11期生 主人公は移動する。

みなさんこんにちは。

本日ブログを担当します土田麻織です。

今期ブログを溜めてしまっており、随分と前の回の内容となっていることをお許しください。

そして、このブログは先生とゼミ生くらいしか読まないだろう!と比較的自由に色んなことを書き連ねていたのですが、何かの間違いで話題にあがってしまい非常に戦慄しております。ブログを書く筆が乗らないのですが、早速授業内容に移ります!

3限

「文学と文学記号論」ユーリー・ロトマン

今回は井上さんが担当でした。私はこの文章をほとんど理解することが出来なかったのですが、井上さんの発表で何となく骨格が見えてきたような気がしました。わかりやすい発表をありがとう!

この文章の要点は「文化モデルとはどのような要素によって構成されているか」です。

まず本論では、物語の登場人物は【動的登場人物である主人公と、不動的登場人物である彼の敵対者たち】と区別することが示されており、不動的主人公という例外を覗いては、このような分類が可能なのです。

不動的要素を担う登場人物は、動かないため自分の環境を変えることができません。反対に、ある環境からある環境へと移動して自分の環境を変えるということが、主人公を主人公たらしめるのです。

不動的主人公は与えられた世界絵図の中に完全に収まり、最大限の「一般性、典型性」を特色とします。完全に物語世界の中に収まっているため移動を必要とせず、その欲や使命に駆られることがありません。

また、文化モデルは3つの要素によって特徴付けられています。

  • 普遍的空間の分割タイプ
  • 普遍的空間の規則性
  • 方向性

文化モデルにおける境界線の存在は内部と外部の対立、そしてさらに内部の中でも内部と外部を区切ることが出来ます。

そんな文化モデルは【我々(内部)⇆彼ら(外部)】という対立に簡単に分類することが出来ます。この対立は閉ざされた世界への加入とその対立項として解釈されます。

例えば世界を生者と死者の二項対立として捉えるのではなく、善神と悪神のような区別も存在するため、【組織化⇆脱組織化】という対立において組織内では境界線を引くことが出来ないということです。

境界について話してきましたが、この境界を越境する事こそが題材を構成する典型的な図式となるのです。境界は不変体として登場し、空間の連続性を破壊することも出来ます。

また、題材の最も典型的な構成法としては空間協会の越境があげられ、世界の更生との闘いとして題材の図式が生じるというのです。

また、題材におけるテキストは、登場人物によるモデル空間の境界の横断や、より個別的な区分の横断によって描かれ、これらの横断によって描かれる軌跡は、人間の道程や事件として描かれます。「事件」を別の構造へと移行させるために動的な要素が、自分の空間と他人の空間を持っていることが問題となります。

以上が3限の内容になります。

ここから4限では辻村深月さんの『傲慢と善良』を、登場人物の移動の観点から分析することにしました

4限

『傲慢と善良』辻村深月

傲慢と善良は、主人公の西澤架が婚約者の坂庭真実の突然の失踪を追うところから始まります。真実の居場所を探していくうちに、架は彼女の「過去」と向き合うことに。真実の失踪の本当の理由は何なのか、真相に近づくたびにそれぞれがが無意識に持つ傲慢さと善良さが浮き彫りになるようなお話です。

本ブログでは議論の内容を中心にしたいので、物語の詳しい内容は割愛させていただきます。

失踪していた真実はいくつかの土地を移動していたことが明らかになります。そして最終的には宮城県石巻市で地図を作る仕事をして、自分の意思で日々を充実させていました。そこで、今回私たちは「真実が東北に行ったことはどのよう意味があったのか。」という問いを立てて移動について考えました。

真実は群馬で生まれ育ち、30歳を過ぎたタイミングで東京に上京。架の前から姿を消した後は、一度実家のある群馬まで行きそのまま仙台へと住み込みのボランティアをしに移動しました。そしてその後石巻で新たな地図を作る仕事を始めて、物語内の真実の移動は終わります。

まず、私たちはそれぞれの土地は何を象徴しているのか、どのような出来事があったのかを書きだしていきました。

群馬(実家)

実家のある群馬では、狭いコミュニティの中で常に監視されているような生活であったことが明らかになります。

また、そのコミュニティの中での価値観、例えば真実と真実の両親は彼女が香和女子という地元では評判のいい女子高・大出身であることに過剰にステータスを感じています。実際に東京の頭のいい大学に進んだ人物が、香和女子大に何の執着もしていないようなシーンが描かれていますが、真実を始めとする両親は、自分たちが住んでいる小さなコミュニティ内での価値観に縛られていてそれが全てだと思っているのです。それゆえに、近所の他人と比較もしやすく、常に互いの状況を把握して審査しているような状況でした。

よって、群馬では

・他人との比較が日常茶飯事

・序列や差異を過剰に気にする

・優位性が求められる

・人と人が牽制しあう

社会であったと考えました。

続いては東京です。

東京

一般的に上京する、というとポジティブなイメージで、発展や進化といった意味合いが含まれると思います。真実も、前向きな理由で東京に来ました。一見すると、東京への上京は、群馬という閉鎖社会からの解放と考えられそうですが、本作品では違いました。

東京では確かに親からの束縛からは解放されました。しかし架の昔からの女友達は真実のことを詮索して審査して、架の以前付き合っていた女性や周りの人たちと比較して苦言を呈していました。つまり東京でも、他人との比較が行われ、その差異で序列が作り出されていたのです。

これらより、私たちは群馬と東京は監視社会であったと意味づけました。

そして失踪期に移ります。

失踪期

群馬

真実は東京を離れ、行く当てが実家の群馬しかなく、一度群馬に足を運びます。

ここでも監視社会の要素が含まれるのですが、群馬では知っている人に見られるかもしれないという恐怖が起こり、違うどこかへ行こうと決意します。

仙台

そこでボランティアとして東北地方で被災地の支援活動を行っていた人の話を思い出して仙台に行くことになります。

仙台では、震災で汚れてしまった写真を洗浄する仕事を任されました。写真館に住み込みで働き、そこにはもう一組小さなこどもを連れた女性がいました。しかし彼女は真実について詮索するようなことはしませんでした。また、写真館の人も、みんな事情があってここにいるしこれまでにも何人も来て何人もいなくなったから、と深く追求することはありませんでした。

これより仙台に来たことで真実は監視社会から解放され、また真実自身も監視を辞めるきっかけとなったのだと考えることが出来ます。

そして地図作りの仕事を紹介され、石巻市に移動することを決めます。

石巻

石巻市では、震災で一度は建物が無くなってしまった土地を歩いて回り、新しく建ったものを記録するという仕事をしていました。ここで初めて、真実は0から1を作るという、新しいものを想像するというフェーズに行きました。また、建物を一つ一つ確認していく作業、“在る”という存在を顕在化させることが、東京屋群馬での差異でしか物事を理解することが出来なかった状況との対比になっていると言えます。

そしてそこで自分の行く道を決めます。よって、真実は石巻の地図作りという仕事を通して、自分の幸せをも作れるようになった、と考えることが出来ます。

以上より、今回私たちが立てた「真実が東北に行ったことにはどのような意味があったのだろうか。」という問いに対して、「監視社会である群馬・東京から離れ、仙台の写真館で写真洗いをしたことで、監視する・されることを辞めるきっかけとなった。また、石巻での地図作りを通して、監視を辞めた先で自分の幸せを作ることが出来るようになった」として結論付けました。

お疲れ様でした!

今回は特に頭をフル回転させてああでもない、こうでもない、と沢山考えた回だったように思います。

ボツになった仮説ですが、東北パートでは「海」がキーワードとして挙げられるため、内陸の群馬・東京に対して海に面した東北、という構造で何か言えるのではないか、とも考えました。「まみ」の「み」が海で「真海」、真実の海だったら何か違ったかもしれないな、と思いつつ「真実(しんじつ)」であることに大きな意味があると思うので真実ちゃん海の神説はしまっておこうと思います。

長々と書いてしまいましたが、今回は「移動する登場人物が主人公である」という、今まで意識していそうで意識したことがない点に着目することが出来て非常に面白かったです。思い返すと確かにどんな物語も主人公は移動しているような気がします。

その移動先の土地などに対して、作者はここにゆかりがあるからなのかな、この風景を登場させたかったからなのかな、などのことしか考えていなかったのですが、今回のように分析してみるともっと深みのある結論が出せるのかもしれません。

このあたりで今回のブログは終わりたいと思います。ここまで読んでくださった方は、ここまでお読みくださりありがとうございました!

(年末の挨拶をする前にもう一本書きたい、、、!)

11期生 第6回 共同体に貢献しないで自由を得る

こんにちは!

前回に引き続き連続のこんにちは、になりました(笑)藤田雄成です。
もう12月ですね。だんだんと忙しくなってきてブログも忘れないうちに早めに書くことを意識しています。(投稿こそ遅くなってしまいましたが、この内容は11月中に書いています!)
では、ぼちぼち内容に入っていきましょう!

3限

この時間は土田さんがジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」について発表してくれました。
いやあ~、難しかった!正直何から書けばいいか戸惑っているとこであります(笑)
まず、ゾーエとビオスについて触れておきましょう。ゾーエとは単に生きているという事実、生物学的な生、むき出しの生のことを指します。一方、ビオスとはそれぞれの個体、集団における特有の生き方を指します。ここで重要なのが古代ギリシャと近代社会の構造の違いです。古代ギリシャにおいて都市(ポリス)には成人男性しか参入することができず、そこはビオスに覆われています。一方のゾーエは家(オイコス)のなかに閉じ込められていて、そこには女性や子供、奴隷などが存在します。それが近代社会になると一変します。ゾーエが政治に浸透し、生政治の時代となったのです。
 さて、続いてホモ・サケルについての話です。この文章ではホモ・サケルは狼男とも呼ばれています。これは殺害可能かつ犠牲化不可能なものであります。どういうことか。古代のポリスでは誰かを殺したりするなど特定の罪を犯した人はホモ・サケルとされ誰でも殺してもいい存在となります。また、彼らは一般的な市民ではなく例外的な存在なので供物としてささげられることもありません。
 なぜ、ホモ・サケルというものが存在するのでしょうか。それは国家が権力を確認するために例外的な存在が必要だからです。どういうことか。先生が分かりやすい例えを出してくださいました。いじめられっ子はなぜ存在するのか。それはいじめっ子が権力を確認するためです。全員が同じ立場であれば自分の権力を確認することができません。これと同じ原理が国家という規模においてなされているのです。ホモ・サケルは国家において必要な存在であり、そこにはとても悲惨な背景があるのです。
 フーコーとアガンベンの考えの違いについても触れておきましょう。フーコーは自然状態つまりゾーエが生まれてから主権が生まれたという考えをもっています。しかしアガンベンは違います。自然状態と主権は同時に生まれたという考えをもっています。ホモ・サケルは法の外の自然状態で生きています。そして上記に挙げた通りそこには国家の権力が深くかかわってきます。法の外という例外状態をつくることで同時に法というものが立ち現れてくるのです。

4限

この時間は朝井リョウの「生殖記」について自分たちなりの解釈を導き出しました。
まず、私個人の感想を述べますが、なかなか独特な本でした(笑)非常に哲学的な話が繰り広げられているのですが、とても頭にスッと入ってくるようなお話でした。私も尚成の就活についての描写には共感した部分がありました。
さて、分析ですが、尚成がどういう人物なのかということを中心として議論が進みました。尚成は同性愛者であり、共同体の拡大、維持からは逸脱した存在だといえます。しかし、彼は非常に器用です。体重の増量、そしてダイエットを繰り返すことで共同体の拡大、維持に参入しない独自の生き方を生み出しました。彼は共同体に抵抗しているのでしょうか。それとも逃げているのでしょうか。いや、どちらでもないでしょう。尚成は自分のなかですべてを回しているのです。自分のなかで真の自由を完結させているのです。3限の時間で、自由とは実は共同体の秩序のなかにある、という発言がなされていました。尚成は自由を手に入れるため共同体に抵抗したり逃げたりするのではなく自分一人ですべて完結する自由を生み出したのです。

今回は特に頭を働かせないといけない内容でした。
さて、これから就活が本格的になってきます。ということは、、、そうです共同体の拡大、維持に貢献しないといけないんです。まあ、そういう社会ですからね。尚成のように自分なりの生き方を見つけることができたら貢献しなくてもいいかもですね。でも私は尚成ではないので、とりあえず共同体の拡大、維持に貢献するため就活を頑張ります!

ではまた次のブログで!


11期生 第5回 実は「ほっこり」ではない

こんにちは!

藤田雄成です!秋学期はすでに5回目ですが、私は今学期初めてのブログ担当です。
秋学期はさまざまな作品を見て知ることができるのがとても良いですね。

ぼちぼち内容に入っていきましょう。

3限

この時間は近内さんの『世界は贈与でできている』の後半部分について井上さんが発表してくれました。

この文章の後半部分では、まず言語ゲームについて書かれています。私たちが言葉によって言葉を理解する以前、どうやって言葉を理解したのか。(言葉が多いですね笑)それは、その言葉がどのような生活上の活動や行為と結びついて使われているか、を通して理解するのです。言語は生活と密接にかかわっています。これが言語ゲームの考え方です。
 次に、求心的思考と逸脱的思考です。求心的思考というのは常識に重きをおきます。そして、その常識を地として発生するアノマリー、不合理を説明する思考のことをいいます。逸脱的思考とは私たちの世界像、常識の総体を書き換える想像力のことをいいます。これは例えばSFにみられて、この本では小松左京の作品やテルマエ・ロマエなどが取り上げられています。
 アンサング・ヒーローについての話もありました。アンサング・ヒーローは人知れず社会の災厄を取り除く人のことです。そして、「彼らという存在がいるはずだ、」と想像できる人のみが彼らからプレヒストリーを受け取りアンサング・ヒーローの使命を果たしていくことになるのです。
 最後に、贈与を受け取る、いわば受取人は差出人に使命を逆向きに贈与するということが書かれています。これはどういうことかというと贈与は差出人に与えられるということです。つまり贈与の受取人はその存在自体が差出人に生命力を与えるのです。

発表の後、先生が社会主義の社会と資本主義の社会について話をされました。贈与をこのような社会構造と結び付けて考えるとより深く贈与をとらえることができる、という考えからです。
そこで思ったこととして社会主義ってかなりきつくない?!って思いました笑 富を中央にあつめて平等に分け与えるとは言っていますが、その分け与える主体が誰かによってかなり左右されます。事実、ソ連や中国では汚職が多々発生したようです。今、社会主義の国家がほぼ?ないのも社会主義の社会の難しさを伝えていますね。

4限

この時間ではテルマエ・ロマエについて自分たちの解釈を導き出そうとしました。

 個人的に一番分析に苦労しました。全然、意見をだせず申し訳なかったです…
 「とてもわかりやすくおもしろい作品なのになぜこんなに苦労したのだろう」と考え、授業の終わりにぱっとひらめきました。この作品はほっこりさせようという意図が働いているのです。そうした意図は私たちが分析するにあたってはかなり障害となってしまいます。なんとなく学校で難しい映画や小説を取り扱うかわかったような気がします笑

 さて、私たちがだしたこの作品の解釈としてルシウスは自分の行動を縛られているあらがえない存在だという結論に至りました。
 まず、そもそもルシウスのいたローマ時代は身分が絶対的でした。ルシウスは平民であり、ハドリアヌス帝は皇帝。この上下関係は絶対的です。実際、ルシウスは皇帝のため、そしてローマのために風呂を作ります。(風呂づくりを断ったとき死罪は免れましたが追放されています)
 また、この映画の醍醐味でもあるタイムスリップについてもルシウスはあらがうことができません。ただ流されるままに現代の世界に放り出されてしまうのです。また、井上さんが言っていた涙によって過去に戻るという設定があらがえないルシウスの状況を表しているという発言がなるほど、と思いました。涙というのは生理現象でルシウスの手におえるものではありません。
 このように見ていくとコメディ映画のような作品が一気に自分の行動を縛られるという暗い話になってしまいました…

さあ、こんな感じで今週も終わります。諸事情あって来週も私がブログを書くことになりました…
ではまた次のブログで!

「みんな何かに酔っぱらってねえとやってられなかったんだな、みんな何かの奴隷だった」

                                   進撃の巨人  ケニー
                                 

第4回 贈与はいかにして成立するか

こんにちは!11期生の井上紬です。

今回は「贈与とはいかにして成立するか?」という話をしていきたいと思います。

そもそも『贈与』という単語は、日常生活ではあまり口にしない単語のように思いますが、辞書の上ではどのように定義されているのでしょうか。

広辞苑では以下のように説明されています。

①金銭・物品などをおくり与えること。

②(法)民法上、自己の財産を無償で相手方に与える意思を表示し、相手方がこれを受諾することによって成立する契約。

なるほど、①では解釈の余地がかなりありそうですが、②では法律にかかわっているのもあってより具体的に示されていますね。

「無償で」なんてワードがカギになりそうです。

今回扱う参考書は、近内悠太著『世界は贈与でできているー資本主義の「すきま」を埋める倫理学』です。

はじめに言わせてください。この本、めちゃくちゃ面白いです!

「なぜ親は孫を見たがるのか」や「鶴の恩返しで部屋を覗いてはいけない理由」、「無償の愛とは何か」だなんて哲学的な疑問まで、すべて『贈与』のしくみで解決してくれます。

是非一度、お手に取ってみてくださいね!

『贈与』の8箇条

では、本題に入っていきたいと思います。

私たちゼミ生は本著を精読して、『贈与』が成立する条件として以下の8つが挙げられることに気がつきました。

その1:相手となる他者が必要である

その2:お金で買えない価値がつく

その3:かつて誰かから『贈与』を受け取っていた、というプレヒストリーを必要とする

その4:『贈与』は、それが『贈与』だと知られてはならない

その5:計算不可能である

その6:差出人にとっては「届くといいな」という願いである

その7:受取人にとっては「届いていた」という気づきである

その8:それは不合理なものとしてあらわれる

ここでの肝は、『贈与』は『交換』ではない、というところです。

お金で買えない価値が発生するのが『贈与』である以上、与えた側はそこに見返りを求めることはできません。もし対価を求めるのであれば、それは計算可能で合理的な『交換』となってしまいます。

その4にある、『贈与』は、それが『贈与』だと知られてはならないというのは、「これは『贈与』です、あなたはこれを受け取りなさい」と語られてしまった途端に、受取人に対し「受け取ってしまった」という負い目を感じさせてしまい、返礼の義務を生み出してしまうということです。

それは、見返りを求めない『贈与』から『交換』へと変貌してしまっています。

また、その6その8について、想像していただきたいのがサンタクロースの存在です。

近内は『贈与』の理想的な体現者としてサンタクロースを挙げています。

サンタクロースというのは実に不思議な存在で、つまりその存在によって、「これは親からの贈与だ」というメッセージを消去することができるのです。つまり子が、親に対する負い目を持つ必要がないまま、無邪気にそのプレゼントを受け取ることができます。

このとき、親は名乗ることを禁じられているがゆえに「これが私たちからの贈与だったといつか気づいてくれたらいいな」という地点で踏みとどまることができます。そして子はいつか、サンタクロースが親だったことに気づく。「私は親からの贈与をすでに受け取っていた」ということに気がつくのです。

ここでのポイントは、気づいた時点ですでに親からの『贈与』は完了してしまっているということ。今ここにはもはや『贈与」という行為そのものは存在しないのです。

これこそが『贈与』の成功例、「差出人にとっては「届くといいな」という願いであり、受取人にとっては「届いていた」という気づきであるということなのです。

さて、ここで触れられていないのがその3です。

「かつて誰かから『贈与』を受け取っていた、というプレヒストリーを必要とする」とはいったいどういうことなのでしょうか。

それを解明するために用いるのが、今回授業でも分析対象とした映画『ペイ・フォワード 可能の王国』です。

以下、映画のネタバレになりますのでご注意ください。

「ペイ・フォワード(pay it forward)」とは、「誰かから善行を受けたら、自分も3人に善行を施す」という行為のこと。

主人公であるトレバーは、新学期に担任のシモネット先生から「世界をよくするための方法を考えろ」と言われ、この「ペイ・フォワード」を思いつきます。

彼はまずホームレスの男性に食事と住む場所を与え、次にアルコール依存症の母・アーリーンと心身ともに傷を負っているシモネット先生をくっつけようと奮闘します。

トレバーの善行はすぐにはうまくいきません。

しかし、それでも少しずつ伝わっていき、物語の最後には街の見知らぬ人々にまで「ペイ・フォワード」が広がっていたことが明らかになるのです。

ただ、その物語の最後にトレバー自身はいません。

トレバーは3つ目の善行として、いじめられている友だちを庇い、ナイフを持った不良の間に割って入ります。そしてその結果、刺されて亡くなってしまうのです。

なんとも悲しい物語ですが、なぜトレバーは亡くならなくてはいけなかったのでしょうか。

近内によれば、それは彼が「『贈与』を受け取ることなく『贈与』を開始してしまったから」だといいます。

つまり、『贈与』を受け取ってしまった、という負い目によって駆動されていないということです。

(注:ここでいう負い目とは等価交換における負い目ではありません。『交換』における負い目にはそのように感じる理由が確固としてあるけれど、『贈与』における負い目とは『無償の愛』という不当さ・不合理性を受けるということであるために、そのように感じる理由を説明できないのです。返すにもどう返したらいいか明確でないのが『贈与』です。)

トレバーは温かな愛情を知らずに育ちました。つまり、本人の主観で『贈与』を受け取ることができていません。この世界の「何もかもが最悪だから」、そんな世界を少しでも変えたくて、ペイ・フォワードを思いつくのです。あまりにもピュアすぎる動機だとは思いませんか?『贈与』の根源としてのトレバー、それはどこか『神』の姿に重なります。

近内はトレバーの聖性を「『贈与』つまり『不当に受け取ってしまった』という“罪”の意識を背負わない存在」として説明していました。

私たちはその解釈に加え、ペイ・フォワードの成功の裏で命を落としたトレバーの姿は、人類の“罪”の肩代わりをして死んだイエス・キリストに重なるとして、彼の聖性を説明しました。

映画『ペイ・フォワード』は贈与の物語ならぬ、贈与の失敗の物語だったのです。

今回のブログはここで終了です。

次回は藤田くんが『世界は贈与でできている』の後半部分のブログを書いてくれます。

私も読むのが楽しみです!

最後に、今回はちょっと趣向を変えて、いつものエンタメ感想記ではなく【いま観たい・読みたいエンタメ】について備忘録的に書かせていただきたいと思います。

・『かがみの孤城』辻村深月

・『コンビニ人間』村田沙耶香

・『モモ』ミヒャエル・エンデ

・映画『ラーゲリより愛を込めて』

・ドラマ『最愛』

この5本は、前々から興味を持っているのにもかかわらず、まだ手を出せていない5本なのです(!)

本年中にすべて履修したいと思っているのですが、なかなか忙しくてどうなるのやら…(泣)

遅かれ早かれ必ず鑑賞したいと思っています。

皆さんのお気に入りの作品はありましたか?