11期生 第9回 本を読む行為とは何か?

こんにちは!就活、バイト、そしてゼミに追われて、思考停止の状態になったジョウです。

最近いきなり暑くなりましたよね。 この間まで肌寒かったのが嘘みたいで、身体がついていきません…!そんな酷暑の中、僕が必死に取り組んでいた就活で、忘れられない体験をしたわけです。

みなさんも経験があるかもしれませんが、グループディスカッション(GD)って独特の緊張感がありますよね。先日、とある外資系企業の選考でGDに参加したときのこと。

他の人の意見に対してどう思うか聞かれた、あるグループメンバーがこう言ったんです。

「アグリーです!」

え、アグリー!? 突然の横文字に驚きつつも、「ここは普通に『賛成です』で良くない!?」と、心に思ったんですが、外資は全部そういう感じでしょうか?

その後も「コンプリヘンシブの考え」とか「ミッシー」みたいな横文字に浴びて、語彙力がボロボロであることを強く意識しました。もっと勉強しなきゃと痛感した一日でした。

ここからはゼミの真面目な話に入りたいと思います!

前座

今回の前座担当は私でした。

前回の前座と同じようにまた映画を用意してきましたが、全く別ジャンルの映画なのでぜひ見ていただきたいと思いますが、まず簡単な紹介させていただきます。

今回取り上げた作品は『インサイド・ルーウィン・デイヴィス/名もなき男の歌』です。劇場公開は2014年、当時台湾で初公開で観ました。私は元々ギターやアメリカンカルチャが好きだったので、すぐ主人公の物語に共感できました。希望に満ちた1960年代のニューヨークに、アメリカンドリームが実現できた人と実現できない人がいました。その物語を、音楽の形で表現するのはこの映画の特徴です。ぜひチェックしてほしいのですが、本作のサウンドトラックも非常に素晴らしいですので、曲でもぜひ楽しんでいただけたらと思います!

3限 結末、伝統的批評、透明な批評

3限は、土田さんが『批評理論入門』について発表してくれました。テーマは「結末」「伝統的批評」「透明な批評」でした。

まず、「結末」の部分です。みなさんは小説を読むとき、どこに一番ワクワクしますか? 私はやっぱり、散りばめられた伏線が回収されて、物語が結末にたどり着いた瞬間が、最高の醍醐味だと感じます。

発表でもあったように、この「結末」には大きく分けて2つの種類があるそうです。

開かれた結末 はっきりとした結末を描かず、その後の展開や物語全体の解釈を、読者の想像に委ねるタイプの結末です。例えば、 映画『インセプション』のエンディングが有名です。あのコマは倒れたのか、それとも…?と、観た人それぞれで解釈が分かれるような終わり方です。「主人公は、この後どうなったんだろう?」と考えさせられる余韻が残ります。

閉じられた結末 物語の謎や問題がすべて解決され、明確な終わり方が示される結末のこと。一番イメージしやすいタイプは、「めでたし、めでたし」ではっきりと完結するものです。 (発表にあったように、ハッピーエンドや悲劇的な結末、意外な結末なども、このカテゴリに入ります)例えば、鬼を退治して宝を持ち帰る桃太郎や、犯人が明確に示されるミステリー小説などが挙げられます。

次に、「伝統的批評」と「透明な批評」です。ここから、『批評理論入門』はようやく「批評」の部分に入っていきます。

伝統的批評は一言でいうと、「この作品を本当に理解するためには、作者がどんな人で、どんな時代に生きていたかを知ることが重要」ということです。発表によると、その考え方では、作品は「作者が何かを伝えたくて作ったもの」と解釈できます。学校の国語の授業ではよく、「この一行に込められた、作者の当時の心境を答えなさい」といった問題は結構あったはずです。あれは、伝統的批評に近いアプローチに近いです。

一方、透明な批評は、作品世界と読者世界の間に存在する壁がないように、テクストにフォーカスして論じるスタイルです。それに対して不透明な批評は、テクストを客体として見て外側に立って分析する方法を指します。ここも例を付け加えると理解しやすいかもしれません。例えば、『走れメロス』という作品を上記の二つの批評方法で分析していきますと、

透明な批評:(心理描写)「ああ、もう間に合わないかもしれない…」心にある疑念や人間的な脆弱さが何もメロスの足を止めようとする。その葛藤は、まるで自分自身のもののように胸に迫ってくる。→読者がメロスの気持ちになって、物語を体験できるような感じです。

不透明な批評:作者が本作を執筆した背景を考えると、彼自身の友人関係や裏切りに対する葛藤が投影されているという指摘もあります。このように、本作は単なる友情物語としてだけでなく、作者の思想や当時の社会状況を反映したテクストとして多角的に分析することが可能です。→このように、作品を一歩引いた場所から、作者の背景などを手がかりに分析するのが「不透明な批評」の一例です。

(個人的には「不透明な批評」に対して、あれ?と思ったのが、「伝統的批評」と似ていると思いましたが、「伝統的批評」は、作品を客体として外から分析するという点で、広い意味では「不透明な批評」の一種と考えることもできそうです。)

4限 「読む」が物語を完成させる!イーザー「行為としての読書」

4限にて、井上さんはヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』発表してくれました。

普段、私たちが何気なく読書の行為を繰り返しているかもしれないのですが、その時、読者としての我々は頭の中では一体何怒っているんだろう?という深くて面白いテーマでした。

まず、イーザーの理論のビックリするような結論から申し上げますと、 それは、「テクストは、読者が意味を作り上げて、はじめて完成する」っていう考え方です。

つまり、本棚に置かれているだけでは、物語はまだ「未完成」の状態。読者がそれを手に取り、ページをめくり、頭の中で意味を組み立てていく作業を経て、ようやく一つの作品として完成するらしいです。授業の議論で先生がご提示した例はすごくわかりやすかったです。

同じ安部公房の小説を読んでも、僕(ジョウ)が受け取るものと、先生が受け取るものはきっと違います。それは、僕と先生という「受容体(読者としての異なる考え方)」が違うからです。それぞれの期待や記憶が違うことで、最終的に頭の中に生まれる作品のイメージ(=相関体)も、全く別のものになるのです。

そして、井上さんも「理解に自信がない」と問題提起してくれた 、もう一つのキーワードが「遠近法」。

これも、授業の議論で「なるほど!」になりました。

これは元々絵画で使われる美術用語でして、 二次元の平面に、あたかも三次元の奥行きがあるように見せる技法らしいです。

これを文学に持ってきたのが、イーザーの面白いところではないかなと思いました。 僕たちはただ平面に並んだ文字の列を目で追っているだけなのに、読み進めるうちに、頭の中で登場人物が生き生きと動き出したり、性格が見えてきたり、物語の世界が立体的に「膨らんで」見えたりしますよね。

二次元の文字テクストから、三次元的なイメージや世界が立ち上がってくる不思議な感覚。これを、イーザーは「遠近法」と呼んだわけです。読者は一つの視点に留まらず、テクスト内の様々な「遠近法」を移動しながら、作品世界を構築していきます。

読書って、ただ文字を受け取るだけの受動的な行為ではなく、読者である我々が積極的に意味を作り上げていく、すごくクリエイティブな「行為」なんだなと、改めて感じました。

ということで、今回はこのくらいにして終わりたいと思います。また次回でお会いしましょう!

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