11期生 闇の奥の語り手

みなさん、こんにちは。

あっという間に年の瀬ですね!年内のブログは年内に片付けなければ!ということで今回も土田が担当します。

3限 ポストコロニアル批評

田尻芳樹『空虚な中心への旅』

担当はジョウくんです。今回の論文では『闇の奥』を用いながら、作品に存在する二項対立とそこから逸脱する脱構築について述べられていました。

そもそも、脱構築とはジャック・デリダが提唱した考えで、音声(ロゴス)を文字(エクリチュール)の上位に置く思考法(=ロゴス中心主義)を指摘し批判するものです。

一方で、書かれた言葉は音声を書き写したものに過ぎない、という発想は私達の常識として備わっています。

この音声優位の思考は、文字を貶めているようで、実は文字に依存しているということをデリダは明らかにして、音声/文字という階層構造を持った二項対立は成り立たないと主張します。このように、階層秩序の中にある対立していると思われている二つの物の共通性を見出して、対立関係を揺るがすことが脱構築の基本操作です。

ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』では文明/野蛮、西洋/非西洋というわかりやすく二項対立の関係にあるものが大きなテーマとなっている、と読むことが出来ます。

元船乗りのマーロウが、4人のイギリス人に自身のアフリカへの旅について語ることで進んでいきます。アフリカに憧れたマーロウはヨーロッパから船に乗り、目的地へと進める中で、カーツという極めて有能であるが危険視されている人物のことを知ります。

カーツは半分イギリス人の母と半分フランス人の父から生まれ、「全ヨーロッパが彼の形成に寄与した」と表現されているほど西洋的(=文明)な人物です。しかし彼はアフリカの奥地にとどまり、象牙集めに狂奔し、最終的には対立する原住民の首を切ってさして並べるような蛮行を犯すのです。

このことから、カーツは文明的な存在から野蛮的な存在に変化した、と考えられます。また、文明は野蛮を内包していた、とも言うことが出来ます。

つまり、文明と野蛮はもはや対立する存在ではなく、見かけの対立構造から逸脱していたのです。

二つの要素を分けていた境界線が揺るがされているのです。

そして、マーロウの旅は徐々に闇の奥、暗黒の中心部へと向かいます。

以前は空白だったアフリカ大陸はヨーロッパ人によって暗黒が発見され、空白に暗黒が重ねられることとなりました。本文中でも「空っぽ」と表現されており、マーロウが向かう暗黒の土地は空虚である、と述べられています。

カーツは死ぬ直前に「恐怖だ!恐怖だ!」という叫びを残し、マーロウはそれにひどく感動します。この臨終の言葉はカーツの心が空虚であり暗闇であるということも表されていて、マーロウは、カーツの生を要約した勝利と肯定の言葉だと解釈します。

マーロウはこのことを、カーツの婚約者には隠したことで、男性/女性の二項対立を維持していることになります。

『闇の奥』では白人/黒人、西洋/非西洋などの二項対立は脱構築していると言えますが、例えば実際に人種差別を受けている立場で見ると、悪しき現状肯定に過ぎず、文学テクストと現実社会の問題を切り離してはいけないのがポストコロニアル批評であるとして本論文は締められています。

4限 『闇の奥』

3限の論文内容や議論を踏まえて、4限ではカーツの臨終の言葉「恐怖だ!恐怖だ!」や、タイトルにもある「闇の奥」とは何だったのかについて考えました。

議論を進めていった結果、私たちは『闇の奥』の語りに注目しました。

本作品は、マーロウが他の船員に語っている部分がほとんどで、鍵括弧付きのマーロウのセリフで構成されています。

マーロウが語る1人称小説ではなく、マーロウが他者に語っているという語り手の手法がとられているのです。

読んでいる我々はマーロウの語りとして物語を読み進めますが、実はそれはマーロウが聴き手に対して語っている言葉でしかなく、つまりマーロウが見たり聞いたり体験したことが、一度マーロウの中のフィルターを通って発される言葉を語りとすることで、語りの内容は彼によって選別されたものであることが言えるのです。

また、マーロウの語りでしかないため、そこで語られているカーツはマーロウが思うカーツでしかないのです。そこに信頼はないと言えるでしょう。

もしもマーロウが何か新事実を発見していたとしても、彼が語らない選択をとっていたら我々はそのことを一生知ることが出来ないのです。これはマーロウが語っている様子を語るという本作の手法でないとできないことだと思います。

この物語はあえて「信頼できない語り手」による語りの方法がとられていたのです。

だからタイトルに『』はついていません。

アフリカを目指して、中心を求めていた旅でマーロウが見つけた闇とは何だったのでしょうか。3限で扱った文章には闇=空虚として扱われていましたが、私は、闇は空虚つまり空っぽということではなかったのではないかと思います。

むしろそこには、これまでの様々なものがごちゃまぜになったが故の闇だったのではないでしょうか。カーツの臨終の言葉「恐怖だ!恐怖だ!」は闇の空虚さを恐れたのではなく、闇の中の見えなさ、不明瞭さ、それからこれまでの人生の無秩序さやもっと複雑などろっとした感情などすべてが合わさって真っ暗、闇に見えたのではないかと思いました。

闇=空っぽでは何だか救いがないような気がします。

以上で今回の授業内容についての記録は終わりです!

さて、2025年もついに終わりますね!

毎年思っていますが、今年はよりあっという間に12月がやってきて終わろうとしています。でも1年前がはるか昔のことのようにも思えます。。。

私は先日、かなり熱を上げていたサークルをついに引退して、暇になるかなと思ったのもつかの間、レポートや諸々の準備に明け暮れる毎日を送っています。年が明けるとすぐにレポートやワークショップが待ち構えているので、休日ムードに流されつつ流されずに、頑張っていきたいと思います!

来年もどうぞよろしくお願いします。

それでは、良いお年を~!