みなさん、こんにちは。
急に寒くなって上着が必須になってきましたね。前回まではブログのはじめに毎回「暑い!」と書いていたような気がするので、時の流れを感じざるを得ません、、、。
秋学期が始まってからもう数週間たって新しい生活サイクルにも慣れてきたところですので今回のブログを始めます!
第3回授業ブログ担当の土田麻織です。
ということで、授業内容の前にブレイクタイムを挟もうと思います(?)
前座(仮)
私はこの夏、沢山の作品に触れて自分の世界を広げよう!と意気込んで、自分なりに様々なコンテンツを見たので、それらを前座で一挙紹介する気満々でいました。
しかし、秋学期1回目のゼミでこれからのスケジュールを決めて家に帰ると、前座担当を決めていないことに気付きました。なんと!せっかく温めていた前座ネタ、ないしはブログの導入ネタを書きだす場がなくなってしまいました、、、、
ということで、紙幅の都合もあるのでショートバージョンで、この夏に見た作品について、いくつか書かせていただきます。
➀光のとこにいてね/一穂ミチ
まずは小説です。タイトルにひと耳惚れして購入しましたが、本当にタイトルが良い!!この「光のとこにいてね」という言葉がキーなのですが、要所要所でこの言葉を思い出しては涙が出てきました。
読んでいる最中から、すごく好きな本だ!と思っていました。
今のところ2025マイベストブックです。
②モアザンワーズ
Amazon primeで見ることが出来るドラマです。
視聴自体2回目で、この作品は途中からしんどくなるので1回目はしばらく引きずっていたのですが、京都を舞台に、情緒あふれる綺麗な映像と素敵な音楽とで、夏の今にもう一度見たい!となってしまいもう一回見ました。
やっぱりこたえました、、、。がしばらくはサウンドトラックを聞いて物語の世界に浸っていました。
来年の夏も見ようっと。
③Nのために
ティーバーで配信されていたので視聴しました。原作が大好きで何回も読み返していましたが、ドラマだと違った魅力があり、それが全てプラスに働きかけていてとっても良かったです。これを見た後はしばらく主題歌のSillyを聞いていました。やっぱり好きなお話です。
余談ですが、これを2025年に再ドラマ化するならキャストを誰にするか、という議題でChatGPTとかなり盛り上がりました(笑)結論は内緒です。
④番外編
この夏はいろんな映画館にも足を運びました。見たかった映画がもうそこしかやっていなかった、等の消極的理由もあるのですが2本立ての映画を見たり、怪しげな劇場に行ったり、非日常的でワクワクしました。今後も開拓していきたいです。
(気合が入りすぎてこの紹介部分は夏休み中に書いていたものになります汗)
夏の終わりごろに怒涛のドラマブームが来て、今もたくさんの作品を絶賛視聴中ですので、また機会があれば紹介したいと思います。
お待たせしました。
ではここで3限の内容に入りたいと思います。
3限 精神分析・クィア批評
担当はジョウくんです。
課題文はキース・ヴィンセントの「夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り」
『こころ』の語りに着目しながら作中に存在しているセクシュアリティの問題について考えていきました。
本論文では、「先生」は男同士の絆と男性-男性間の性関係とが分裂していないホモソーシャル的な人物であるということが示されています。一方で語り手である「私」(若い青年)は男性間の愛の可能性から切り離された近代世界の象徴として描かれているというのです。そして『こころ』は同性愛から異性愛へと移行する成長物語であると示されています。
どういうことかと言いますと、『こころ』は「私」が一貫して語り手であるため、全て「私」視点で語られています。彼は、先生のことを時代に、過去に、取り残された人として語っています。一人の視点でしか語られないため実際のことはわからないものの、「私」は、先生との対比によって自分自身の成熟した状況(異性愛への変化)を強調したかったのだと考えられるのです。
では、先生の遺書で終わり、「私」の行く先が語られずに終わる物語についてはどのように考えられるのでしょうか。
本書では、ここには病に侵された父親が大きくかかわってくることが示されています。父の苦痛緩和のために浣腸薬を投入する際、まごついていた兄に代わって、「私」は油紙をあてがったり、医師を手伝ったり、様々なことをしたことが書かれています。父の死を目の前にして能動的に動く「私」は成熟した自己を獲得しつつあるのです。
そしてその後、先生からの手紙を受け取り東京行きを決めた「私」は、父親の尻をそのままに列車という主体的行為を奪われた状態に飛び込むのです。実の父親、そして父親のように慕っていた先生、二人の死を目の前にした中で、「私」は受動性と能動性の間で宙づりになるのです。
ここでフロイトの心理性的発達段階の理論が対応します。生後から1歳ごろまでと口唇期を経た先に肛門期があります。肛門期とは自分の身体を意識的にコントロールすることが可能になった時期であり、衝動や欲望を状況に合わせて調節するエゴが発達する段階です。
肛門期を抜けた先は、エディプス期であり性役割を獲得して超自我を形成する。そして潜伏期を経て、恋愛に向く性器期へと向かうのです。
父親の看病をする中で肛門期を卒業した「私」は、父親を置いて東京へ行ったことは自らの父を象徴的に去勢したといえ、「私」が性器的異性愛へ向かったことが示唆されているのです。
そして先生について、先生を再生産可能な異性愛者へと成長することを失敗した存在として語っているため、「私」自身の肛門期への対抗や同性愛性を否定していると言えるのです。
これを踏まえて4限では、
なぜ物語は「私」のその後を描かずに遺書で終えたのか、という点から「私」は本当に成長(異性愛者へと変化)したかったのだろうか。ということを考えました。
結論から言うと、答えはノーです。
論点は「私」が肛門期から抜け出せたのか否か、ということになりますが、私たちは「抜け出せなかった」、いや「抜け出さなかった」と考えました。
一般的な肛門期は排泄コントロールがうまく行くことで、体内の不要物を外に出したいという欲求が満たされて、次の段階へと移ることが出来ます。
つまりここでは、「私」が何らかの不要物を外へ放つことが出来たら肛門期を脱し成熟した存在になったと言えるのです。
先述したように、彼は確かに父親を置いて次のフェーズ(東京)へと旅立ちました。ここではある意味で排泄行為とみなすことが出来ます。一方で、その外へ発った先で、遺書を読んでそのまま物語は終わってしまいます。おそらく、東京に着いた先では先生の死を目の当たりにするのでしょう。それを「私」はあえて語らなかったのです。
遺書を先生から与えられた排泄物と考えると、「私」はその遺書を持ち続けることを選んだのです。それはつまり肛門期から脱出しないことを意味します。肛門期を脱出しない、ということは成熟した状態ではない、成長をやめ異性愛者へとも変化しないということです。
それは、「私」が恋愛感情に分類される前段階の愛おしむ気持ちをもって先生に執着しているからと考えることができます。
よって、この物語は語り手である「私」が遺書を持ち続け、語り続けることで先生のことを死なせないという意思が表れ、「私」は成熟した状態になることなく肛門期にとどまっている、と言えます。
何故、この物語は遺書で終わるのか、「私」は本当に異性愛者へと変化したのだろうか(キースの論文では物語のその後、「私」は先生の妻と一緒になったという説も紹介されている)という問いを立てて1時間議論をした私たちは、上記の結論を導き出すと思わず自分たちで拍手をしてしまいました。
大変長くなりましたが、以上が今回の授業内容になります。
かなり複雑な思考を必要としましたが、遺書=排泄物でそれをあえて持ち続けたという考え方は、一人では絶対に導き出せないものなのでゼミの面白さを改めて実感しました。
秋学期は、春学期とは少し異なり3限で扱う理論をもとに1作品を分析するため、より深い実りのある議論がこれからも出来るのではないか、とワクワクしています。
これからのゼミに期待が膨らむ、そんな回でした。
ちなみに、今回扱った理論的に、普段は躊躇する単語がポンポンと会話の中で登場して議論のキーでもあったため、どうブログに書こうか迷ったのですが、結果的に工夫できず中途半端な表現になってしまいました(反省)
んー、とにかく良い議論のできた実りのある回でした!
それではこのあたりで締めたいと思います。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
また次回!