11期生第10回 テクストと共同作業する読者になれているか。

皆さんこんにちは、今回のブログを担当します、土田麻織です。

気付けばもう第10回、これを書いている今は7月に突入してしまった(書き終えるころには7月も中盤に差し掛かりました、、、汗)ので、まもなく春学期のゼミも終わってしまうようです。

そうなるとちらついてくる期末レポートの数々、1か月後の自分がきちんとやり切っていることを願って、3週間前の授業についてまとめていきたいと思います。

前座

今回の前座は私が担当して、ARTMSという韓国のガールズグループの「Icarus」というミュージックビデオを取り上げました。

本当はARTMSの「Birth」という楽曲がミュージックビデオともに大好きで、これを紹介しようかなと検討していたのですが、直前にIcarusのMVが公開され、14分越えのcinema Ver.という超大作であったのでこれだ!と思い今回の題材を決めました。

詳しくは割愛しますが、神話モチーフの作り込まれた世界観は圧巻なので是非見てみてください。

ちなみに私が紹介しかけたBirthはMVも曲も不穏な雰囲気でゴシックホラー?のようなアイドルには珍しい楽曲でありながら素晴らしい作品なのでこちらもぜひ見てみてください。

それではこの辺りで授業内容に移ろうと思います。

3

ジャンル批評、読者反応批評

3限の担当はジョウくんでした。

ジャンル批評

ジャンル批評とは、その名の通りジャンルに関連する諸問題を扱う批評で、隣接するジャンルと比較することでジャンル構造を分析することが出来る手法です。

今回の章では、『フランケンシュタイン』は複数のジャンルに分類出来ると紹介されています。前回、様々な間テクスト性があることを学んだのでこれは当然のこととも言えるでしょう。以下に取り上げられていたジャンルをまとめてみます。

・ロマン主義

自我や個人の経験、無限なるものや超自然的なものを重視する思潮。

ロマン主義文学としては、自然の原始的な力や、人間と自然の精神的交流に対して鋭い直感を示すものが特徴として挙げられる。

『フランケンシュタイン』では、恐怖、無限なるもの、超自然的なものがテーマそのものであり、旅や幼少期の回顧、愛の挫折、追放なども代表するモチーフである。

・ゴシック小説

本来の目的は「留まることのない恐怖によって、読者の血を凍らせること」であり本来は「逃れようのない不安」をモチーフにしている。

『フランケンシュタイン』では恐怖を主題に不気味な描写や陰惨な出来事など、ゴシック小説風の道具がふんだんに使われている。また、フランケンシュタインと怪物の運命が同一化してくることから、分身の主題が浮かんでいる。

・リアリズム小説

人生を客観的に描写して、物事をあるがままの真の姿で捉えようとする芸術上の信仰。人間を個としてのみならず人間関係において描く特徴がある。

出来事に蓋然性を与えようとする作者の態度が『フランケンシュタイン』には見られる。

・サイエンスフィクション

通称SF 空想上の科学技術の発展に基づく物語。科学によって想像されたものが予期せぬ結果を招くことはSFお決まりの筋書きである。

新しい生物が製造されるという新奇なアイデアと結末から『フランケンシュタイン』は最初の本格的なSFとして位置付けられる。

このように紹介されていました。

ここまで読んで、ジャンルを分類してそこから何ができるのだろう、と考えましたが、先生がしてくださった「レンズの入れ替え」の例えが分かりやすかったです。Aのレンズを入れた時ある映画はA‘と見えますが、Bのレンズを入れた時B‘という新たな一面を見ることが出来ます。

ジャンルというレンズを入れ替えることでその作品の新たな面を知ることが出来るのです。

読者反応批評

続いて読者反応批評です。

こちらはテクスト自身が意味を持つ主体ではなく、読者に読まれることによってテクストが存在する考え方です。読者のテクストに対する異なる反応に着目したり、テクストが読者に与える影響に焦点を当てたりする手法です。

この場合の「読者」とは、テクストに活発に関わり、テクストとの共同作業によって意味を生産する存在です。読者はテクストを通して、自分自身を象徴化して再現するのです。

文学表現は「修辞的な示し方」と「弁証法的な示し方」が存在していて、読者反応批評は、読者を刺激して自分で真実を見つけようと挑みかける後者を研究対象としています。

ドイツのヴォルフガング・イーザーは特にテクストに含まれる空隙や空白の文学的価値を指摘して、読者はこれらを埋めようとするため、そこに読者を刺激する働きがあると述べています。

読者反応批評を『フランケンシュタイン』に当てはめると、まずは作中の「読む」シーンに注目することが出来ます。物語内の読書シーンでは登場人物の反応と同じテクストの自分の反応を比較します。

また、手紙を読むという行為からも分析することが出来ます。書簡体形式の小説には「含意された読者」が想定されていて、物語の受け手の立場に立って、読者はその手紙を読むことが出来るのです。

そして入れ子構造のテクストは、物語の中心部と手紙の不在の受け取り手との外側の余白との間を読者に移動させる効果があります。つまり、不安定な語りの枠組みによって、読者は反応を促されつつ、テクスト内に範囲を位置付けられることはないため、押しつけ構造に反抗しながら、自らの読みを生み出すのです。

このようにして、読者はテクストの境界を超える強力なエネルギーを持っている、と言えるのです。

4限

ジャック・デリダ『根源の彼方に−グラマトロジーについて』

4限の担当は藤田くんでした。

今回の課題文は、ページ数は少ないものの難解で何度読み返しても意味をつかみきれなかったので、いろんなものを参考にしてみました。

プラトンやヘーゲル、ソクラテスといった哲学者たちはパロール、つまり音声言語を中心とする音声中心主義的な考え方をしていました。書き言葉よりも話し言葉が先行すると考えで、パロールを現前させるものは意識に依存した「存在」であるということです。

ジャック・デリダはこれを否定します。パロールを支える「存在」は不安定なものであり、一概にパロールが優れているとは言えない、ということです。

本文では音声中心主義を脱却しようとした「新しい事態」について、努力があっても陽の目も見ることが出来ない、統一を決して決定することが出来ない、領域の限界を決めることも出来ない危険性があると述べられています。

デリダは、パロール(音声言語)とエクリチュール(文字言語)はどちらが優れているのか、を論争することに疑問を投げかけ、グラマトロジーと言う概念を提示しました。これは、音声言語が文字言語に先行しているのではなく、思考が文字言語に先行したものであるということを意味します。ここに音声言語と文字言語の脱構築がみられるのです。

本文に「未来は、構成された正常性とは絶対的に縁を切るものであって、それゆえ、一種の畸形としてしか自身を予告し現前させることができない。」という文があり、この「畸形」について議論を交わしました。

「畸形」以外にも差別用語は多々ありますが、これらは「正常」という概念があるから、誕生して使われている言葉なのです。かといって全てをひとくくりにしてみんな同じだよね、とすることもよくないのです。

蔑まれてきたエクリチュールに光を当てつつ、いわゆる畸形側が声を上げ続けない限り「正常」と言う概念は「正常」のままであるし、対等にもなれません。

このようにして難航した議論は終着しました。

この話を聞いて、私は朝井リョウさんの『正欲』を思い浮かべました。じっくりと理解してこの理論を使えるようになりたいと思います。

以上で今回のブログを締めたいと思います。

次週は春学期最後のゼミです!早い!そしてわたしは最終回の授業もブログ担当です!なんと!

ここまでお読みくださりありがとうございました。春学期最終回のブログでお会いしましょう~

コメントを残す