11期生 第5回 実は「ほっこり」ではない

こんにちは!

藤田雄成です!秋学期はすでに5回目ですが、私は今学期初めてのブログ担当です。
秋学期はさまざまな作品を見て知ることができるのがとても良いですね。

ぼちぼち内容に入っていきましょう。

3限

この時間は近内さんの『世界は贈与でできている』の後半部分について井上さんが発表してくれました。

この文章の後半部分では、まず言語ゲームについて書かれています。私たちが言葉によって言葉を理解する以前、どうやって言葉を理解したのか。(言葉が多いですね笑)それは、その言葉がどのような生活上の活動や行為と結びついて使われているか、を通して理解するのです。言語は生活と密接にかかわっています。これが言語ゲームの考え方です。
 次に、求心的思考と逸脱的思考です。求心的思考というのは常識に重きをおきます。そして、その常識を地として発生するアノマリー、不合理を説明する思考のことをいいます。逸脱的思考とは私たちの世界像、常識の総体を書き換える想像力のことをいいます。これは例えばSFにみられて、この本では小松左京の作品やテルマエ・ロマエなどが取り上げられています。
 アンサング・ヒーローについての話もありました。アンサング・ヒーローは人知れず社会の災厄を取り除く人のことです。そして、「彼らという存在がいるはずだ、」と想像できる人のみが彼らからプレヒストリーを受け取りアンサング・ヒーローの使命を果たしていくことになるのです。
 最後に、贈与を受け取る、いわば受取人は差出人に使命を逆向きに贈与するということが書かれています。これはどういうことかというと贈与は差出人に与えられるということです。つまり贈与の受取人はその存在自体が差出人に生命力を与えるのです。

発表の後、先生が社会主義の社会と資本主義の社会について話をされました。贈与をこのような社会構造と結び付けて考えるとより深く贈与をとらえることができる、という考えからです。
そこで思ったこととして社会主義ってかなりきつくない?!って思いました笑 富を中央にあつめて平等に分け与えるとは言っていますが、その分け与える主体が誰かによってかなり左右されます。事実、ソ連や中国では汚職が多々発生したようです。今、社会主義の国家がほぼ?ないのも社会主義の社会の難しさを伝えていますね。

4限

この時間ではテルマエ・ロマエについて自分たちの解釈を導き出そうとしました。

 個人的に一番分析に苦労しました。全然、意見をだせず申し訳なかったです…
 「とてもわかりやすくおもしろい作品なのになぜこんなに苦労したのだろう」と考え、授業の終わりにぱっとひらめきました。この作品はほっこりさせようという意図が働いているのです。そうした意図は私たちが分析するにあたってはかなり障害となってしまいます。なんとなく学校で難しい映画や小説を取り扱うかわかったような気がします笑

 さて、私たちがだしたこの作品の解釈としてルシウスは自分の行動を縛られているあらがえない存在だという結論に至りました。
 まず、そもそもルシウスのいたローマ時代は身分が絶対的でした。ルシウスは平民であり、ハドリアヌス帝は皇帝。この上下関係は絶対的です。実際、ルシウスは皇帝のため、そしてローマのために風呂を作ります。(風呂づくりを断ったとき死罪は免れましたが追放されています)
 また、この映画の醍醐味でもあるタイムスリップについてもルシウスはあらがうことができません。ただ流されるままに現代の世界に放り出されてしまうのです。また、井上さんが言っていた涙によって過去に戻るという設定があらがえないルシウスの状況を表しているという発言がなるほど、と思いました。涙というのは生理現象でルシウスの手におえるものではありません。
 このように見ていくとコメディ映画のような作品が一気に自分の行動を縛られるという暗い話になってしまいました…

さあ、こんな感じで今週も終わります。諸事情あって来週も私がブログを書くことになりました…
ではまた次のブログで!

「みんな何かに酔っぱらってねえとやってられなかったんだな、みんな何かの奴隷だった」

                                   進撃の巨人  ケニー
                                 

第4回 贈与はいかにして成立するか

こんにちは!11期生の井上紬です。

今回は「贈与とはいかにして成立するか?」という話をしていきたいと思います。

そもそも『贈与』という単語は、日常生活ではあまり口にしない単語のように思いますが、辞書の上ではどのように定義されているのでしょうか。

広辞苑では以下のように説明されています。

①金銭・物品などをおくり与えること。

②(法)民法上、自己の財産を無償で相手方に与える意思を表示し、相手方がこれを受諾することによって成立する契約。

なるほど、①では解釈の余地がかなりありそうですが、②では法律にかかわっているのもあってより具体的に示されていますね。

「無償で」なんてワードがカギになりそうです。

今回扱う参考書は、近内悠太著『世界は贈与でできているー資本主義の「すきま」を埋める倫理学』です。

はじめに言わせてください。この本、めちゃくちゃ面白いです!

「なぜ親は孫を見たがるのか」や「鶴の恩返しで部屋を覗いてはいけない理由」、「無償の愛とは何か」だなんて哲学的な疑問まで、すべて『贈与』のしくみで解決してくれます。

是非一度、お手に取ってみてくださいね!

『贈与』の8箇条

では、本題に入っていきたいと思います。

私たちゼミ生は本著を精読して、『贈与』が成立する条件として以下の8つが挙げられることに気がつきました。

その1:相手となる他者が必要である

その2:お金で買えない価値がつく

その3:かつて誰かから『贈与』を受け取っていた、というプレヒストリーを必要とする

その4:『贈与』は、それが『贈与』だと知られてはならない

その5:計算不可能である

その6:差出人にとっては「届くといいな」という願いである

その7:受取人にとっては「届いていた」という気づきである

その8:それは不合理なものとしてあらわれる

ここでの肝は、『贈与』は『交換』ではない、というところです。

お金で買えない価値が発生するのが『贈与』である以上、与えた側はそこに見返りを求めることはできません。もし対価を求めるのであれば、それは計算可能で合理的な『交換』となってしまいます。

その4にある、『贈与』は、それが『贈与』だと知られてはならないというのは、「これは『贈与』です、あなたはこれを受け取りなさい」と語られてしまった途端に、受取人に対し「受け取ってしまった」という負い目を感じさせてしまい、返礼の義務を生み出してしまうということです。

それは、見返りを求めない『贈与』から『交換』へと変貌してしまっています。

また、その6その8について、想像していただきたいのがサンタクロースの存在です。

近内は『贈与』の理想的な体現者としてサンタクロースを挙げています。

サンタクロースというのは実に不思議な存在で、つまりその存在によって、「これは親からの贈与だ」というメッセージを消去することができるのです。つまり子が、親に対する負い目を持つ必要がないまま、無邪気にそのプレゼントを受け取ることができます。

このとき、親は名乗ることを禁じられているがゆえに「これが私たちからの贈与だったといつか気づいてくれたらいいな」という地点で踏みとどまることができます。そして子はいつか、サンタクロースが親だったことに気づく。「私は親からの贈与をすでに受け取っていた」ということに気がつくのです。

ここでのポイントは、気づいた時点ですでに親からの『贈与』は完了してしまっているということ。今ここにはもはや『贈与」という行為そのものは存在しないのです。

これこそが『贈与』の成功例、「差出人にとっては「届くといいな」という願いであり、受取人にとっては「届いていた」という気づきであるということなのです。

さて、ここで触れられていないのがその3です。

「かつて誰かから『贈与』を受け取っていた、というプレヒストリーを必要とする」とはいったいどういうことなのでしょうか。

それを解明するために用いるのが、今回授業でも分析対象とした映画『ペイ・フォワード 可能の王国』です。

以下、映画のネタバレになりますのでご注意ください。

「ペイ・フォワード(pay it forward)」とは、「誰かから善行を受けたら、自分も3人に善行を施す」という行為のこと。

主人公であるトレバーは、新学期に担任のシモネット先生から「世界をよくするための方法を考えろ」と言われ、この「ペイ・フォワード」を思いつきます。

彼はまずホームレスの男性に食事と住む場所を与え、次にアルコール依存症の母・アーリーンと心身ともに傷を負っているシモネット先生をくっつけようと奮闘します。

トレバーの善行はすぐにはうまくいきません。

しかし、それでも少しずつ伝わっていき、物語の最後には街の見知らぬ人々にまで「ペイ・フォワード」が広がっていたことが明らかになるのです。

ただ、その物語の最後にトレバー自身はいません。

トレバーは3つ目の善行として、いじめられている友だちを庇い、ナイフを持った不良の間に割って入ります。そしてその結果、刺されて亡くなってしまうのです。

なんとも悲しい物語ですが、なぜトレバーは亡くならなくてはいけなかったのでしょうか。

近内によれば、それは彼が「『贈与』を受け取ることなく『贈与』を開始してしまったから」だといいます。

つまり、『贈与』を受け取ってしまった、という負い目によって駆動されていないということです。

(注:ここでいう負い目とは等価交換における負い目ではありません。『交換』における負い目にはそのように感じる理由が確固としてあるけれど、『贈与』における負い目とは『無償の愛』という不当さ・不合理性を受けるということであるために、そのように感じる理由を説明できないのです。返すにもどう返したらいいか明確でないのが『贈与』です。)

トレバーは温かな愛情を知らずに育ちました。つまり、本人の主観で『贈与』を受け取ることができていません。この世界の「何もかもが最悪だから」、そんな世界を少しでも変えたくて、ペイ・フォワードを思いつくのです。あまりにもピュアすぎる動機だとは思いませんか?『贈与』の根源としてのトレバー、それはどこか『神』の姿に重なります。

近内はトレバーの聖性を「『贈与』つまり『不当に受け取ってしまった』という“罪”の意識を背負わない存在」として説明していました。

私たちはその解釈に加え、ペイ・フォワードの成功の裏で命を落としたトレバーの姿は、人類の“罪”の肩代わりをして死んだイエス・キリストに重なるとして、彼の聖性を説明しました。

映画『ペイ・フォワード』は贈与の物語ならぬ、贈与の失敗の物語だったのです。

今回のブログはここで終了です。

次回は藤田くんが『世界は贈与でできている』の後半部分のブログを書いてくれます。

私も読むのが楽しみです!

最後に、今回はちょっと趣向を変えて、いつものエンタメ感想記ではなく【いま観たい・読みたいエンタメ】について備忘録的に書かせていただきたいと思います。

・『かがみの孤城』辻村深月

・『コンビニ人間』村田沙耶香

・『モモ』ミヒャエル・エンデ

・映画『ラーゲリより愛を込めて』

・ドラマ『最愛』

この5本は、前々から興味を持っているのにもかかわらず、まだ手を出せていない5本なのです(!)

本年中にすべて履修したいと思っているのですが、なかなか忙しくてどうなるのやら…(泣)

遅かれ早かれ必ず鑑賞したいと思っています。

皆さんのお気に入りの作品はありましたか?