第12回 社会や文化によって形成される性別

ご無沙汰しております、11期生の井上紬です。

いよいよ夏のゼミ合宿が近づいてまいりました。

そして、その合宿の支度をしながら(やり残したことはないかな…?)と考えていたとき、ふと自分の担当だった春学期第12回のブログを投稿していないことを思い出したのです。

同期の仲間たちとこのブログを見てくださっている皆さまに心より謝罪を申し上げます。

11期生の春学期を締めるブログとして、もう少しだけお付き合いいただけますと幸いです。

前座

皆さん、「記録|読書も映画も」というアプリは存知でしょうか。

bondavi.Inc さんによってリリースされているこのアプリ。

名前の通り本や映画の鑑賞記録がつけられるのはもちろんのこと、ドラマやアニメ、ゲームやライブ、お酒や旅先まで、あなたを楽しませてくれるすべてのコンテンツを、感想や五つ星評価とともに控えておくことができるアプリです。

自分で記録したいジャンルを新規で増やすことができるので、あなただけのエンタメ備忘録になりますよ。ちなみに私は「イベント」の欄を作り、足を運んだ美術展や好きな漫画の原画展なども記録するようにしています。

記録が誰かに公開されるようなシステムではないため、「Filmarks」などと使い分けるのもおすすめです。

私のエンタメライフをさらに充実させてくれているこのアプリ、皆さんも是非インストールしてみてはいかがでしょうか?

3限 『批評理論入門』廣野由美子

この時間は藤田くんがフェミニズム批評とジェンダー批評について発表してくれました。

フェミニズム批評

フェミニズム批評にはいくつかの方法があります。

ひとつは、男性作家が書いた作品を女性の視点から見直し、男性による女性の抑圧がいかに反映されているか、あるいは家父長制的なイデオロギーが作品を通していかに形成されているかを明らかにする方法。

もうひとつは、「ガイノクリティックス(gynocritics)」と呼ばれる女性の描いた作品を研究対象とする立場で、男性文化によって無視されてきた女性作家の作品を発掘したり、除籍が描いた作品を再評価しようとしたりする方法です。

『批評理論入門』の分析対象である『フランケンシュタイン』の作者、メアリ・シェリーは女性でした。彼女が名前を伏せて『フランケンシュタイン』を出版したのには、自身が女性であることも理由のひとつに挙げられるといいます。著者が女性だと判明することで、作品が理不尽な評価を受けるのを危惧したのです。

また、『フランケンシュタイン』の内容自体にも男性文化の反映は見られます。『フランケンシュタイン』は “女性は家庭の私的世界で生きるべきであり、男性を癒す存在であるべき”というような当時の男性優位のイデオロギーが強く反映されて描かれていますが、一方で主人公の男性・フランケンシュタインの破滅から、そのイデオロギーに対する欺瞞を呈しているとの見方をすることもできます。

ジェンダー批評

前述のフェミニズム批評が男と女を本質的に違うものと見るのに対して、ジェンダー批評は、性別とは社会や文化によって形成された差異・役割であると見ます。

ここでは生物学的・社会的な男女区別から逸脱し、周縁に追いやられていた存在も対象となります。

それらは、男の同性愛者を扱うゲイ批評や、女の同性愛者を扱うレズビアン批評、両性愛者や性転換者なども対象に含めたクイア理論などに拡充されています。

ゲイ批評の観点から見る『フランケンシュタイン』が、個人的に印象深かったです。

そこではヴィクター・フランケンシュタインとヘンリー・クラヴァルの関係に注目し、妻のエリザベスにすら「愛しい愛しいエリザベス」という表現で言及するにとどまっていたフランケンシュタインが、クラヴァルには「最愛の」という最上級の呼びかけをしていると指摘していました。

この指摘自体瞠目するものであったのですが、結局怪物が殺したのもフランケンシュタインと血のつながった父や弟ではなくエリザベスとクラヴァルだったことから、「怪物は、自分の性的伴侶を奪われた苦悩をフランケンシュタインに味わせるために、フランケンシュタインの同性と異性の伴侶を選んだのではなかったか」という結論に辿り着いたことに舌を巻きました。

フェミニズム批評で述べたように、『フランケンシュタイン』には一見、男と女という明確な二項対立が存在しているように思えます。

しかしそこで「本当にそうなのか?」という懐疑の切り口で迫ってくれるのがジェンダー批評。

いつか自分の論文でも使ってみたいですが、奥が深い理論でもあるので、もっともっと勉強が必要です・・・。

4限 『パフォーマティヴ・アクトとジェンダーの構成』ジュディス・バトラー

この時間はジョウくんが発表してくれました。

ジェンダーとは、生まれつきの性的特徴(セックス)から生じるアイデンティティではなく、社会的な強制力のもとで人々が行為(パフォーマティヴ)と演技(アクト)をすることによって一時的に構成されたものである。

これが本著の最も言わんとしていることだと私たち11期生は結論づけました。

しかし、そこでひとつ疑問が生じたのです。

「ならば、この考え方に基づいたとき、トランスジェンダーとは一体どのように説明できるのか?」

一般に、トランスジェンダーとは生まれ持った性的特徴による身体の性と認識している性が一致しない人を指します。

バトラーの考え方によれば、トランスジェンダーとは自己意識が芽生えたときに身体が「かくあるべき(らしさ)」を求められていることに違和感を覚えた人たちのことであると説明できるのです。

あとがき

今回は3限から4限にわたって、性別の観点から見る作品分析について掘り下げていきました。

ここでいう性別を、生まれ持ったものではなく社会的に形成されたものと見るとジェンダー批評が始まっていくのですね。

では最後に恒例の作品紹介で「春」を終えたいと思います。

と、言いつつ今回はもうすでに多くの人が観たのではないでしょうか、

『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』

実は明日、合宿に向かう特急に乗る直前に、私はこの2回目を観るのです!(笑)

明日から配布される新しい特典(善逸 VS 獪岳のティザービジュアル)がどうしても欲しくて・・・。

あのふたりの因縁に関する物語は、原作を追っていたときから指折りに好きなエピソードだったんですよね。

他にも、大好きな水柱の活躍に目を奪われたり、劇伴の素晴らしさに感動したり、同情する鬼の過去に涙したりと感情が昂るポイントが数多くあったのですが、その中にはこのゼミに入っていたからこそ気づけたと思うこともありました。

それは、『鬼滅の刃』は「休止法(速度ゼロ)」で語られるシーンがものすごく多いということ・・・!

中学生や高校生の頃に漫画で読んでいたときには気になりませんでしたが、今回映画で観てみたらそのことが絶えず頭の中にありました。実際に口に出ているセリフはどのくらいあるんだ、とか、あそこからここまで実際には時進んでないよな、とか・・・(笑)

このゼミに入り新たな視座を得たことを実感できたいい機会でした。

秋学期もインプットとアウトプットを並行しながら頑張っていきたいと思います!

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