ゼミ入室試験に応募する人は、レポートとエントリーシートを提出すること。
- レポート:以下の内容を1,500-2,000字の文章にまとめる。(A4横書き)
・志望理由
・ゼミで取り組みたいこと(対象・作品があれば、それも示すこと) - エントリーシート:以下のリンクからファイルをダウンロードし、必要事項を記入する。エントリーシート
提出締切日時及び提出場所は、情報コミュニケーション学部事務室に確認すること。
なお、レポートとエントリーシートの両方を提出した者のみ、面接試験を受けられるものとする。
ゼミ入室試験に応募する人は、レポートとエントリーシートを提出すること。
提出締切日時及び提出場所は、情報コミュニケーション学部事務室に確認すること。
なお、レポートとエントリーシートの両方を提出した者のみ、面接試験を受けられるものとする。
こんにちは。夏休み、アルバイトして実家に帰って免許合宿に行っていたら終わったような気がします。大下です。
第1回授業は春学期最終課題の反省とオリエンテーションでした。秋学期3年は話し合いの結果、カルチュラルスタディーズ、ジェンダー研究、精神分析、新歴史主義、脱構築と構造主義の5つのテーマに絞って授業を進めることにしました。第2回授業はカルチュラルスタディーズのテーマから、映画『さらばわが愛、覇王別姫』を読み解きます。
第2回授業使用論文:本橋哲也『映画で入門 カルチュラル・スタディーズ』第6章〈セクシュアリティ〉『さらばわが愛、覇王別姫』
映画の作品分析は合同ゼミ、4年授業の見学、合宿での合同分析で経験を積んでいた二人。2時間を超える大作に苦闘しながらも、視聴してきました。議題にしたことは ①セクシュアリティとは何か ②セックスとジェンダーは対立ではないといえるのはなぜか ③カルチュラルスタディーズとは何か ④なぜこの作品が「カルチュラルスタディーズ」の論文に掲載されているのか ⑤表象作品を分析する理由とは何か ⑥”象徴”とは何か です。復習がてらにと重たい質問をどんどんぶつけられしどろもどろな二人……。本日はいつも以上に先生にご迷惑をおかけいたしました。
ここにすべての議論をいちから載せるのは字数的によろしくないので、PDFをはりつけておきます。秋学期第2回カルチュラルスタディーズ
積み残しもありますが、ともかく2時間頑張りました。相田さん、助っ人ありがとうございました。
こんにちは。今回の担当は大下です。
3限は前回の内容とかぶりますが「ポストコロニアル批評」、それから「新歴史主義」について、おなじみ批評理論入門から学びます。4限はミシェル・フーコー『知の考古学』から「4 比較に基づく事実」を取り上げます。(権力云々は時間上深く学べず)
ポストコロニアルは前回の蓄積があったのでかなりさらっと。植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する、あるいは帝国主義的文化圏出身者の作家が書いた作品で、どのように植民地が描かれているのかを研究するという手法があります。日本はこの場合、西洋から見ると東洋に属する一国である一方、アジアにおいて支配者になった歴史があることから、立場的に微妙な位置におかれています。
では『フランケンシュタイン』ではポストコロニアル的に読み解くとどうなるのでしょうか。批評理論入門では、オリエンタリズムが、ド・ラセー家に訪れるトルコ人娘サフィーの登場する場面に見受けられると書いてあります。作品内においてトルコ人は、民族的偏見ゆえに無実の罪を着せられた犠牲者としての一面と、狡猾な忘恩者としての一面を持たされています。さらに、サフィーの母親がキリスト教のアラビア人であるために、サフィー自体を肯定的に描いていたり、あるいはサフィーにフランス語を教えるものとして使われた『諸帝国の廃墟』において、アジア人の劣勢とヨーロッパ人の先天的・文化的優勢とが対比されているなど、この場面ではさまざまなオリエンタリズムが垣間見えます。一方で、ヴィクターの人造人間製作、ウォルトンの北極探検、クラヴァルのインド植民地化構想は、すべて挫折に終わっていることから、この作品においてアジア人は劣勢に物語られているけれども、ヨーロッパ人による侵犯行為も成功に至っていない(優勢に描かれているわけではない)ということになります。
ポストコロニアル、オリエンタリズム共に理論に疑問はなかったので、授業内では少し発展的なことを議論しました。アジア圏内でも日本国内でも、オリエンタリズム的支配があるということ。その根底には国民国家という難しい問題が絡んでいます。何をもってして一国家とし、その国家にどのような人は入ることができ、どのような人が排除されてしまうのか。あるいは日本人とはなんなのか。どんなことを理由に日本人となりうるのか。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』の話も持ち上がりましたが、”日本”というものがあると想像することで”日本”が沸き起こってくるという現象、たしかに否めないな、と思いました。結局違いなんてないのにわざわざ違いを見出そうとするために他者をさげすみ、自分を優位に見せ、存在を示そうとする。人間のあさましい欲の表れのような気がして、寂しい気持ちになります。
さて、新歴史主義に移りますが、大下、ぶっちゃけよく分かっていないような気がします!!ただ忘れているだけなんだったらいいのですが……ひとまず振り返りを。
新歴史主義は1980年代から起こり、再び歴史という要因を文学研究に復活させた一派のことです。旧歴史主義のようにひとつひとつのできごとを重視したり、特定の時代精神と歴史を結び付けたりするのではなく、歴史をより広範に社会学や文化人類学など〈社会科学〉と位置付ける考え方です。
先生から理解しやすいように教わったことがメモ書きされていたのですが、要は旧歴史主義ではアンネの日記、源氏物語を虚構であるためにその時代の歴史として認めず、説明や論証に一切使わないのに対し、新歴史主義ではそういったものもより広い視野で歴史をみるために取り扱うこともある、ということです。これで大分納得がいったのですが、批評理論入門では十分な解説を受けられなかったので、4限フーコーのほうに議論を移しました。
フーコーは新歴史主義的な読解作業のことを、”考古学的分析”と名付けています。文章が難解なため、彼の言いたいことは上記のようなことだという姿勢をブレさせず、文の詳細確認に勤しみました。いままでA領域のことはA領域内でしか語られてこなかったものを、B領域、C領域のなかで咀嚼する。そうしたことが考古学的分析であり、こうして次々と新たなものを浮かびあがらせることができるために多様化を促すものである。また、あるものは一つの領域にしか存在しないと思われていたが実はさまざまな領域にわたって存在することが可能であったことを示したりもできる。ということを読み取りました。的を射ていればよいのですが(笑)
春学期、お疲れ様でした。
今回の担当は増尾です。
7/11の第13回では
3限 廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の第2部 8「マルクス主義」、9「文化批評」
4限 エドワード・W・サイード『オリエンタリズム 上』
をとりあげました。
3限の担当は増尾。
第11回ブログ きました!マルクス主義!!!さぁ!!ついに!私はマルクス主義と仲良く………………
なれませんでした!!!!!
知り合いからよっ友(すれ違いざま等に「よっ!」と声をかける程度の友だちのこと)くらいにはなれたと思うのですが……。
と、くだらないことはこれくらいにして。
やはりマルクスは難しかったです。自分の考えたことのないことということがあり、単語単位で調べることからはじまりました。
ただ、今回は『フランケンシュタイン』を絡めた形での読解となったので、前回よりも理解が進みました。
経済状況があるうえで、思念が生み出される。
ということは、作者の考えすらも社会・経済状況があってこそ。
作品には作者の考えが反映されている=社会・経済状況が反映されている ということでした。
直接は描かれていないことに注目し、矛盾を見出していくことから、解釈をしていくということが重要らしいのです。
作者であるメアリ・シェリーは資本主義者であったにも関わらず作品の中では資本主義について描かれていませんでした。ここに矛盾が!!
→新しい主義へと移行していたのでは?という解釈ができる。
マルクス主義自体について深く理解出来た自信はありませんが、文学におけるマルクス主義批評は少しだけ理解が進んだと思います。
まだまだ奥が深そうですが……まけない!!
4限の担当は大下。
オリエンタリズム。
西洋が西洋あるために、東洋に対する植民地支配を正当化するためのものであるということでした。
差別的であり、反人間的な思想ではあるのですが、オリエンタリズムがあるからこそ東洋というものも浮き彫りになったのではないかと思いました。
オリエンタリズムは異なる文化や伝統を極端に区別してしまう。本来世界は少しずつ混ざりながら共存しているものであり、完全な区別は社会に属する人間同士の出会いを制約してしまうものだと言います。
西と東で分けた時、東に位置する日本人としては複雑な思想ではあると感じました。
支配し、されてきた両方の面をもつ日本はオリエンタリズムについてどのように捉えていくべきなのだろうか……。と考えるきっかけになりました。
さてさて、次回で春学期は最後となります。
秋へ向けた有終の美を飾るべくさらに精進していきます!!
増尾
こんにちは。今回の担当は大下です。
第12回は性に関する批評体系について。3限では批評理論入門から「フェミニズム批評」、「ジェンダー批評」を取り扱いました。
フェミニズムとは1970年代以降に登場した、性差別を暴く批評のことで、これまで男性作家によって書かれていた作品を女性の視点から見直し、男性による女性への抑圧がいかに反映されているかを指摘します。さらに、男性文化によって無視されてきた女性作家の作品を発掘したり、女性の書いた作品を再評価する動きもあります。
メアリ―・シェリーは『フランケンシュタイン』を出版する際、自分の名は伏せていました。メアリーと同時代の女性作家も男性名や中性的な名前を使用していたことから、当時作家が女性であることは批判を招く恐れがあったことが窺えます。また、パーシーの作品介入を黙って受け入れている点、夫の死後、その作品を手直ししている点から、この時代夫が優越権をもつことが当たり前であったことも考察できます。
『フランケンシュタイン』において、登場する女性は直接自らの口で語ることをしません。また、男の登場人物の多くは故郷を離れて旅や仕事をしますが、女性はほとんど家(あるいは土地)から出ることがありません。
ジェンダー批評において性別とは、社会や文化によって形成された差異・役割です。フェミニズムと違い、男女両性を連続的なものとして捉え、男・女という一般カテゴリー自体に疑問を突きつけます。
批評理論入門では、ジェンダー批評の括りの中から〈ゲイ批評〉と〈レズビアン批評〉が取り上げられていました。
ゲイ批評の観点から見ると、ウォルトンの男同士の友情に対する憧れ、ヴィクターとクラヴァルの看病と旅行といった男同士の博愛がみてとれます。また、レズビアン批評では、ジャスティ―ヌに焦点が当てられていました。彼女は唯一男性との接点がなく、エリザベスへの熱のこもった言動などから、同性愛的な情念が垣間見えると分析できます。また、ジャスティ―ヌが死んだ理由に、同性愛という不浄の罪があった、と読み取ることもできるのです。
以上が批評理論入門のあらかたのまとめです。フェミニズムとジェンダーの違いが分かっていなかった私は、ずいぶんと理解が進みましたが、ジェンダー批評のほうが〈ジェンダー批評〉ではなく〈ゲイ批評〉と〈レズビアン批評〉であったため、肝心の〈ジェンダー批評〉とはなんなのかについて、授業内で少し掘り下げました。フェミニズムでは切り込むことのできなかった”性愛”というものをジェンダーでは取り扱うことができた。そのことによって見える世界も格段に変わりました。もちろんフェミニズム批評も、未だに存在する見えない性差別を暴くために重要な理論です。一方で、人間の性の在り方について問われるようになった現在の動きは、ジェンダー批評の成果でもあります。
まだ乗り越えられていない批評理論を知り、生きた学びをしているような感動を味わいました。うまく言い表せませんが笑
一点私が知りたいなと思ったのは、怪物がどうして自分を「男である」と自認したのかということです。当時は男女の二分に疑問などなかったでしょうから、男であることを認められないということは考えられていなかったでしょう。しかし、ジェンダー研究が進み、性自認の常識が変わりつつあるとき、怪物がなぜ男だと理解したのかを考えるのは面白いのではないかなぁと思いました。
4限では、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の冒頭を取り扱いました。フェミニズムの最大の功績は、生物学的性の上にある社会的な性規範を変えたことにあります。女性の表象の仕方を変えることで、法制度、女性の役割、地位などを変えることに成功しました。でも、それだけ。女性の表象を変えることは確かに大事ですが、性差については考えることができなかった。そのことを問題点として挙げています。女性とはなんなのかが曖昧であり、統一的な女の存在は結果的に無いと示され、フェミニズムの目標とせんことも結局は空洞化し、失敗してしまう……
という内容だったと理解しました。授業ではジェンダーを語る際、クリステヴァをよく例に上げます。「女」は存在しない、「女」というものは構造的に「男ではない」でしか説明できない ということ。逆もまた然り。たしかになぁと思うとともに、自分は今後自分の性をどのように表現したらいいのだろうという感想を持ちます。一般的女性としての風貌、自認をしていますが、本当にこのまま諸書類に「女」と書いてもよいのでしょうか。学べば学ぶほど世界が広がるとともに、変な悩みも広がるなぁとつくづく思います。
一か月ほど前の出来事になってしまいました。いくつになっても夏休みはあっという間です!記憶と記録を辿りながらですが、ご報告いたします。
8月14,15,16日にかけて、山梨県の清里セミナーハウスにて夏合宿を行いました。
期間中は連日雨模様。ひたすらに議論を繰り返すだけだったので問題なかったですが、やはり晴天のなかで行いたかったですね、来年に期待します。
さて、初日は朝に集合し、バスと電車を乗り継いで、セミナーハウスには16時ごろ到着しました。先に宿泊していらっしゃった先生と合流し、しばし休憩をしたあとさっそく活動へ。
3年生の夏の課題論文に関する発表、議論を行いました。仮の者もいますが、論点、題目を挙げて簡単に紹介します。
増尾 白虎隊の物語が今なお繰り返し作品の題材となっているのはなぜか -複数のテレビドラマ作品を比較分析する
大下 神仏分離令によって民衆の死生観はどのようになったのか -河鍋暁斎楽画を用いて民衆の死生観を探る

まだまだ手探り状態の3年ですが、4年生のアドバイスにヒントをもらい、なんとかこの夏にいいものを仕上げようという気持ちになりました。論に必要な章とそうでないものの判断、事例に関して読み手が理解できる記述がされているか、あとは課題の進め方についてなどなど……。本当に身になりました。
議論を終え夕食の後、小雨の降る中、息抜きに手持ち花火で夏を満喫しました!

線香花火で耐久レース、ギリギリまで詰められた火薬に恐怖……など、髪を湿らせながら楽しみました。
2日目は4年生の課題論文についての議論。4年生は卒論に向けたアウトラインを持参しており、3年生に比べて研究の進み具合、論旨の明確さなど、段違いの精度です。
横野 表象作品において、女性は逃げ、走ることで何を獲得するのか -女性が逃げ、走るという「闘争」によって得ているものを作品から読み取る
相田 『あなたの人生の物語』から見る目的論的物語 -作品内で取り上げられた目的論と因果律を理解し、作品の語られた意味を見出す
室 『ジャングル・ブック』(1894)において描かれるキプリングの理想の社会はどのようなものか -キプリングのもつ独自の思想を考える
前田 古典文学とゾンビの融合(マッシュアップ)が生じたのはなぜか -『高慢と偏見とゾンビ』を用いゾンビの批評性を論じる
提中 小説『怒り』を通して人間関係について考える。”信じる”コミュニケーションとは何か -作品を用い””信じる””ことへの考察を行う

丸一日の大議論でしたが、7人で意見を述べあい、お互いの主張を高め合いました。4年生は今までの経験値を活かし、3年生は素朴な疑問をぶつけ、とても良い時間を共有できた気がします。
夜は再び集合して、映画を鑑賞しました。
『スイミング・プール』フランソワ・オゾン監督 2003年
――スランプ中の英国のミステリー作家、サラ(シャーロット・ランプリング)は、南仏にプール付き別荘を借りる。しかし突然借り主の娘、ジュリ−(リュディヴィーヌ・サニエ)が現れ、彼女の生活は一変する。(引用:シネマトゥデイ https://www.cinematoday.jp/movie/T0001952)――
先生含め8人という人数で映画を鑑賞したことがなかった私大下にとって、全員でリアクションが取れたり、終わった瞬間に各々の意見が聞けたりと、非常に楽しい体験でした。皆驚いたり恐怖したり首を傾げたり、、、。とにかく分析しがいのある映画だね、ということで就寝しました。
翌日、朝10時ごろから昨夜の映画について分析、議論。本記事で発表した内容をまとめようと思ったのですがあまりにも長くなったので、すみませんが割愛させていただきます。また別の機会にこっそり発表するかもしれません。
非常にざっくり分析をまとめると、「この物語は男性性と女性性についてをテーマにしており、親子についても描かれている。」という感じです。いい線までいったけれど、先生の講評でさらに理解が深まったという感じでした。まだまだです……!

最後にせっかくなので帰る直前に少しだけ周辺観光。清泉寮に行き、お昼を食べてお土産を購入しました。


ということで、密度の濃い3日間でした。夏課題、頑張ります!

(文:大下由佳)
こんにちは。春期第9回のブログ担当、室です。
今回は、『Film Analysis』第12章・ジェンダー批評を扱いました。
ジェンダー批評では、映画の中に描かれる性別に関する「主張」に着目します。
『Film Analysis』第12章の中では、アメリカ映画『ミルドレッド・ピアース』(1944)を取り上げ、作中の性別役割分業に対する主張を抜き出しています。
第二次世界大戦末期に公開されたこの映画における主張は、「女性は伝統的な女性役割に従うべき」というものでした。
以下、今回のレジュメです。
また、章末の課題では『レザボア・ドッグス』(1992)を扱いました。
作品内で「男らしさ」がどのように描かれたのかを議論したほか、第5章「語り」で扱った『テルマ&ルイーズ』(1991)を用いて、「女らしさ」との比較も行いました。
ジェンダー批評については昨年から何度も議論してきましたが、そのたびに新しい問題が浮かんできます。
今回の議論を通じて、ジェンダーの描かれ方というのは、多くの作品において議論ができる問題であると改めて感じました。
大学生活最後の1年も、前半が終わりました。
内藤ゼミでは、作品を用いて議論を行うのは4年前期が最後です。
後期は卒論に向けた時間になります。
ゼミ生同士協力し合い、乗り越えたいと思います。
今回の担当は増尾です。
6/27の第11回では
3限 廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の第2部 4「脱構築批評」、5「精神分析批評」
4限 マルクス『経済学批判』「資本論1」
をとりあげました。
3限の担当は増尾。
今まで様々な主義を学んできましたが、脱構築 は主義ではなく二項対立を崩す手続きであるという話から始まりました。
そもそも、構造主義とは作家(作家性やしゃかいせいなど)を排除し、テクストだけを分析するというもの。
テクストだけがその物語の世界のすべてであるという考え方でした。
これに対して、脱構築主義はテクストの統一性を否定。
脱構築とはどのような方法で行うのか。
二項対立を崩せば良い!!
良く用いられるものですが、西洋東洋を例にすると、
西洋:東洋 は 知的:野蛮
という二項対立が表されたがち。
→西洋の野蛮性を、東洋の知的性を見出すことで二項対立を崩すことができる。
ということになります。
どちらが正しいかの決定が不可能(=決定不可能性)であると示す方法がとられます。
二項対立の解体をあえてさせることによって、予想のつかない展開、読者への驚きを増すことが出来るのだなぁと感じました!
ただ、脱構築もテクストに焦点をあてており、作家性や時代背景を意図的に解釈に持ち込まないということで、私の考えとは違うなぁ……と反論したくなったりしました笑
次に「精神分析批評」
フロイト的解釈
→作品の中の登場人物ではなく、作者自身に関心を向けている。作者の無意識が作品に反映されているという考え。
間テクスト性的解釈ができる。
ユング的解釈
→人間の無意識には民族や人類全体の記憶がある。
そのため文学作品には文明によって抑圧された人類全体の欲望が表れている。
神話批評
→時代・歴史をこえ、現在の作品に共通するものを見出すことで、人間精神の類似性を指摘。
それぞれの解釈が『フランケンシュタイン』に当てはめて例が出されており、授業準備のために読んでいるのが楽しかったです笑
自分で使えるかと言われると……。それぞれの理論がぐちゃぐちゃにこんがらがってしまっていてちゃんと整理しないと……と危機感を覚えました。
4限の担当は大下。
これがまた強者でした!!!!!
マルクス主義を学ぶべく頑張りました。がしかし、頭をフル回転させて、読み込み、理解しようという心意気虚しく惨敗でした。(大下はわかりませんが、私は惨敗です!)
大まかに言うと、
社会構成がAからBへ変わるのはなぜかというと、Aのままでは矛盾があるから。変化が起こるときには闘争なども多く起こる。
流れる歴史の中において、何か矛盾を見出すことができれば歴史の変わり目がわかる!
ということでした。
13回の3限でまたマルクス主義について学びます。
今回のことを元にちゃんと理解ができるように頑張ります!!
授業担当は私、ブログ担当も私。果たして、増尾はマルクス主義と仲良くなれるのか……!!!!
第13回のブログをお楽しみに……。
増尾
こんにちはー。13回担当の相田です。
最近部屋の窓にすだれをかけてみました。クーラー要らずの(そもそもない)相田家ですが、風通しがよくなりより快適になればと思います。
というわけで、今回は前回消化しきれなかった「地獄の黙示録」の分析を行いました。
今回の議論で印象的だったのは、完全版で追加されたフランス人との会話のシーンです。
ウィラードがカーツへ会いに行くまでの途中で、ウィラードは農場を経営しているフランス人に遭遇し、歓待を受けます。
このシーンは完全版に追加されたシーンですが、何故このシーンは追加されたのか議論を少し行いました。
そもそもベトナム戦争という戦争の背景や一連の流れが発表時にもう希薄になってしまったのではないか、だからこそベトナム戦争に関しての知識を補完するために、このシーンが追加されたのではという意見が出ました。
実際、世界史を勉強していないゼミ生の中には、ベトナム戦争の背景やそこに潜む社会主義、資本主義の対立をいまいち把握できていないメンバーもいました。このことを考えると、フランス人との遭遇シーンは、足りない知識の補完として追加されたのかもしれませんね。
前回はっきりしなかったウィラードとカーツ、軍上層部の立場に関しては、1週間映画を確認することではっきりできました。また、保守やリベラルという考えのオンパレードでしたが、何とか理解できた気がします。
もう大学生活最後の一年の半分が経過しようとしています。
大学生のうちにできることは全部しながら、ちゃんと単位を回収していきたいと思う所存でございます…
こんにちは。
第六回ブログ担当の相田です!!
4年になり、40000字の論文作成のため、そろそろ動き出さないといけなくなりましたね…
頑張っていきたいと思います!!
というわけで今回の授業はFilmAnalysis第二部第9章、構造主義批評について議論を深めました。
構造主義批評とは、物語などの作品には何かしらの統一的な構造が存在し、その構造が服装や言葉遣いといった文化的コードとして表出していることを明らかにする批評のことです(昨年度の授業の復習ですね)。
この考え方を用いて今回分析したのが、A.ヒッチコック監督によって1959年作成された「北北西に進路をとれ」です。
この作品は、ざっくりと説明すると青いスーツに身を包んだ「アメリカのビジネスマン」であるソーンヒルが、ロシアのスパイやアメリカの諜報機関に振り回される作品です。
この作品で私達は、空砲ではなく実際に銃を撃っているのがアメリカの諜報機関しかない点に注目しました。この点は、他のソーンヒルやロシアのスパイは空砲という虚構の力でしかなく、実際に力を行使できるのはアメリカの諜報機関でしかない、ということを表象しているのかもしれません。
なんにせよ、ゼミ生全員の共通点として、アメリカの政治制度や常識に疎いことが発覚しました…
ちょうどいい機会ですし、皆で予習しておきましょう。