10期生第12回 映画でないと作れないもの、演劇でないと作れないもの

第12回のブログを担当します。中村です。ついに私の担当するブログは最後になってしまいました。一年半は長いようであっという間でしたね。

今回は、前回の続きから『映画の理論』の「歴史とファンタジー」を読み終えて、映画『2001年宇宙の旅』の分析を行いました。

続いて、『スクリーン・スタディーズ』の「スクリーン・プラクティスの再設計」を読んだのち、舞台作品である『バクマン。THE STAGE』の分析をしました。

まず、「歴史とファンタジー」では、歴史に関しては前回のゼミで発表を終えまして、過去の出来事を映画にすることで舞台性や有限性が生じてしまう点で良くないことと、それを緩和するには歴史から離れるか、むしろ歴史に忠実になるかという手法があることをみていきました。ファンタジーを扱う映画は、<カメラの現実>を超えた夢のイメージによる視覚的な経験を有していて、人々が渇望するのだということ、そして舞台的な手法によって確立されたファンタジーは、映画媒体の基本的な美的原理に反しているため、特別な潜勢力を見過ごしてしまうが、ファンタジーが幕間劇の機能を果たしたり、舞台性が誇張されたりすると<カメラの現実>を引き立てることをみました。

今回は、その続きからみていきました。まず、映画的な手法で確立されたファンタジーは、一般的には簡単な方法で作り出したものとして低い評価を受けますが、ファンタジーが遊戯的に可笑しさを引き出す場合は、<カメラの現実>から逸脱せずに映画的性質を得ることができます。次に、物理的現実の観点から確立されたファンタジーは、超自然的なファンタジーの出来事には曖昧になり、<カメラの現実>に不随する現象であれば映画的になります。
様々な場合に分けてみていくと、主にファンタジーを主題的に扱うと映画的でないという評価を下されるのだとわかります。

これを踏まえて、映画『2001年宇宙の旅』をみていくと、この映画がつくられた1968年から未来を描いた作品になっていて、2025年を生きる我々からするとファンタジーではないシーンもいくつか存在しています。けれども、メカメカしい宇宙船や、中世的な調度品と白く発光する床を組み合わせた部屋など、現実に属しているが異常さを感じます。これは舞台装置を用いて舞台性によって超自然的な現象が確立されているといえるでしょう。

一方、この映画は冒頭の猿のシーンから一人の男が老いて新たな生が出現するまでの異次元の時空の流れを数時間に凝縮しているともいえます。このような時空のゆがみや異常な速度を実現させているのは、カメラを用いているからです。例えば、カメラの背後にいると思った男性は角度を変えた次の瞬間消えていなくなってしまいます。このようなカメラで撮影をした映像媒体でなければ実現しえない事象を描いていることから、映画でしか表現しえない作品であるとも考えられます。

次に、「スクリーン・プラクティスの再設計」では、スクリーンを用いた映像表現だけでなく、物理的なオブジェクトや装置を使うようになったことなどを取り上げました。ただこの技術は、近未来的な表現ではありますが、技術は過去のものを使用しているそうです。これからのスクリーンの関わりでは、装置の設計や開発が進み、映像・身体・装置の再設計が重要になっていくのだと考えられます。

これを踏まえて、『バクマン。THE STAGE』を見ていくと、通常使用されるようなスクリーンに映像を投影するだけでなく、舞台に設置された水に映像が投影されたり、漫画のコマが書かれた衣装を着た俳優の身体に投影されたりするなどの特徴がみられます。また、スクリーンに投影される映像自体も通常とは異質で、原作の漫画のシーンをそのまま使用したり、他の漫画作品の一部を使用したりしています。これらの表現は非常に特殊で独自的なものに見えますが、演技自体は古典的でべたなものなのだそうです。これらから、この作品は漫画という二次元の素材を用いていることで一見スクリーンに意識がもってかれそうになりますが、水や特殊な衣装によって演じている人間の身体性に注目させる効果があるのではないかと考えました。そのため、俳優の演技は古典的なものが採用されているのではないでしょうか。

第12回では、2つの作品を分析することにしましたので、振り返ってみればとてもボリューミーな回だったなと思います。個人的には、どちらの作品もゼミで取り扱うことになってから視聴したのでこれほど分析しがいのある、複雑な要素が詰め込まれた作品に出会えてよかったと感じております。

冒頭にも書きましたが、これが私にとって授業の様子を記す最後のブログになりそうです。ゼミの活動としては、合宿も今期のレポートも卒論もありますのでこれからも精進してまいりたいと思います。それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!

11期生第10回 テクストと共同作業する読者になれているか。

皆さんこんにちは、今回のブログを担当します、土田麻織です。

気付けばもう第10回、これを書いている今は7月に突入してしまった(書き終えるころには7月も中盤に差し掛かりました、、、汗)ので、まもなく春学期のゼミも終わってしまうようです。

そうなるとちらついてくる期末レポートの数々、1か月後の自分がきちんとやり切っていることを願って、3週間前の授業についてまとめていきたいと思います。

前座

今回の前座は私が担当して、ARTMSという韓国のガールズグループの「Icarus」というミュージックビデオを取り上げました。

本当はARTMSの「Birth」という楽曲がミュージックビデオともに大好きで、これを紹介しようかなと検討していたのですが、直前にIcarusのMVが公開され、14分越えのcinema Ver.という超大作であったのでこれだ!と思い今回の題材を決めました。

詳しくは割愛しますが、神話モチーフの作り込まれた世界観は圧巻なので是非見てみてください。

ちなみに私が紹介しかけたBirthはMVも曲も不穏な雰囲気でゴシックホラー?のようなアイドルには珍しい楽曲でありながら素晴らしい作品なのでこちらもぜひ見てみてください。

それではこの辺りで授業内容に移ろうと思います。

3

ジャンル批評、読者反応批評

3限の担当はジョウくんでした。

ジャンル批評

ジャンル批評とは、その名の通りジャンルに関連する諸問題を扱う批評で、隣接するジャンルと比較することでジャンル構造を分析することが出来る手法です。

今回の章では、『フランケンシュタイン』は複数のジャンルに分類出来ると紹介されています。前回、様々な間テクスト性があることを学んだのでこれは当然のこととも言えるでしょう。以下に取り上げられていたジャンルをまとめてみます。

・ロマン主義

自我や個人の経験、無限なるものや超自然的なものを重視する思潮。

ロマン主義文学としては、自然の原始的な力や、人間と自然の精神的交流に対して鋭い直感を示すものが特徴として挙げられる。

『フランケンシュタイン』では、恐怖、無限なるもの、超自然的なものがテーマそのものであり、旅や幼少期の回顧、愛の挫折、追放なども代表するモチーフである。

・ゴシック小説

本来の目的は「留まることのない恐怖によって、読者の血を凍らせること」であり本来は「逃れようのない不安」をモチーフにしている。

『フランケンシュタイン』では恐怖を主題に不気味な描写や陰惨な出来事など、ゴシック小説風の道具がふんだんに使われている。また、フランケンシュタインと怪物の運命が同一化してくることから、分身の主題が浮かんでいる。

・リアリズム小説

人生を客観的に描写して、物事をあるがままの真の姿で捉えようとする芸術上の信仰。人間を個としてのみならず人間関係において描く特徴がある。

出来事に蓋然性を与えようとする作者の態度が『フランケンシュタイン』には見られる。

・サイエンスフィクション

通称SF 空想上の科学技術の発展に基づく物語。科学によって想像されたものが予期せぬ結果を招くことはSFお決まりの筋書きである。

新しい生物が製造されるという新奇なアイデアと結末から『フランケンシュタイン』は最初の本格的なSFとして位置付けられる。

このように紹介されていました。

ここまで読んで、ジャンルを分類してそこから何ができるのだろう、と考えましたが、先生がしてくださった「レンズの入れ替え」の例えが分かりやすかったです。Aのレンズを入れた時ある映画はA‘と見えますが、Bのレンズを入れた時B‘という新たな一面を見ることが出来ます。

ジャンルというレンズを入れ替えることでその作品の新たな面を知ることが出来るのです。

読者反応批評

続いて読者反応批評です。

こちらはテクスト自身が意味を持つ主体ではなく、読者に読まれることによってテクストが存在する考え方です。読者のテクストに対する異なる反応に着目したり、テクストが読者に与える影響に焦点を当てたりする手法です。

この場合の「読者」とは、テクストに活発に関わり、テクストとの共同作業によって意味を生産する存在です。読者はテクストを通して、自分自身を象徴化して再現するのです。

文学表現は「修辞的な示し方」と「弁証法的な示し方」が存在していて、読者反応批評は、読者を刺激して自分で真実を見つけようと挑みかける後者を研究対象としています。

ドイツのヴォルフガング・イーザーは特にテクストに含まれる空隙や空白の文学的価値を指摘して、読者はこれらを埋めようとするため、そこに読者を刺激する働きがあると述べています。

読者反応批評を『フランケンシュタイン』に当てはめると、まずは作中の「読む」シーンに注目することが出来ます。物語内の読書シーンでは登場人物の反応と同じテクストの自分の反応を比較します。

また、手紙を読むという行為からも分析することが出来ます。書簡体形式の小説には「含意された読者」が想定されていて、物語の受け手の立場に立って、読者はその手紙を読むことが出来るのです。

そして入れ子構造のテクストは、物語の中心部と手紙の不在の受け取り手との外側の余白との間を読者に移動させる効果があります。つまり、不安定な語りの枠組みによって、読者は反応を促されつつ、テクスト内に範囲を位置付けられることはないため、押しつけ構造に反抗しながら、自らの読みを生み出すのです。

このようにして、読者はテクストの境界を超える強力なエネルギーを持っている、と言えるのです。

4限

ジャック・デリダ『根源の彼方に−グラマトロジーについて』

4限の担当は藤田くんでした。

今回の課題文は、ページ数は少ないものの難解で何度読み返しても意味をつかみきれなかったので、いろんなものを参考にしてみました。

プラトンやヘーゲル、ソクラテスといった哲学者たちはパロール、つまり音声言語を中心とする音声中心主義的な考え方をしていました。書き言葉よりも話し言葉が先行すると考えで、パロールを現前させるものは意識に依存した「存在」であるということです。

ジャック・デリダはこれを否定します。パロールを支える「存在」は不安定なものであり、一概にパロールが優れているとは言えない、ということです。

本文では音声中心主義を脱却しようとした「新しい事態」について、努力があっても陽の目も見ることが出来ない、統一を決して決定することが出来ない、領域の限界を決めることも出来ない危険性があると述べられています。

デリダは、パロール(音声言語)とエクリチュール(文字言語)はどちらが優れているのか、を論争することに疑問を投げかけ、グラマトロジーと言う概念を提示しました。これは、音声言語が文字言語に先行しているのではなく、思考が文字言語に先行したものであるということを意味します。ここに音声言語と文字言語の脱構築がみられるのです。

本文に「未来は、構成された正常性とは絶対的に縁を切るものであって、それゆえ、一種の畸形としてしか自身を予告し現前させることができない。」という文があり、この「畸形」について議論を交わしました。

「畸形」以外にも差別用語は多々ありますが、これらは「正常」という概念があるから、誕生して使われている言葉なのです。かといって全てをひとくくりにしてみんな同じだよね、とすることもよくないのです。

蔑まれてきたエクリチュールに光を当てつつ、いわゆる畸形側が声を上げ続けない限り「正常」と言う概念は「正常」のままであるし、対等にもなれません。

このようにして難航した議論は終着しました。

この話を聞いて、私は朝井リョウさんの『正欲』を思い浮かべました。じっくりと理解してこの理論を使えるようになりたいと思います。

以上で今回のブログを締めたいと思います。

次週は春学期最後のゼミです!早い!そしてわたしは最終回の授業もブログ担当です!なんと!

ここまでお読みくださりありがとうございました。春学期最終回のブログでお会いしましょう~