こんにちは!あまりの暑さに、エアコンの設定温度を18℃にしたくてたまらないジョウです。私がブログを担当するのも、この春学期は今回でラストになりますね。 3年生になってからの日々は、本当に想像以上に忙しかったです。
そんな多忙な生活の中、こうして内藤ゼミを続けられているのが少し不思議な気もしますが、これからも頑張っていきたいと思います!
早速、今回ゼミの内容に入りたいと思います。
前座
今回の前座は、私が最近購入した小説について紹介しました。
なぜ「読んだ小説」ではないのか…というと、そう、まだほとんど読めていないからです。(ちなみに、最近友達にどういう本を読んでるかを聞かれた時に、『批評理論入門』を答えてしまった…)
最近なかなか読書の時間が取れないのですが、本が欲しいという物欲だけは膨らむ一方です。誘惑に負けて、以下の3冊を購入してしまいました。
・『灰の劇場』 恩田陸(2021) 前回のゼミで恩田陸さんの話題が出たので、懐かしくなって購入しました。ちなみに、恩田さんといえば最新作の『スプリング』がヒット中ですが、バレーがテーマなので個人的にはあまり惹かれませんでした。ですが、土田さんが「すごく面白かった!」と絶賛していたので、逆に気になってきていました(笑)
『悪霊』 ドストエフスキー(1872) 僕はよく「ドストエフスキーが好き」と公言しているのですが、ちゃんと読んだのは『罪と罰』だけです。これではいつか本物のドストエフスキーマニアにからかわれてしまう!と思って、知識を補強すべく購入しました。
『異常(アノマリー)』エルヴェ・ル・テリエ(2022) ジョウが敬愛するゲーム監督・小島秀夫さんが大絶賛していた一冊。ファンとしては買わずにはいられませんでした。これは少し読んだのですが、本当に素晴らしいです!物語に突然「空白」が生まれたり、これが結末かと思いきや大きく反転することが起きたりと、予測不能な展開が続いて出てきます。この本を読んでいると、まさに前回のブログで書いたイーザーの言う『行為としての読書』を実践しているなと実感します。
という感じの前座でした。 それでは、本題の発表内容に移りたいと思います。
3限 マルクス主義批評、文化批評
3限は、土田さんがマルクス主義批評と文化批評の二つのテーマ3限は土田さんによる「マルクス主義批評」と「文化批評」の発表でした。 まずは、マルクス主義批評の話から始めます。
私がこの批評理論に触れて最初に感じたのは、これまで学んできた他の理論とは大きく異なる点があるということです。マルクスの思想は「唯物論」を土台にしているため、文学や文化といった精神的な産物でさえも、ある種の「モノ」として捉え、それが生み出された社会や経済とセットで分析する点が非常に特徴的だと感じました。
その認識は、土田さんの発表を聞いてさらに確信しました。『批評理論入門』によれば、マルクス主義批評とは「文学作品を物として扱い、誕生した歴史的な諸条件を探求し、それらとの関係を用いて作品を解明する」アプローチだとされています。
この考え方を元に『フランケンシュタイン』を見てみると、ゼミでは非常に興味深い論点が浮かび上がりました。
作中の時代設定はフランス革命の初期のはずなのに、なぜか物語はフランス革命にまったく語らなかったです。それどころか、100年以上も前のイギリス清教徒革命について言及しているのです。これは、少し不自然だと思いませんか?
作者のメアリー・シェリーは執筆当時、フランス革命がもたらした結末を知っていたはず。にもかかわらず、あえてそれを描かなかったです。ここには何か、作者の意図が隠されているのでしょう。
ゼミでの議論の末、私たちが出した結論はこうです。 シェリーは「自由」という理想には賛成している。しかし、その理想を実現するための「革命」がもたらす暴力や流血に肯定的ではない。彼女は、輝かしい結果(自由)を得るためには、悲惨な過程(革命)が伴うというジレンマを、清教徒革命の例を借りて示唆したのではないでしょうか。何より、このテーマは『フランケンシュタイン』の物語そのものに反映されています。怪物の誕生は、初めから暴力や虐殺を目的としたものではありませんでした。むしろ、創造主であるフランケンシュタイン博士の善意や理想とは裏腹に、悲劇的な結果を生んでしまったわけです。その過程が、まさしく理想を掲げながらも悲劇に行き着いたフランス革命そのものを象徴しているのかもしれません。
彼女自身の生い立ちを考えても、理想の追求には大きなリスクが伴うという事実を、彼女は痛いほど理解していたはずです。「理想の追求」と「悲劇の回避」。そのどちらも選べないという矛盾を抱えたメアリーは、フランス革命を「書かなかった」のではなく、「書けなかった」のです。
そして、テクストに意図的に作られたこの「書かれていない部分」は、「空白(ブランク)」であり、この「空白」に隠された作者の葛藤やイデオロギーを読み解くことこそ、マルクス主義批評の重要な分析方法の一つらしいです。
続いて、文化批評の話に移ります。
この批評のキーワードの一つが「階級」です。私が驚いたことに、ヨーロッパでは今でも階級という概念が社会に根付いていて、それがいまでも文化の形に影響を与えているらしいです。階級が異なれば、楽しむ文化も変わってくきます。いわゆる知識人階級向けの「ハイカルチャー」と、一般大衆向けの「ロウカルチャー」という境界が生まれるわけです。
発表によると、文化批評はこうしたハイカルチャーとロウカルチャーの境界を取り払い、文学、映画、漫画、音楽といった全ての文化的産物を差別なく同等に扱い 、作品とその背景にある文化の関係性を探るアプローチだそうです。
では、この文化批評の視点から『フランケンシュタイン』を見ると、どうなるのでしょうか?『フランケンシュタイン』は、ハイカルチャーの文学作品として生まれながら、その後200年以上にわたって演劇、映画、漫画といったロウカルチャーの世界で繰り返し書き換えられ、その時代ごとの文化や不安を映し出しました。
そのハイカルチャーからロウカルチャーへの旅を深堀りしたいと思います。もともと作者のメアリー・シェリーは、ミルトンの『失楽園』を引用するなど、本作を意図的に格調高い「文学」として書き上げるつもりでした。しかし、その哲学的な深い部分とは反対に、怪物や物語の衝撃性は逆に大衆読者の心をつかみます。特に、演劇や映画といった視覚的表現が強いメディアで翻案される際、原作の複雑な部分は簡略化され、怪物の恐ろしい見た目が強調されるようになりました。これによって『フランケンシュタイン』は大衆文化の中で一気に拡散していったのです。
また、文化批評では、大衆文化の中で物語がどのように変容したかもポイントです。フランケンシュタイン博士の人物像の変化も発表で指摘されましたが、特に第二次世界大戦後、科学が戦争に加担したという歴史的背景から、博士は単なる探究者ではなく、倫理観の欠如した冷酷な科学者でなければ、怪物という恐怖の生物はとても生み出せなかったわけです。これは、当時社会全体の価値観を映し出す文化的テクストとして機能していると思われます。
4限 共産党宣言・資本論
4限の授業は、井上さんが「共産党宣言」と「資本論」について発表してくれました。
どちらもマルクスが執筆したものなので、もちろんマルクス主義思想が盛り込まれています。「共産党宣言」と資本論は、ある意味で3限で取り上げたマルクス主義批評の土台とさらなる説明を提供したと考えます。
「資本論」では、我々の身の回りにある「商品」を分析しています。なぜなら、資本主義の社会では、すべての富が「商品の集まり」として現れるからです。発表によれば、「モノ(商品)」には、常に二つの価値を持っています。
・使用価値:そのモノがどう役に立つのか?→シンプルに、そのモノが人間の何らかの欲求を満たす「有用性」のことです。例えば、パンは食べられるとか
・交換価値:他のモノに交換できるのか?→どのくらいの比率で交換されるかということです。例えば、パン1個に鉛筆2本と交換できるとか
ここで、マルクスが見つかった「モノ」の共通性は、「人間の労働によって作られた生産物である」という事実です。つまり、商品の真の価値は、その商品を生産するためにあった人間労働そのものです。
以上の内容をまとめてきて、改めてマルクスはとんでもない唯物論者のことを意識しました笑。とてつもなく現実的な彼の理論を用いて文学作品を分析するとは、実に興味深いです。
続いて、「共産党宣言」の内容です。
「共産党宣言」では、何よりも「対立」が強調されます。あれ?批評理論で勉強した二項対立の考え方じゃないか!って思いつつ、どうやらマルクス主義批評も、作品の世界観における経済生産と階級対立を見つけることでテクストを分析する手法もあるようです。「共産党宣言」にも書かれているように、ブルジョワジー(資本家)とプロレタリアート(労働者)の階級対立は重要視されています。
僕個人が意外だったのは、マルクスがブルジョワジーの功績をはっきりと認めている点です。彼らは古い封建社会を破壊し 、人類がそれまで見たこともないような巨大な生産力を生み出した、と高く評価しています 。
この話を聞いて、私は『レ・ミゼラブル』を思い出しました。あの物語は、まさしく19世紀フランスのブルジョワジーとプロレタリアートの対立を描いていますよね。
ただ、ふと思ったのは、ここまでテーマがはっきりしている作品を分析するのは、ある意味で答え合わせのようで、少し物足りないかもしれない、ということです。 むしろ、一見すると社会や経済と無関係に見える作品の中に、隠された階級の対立や、前回の議論で出た「空白」を見つけ出すことこそ、マルクス主義批評の醍醐味なのかもしれません。
この春学期、色々な批評理論を学んできて大変ですが、とても充実でした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!