夏合宿 1日目〜2日目午前中

怠惰に心を支配され、すっかり執筆が遅れてしまったジョウです。秋学期が始まってしまった今、このまま授業開始後の発表ブログに埋もれてしまうのはさすがにまずい…という危機感に背中を押され、ようやく書き出しました。今回の夏合宿は、本当に盛りだくさんで、笑いあり真剣さありの時間でした。3・4年生の論文をめぐって面白くも有意義な議論が繰り広げられ、さらにOB・OGの皆さまと直接お話しできるなど、貴重な経験を得ることができました。このブログでは、合宿を通じて私が感じたことや学んだこと、そして今後の内藤ゼミでのビジョンをお伝えしていければと思います。

さて、私が担当するのは、合宿1日目から2日目午前中までの様子です。まずざっくりスケジュールをお伝えすると、こんな感じでした。

1日目:到着・チェックイン → 発表・議論(井上さん) → 夕食 → 発表・議論(ジョウ)
2日目午前:発表・議論(土田さん) → 発表・議論(藤田さん)

到着・チェックイン

実は「清里セミナーハウス」と聞いても、参加前の私はまったくイメージが湧きませんでした。3・4年生は新宿で集合し、あずさに乗って現地へ向かう予定でしたが、ここでいきなりハプニング。藤田くんの電車が遅延し、新宿到着が発車2分前!「これはもう無理だろう」と思いつつ、心の中で「走れ!藤田くん!」と祈っていました。結果は……なんと見事に間に合い、全員そろってあずさに乗車できました。いやはや、藤田くん、実は陸上部だったのでは?

さて、そこからは長い乗車時間。前期のブログでも少し触れましたが、最近は本当に慌ただしい毎日を過ごしており、ゆっくり自分と向き合える時間がなかなか取れません。そのため移動中は、ある意味で貴重な「ひとり時間」でした。せっかくなので読書をすることにし、手に取ったのは彬子女王の著書『赤と青のガウン』です。

選んだきっかけは帯に書かれていた一文。
「生まれて初めて一人で街を歩いたのは、日本ではなくオックスフォードだった。」
この言葉に強く惹かれました。皇室の教育を受け、日本国内では特別な存在である著者が、留学先のイギリスではまったく異なる日常を体験し、自分自身と向き合っていく姿が描かれています。「女王の冒険譚」というより、「彬子女王の自己発見の旅」といった趣が強い一冊です。興味のある方はぜひ手に取ってみてください。

到着時清里駅の様子

小淵沢駅でローカル線の小海線に乗り換え、高原に纏まる霧を抜けたあと、目の前にシーンとした駅が広がりました。さらに道を進むと、落ち着いた雰囲気のセミナハウスが現れました。予想したのと若干違ったのですが、期待の気持ちを心の中に抱えて、チェックインを済ませ、いざ研修室へ…

発表・議論(井上さん)

さて、いよいよ発表の時間です。トップバッターを務めたのは井上さんです。

タイトルは、「「童話物語」−−−− 信頼関係の構築における種族の枠組みの不在」。

(ちなみに私、井上さんとは1年生の頃から同じ内藤ゼミに所属しておりまして、『童話物語』が彼女にとってのバイブルだということは以前からよく聞いていました。誰かにこの作品を語るときの熱意は、まるで推し活のように感じます笑。そんな姿を見て、私も自然とこの作品に興味を持つようになりました。)

井上さんの論文は、プロップ理論とオリエンタリズムという2つの批評理論を軸に分析が展開されます。

まずはプロップの「物語の31の機能」。
登場人物であるペチカ(人間)・ルージャン(人間)・フィツ(妖精)の3人を主人公として設定し、それぞれの行動を機能に当てはめて整理した結果、次のような構造が明らかになりました。

1)ペチカにとっての助力者→フィツ 2)ルージャンにとっての助力者→フィツ 3)フィツにとっての助力者→ペチカとルージャン

つまり、人間と妖精という「種族の違い」を越えて、互いに「助け合う関係」が成り立っていることを示したのです。

続いて登場するのがエドワード・サイードのオリエンタリズム。
井上さんはこの考え方を「人間が妖精をどう見ているか」という視点に応用しました。
人間たちは妖精を「理解不能で危険な他者」とみなし、自分たちを「正常で理性的な存在」と位置づけていました。
しかし、物語が進むにつれてペチカやルージャンはフィツを「妖精」としてではなく、一人の個人として信頼するようになる。
この変化を、オリエンタリズム的な偏見を乗り越える過程として読み解いています。

井上さんは、「異なる種族間であっても、相互理解と信頼は可能である」という、オリエンタリズムの枠組を乗り越える一例として読むことができるとの結論に導きました。

この発表を聞いて、「オリエンタリズムでファンタジー作品を読む」という発想が私にはなかったので、とても新鮮でした。論文を読めば、『童話物語』を知らなくても、作品世界の解像度が一気に上がるはずです。

井上さんの発表が終わった後、夕食を挟んで次はいよいよ私の番です。
ちなみに、清里セミナーハウスの食事は――普通に美味しかったです。

(完全に主観ですが、学食の数倍は美味しかったです……!)

発表・議論(ジョウ)

次の発表を務めるのは私(ジョウ)です。正直、大学3年生になったいまも、多人数の前にプレゼンするのは若干緊張気味です。(特に満腹になった状態では頭が回らない)

私は、「『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』:「成功と失敗」神話の解体」をタイトルに議論を展開しました。本作のあらすじを簡潔に説明しますと、960年代のニューヨークを舞台に、不運続きのフォークシンガー、ルーウィン・デイヴィスの一週間を描いた映画です。主にクイア批評・間テクスト性・脱構築といった三つの着眼点から分析を行っています。

まず、クイア批評の観点から、主人公ルーウィンを「社会的に逸脱した存在」と「商業的に逸脱した存在」という二つの側面で捉えました。
彼は、当時のアメリカ社会が求めた「安定した生活を送る市民像」にも、音楽業界が重視する「ヒット曲=正義」という価値観に完全に逸脱する存在です。
つまり、彼はどちらの規範にも属さず、以上の二つの具体像から見れば、逸脱者そのものとして生きているのです。

そして、これら二つの理論を組み合わせて考えることで、私はこの作品が提示する「成功」と「失敗」という二項対立の構造明らかにしました。
社会や業界が定義する「成功」から外れた人間は、本当に「失敗者」なのか?
むしろ、歴史の中に去っていったルーウィンのような無数のアーティストに、これから焦点を当たるべきではないだろうかと私は考えました。

夜の飲み会

発表がすべて終わり、入浴でさっぱりした後はお待ちかねの飲み会タイムです。
食堂エリアで集まり、親睦会がスタートしました。

……ところが、どうやら隣のエリアにも他学部の学生たちが合宿に来ていたようで、これがまたものすごく賑やか。
いや、賑やかというより「騒音レベル」というレベルでした。
隣の人の声が聞こえないほどで、「これが合宿の夜か!」と妙に納得してしまいました。

そんな中でも、内藤ゼミの飲み会は終始和やか。
ほどよいテンションで語り合いながら、気づけば消灯時間になっていました。
消灯後は男子組の部屋に自然と人が集まり、二次会がスタート――。

OBの相田さんは、お酒にめちゃくちゃ詳しい方で、まるでバーテンダーのようにウィスキーやジンの魅力を一つひとつ丁寧に解説してくださいました。
私は普段から少しウィスキーを飲む程度ですが、あんなに豊富なコレクションを見せていただいたのは初めてで、正直かなり感動しました。「お酒って、深い…」と思った夜でした。

発表・議論(土田さん)

2日目の朝は、前夜の余韻がの中でスタート。最初に発表を務めたのは土田さんでした。

土田さんは、「救いようのない話」に惹かれる自身の読書経験から出発し、湊かなえの小説『未来』における登場人物たちの「救い」とは何かにフォーカスして考察しました。

「救いようのない話」というテーマは、私自身にも共感するところがあります。幼少期から物語を読むとき、無意識のうちに「ハッピーエンド」を期待してしまう一方で、「救いのある話」ばかりの世界にはどこか物足りなさを感じる。だからこそ、土田さんが扱うような「救いようのない話」は、かえって多層的で現実味のある物語構造を持っているように思います。

発表では、ジュネットの理論を用いて、語りの形式が登場人物の心情変化をどのように映し出しているかを分析していました。手紙や日記、モノローグといった多層的な語りの形式を通して、登場人物たちがそれぞれの苦しみを抱えながらも“過去を受け入れる”姿が浮かび上がります。土田さんは、こうした「過去を受け入れる行為」こそが救済の契機として機能していると指摘。私自身も、「他者に助けを求めることができた」という点において、苦しみからの脱出を「救い」と捉える解釈に強く納得しました。

発表・議論(藤田くん)

続いて藤田くんの発表です。扱うテーマは、私が高く関心を持っている『進撃の巨人』です。

藤田くんは、主に『進撃の巨人』を脱構築の理論で分析しました。まず、構造主義の考え方を導入し、「エルディア人vsマレー人」や「人間vs巨人」の二項対立の理論的根拠を提示しました。しかし、物語の進行につれて、二項対立の境界線は次々と曖昧になっていきます。例えば、巨人=敵ではなく、むしろ人間の一部だったということが明らかになった。(ここは厳密的に言えば「人間」ではなく、「エルディア人」しか巨人になれない設定になっています。なので、ここで「エルディア人」と「マレー」人の身体的対立を強調してさらに面白い議論が建てられるのかなと思いました。)

藤田くんは、この構造崩壊を「脱構築的な展開」として捉えています。また、主人公エレンの初期における「自由のための戦い」がやがて他社を支配する行為へと転化するという分析も説明されていました。

藤田くん自身は、どうやら今回のレポートに不満を持っているらしいですが、私個人的にそこで感じたのは残念さというよりかは、この論文に秘めた可能性は大きいと感じました。脱構築の考え方を『進撃の巨人』に応用したのは面白いし、これからもより良い論文が書けると信じていますので、そこからは頑張ってほしいですね。

おわりに

今回の合宿は、本当に充実した二日間でした。
畳の上でのルームシェアや、集団での生活など、これまでにあまり経験のなかったことばかりでしたが、そのすべてが新鮮で、かけがえのない時間になりました。

議論では多くの刺激を受け、夜は笑いあり学びありの時間を共有できて、まさに“ゼミらしい合宿”だったと思います。
こうした経験は、きっとこれからの研究や人生の糧になっていくはずです。忙しい時期ではありますが、これを励みに今後もゼミ活動に力を入れていきたいと思います。

多様な視点と温かいコメントをくださったOB・OGの皆さま、10期生の先輩方、外部からご参加いただいた方々、そしてロボさん、内藤先生――本当にありがとうございました!

11期生第3回 要らないものを持ち続けるということ 

みなさん、こんにちは。

急に寒くなって上着が必須になってきましたね。前回まではブログのはじめに毎回「暑い!」と書いていたような気がするので、時の流れを感じざるを得ません、、、。

秋学期が始まってからもう数週間たって新しい生活サイクルにも慣れてきたところですので今回のブログを始めます!

第3回授業ブログ担当の土田麻織です。

ということで、授業内容の前にブレイクタイムを挟もうと思います(?)

前座(仮)

私はこの夏、沢山の作品に触れて自分の世界を広げよう!と意気込んで、自分なりに様々なコンテンツを見たので、それらを前座で一挙紹介する気満々でいました。

しかし、秋学期1回目のゼミでこれからのスケジュールを決めて家に帰ると、前座担当を決めていないことに気付きました。なんと!せっかく温めていた前座ネタ、ないしはブログの導入ネタを書きだす場がなくなってしまいました、、、、

ということで、紙幅の都合もあるのでショートバージョンで、この夏に見た作品について、いくつか書かせていただきます。

➀光のとこにいてね/一穂ミチ

まずは小説です。タイトルにひと耳惚れして購入しましたが、本当にタイトルが良い!!この「光のとこにいてね」という言葉がキーなのですが、要所要所でこの言葉を思い出しては涙が出てきました。

読んでいる最中から、すごく好きな本だ!と思っていました。

今のところ2025マイベストブックです。

②モアザンワーズ

Amazon primeで見ることが出来るドラマです。

視聴自体2回目で、この作品は途中からしんどくなるので1回目はしばらく引きずっていたのですが、京都を舞台に、情緒あふれる綺麗な映像と素敵な音楽とで、夏の今にもう一度見たい!となってしまいもう一回見ました。

やっぱりこたえました、、、。がしばらくはサウンドトラックを聞いて物語の世界に浸っていました。

来年の夏も見ようっと。

③Nのために

ティーバーで配信されていたので視聴しました。原作が大好きで何回も読み返していましたが、ドラマだと違った魅力があり、それが全てプラスに働きかけていてとっても良かったです。これを見た後はしばらく主題歌のSillyを聞いていました。やっぱり好きなお話です。

余談ですが、これを2025年に再ドラマ化するならキャストを誰にするか、という議題でChatGPTとかなり盛り上がりました(笑)結論は内緒です。

④番外編

この夏はいろんな映画館にも足を運びました。見たかった映画がもうそこしかやっていなかった、等の消極的理由もあるのですが2本立ての映画を見たり、怪しげな劇場に行ったり、非日常的でワクワクしました。今後も開拓していきたいです。

(気合が入りすぎてこの紹介部分は夏休み中に書いていたものになります汗)

夏の終わりごろに怒涛のドラマブームが来て、今もたくさんの作品を絶賛視聴中ですので、また機会があれば紹介したいと思います。

お待たせしました。

ではここで3限の内容に入りたいと思います。

3限 精神分析・クィア批評

担当はジョウくんです。

課題文はキース・ヴィンセントの「夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り」

『こころ』の語りに着目しながら作中に存在しているセクシュアリティの問題について考えていきました。

本論文では、「先生」は男同士の絆と男性-男性間の性関係とが分裂していないホモソーシャル的な人物であるということが示されています。一方で語り手である「私」(若い青年)は男性間の愛の可能性から切り離された近代世界の象徴として描かれているというのです。そして『こころ』は同性愛から異性愛へと移行する成長物語であると示されています。

どういうことかと言いますと、『こころ』は「私」が一貫して語り手であるため、全て「私」視点で語られています。彼は、先生のことを時代に、過去に、取り残された人として語っています。一人の視点でしか語られないため実際のことはわからないものの、「私」は、先生との対比によって自分自身の成熟した状況(異性愛への変化)を強調したかったのだと考えられるのです。

では、先生の遺書で終わり、「私」の行く先が語られずに終わる物語についてはどのように考えられるのでしょうか。

本書では、ここには病に侵された父親が大きくかかわってくることが示されています。父の苦痛緩和のために浣腸薬を投入する際、まごついていた兄に代わって、「私」は油紙をあてがったり、医師を手伝ったり、様々なことをしたことが書かれています。父の死を目の前にして能動的に動く「私」は成熟した自己を獲得しつつあるのです。

そしてその後、先生からの手紙を受け取り東京行きを決めた「私」は、父親の尻をそのままに列車という主体的行為を奪われた状態に飛び込むのです。実の父親、そして父親のように慕っていた先生、二人の死を目の前にした中で、「私」は受動性と能動性の間で宙づりになるのです。

ここでフロイトの心理性的発達段階の理論が対応します。生後から1歳ごろまでと口唇期を経た先に肛門期があります。肛門期とは自分の身体を意識的にコントロールすることが可能になった時期であり、衝動や欲望を状況に合わせて調節するエゴが発達する段階です。

肛門期を抜けた先は、エディプス期であり性役割を獲得して超自我を形成する。そして潜伏期を経て、恋愛に向く性器期へと向かうのです。

父親の看病をする中で肛門期を卒業した「私」は、父親を置いて東京へ行ったことは自らの父を象徴的に去勢したといえ、「私」が性器的異性愛へ向かったことが示唆されているのです。

そして先生について、先生を再生産可能な異性愛者へと成長することを失敗した存在として語っているため、「私」自身の肛門期への対抗や同性愛性を否定していると言えるのです。

これを踏まえて4限では、

なぜ物語は「私」のその後を描かずに遺書で終えたのか、という点から「私」は本当に成長(異性愛者へと変化)したかったのだろうか。ということを考えました。

結論から言うと、答えはノーです。

論点は「私」が肛門期から抜け出せたのか否か、ということになりますが、私たちは「抜け出せなかった」、いや「抜け出さなかった」と考えました。

一般的な肛門期は排泄コントロールがうまく行くことで、体内の不要物を外に出したいという欲求が満たされて、次の段階へと移ることが出来ます。

つまりここでは、「私」が何らかの不要物を外へ放つことが出来たら肛門期を脱し成熟した存在になったと言えるのです。

先述したように、彼は確かに父親を置いて次のフェーズ(東京)へと旅立ちました。ここではある意味で排泄行為とみなすことが出来ます。一方で、その外へ発った先で、遺書を読んでそのまま物語は終わってしまいます。おそらく、東京に着いた先では先生の死を目の当たりにするのでしょう。それを「私」はあえて語らなかったのです。

遺書を先生から与えられた排泄物と考えると、「私」はその遺書を持ち続けることを選んだのです。それはつまり肛門期から脱出しないことを意味します。肛門期を脱出しない、ということは成熟した状態ではない、成長をやめ異性愛者へとも変化しないということです。

それは、「私」が恋愛感情に分類される前段階の愛おしむ気持ちをもって先生に執着しているからと考えることができます。

よって、この物語は語り手である「私」が遺書を持ち続け、語り続けることで先生のことを死なせないという意思が表れ、「私」は成熟した状態になることなく肛門期にとどまっている、と言えます。

何故、この物語は遺書で終わるのか、「私」は本当に異性愛者へと変化したのだろうか(キースの論文では物語のその後、「私」は先生の妻と一緒になったという説も紹介されている)という問いを立てて1時間議論をした私たちは、上記の結論を導き出すと思わず自分たちで拍手をしてしまいました。

大変長くなりましたが、以上が今回の授業内容になります。

かなり複雑な思考を必要としましたが、遺書=排泄物でそれをあえて持ち続けたという考え方は、一人では絶対に導き出せないものなのでゼミの面白さを改めて実感しました。

秋学期は、春学期とは少し異なり3限で扱う理論をもとに1作品を分析するため、より深い実りのある議論がこれからも出来るのではないか、とワクワクしています。

これからのゼミに期待が膨らむ、そんな回でした。

ちなみに、今回扱った理論的に、普段は躊躇する単語がポンポンと会話の中で登場して議論のキーでもあったため、どうブログに書こうか迷ったのですが、結果的に工夫できず中途半端な表現になってしまいました(反省)

んー、とにかく良い議論のできた実りのある回でした!

それではこのあたりで締めたいと思います。

ここまでお読みくださりありがとうございました。

また次回!

第2回 精神分析1ー呪いは解かれたか

こんにちは!

11期生の秋学期、最初のブログを担当する井上紬です。

毎回、あとがきで最近観た映画の話をしています^_^

本学期もよろしくお願いいたします!

11期生 秋学期 授業進行のしかた

秋学期が始まる前、私たちゼミ生4人はより深く学習したい批評理論を各々3つずつ提示しました。

それはマルクス主義批評だったり、ポスト・コロニアル批評だったり、今回学習する精神分析批評だったりです。

それに対し、学習に役立ちそうな論文あるいは専門書を内藤先生が用意してくださいました。

私たちは毎週、その課題文と分析する作品とを読了あるいは鑑賞し終えた状態で授業に臨みます。

第1回のテーマは精神分析批評です。

課題となる論文は 山田広昭「テクストの無意識はどこにある」(2003)

分析対象は 小説:『夢の浮橋』(谷崎潤一郎,1960)です。

ではさっそく授業内容に入っていきましょう!

精神分析批評 ー『夢の浮橋』

まず最初に、テクストを精神分析的にみるとはどういうことなのでしょうか。

それは、テクストにおいて反復される要素には一見意味がなさそうに思えるものもありますが、実はそれらを抽出して発見されるのは「個人的神話」であり、無意識的なものであり抑圧されたものであるということです。

その一例として、さまざまなテクストにみられるのがエディプス・コンプレックス

ギリシア神話の『オイディプス王』に由来し、精神分析の創始者であるフロイトが提示した概念です。

男児は無意識のうちに異性の親である母親に愛情を抱き、同性の親である父親を憎むようになるという心理的傾向、これをエディプス・コンプレックスといいます。

しかし男児は成長するにつれ、無意識下において「母親を求めたら去勢される」という不安に駆られます。その結果、母親への性的欲求を放棄することができ、エディプス・コンプレックスを乗り越えるのです。

今回分析の対象とした『夢の浮橋』は、主人公とその父母の関係性に焦点が当てられた物語でした。

主人公の糺(ただす)には実母と継母がいます。実母は糺の幼い頃に病死しており、父の再婚によって継母がうちにやってくるのですが、父が継母のことを実母と同じ名前で呼び、糺にもそれを求めていたために、糺の記憶の中では実母と継母が混同していきます。

この物語の奇妙なところは、糺と継母があやしい関係になっていくのを、父は分かっていたのか分かっていなかったのか、2人の関係を見守るに徹しているところです。

このことについて山田は、「昔の母(実母)と今の母(継母)を重ね合わせることで、浮かび上がる『父親の欲望』という個人的神話を抽出させて、その欲望の帰属先を私(糺)へと転移させる過程が、精神分析による無意識の概念を裏付けている」と説明しています。

父は病のためにそう長くありませんでした。そのため、ある意味で息子が継母と深い関係を持つのを期待していたのかもしれません。精神分析に倣っていえば、「父にとって息子とは、おのれ、そしておのれの死を乗り越える分身であるため、息子への愛がナルシシズムの色を強く帯びて、息子へと欲望が転移した」とこの物語は読むことができるのです。

以上が山田の『夢の浮橋』に対する考え方です。

それに対し、私たちゼミ生は、「本当に父親のナルシシズムは息子の糺へと転移してしまったのか?」という疑問を抱きました。そのうえで私たちは、父親のナルシシズムを「父の呪い」と呼び、「父の呪いは受け継がれてしまったのか」という問いを論点に議論を進めます。

結果として私たちが出した結論は、「父の呪いは受け継がれなかった。代わりに、〈親がいない兄と弟〉という対等な関係性の共同体を築いた」というものです。

父は病死し、継母も不可解な死を遂げ、妻とも離別した糺は、最終的に里子に出されていた弟の武を呼び戻し、一緒に暮らすことを決めます。

作中では2点、謎が明かされていません。ひとつは誰がこの武の父親かということ(糺と継母の不貞関係の末にできた子どもの可能性もある)、もうひとつは誰が継母を殺したのかということです。

ただ、それが分からないという事実を踏まえたうえで結果としていえることは、父も継母も死んだことで、糺と武は両親を亡くした可哀想な兄弟として対等な関係を築いていくことができるということです。仮に2人が親子であったとしても、糺を武の親に位置付けてしまう継母の存在が、もうこの世にはいないのですから。

最後に、『夢の浮橋』の2点の謎を明示しましたが、この物語は高度な叙述トリックのうえに成り立っています。終始「私(糺)」によって語られますが、この「私」が信頼できる語り手であるのかどうか、読者は試されるような読み方を強いられるのです。

あらすじはざっと説明してしまいましたが、『夢の浮橋』の不可解で甘美な文体の魅力は、このブログではお伝えすることができません。

ぜひ一度読んで、あなたの考えを聞かせてくださいね!

あとがき

皆さんは『チェンソーマン レゼ篇』はもう観られましたか?

私は観ました、今週末もう1回観に行きます!^_^

私はもともと原作の漫画を読んでいたのですが、正直に申し上げますと、このレゼという少女のエピソードはとりわけ印象に残っているわけではありませんでした。

しかし克明な映像化のおかげで、尾を引く映画体験となりました。

鑑賞してからしばらく経ちますが、いまだにレゼを始めとするキャラクターたちのことや、物語の閉じられ方について考えさせられてしまいます。

少し話は逸れますが、それこそ今回扱った精神分析批評、チェンソーマンにも応用できると思うんですよね。

主人公のデンジという少年と、彼が一目惚れしてしまったマキマという女性の関係性、精神分析批評をしてみたら面白いのではないかと考えています。

上手くいけば秋学期レポートのテーマになるかも・・・?

そこまではまだ、断言できません!(笑)

2026年度問題分析ゼミナール入室試験要項

本ゼミへの入室を希望する学生は、以下の「内藤ゼミ入室試験応募書類」のファイルをダウンロードしてください。
そのファイルを用いてエントリーシートとレポートを作成し、情報コミュニケーション学部の事務室の指示に従って提出してください。

「内藤ゼミ入室試験応募書類」