11期生 第6回 共同体に貢献しないで自由を得る

こんにちは!

前回に引き続き連続のこんにちは、になりました(笑)藤田雄成です。
もう12月ですね。だんだんと忙しくなってきてブログも忘れないうちに早めに書くことを意識しています。(投稿こそ遅くなってしまいましたが、この内容は11月中に書いています!)
では、ぼちぼち内容に入っていきましょう!

3限

この時間は土田さんがジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」について発表してくれました。
いやあ~、難しかった!正直何から書けばいいか戸惑っているとこであります(笑)
まず、ゾーエとビオスについて触れておきましょう。ゾーエとは単に生きているという事実、生物学的な生、むき出しの生のことを指します。一方、ビオスとはそれぞれの個体、集団における特有の生き方を指します。ここで重要なのが古代ギリシャと近代社会の構造の違いです。古代ギリシャにおいて都市(ポリス)には成人男性しか参入することができず、そこはビオスに覆われています。一方のゾーエは家(オイコス)のなかに閉じ込められていて、そこには女性や子供、奴隷などが存在します。それが近代社会になると一変します。ゾーエが政治に浸透し、生政治の時代となったのです。
 さて、続いてホモ・サケルについての話です。この文章ではホモ・サケルは狼男とも呼ばれています。これは殺害可能かつ犠牲化不可能なものであります。どういうことか。古代のポリスでは誰かを殺したりするなど特定の罪を犯した人はホモ・サケルとされ誰でも殺してもいい存在となります。また、彼らは一般的な市民ではなく例外的な存在なので供物としてささげられることもありません。
 なぜ、ホモ・サケルというものが存在するのでしょうか。それは国家が権力を確認するために例外的な存在が必要だからです。どういうことか。先生が分かりやすい例えを出してくださいました。いじめられっ子はなぜ存在するのか。それはいじめっ子が権力を確認するためです。全員が同じ立場であれば自分の権力を確認することができません。これと同じ原理が国家という規模においてなされているのです。ホモ・サケルは国家において必要な存在であり、そこにはとても悲惨な背景があるのです。
 フーコーとアガンベンの考えの違いについても触れておきましょう。フーコーは自然状態つまりゾーエが生まれてから主権が生まれたという考えをもっています。しかしアガンベンは違います。自然状態と主権は同時に生まれたという考えをもっています。ホモ・サケルは法の外の自然状態で生きています。そして上記に挙げた通りそこには国家の権力が深くかかわってきます。法の外という例外状態をつくることで同時に法というものが立ち現れてくるのです。

4限

この時間は朝井リョウの「生殖記」について自分たちなりの解釈を導き出しました。
まず、私個人の感想を述べますが、なかなか独特な本でした(笑)非常に哲学的な話が繰り広げられているのですが、とても頭にスッと入ってくるようなお話でした。私も尚成の就活についての描写には共感した部分がありました。
さて、分析ですが、尚成がどういう人物なのかということを中心として議論が進みました。尚成は同性愛者であり、共同体の拡大、維持からは逸脱した存在だといえます。しかし、彼は非常に器用です。体重の増量、そしてダイエットを繰り返すことで共同体の拡大、維持に参入しない独自の生き方を生み出しました。彼は共同体に抵抗しているのでしょうか。それとも逃げているのでしょうか。いや、どちらでもないでしょう。尚成は自分のなかですべてを回しているのです。自分のなかで真の自由を完結させているのです。3限の時間で、自由とは実は共同体の秩序のなかにある、という発言がなされていました。尚成は自由を手に入れるため共同体に抵抗したり逃げたりするのではなく自分一人ですべて完結する自由を生み出したのです。

今回は特に頭を働かせないといけない内容でした。
さて、これから就活が本格的になってきます。ということは、、、そうです共同体の拡大、維持に貢献しないといけないんです。まあ、そういう社会ですからね。尚成のように自分なりの生き方を見つけることができたら貢献しなくてもいいかもですね。でも私は尚成ではないので、とりあえず共同体の拡大、維持に貢献するため就活を頑張ります!

ではまた次のブログで!