬉しかったです。

8/8から期間限定で劇場で上映されていて、ちょうど昨日劇場にも足を運びました!短期間で3回目の鑑賞でしたが何度見ても泣けるとっても素敵な作品でした。

3限

3限の担当はジョウくんで、ポストコロニアル批評と新歴史主義について学びました。

ポストコロニアル批評

ポストコロニアリズムとは、二十世紀においてヨーロッパ諸帝国が衰退し、アジアアフリカカリブ諸国などの第三世界が西洋の植民地支配から独立したあとの歴史的段階を指しています。西洋によって植民地化された第三世界の文化全般の研究を指し、特に文学作品を対象とする場合をポストコロニアル批評と言います。

この批評ではまず、植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究するアプローチがあります。植民地主義の文化的影響からどのように脱するかに焦点を当てます。

次に、帝国主義文化圏出身の作家の作品において、植民地がいかに描かれているかを分析する方法があります。西洋文化圏のテクスト内部の植民地主義的言説や、人種的他者がどのように表象されているかを注目する読み方です。

また、我々日本人は、植民地を建設する側であったものの、西洋の植民地支配の影響を文化の面では受けてきたため、ポストコロニアル批評の考えは非常に重要であるのだ。

新歴史主義

文学作品を歴史的背景との関係において研究する方法を「歴史主義」というが、「新歴史主義」とは異なるものである。

作品を歴史的・社会的背景から切り離してテクスト自体を自立した有機物とみなすニュークリティシズムが台頭すると歴史主義は衰退していった。その後「、作品の意味を読者とテクストとの相互反応から見出す読者反応批評や、テクストは内部矛盾を含むものであるとするポスト構造主義がニュークリティシズムを批判するようになる。ただあ、これらも歴史的背景は無視しており、再び「歴史」と言う要因を復活させたのが「新歴史主義」である。

「新歴史主義」は単に歴史的出来事を重視したり、特定の時代精神と結びつけたりするのではなく、より広範なものとして「社会科学」と位置付けるものです。

今回の授業では、新歴史主義は、文学作品を歴史的な文脈に強く結びつけるが、そのことによって、時代を超えて読者に訴えかける、いわゆる文学の普遍性を失う恐れはないのか、と言う問いに対して深く考えました。

私たちの中では、文学を信じたいという気持ちから失うことはないのでは、という考えが多く上がりました。私自身も、文学の力を過信しているのかもしれませんが、信じているのでどんな時代・背景でも文字の持つ普遍性、みたいなものは失われることはないのでは、と思っていました。一方で先生が、一度逆の考え方に振ってみることで他の重要性にも気付くことが出来る、ということをおっしゃってくださりました。これから研究を続けていく中で、きっと私は文学の力に頼ると思うので、一度テクストだけからは離れて、新歴史主義を用いてみようかな、と考えるようになりました。

ジョウくんがあげてくれたこの問いで、今学期最後にふさわしい深い議論が出来たと思います。

4限

ミシェル・フーコー『知の考古学』

最後はミシェル・フーコーの生権力の概念を考えていきました。今回の文章は30ページ程のハードなもので、私はゼミの日までに何度も読み返して、あとちょっとでわかりそうだけど分からない、わかったらおもしろそうだけどそこまで掴みきれていない、という状態から抜け出せないまま、みんなの解釈を楽しみにしよう!と思い臨みました。

今回の発表担当は藤田くん。配られたレジュメにはこの文章に対する藤田くんの思いの丈がつらつらと書き連ねており、私は大変感心してしまいました。ただ、この文章と一連の流れから、私たちは様々な学びを得たと思うのでこれを次につなげることが大切だと思います。(すべてが抽象的ですみません。)

今回の授業では、みんなで前半を「生と死に対する生権力はどのように変化したのか」という論点にまとめ、小さく分類していき何が書かれているのかを読み解いていきました。近代以前は「死なせる」か「生きるままにする」であった権利が、近代以降では「生きさせる」か「死の中へ廃棄する」という考えに変化していったことが分かりました。

続きは夏合宿へと持ち越しになりました。藤田くんがリベンジしてくれるそうなので楽しみです。生権力の話はきっと私は興味がありそうなので、私もこの文章をきちんと理解して、問いと意見を持って合宿に臨みたいと思います。

さて、夏ですね!

8月中旬まではレポートと闘っていたため本当の夏休みはここから始まったような気がします!そしてサークルの一大イベントの大きな舞台が8月末にあるためそこまで突っ走るのみですが、終わってしまったらそこで私の夏も終わってしまうような気がします。。夏はやっぱり夏らしい作品を見たいので沢山ウォッチリストに書き溜めていますが、夏が終わるまでにいくつチェックを付けられるのでしょうか、、、。1つでも多く自分の中の世界を増やして、合宿・秋学期に臨みたい!という気合を入れて今回のブログを終わりたいと思います。

ここまでお読みくださりありがとうございました!

また秋学期お会いしましょう。