こんにちは!
藤田雄成です!秋学期はすでに5回目ですが、私は今学期初めてのブログ担当です。
秋学期はさまざまな作品を見て知ることができるのがとても良いですね。
ぼちぼち内容に入っていきましょう。
3限
この時間は近内さんの『世界は贈与でできている』の後半部分について井上さんが発表してくれました。
この文章の後半部分では、まず言語ゲームについて書かれています。私たちが言葉によって言葉を理解する以前、どうやって言葉を理解したのか。(言葉が多いですね笑)それは、その言葉がどのような生活上の活動や行為と結びついて使われているか、を通して理解するのです。言語は生活と密接にかかわっています。これが言語ゲームの考え方です。
次に、求心的思考と逸脱的思考です。求心的思考というのは常識に重きをおきます。そして、その常識を地として発生するアノマリー、不合理を説明する思考のことをいいます。逸脱的思考とは私たちの世界像、常識の総体を書き換える想像力のことをいいます。これは例えばSFにみられて、この本では小松左京の作品やテルマエ・ロマエなどが取り上げられています。
アンサング・ヒーローについての話もありました。アンサング・ヒーローは人知れず社会の災厄を取り除く人のことです。そして、「彼らという存在がいるはずだ、」と想像できる人のみが彼らからプレヒストリーを受け取りアンサング・ヒーローの使命を果たしていくことになるのです。
最後に、贈与を受け取る、いわば受取人は差出人に使命を逆向きに贈与するということが書かれています。これはどういうことかというと贈与は差出人に与えられるということです。つまり贈与の受取人はその存在自体が差出人に生命力を与えるのです。
発表の後、先生が社会主義の社会と資本主義の社会について話をされました。贈与をこのような社会構造と結び付けて考えるとより深く贈与をとらえることができる、という考えからです。
そこで思ったこととして社会主義ってかなりきつくない?!って思いました笑 富を中央にあつめて平等に分け与えるとは言っていますが、その分け与える主体が誰かによってかなり左右されます。事実、ソ連や中国では汚職が多々発生したようです。今、社会主義の国家がほぼ?ないのも社会主義の社会の難しさを伝えていますね。
4限
この時間ではテルマエ・ロマエについて自分たちの解釈を導き出そうとしました。
個人的に一番分析に苦労しました。全然、意見をだせず申し訳なかったです…
「とてもわかりやすくおもしろい作品なのになぜこんなに苦労したのだろう」と考え、授業の終わりにぱっとひらめきました。この作品はほっこりさせようという意図が働いているのです。そうした意図は私たちが分析するにあたってはかなり障害となってしまいます。なんとなく学校で難しい映画や小説を取り扱うかわかったような気がします笑
さて、私たちがだしたこの作品の解釈としてルシウスは自分の行動を縛られているあらがえない存在だという結論に至りました。
まず、そもそもルシウスのいたローマ時代は身分が絶対的でした。ルシウスは平民であり、ハドリアヌス帝は皇帝。この上下関係は絶対的です。実際、ルシウスは皇帝のため、そしてローマのために風呂を作ります。(風呂づくりを断ったとき死罪は免れましたが追放されています)
また、この映画の醍醐味でもあるタイムスリップについてもルシウスはあらがうことができません。ただ流されるままに現代の世界に放り出されてしまうのです。また、井上さんが言っていた涙によって過去に戻るという設定があらがえないルシウスの状況を表しているという発言がなるほど、と思いました。涙というのは生理現象でルシウスの手におえるものではありません。
このように見ていくとコメディ映画のような作品が一気に自分の行動を縛られるという暗い話になってしまいました…
さあ、こんな感じで今週も終わります。諸事情あって来週も私がブログを書くことになりました…
ではまた次のブログで!
「みんな何かに酔っぱらってねえとやってられなかったんだな、みんな何かの奴隷だった」
進撃の巨人 ケニー