11期生 第13回 文化と下部構造の関係とは何か?

こんにちは!あまりの暑さに、エアコンの設定温度を18℃にしたくてたまらないジョウです。私がブログを担当するのも、この春学期は今回でラストになりますね。 3年生になってからの日々は、本当に想像以上に忙しかったです。

そんな多忙な生活の中、こうして内藤ゼミを続けられているのが少し不思議な気もしますが、これからも頑張っていきたいと思います!

早速、今回ゼミの内容に入りたいと思います。

前座

今回の前座は、私が最近購入した小説について紹介しました。

なぜ「読んだ小説」ではないのか…というと、そう、まだほとんど読めていないからです。(ちなみに、最近友達にどういう本を読んでるかを聞かれた時に、『批評理論入門』を答えてしまった…)
最近なかなか読書の時間が取れないのですが、本が欲しいという物欲だけは膨らむ一方です。誘惑に負けて、以下の3冊を購入してしまいました。

『灰の劇場』 恩田陸(2021) 前回のゼミで恩田陸さんの話題が出たので、懐かしくなって購入しました。ちなみに、恩田さんといえば最新作の『スプリング』がヒット中ですが、バレーがテーマなので個人的にはあまり惹かれませんでした。ですが、土田さんが「すごく面白かった!」と絶賛していたので、逆に気になってきていました(笑)

『悪霊』 ドストエフスキー(1872) 僕はよく「ドストエフスキーが好き」と公言しているのですが、ちゃんと読んだのは『罪と罰』だけです。これではいつか本物のドストエフスキーマニアにからかわれてしまう!と思って、知識を補強すべく購入しました。

『異常(アノマリー)』エルヴェ・ル・テリエ(2022) ジョウが敬愛するゲーム監督・小島秀夫さんが大絶賛していた一冊。ファンとしては買わずにはいられませんでした。これは少し読んだのですが、本当に素晴らしいです!物語に突然「空白」が生まれたり、これが結末かと思いきや大きく反転することが起きたりと、予測不能な展開が続いて出てきます。この本を読んでいると、まさに前回のブログで書いたイーザーの言う『行為としての読書』を実践しているなと実感します。

という感じの前座でした。 それでは、本題の発表内容に移りたいと思います。

3限 マルクス主義批評、文化批評

3限は、土田さんがマルクス主義批評と文化批評の二つのテーマ3限は土田さんによる「マルクス主義批評」と「文化批評」の発表でした。 まずは、マルクス主義批評の話から始めます。

私がこの批評理論に触れて最初に感じたのは、これまで学んできた他の理論とは大きく異なる点があるということです。マルクスの思想は「唯物論」を土台にしているため、文学や文化といった精神的な産物でさえも、ある種の「モノ」として捉え、それが生み出された社会や経済とセットで分析する点が非常に特徴的だと感じました。

その認識は、土田さんの発表を聞いてさらに確信しました。『批評理論入門』によれば、マルクス主義批評とは「文学作品を物として扱い、誕生した歴史的な諸条件を探求し、それらとの関係を用いて作品を解明する」アプローチだとされています。

この考え方を元に『フランケンシュタイン』を見てみると、ゼミでは非常に興味深い論点が浮かび上がりました。

作中の時代設定はフランス革命の初期のはずなのに、なぜか物語はフランス革命にまったく語らなかったです。それどころか、100年以上も前のイギリス清教徒革命について言及しているのです。これは、少し不自然だと思いませんか?

作者のメアリー・シェリーは執筆当時、フランス革命がもたらした結末を知っていたはず。にもかかわらず、あえてそれを描かなかったです。ここには何か、作者の意図が隠されているのでしょう。

ゼミでの議論の末、私たちが出した結論はこうです。 シェリーは「自由」という理想には賛成している。しかし、その理想を実現するための「革命」がもたらす暴力や流血に肯定的ではない。彼女は、輝かしい結果(自由)を得るためには、悲惨な過程(革命)が伴うというジレンマを、清教徒革命の例を借りて示唆したのではないでしょうか。何より、このテーマは『フランケンシュタイン』の物語そのものに反映されています。怪物の誕生は、初めから暴力や虐殺を目的としたものではありませんでした。むしろ、創造主であるフランケンシュタイン博士の善意や理想とは裏腹に、悲劇的な結果を生んでしまったわけです。その過程が、まさしく理想を掲げながらも悲劇に行き着いたフランス革命そのものを象徴しているのかもしれません。

彼女自身の生い立ちを考えても、理想の追求には大きなリスクが伴うという事実を、彼女は痛いほど理解していたはずです。「理想の追求」「悲劇の回避」。そのどちらも選べないという矛盾を抱えたメアリーは、フランス革命を「書かなかった」のではなく、「書けなかった」のです。

そして、テクストに意図的に作られたこの「書かれていない部分」は、「空白(ブランク)」であり、この「空白」に隠された作者の葛藤やイデオロギーを読み解くことこそ、マルクス主義批評の重要な分析方法の一つらしいです。

続いて、文化批評の話に移ります。

この批評のキーワードの一つが「階級」です。私が驚いたことに、ヨーロッパでは今でも階級という概念が社会に根付いていて、それがいまでも文化の形に影響を与えているらしいです。階級が異なれば、楽しむ文化も変わってくきます。いわゆる知識人階級向けの「ハイカルチャー」と、一般大衆向けの「ロウカルチャー」という境界が生まれるわけです。

発表によると、文化批評はこうしたハイカルチャーとロウカルチャーの境界を取り払い、文学、映画、漫画、音楽といった全ての文化的産物を差別なく同等に扱い 、作品とその背景にある文化の関係性を探るアプローチだそうです。

では、この文化批評の視点から『フランケンシュタイン』を見ると、どうなるのでしょうか?『フランケンシュタイン』は、ハイカルチャーの文学作品として生まれながら、その後200年以上にわたって演劇、映画、漫画といったロウカルチャーの世界で繰り返し書き換えられ、その時代ごとの文化や不安を映し出しました。

そのハイカルチャーからロウカルチャーへの旅を深堀りしたいと思います。もともと作者のメアリー・シェリーは、ミルトンの『失楽園』を引用するなど、本作を意図的に格調高い「文学」として書き上げるつもりでした。しかし、その哲学的な深い部分とは反対に、怪物や物語の衝撃性は逆に大衆読者の心をつかみます。特に、演劇や映画といった視覚的表現が強いメディアで翻案される際、原作の複雑な部分は簡略化され、怪物の恐ろしい見た目が強調されるようになりました。これによって『フランケンシュタイン』は大衆文化の中で一気に拡散していったのです。

また、文化批評では、大衆文化の中で物語がどのように変容したかもポイントです。フランケンシュタイン博士の人物像の変化も発表で指摘されましたが、特に第二次世界大戦後、科学が戦争に加担したという歴史的背景から、博士は単なる探究者ではなく、倫理観の欠如した冷酷な科学者でなければ、怪物という恐怖の生物はとても生み出せなかったわけです。これは、当時社会全体の価値観を映し出す文化的テクストとして機能していると思われます。

4限 共産党宣言・資本論

4限の授業は、井上さんが「共産党宣言」と「資本論」について発表してくれました。

どちらもマルクスが執筆したものなので、もちろんマルクス主義思想が盛り込まれています。「共産党宣言」と資本論は、ある意味で3限で取り上げたマルクス主義批評の土台とさらなる説明を提供したと考えます。

「資本論」では、我々の身の回りにある「商品」を分析しています。なぜなら、資本主義の社会では、すべての富が「商品の集まり」として現れるからです。発表によれば、「モノ(商品)」には、常に二つの価値を持っています。

・使用価値:そのモノがどう役に立つのか?→シンプルに、そのモノが人間の何らかの欲求を満たす「有用性」のことです。例えば、パンは食べられるとか

・交換価値:他のモノに交換できるのか?→どのくらいの比率で交換されるかということです。例えば、パン1個に鉛筆2本と交換できるとか

ここで、マルクスが見つかった「モノ」の共通性は、「人間の労働によって作られた生産物である」という事実です。つまり、商品の真の価値は、その商品を生産するためにあった人間労働そのものです。

以上の内容をまとめてきて、改めてマルクスはとんでもない唯物論者のことを意識しました笑。とてつもなく現実的な彼の理論を用いて文学作品を分析するとは、実に興味深いです。

続いて、「共産党宣言」の内容です。

「共産党宣言」では、何よりも「対立」が強調されます。あれ?批評理論で勉強した二項対立の考え方じゃないか!って思いつつ、どうやらマルクス主義批評も、作品の世界観における経済生産と階級対立を見つけることでテクストを分析する手法もあるようです。「共産党宣言」にも書かれているように、ブルジョワジー(資本家)とプロレタリアート(労働者)の階級対立は重要視されています。

僕個人が意外だったのは、マルクスがブルジョワジーの功績をはっきりと認めている点です。彼らは古い封建社会を破壊し 、人類がそれまで見たこともないような巨大な生産力を生み出した、と高く評価しています 。

この話を聞いて、私は『レ・ミゼラブル』を思い出しました。あの物語は、まさしく19世紀フランスのブルジョワジーとプロレタリアートの対立を描いていますよね。

ただ、ふと思ったのは、ここまでテーマがはっきりしている作品を分析するのは、ある意味で答え合わせのようで、少し物足りないかもしれない、ということです。 むしろ、一見すると社会や経済と無関係に見える作品の中に、隠された階級の対立や、前回の議論で出た「空白」を見つけ出すことこそ、マルクス主義批評の醍醐味なのかもしれません。

この春学期、色々な批評理論を学んできて大変ですが、とても充実でした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

11期生 第11回 東洋と西洋、そこに優劣あり

こんにちは!
第11回のブログを担当する藤田雄成です。

前回のブログからだいぶ時間が経ってしまいました。あれ?前回も同じことを言ったような気が…
遅れた理由はいろいろ訳がありますが、言い訳はよくないですね(汗)

気づけば、私にとって今学期の最後のブログですね。ブログの感想は最後に言うとして、早速内容に入っていきたいと思います!

前座

今回の前座は私が担当しました。今回は準備不足でめちゃくちゃな発表になってしまいました笑
これは反省です。
私が今回発表したのは辻村深月さんの作品です。辻村深月、と聴いてみなさんは何を思い浮かべるでしょう。有名な作品として「かがみの孤城」が挙げられると思います。この作品を読んだときはとても感動しました!今回はこの作品のほかに「冷たい校舎の時は止まる」、「子供たちは夜と遊ぶ」など多数の作品を紹介しました。前にあげた2作品はかなり暗い話なのですが、とても引き込まれる作品です。
ぜひ、みなさんも読んでみてください!

3限

3限は井上さんが批評理論入門の「脱構築」、「精神分析批評」について発表してくれました。

脱構築
さて、脱構築については前回の授業で学んだのでその復習、という感じでした。よって今回はこの脱構築を用いたフランケンシュタインの分析を見ていきたいと思います。
まず、この物語において生と死が脱構築されています。怪物を創造するという生命を生み出したフランケンシュタインの行動は結果的に多くの死をもたらしてしまいます。
また、創造主と被創造物の関係も脱構築されています。怪物を造ったフランケンシュタインはその創造主としての威厳が消え去り、逆に怪物に説いて聞かされる場面があります。
この他にも潔白と有罪、光と闇といったことが脱構築されています。
また、この脱構築批評では中心的な意味がないことを否定することに主眼があるといえます。
例えばフランケンシュタインはチャールズ1世に同情する保守的な人物として描かれると同時に自由に思いをはせる急進的ともとれる描写もある。このようにフランケンシュタインの物語内では対立を深めることによって中心的意味の存在を否定しているといえます。

精神分析批評
精神分析では複数の人物の理論が紹介されていました。
まず、フロイトです。フロイトの考えの特徴としてエディプスコンプレックスがあります。これは父に代わって母親の愛を独占したいという男児の欲望のことをいいます。
次に紹介されたのがユングです。彼はフロイトが強調した人間の無意識と性との関係に異を唱えました。彼は人間の無意識には生まれながらにして民族や人類全体の記憶が保有されていると指摘し、それを集団的無意識と呼びました。集団的無意識によって受け継がれてきたものを原型と呼び、その中核をなすものとして、影、ペルソナ、アニマ、アニムスがあります。それぞれについて解説していると長くなりすぎてしまうので割愛します!
次はフレイザーの影響で生まれた神話批評です。これは個人や歴史を超えた人間経験の原型を文学作品のなかに探し当て分析しようとする批評です。これは少しプロップの理論と通ずる部分があるように感じました。
最後にラカンです。彼はフロイトの理論を発展させ、それに言語という新たな要素を加えました。彼は幼児の発達段階は言語との関係において「全エディプスコンプレックス段階」、「鏡像段階」、「エディプスコンプレックス段階」の3つに区別できるとしました。これ以上の説明は割愛させていただきますが、言語と絡めて分析したのがラカンの大きなポイントです。

4限

4限は土田さんがエドワード・サイードのオリエンタリズムについて発表してくれました。
オリエントと聴いてみなさんは何を思い浮かべるでしょうか?「オリエント急行殺人事件」を思い浮かべた人もいるでしょう。私が思い浮かべたのはエジプト、メソポタミアの地域です。なぜなら世界史の授業で古代文明を学習するときにでてきた言葉だったからです。しかし、サイードのオリエンタリズムはそんな単純な話ではなかったようです。この文章でのオリエントは東洋を表しています。よって我々の住んでいる日本も含まれることになります。この考えを簡単に述べると西洋が東洋に優位性を保つ思考です。例えばオリエントは自然とオリエントとなったわけではなく西洋との違いでオリエントに人為的に仕立て上げられたということができます。西洋はオリエントとの違いで自分たち自身を認識するのです。西洋と東洋、これは昔からある大きな二項対立です。二項対立にどちらか一方に優位性が生じてしまうというのは、デリダが論じた脱構築に通じてくる話かもしれませんね

さあ、これで私の今学期のブログは最後となりました。ブログを書くという作業は初めての経験でしたが、考えを整理できるのが良いところだと思いました。今学期思ったこととして、他のメンバーよりも圧倒的に作品に触れている数が少ないと感じました。経験不足であることを正直感じています。まずは力不足の自分を認めることから始めます。そして来学期に向けてやることは決まっています。とにかく作品を読みまくる!経験あるのみ!成長した自分を秋学期から見せられるように頑張ります!!!

少し長くなってしまいましたが、これで終わります。次は秋学期で会いましょう!

「いつかこの個性をちゃんと自分のものにして、僕の力でキミを超えるよ」

                            僕のヒーローアカデミア 緑谷出久



 

10期生第12回 映画でないと作れないもの、演劇でないと作れないもの

第12回のブログを担当します。中村です。ついに私の担当するブログは最後になってしまいました。一年半は長いようであっという間でしたね。

今回は、前回の続きから『映画の理論』の「歴史とファンタジー」を読み終えて、映画『2001年宇宙の旅』の分析を行いました。

続いて、『スクリーン・スタディーズ』の「スクリーン・プラクティスの再設計」を読んだのち、舞台作品である『バクマン。THE STAGE』の分析をしました。

まず、「歴史とファンタジー」では、歴史に関しては前回のゼミで発表を終えまして、過去の出来事を映画にすることで舞台性や有限性が生じてしまう点で良くないことと、それを緩和するには歴史から離れるか、むしろ歴史に忠実になるかという手法があることをみていきました。ファンタジーを扱う映画は、<カメラの現実>を超えた夢のイメージによる視覚的な経験を有していて、人々が渇望するのだということ、そして舞台的な手法によって確立されたファンタジーは、映画媒体の基本的な美的原理に反しているため、特別な潜勢力を見過ごしてしまうが、ファンタジーが幕間劇の機能を果たしたり、舞台性が誇張されたりすると<カメラの現実>を引き立てることをみました。

今回は、その続きからみていきました。まず、映画的な手法で確立されたファンタジーは、一般的には簡単な方法で作り出したものとして低い評価を受けますが、ファンタジーが遊戯的に可笑しさを引き出す場合は、<カメラの現実>から逸脱せずに映画的性質を得ることができます。次に、物理的現実の観点から確立されたファンタジーは、超自然的なファンタジーの出来事には曖昧になり、<カメラの現実>に不随する現象であれば映画的になります。
様々な場合に分けてみていくと、主にファンタジーを主題的に扱うと映画的でないという評価を下されるのだとわかります。

これを踏まえて、映画『2001年宇宙の旅』をみていくと、この映画がつくられた1968年から未来を描いた作品になっていて、2025年を生きる我々からするとファンタジーではないシーンもいくつか存在しています。けれども、メカメカしい宇宙船や、中世的な調度品と白く発光する床を組み合わせた部屋など、現実に属しているが異常さを感じます。これは舞台装置を用いて舞台性によって超自然的な現象が確立されているといえるでしょう。

一方、この映画は冒頭の猿のシーンから一人の男が老いて新たな生が出現するまでの異次元の時空の流れを数時間に凝縮しているともいえます。このような時空のゆがみや異常な速度を実現させているのは、カメラを用いているからです。例えば、カメラの背後にいると思った男性は角度を変えた次の瞬間消えていなくなってしまいます。このようなカメラで撮影をした映像媒体でなければ実現しえない事象を描いていることから、映画でしか表現しえない作品であるとも考えられます。

次に、「スクリーン・プラクティスの再設計」では、スクリーンを用いた映像表現だけでなく、物理的なオブジェクトや装置を使うようになったことなどを取り上げました。ただこの技術は、近未来的な表現ではありますが、技術は過去のものを使用しているそうです。これからのスクリーンの関わりでは、装置の設計や開発が進み、映像・身体・装置の再設計が重要になっていくのだと考えられます。

これを踏まえて、『バクマン。THE STAGE』を見ていくと、通常使用されるようなスクリーンに映像を投影するだけでなく、舞台に設置された水に映像が投影されたり、漫画のコマが書かれた衣装を着た俳優の身体に投影されたりするなどの特徴がみられます。また、スクリーンに投影される映像自体も通常とは異質で、原作の漫画のシーンをそのまま使用したり、他の漫画作品の一部を使用したりしています。これらの表現は非常に特殊で独自的なものに見えますが、演技自体は古典的でべたなものなのだそうです。これらから、この作品は漫画という二次元の素材を用いていることで一見スクリーンに意識がもってかれそうになりますが、水や特殊な衣装によって演じている人間の身体性に注目させる効果があるのではないかと考えました。そのため、俳優の演技は古典的なものが採用されているのではないでしょうか。

第12回では、2つの作品を分析することにしましたので、振り返ってみればとてもボリューミーな回だったなと思います。個人的には、どちらの作品もゼミで取り扱うことになってから視聴したのでこれほど分析しがいのある、複雑な要素が詰め込まれた作品に出会えてよかったと感じております。

冒頭にも書きましたが、これが私にとって授業の様子を記す最後のブログになりそうです。ゼミの活動としては、合宿も今期のレポートも卒論もありますのでこれからも精進してまいりたいと思います。それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!

11期生第10回 テクストと共同作業する読者になれているか。

皆さんこんにちは、今回のブログを担当します、土田麻織です。

気付けばもう第10回、これを書いている今は7月に突入してしまった(書き終えるころには7月も中盤に差し掛かりました、、、汗)ので、まもなく春学期のゼミも終わってしまうようです。

そうなるとちらついてくる期末レポートの数々、1か月後の自分がきちんとやり切っていることを願って、3週間前の授業についてまとめていきたいと思います。

前座

今回の前座は私が担当して、ARTMSという韓国のガールズグループの「Icarus」というミュージックビデオを取り上げました。

本当はARTMSの「Birth」という楽曲がミュージックビデオともに大好きで、これを紹介しようかなと検討していたのですが、直前にIcarusのMVが公開され、14分越えのcinema Ver.という超大作であったのでこれだ!と思い今回の題材を決めました。

詳しくは割愛しますが、神話モチーフの作り込まれた世界観は圧巻なので是非見てみてください。

ちなみに私が紹介しかけたBirthはMVも曲も不穏な雰囲気でゴシックホラー?のようなアイドルには珍しい楽曲でありながら素晴らしい作品なのでこちらもぜひ見てみてください。

それではこの辺りで授業内容に移ろうと思います。

3

ジャンル批評、読者反応批評

3限の担当はジョウくんでした。

ジャンル批評

ジャンル批評とは、その名の通りジャンルに関連する諸問題を扱う批評で、隣接するジャンルと比較することでジャンル構造を分析することが出来る手法です。

今回の章では、『フランケンシュタイン』は複数のジャンルに分類出来ると紹介されています。前回、様々な間テクスト性があることを学んだのでこれは当然のこととも言えるでしょう。以下に取り上げられていたジャンルをまとめてみます。

・ロマン主義

自我や個人の経験、無限なるものや超自然的なものを重視する思潮。

ロマン主義文学としては、自然の原始的な力や、人間と自然の精神的交流に対して鋭い直感を示すものが特徴として挙げられる。

『フランケンシュタイン』では、恐怖、無限なるもの、超自然的なものがテーマそのものであり、旅や幼少期の回顧、愛の挫折、追放なども代表するモチーフである。

・ゴシック小説

本来の目的は「留まることのない恐怖によって、読者の血を凍らせること」であり本来は「逃れようのない不安」をモチーフにしている。

『フランケンシュタイン』では恐怖を主題に不気味な描写や陰惨な出来事など、ゴシック小説風の道具がふんだんに使われている。また、フランケンシュタインと怪物の運命が同一化してくることから、分身の主題が浮かんでいる。

・リアリズム小説

人生を客観的に描写して、物事をあるがままの真の姿で捉えようとする芸術上の信仰。人間を個としてのみならず人間関係において描く特徴がある。

出来事に蓋然性を与えようとする作者の態度が『フランケンシュタイン』には見られる。

・サイエンスフィクション

通称SF 空想上の科学技術の発展に基づく物語。科学によって想像されたものが予期せぬ結果を招くことはSFお決まりの筋書きである。

新しい生物が製造されるという新奇なアイデアと結末から『フランケンシュタイン』は最初の本格的なSFとして位置付けられる。

このように紹介されていました。

ここまで読んで、ジャンルを分類してそこから何ができるのだろう、と考えましたが、先生がしてくださった「レンズの入れ替え」の例えが分かりやすかったです。Aのレンズを入れた時ある映画はA‘と見えますが、Bのレンズを入れた時B‘という新たな一面を見ることが出来ます。

ジャンルというレンズを入れ替えることでその作品の新たな面を知ることが出来るのです。

読者反応批評

続いて読者反応批評です。

こちらはテクスト自身が意味を持つ主体ではなく、読者に読まれることによってテクストが存在する考え方です。読者のテクストに対する異なる反応に着目したり、テクストが読者に与える影響に焦点を当てたりする手法です。

この場合の「読者」とは、テクストに活発に関わり、テクストとの共同作業によって意味を生産する存在です。読者はテクストを通して、自分自身を象徴化して再現するのです。

文学表現は「修辞的な示し方」と「弁証法的な示し方」が存在していて、読者反応批評は、読者を刺激して自分で真実を見つけようと挑みかける後者を研究対象としています。

ドイツのヴォルフガング・イーザーは特にテクストに含まれる空隙や空白の文学的価値を指摘して、読者はこれらを埋めようとするため、そこに読者を刺激する働きがあると述べています。

読者反応批評を『フランケンシュタイン』に当てはめると、まずは作中の「読む」シーンに注目することが出来ます。物語内の読書シーンでは登場人物の反応と同じテクストの自分の反応を比較します。

また、手紙を読むという行為からも分析することが出来ます。書簡体形式の小説には「含意された読者」が想定されていて、物語の受け手の立場に立って、読者はその手紙を読むことが出来るのです。

そして入れ子構造のテクストは、物語の中心部と手紙の不在の受け取り手との外側の余白との間を読者に移動させる効果があります。つまり、不安定な語りの枠組みによって、読者は反応を促されつつ、テクスト内に範囲を位置付けられることはないため、押しつけ構造に反抗しながら、自らの読みを生み出すのです。

このようにして、読者はテクストの境界を超える強力なエネルギーを持っている、と言えるのです。

4限

ジャック・デリダ『根源の彼方に−グラマトロジーについて』

4限の担当は藤田くんでした。

今回の課題文は、ページ数は少ないものの難解で何度読み返しても意味をつかみきれなかったので、いろんなものを参考にしてみました。

プラトンやヘーゲル、ソクラテスといった哲学者たちはパロール、つまり音声言語を中心とする音声中心主義的な考え方をしていました。書き言葉よりも話し言葉が先行すると考えで、パロールを現前させるものは意識に依存した「存在」であるということです。

ジャック・デリダはこれを否定します。パロールを支える「存在」は不安定なものであり、一概にパロールが優れているとは言えない、ということです。

本文では音声中心主義を脱却しようとした「新しい事態」について、努力があっても陽の目も見ることが出来ない、統一を決して決定することが出来ない、領域の限界を決めることも出来ない危険性があると述べられています。

デリダは、パロール(音声言語)とエクリチュール(文字言語)はどちらが優れているのか、を論争することに疑問を投げかけ、グラマトロジーと言う概念を提示しました。これは、音声言語が文字言語に先行しているのではなく、思考が文字言語に先行したものであるということを意味します。ここに音声言語と文字言語の脱構築がみられるのです。

本文に「未来は、構成された正常性とは絶対的に縁を切るものであって、それゆえ、一種の畸形としてしか自身を予告し現前させることができない。」という文があり、この「畸形」について議論を交わしました。

「畸形」以外にも差別用語は多々ありますが、これらは「正常」という概念があるから、誕生して使われている言葉なのです。かといって全てをひとくくりにしてみんな同じだよね、とすることもよくないのです。

蔑まれてきたエクリチュールに光を当てつつ、いわゆる畸形側が声を上げ続けない限り「正常」と言う概念は「正常」のままであるし、対等にもなれません。

このようにして難航した議論は終着しました。

この話を聞いて、私は朝井リョウさんの『正欲』を思い浮かべました。じっくりと理解してこの理論を使えるようになりたいと思います。

以上で今回のブログを締めたいと思います。

次週は春学期最後のゼミです!早い!そしてわたしは最終回の授業もブログ担当です!なんと!

ここまでお読みくださりありがとうございました。春学期最終回のブログでお会いしましょう~

10期生第10回 映画に関わるコードが導くもの

第10回のブログを担当します、中村です。このブログの担当も、残すところあと2回となりました。あっという間に春学期が終わってしまいますね。

今回のゼミでは、第9回の続きからで『映画理論講義』の「映画と言語活動」という章の一部分を読みました。その後、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の分析を行いました。発表はフェンさんが担当してくれました。

続いて、第10回の発表である、『映画でわかるカルチュラル・スタディーズ』の「セクシュアル・サブカルチャー」という章を途中まで読み進めました。こちらの発表担当は山崎さんです。

まず、「映画と言語活動」に関してですが、ここでは映画の言語活動において多様な表現素材が組み合わされているということが示され、それらの素材と結びつく映画に固有なコードと非固有なコードが映画には存在しているそうです。これを踏まえて映画を分析すると、ラストのキスシーンをつなげたフィルムを見るシーンが、特徴的な音楽という映画に非固有なコードと、独特のフィルムのキズつきという映画に固有なコードから、それを見ている主人公と観客がノスタルジックな感傷にひたる時間を演出しているのだと分析できます。

次に、「セクシュアル・サブカルチャー」では、クィア・サブカルチャーの分析手法が書かれていましたが、今回は途中までしか読むことができませんでした。そこでは、ヘテロセクシュアルの白人男性が特権的に優遇されていることが書かれ、それに対抗する闘いとしてクィア・サブカルチャーが取り上げられていました。これは、覇権文化に対しての抵抗や拒否の語りを表現する集団です。特徴として、覇権的集団に取り込まれるために運動するのではなく、法益非剝奪者の立場にいます。後半部分では、マドンナを事例としてアイデンティティカテゴリーからの分析手法を見ていくことになります。

今回は前回の続きからのスタートでしたので、ブログの内容は少し短めですが以上で第10回のブログを終わります。

11期生 第9回 本を読む行為とは何か?

こんにちは!就活、バイト、そしてゼミに追われて、思考停止の状態になったジョウです。

最近いきなり暑くなりましたよね。 この間まで肌寒かったのが嘘みたいで、身体がついていきません…!そんな酷暑の中、僕が必死に取り組んでいた就活で、忘れられない体験をしたわけです。

みなさんも経験があるかもしれませんが、グループディスカッション(GD)って独特の緊張感がありますよね。先日、とある外資系企業の選考でGDに参加したときのこと。

他の人の意見に対してどう思うか聞かれた、あるグループメンバーがこう言ったんです。

「アグリーです!」

え、アグリー!? 突然の横文字に驚きつつも、「ここは普通に『賛成です』で良くない!?」と、心に思ったんですが、外資は全部そういう感じでしょうか?

その後も「コンプリヘンシブの考え」とか「ミッシー」みたいな横文字に浴びて、語彙力がボロボロであることを強く意識しました。もっと勉強しなきゃと痛感した一日でした。

ここからはゼミの真面目な話に入りたいと思います!

前座

今回の前座担当は私でした。

前回の前座と同じようにまた映画を用意してきましたが、全く別ジャンルの映画なのでぜひ見ていただきたいと思いますが、まず簡単な紹介させていただきます。

今回取り上げた作品は『インサイド・ルーウィン・デイヴィス/名もなき男の歌』です。劇場公開は2014年、当時台湾で初公開で観ました。私は元々ギターやアメリカンカルチャが好きだったので、すぐ主人公の物語に共感できました。希望に満ちた1960年代のニューヨークに、アメリカンドリームが実現できた人と実現できない人がいました。その物語を、音楽の形で表現するのはこの映画の特徴です。ぜひチェックしてほしいのですが、本作のサウンドトラックも非常に素晴らしいですので、曲でもぜひ楽しんでいただけたらと思います!

3限 結末、伝統的批評、透明な批評

3限は、土田さんが『批評理論入門』について発表してくれました。テーマは「結末」「伝統的批評」「透明な批評」でした。

まず、「結末」の部分です。みなさんは小説を読むとき、どこに一番ワクワクしますか? 私はやっぱり、散りばめられた伏線が回収されて、物語が結末にたどり着いた瞬間が、最高の醍醐味だと感じます。

発表でもあったように、この「結末」には大きく分けて2つの種類があるそうです。

開かれた結末 はっきりとした結末を描かず、その後の展開や物語全体の解釈を、読者の想像に委ねるタイプの結末です。例えば、 映画『インセプション』のエンディングが有名です。あのコマは倒れたのか、それとも…?と、観た人それぞれで解釈が分かれるような終わり方です。「主人公は、この後どうなったんだろう?」と考えさせられる余韻が残ります。

閉じられた結末 物語の謎や問題がすべて解決され、明確な終わり方が示される結末のこと。一番イメージしやすいタイプは、「めでたし、めでたし」ではっきりと完結するものです。 (発表にあったように、ハッピーエンドや悲劇的な結末、意外な結末なども、このカテゴリに入ります)例えば、鬼を退治して宝を持ち帰る桃太郎や、犯人が明確に示されるミステリー小説などが挙げられます。

次に、「伝統的批評」と「透明な批評」です。ここから、『批評理論入門』はようやく「批評」の部分に入っていきます。

伝統的批評は一言でいうと、「この作品を本当に理解するためには、作者がどんな人で、どんな時代に生きていたかを知ることが重要」ということです。発表によると、その考え方では、作品は「作者が何かを伝えたくて作ったもの」と解釈できます。学校の国語の授業ではよく、「この一行に込められた、作者の当時の心境を答えなさい」といった問題は結構あったはずです。あれは、伝統的批評に近いアプローチに近いです。

一方、透明な批評は、作品世界と読者世界の間に存在する壁がないように、テクストにフォーカスして論じるスタイルです。それに対して不透明な批評は、テクストを客体として見て外側に立って分析する方法を指します。ここも例を付け加えると理解しやすいかもしれません。例えば、『走れメロス』という作品を上記の二つの批評方法で分析していきますと、

透明な批評:(心理描写)「ああ、もう間に合わないかもしれない…」心にある疑念や人間的な脆弱さが何もメロスの足を止めようとする。その葛藤は、まるで自分自身のもののように胸に迫ってくる。→読者がメロスの気持ちになって、物語を体験できるような感じです。

不透明な批評:作者が本作を執筆した背景を考えると、彼自身の友人関係や裏切りに対する葛藤が投影されているという指摘もあります。このように、本作は単なる友情物語としてだけでなく、作者の思想や当時の社会状況を反映したテクストとして多角的に分析することが可能です。→このように、作品を一歩引いた場所から、作者の背景などを手がかりに分析するのが「不透明な批評」の一例です。

(個人的には「不透明な批評」に対して、あれ?と思ったのが、「伝統的批評」と似ていると思いましたが、「伝統的批評」は、作品を客体として外から分析するという点で、広い意味では「不透明な批評」の一種と考えることもできそうです。)

4限 「読む」が物語を完成させる!イーザー「行為としての読書」

4限にて、井上さんはヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』発表してくれました。

普段、私たちが何気なく読書の行為を繰り返しているかもしれないのですが、その時、読者としての我々は頭の中では一体何怒っているんだろう?という深くて面白いテーマでした。

まず、イーザーの理論のビックリするような結論から申し上げますと、 それは、「テクストは、読者が意味を作り上げて、はじめて完成する」っていう考え方です。

つまり、本棚に置かれているだけでは、物語はまだ「未完成」の状態。読者がそれを手に取り、ページをめくり、頭の中で意味を組み立てていく作業を経て、ようやく一つの作品として完成するらしいです。授業の議論で先生がご提示した例はすごくわかりやすかったです。

同じ安部公房の小説を読んでも、僕(ジョウ)が受け取るものと、先生が受け取るものはきっと違います。それは、僕と先生という「受容体(読者としての異なる考え方)」が違うからです。それぞれの期待や記憶が違うことで、最終的に頭の中に生まれる作品のイメージ(=相関体)も、全く別のものになるのです。

そして、井上さんも「理解に自信がない」と問題提起してくれた 、もう一つのキーワードが「遠近法」。

これも、授業の議論で「なるほど!」になりました。

これは元々絵画で使われる美術用語でして、 二次元の平面に、あたかも三次元の奥行きがあるように見せる技法らしいです。

これを文学に持ってきたのが、イーザーの面白いところではないかなと思いました。 僕たちはただ平面に並んだ文字の列を目で追っているだけなのに、読み進めるうちに、頭の中で登場人物が生き生きと動き出したり、性格が見えてきたり、物語の世界が立体的に「膨らんで」見えたりしますよね。

二次元の文字テクストから、三次元的なイメージや世界が立ち上がってくる不思議な感覚。これを、イーザーは「遠近法」と呼んだわけです。読者は一つの視点に留まらず、テクスト内の様々な「遠近法」を移動しながら、作品世界を構築していきます。

読書って、ただ文字を受け取るだけの受動的な行為ではなく、読者である我々が積極的に意味を作り上げていく、すごくクリエイティブな「行為」なんだなと、改めて感じました。

ということで、今回はこのくらいにして終わりたいと思います。また次回でお会いしましょう!