11期生 第7回 見慣れた事物に新たな光を

こんにちは!
第7回目のブログを担当します、藤田雄成です。

今回は私の2回目のブログですね。授業から随分時間が経ってしまいました。次のブログ担当を待たせることになるので、できるだけ早く書けるように頑張りたいと思います!(井上さん、ごめんなさい汗)

では早速、授業内容に入っていきます。

前座

今回の前座は私が担当しました。私は今回「読書で風を感じる」と題しましておすすめの本を紹介しました。紹介したのは「一瞬の風になれ」佐藤多佳子、 と「風が強く吹いている」 三浦しをん、です。
どちらも陸上部をテーマとした作品で前者は高校の短距離走を主に扱っていて、後者は大学の箱根駅伝をテーマとしています。この本を読んだきっかけは私が陸上部だったからです。特に「一瞬の風になれ」は、主人公がサッカーから陸上に転身をしている過程が私と重なって、非常に熱中して読んだことを覚えています。陸上競技に関する知識があったほうがより楽しめるとは思うのですが、知らなくても全然おもしろいのでぜひ読んでみてください!

3限

3限は井上さんが批評理論入門の「反復」「異化」について発表してくれました。

反復

この章では反復についての説明の後にフランケンシュタインの物語内でどのように反復が用いられているのかが述べられています。
まず、フランケンシュタインでは「死」が反復されています。たしかに物語を見てみると多くの死があり、キャロライン以外はすべて悲惨な死を遂げています。ここで内藤先生の反復をみることも大事だが
その反復から外れたものをみることも重要という指摘があり、なるほどなと思いました。例えば上記であげた死について、なぜキャロラインだけは悲惨な死に方をしないのか、という問いを考えてみると面白いかもしれません。
また、死という出来事だけでなく、話の筋や人物の境遇などにおいても反復が見られます。さらに物語単位でなく、もっと小さな言葉の単位でも反復がみられます。例えばフランケンシュタインでは「破壊」、「運命、「魂」、「敵」、「創造」、「神秘」などの言葉がしばしば反復されています。

異化

この章では異化についての説明の後にフランケンシュタインでの異化がどのように用いられているのかが述べられています。
実は前に4年の先輩方が一番議論が難しかったのが異化、といっていたのでびくびくしていました笑 
実際に見てみると、あれ、簡単じゃね?と思ったのですが、先輩方の言った通りそううまくはいかず…
まず、異化という概念についてですが、普段見慣れた事物からその日常性をはぎ取り、新たな光を当てることをいいます。この概念について私はかなり理解しているつもりだったのですが、授業内で先生がおっしゃった話をきいてまだまだ理解が浅かったと思い知らされました。その話とは一見異化になりそうに思ったものでも、多くの人が事物に新たな光をあてはめられなければ、それは異化とはいえないのでは、ということです。文章で書くとより難解になっちゃった気がします笑。でもそのくらい奥が深い概念ということですね。
この章ではさらにフランケンシュタインでは怪物の語りによって人間が異化されることや言葉も生かされることが述べられています。

4限 ヴィクトル・シクロスキー 「手法としての芸術」

4限は土田さんが発表してくれました。
今回の文章は個人的に読みやすかったのですが同時に異化というものの奥深さを知りました。
まず、この文章の始めではポテブニャーのイメージなくして芸術は存在しないという考えについて述べています。そしてそれが本当に真であるのかという問いが立てられ文章が展開していきます。今回の議論でまず、話題になったのが創作エネルギーの節約についてです。創作エネルギーの節約とはエネルギー消費を最小限に抑え最大限の効果をもたらすことの追及です。つまりこの節約がされないと異化というものがあらわれてくることになります。
この文章では詩的言語と実用言語の違いも説明しており、詩的言語は実用言語などとは違い、知覚を自動現象から引き出すために創造されたものであるとしています。このように自動化されたものを呼び起こし、事物を直視する(異化によって)ということが詩、または芸術にとって重要いうことが述べられています。
私はこの文章を読んでハッとさせられました。なぜなら周りにある事物を見ているようで実は見ていなかったと気づいたからです。そんな当たり前になっているものを捉え直すことが芸術の素晴らしいところの一つだと感じました。

やっぱり授業をやってから時間が経ってしまうと内容を思い出すのも大変になってしまいますね。冒頭にも書きましたが授業が終わったらできるだけ早く書けるようにしたいです。

最後は有名なあの映画の悪役の言葉で締めたいと思います。
では今回はこのへんで!

「争い続きのイタリアではルネサンスが開花した。スイスでは500年の民主主義と平和で鳩時計どまりさ」
                              第三の男 ハリー・ライム

10期生第8回 その出来事は因果か偶然か

第8回のブログを担当します。中村です。
今回は、第7回でも読んだウォーレン・バックランドの「フィルムスタディーズ入門」から、『第二章 映画の構造ー物語と語り口』を勉強し、映画『パルプ・フィクション』について分析をしました。

まず、「フィルムスタディーズ入門」では映画作品のマクロ構造を見るべく「物語」と「語り口」という2つのカテゴリーがでてきます。
「物語」は登場人物にとって動機づけられた原因-結果の論理に基づいた出来事に構成されているといわれています。もちろん、原因と結果が全てではなく、単なる描写的なショットも存在していますが。
次に「語り口」は制限された語り口と全知の語り口の2つがあるのです。制限された語り口は一人の登場人物に結び付けられており、人物と同じだけの情報のみが観客に与えられます。それはその人物が見たもの、聞いたものを含めてその人が知り得た出来事すべてです。しかし、その人が知らない情報は観客にも与えられることはありません。一方、全知の語り口は、カメラが自由に登場人物を飛び移るため、一人の登場人物のもつ情報よりも観客の知る情報の方が多くなります。
全知の語り口が採用される映画作品の観客は、次に何が起こるかを予測できるためむしろ登場人物たちがそれに対してどう反応するかを楽しむことができるのだそうです。

しかし、この2つの語り口の理論は曖昧で、果たしてこの定義が多くの映画に応用できるかは疑問が残りました。

次に、映画『パルプ・フィクション』については、出来事が直線的に並べられていないが構造化されている、と述べられています。そのため、原因と結果の論理は時系列順に並べられる必要はないのだとも言っています。

我々は、『パルプ・フィクション』に関して、この映画は因果関係によって出来事が繋がっていないのではないかと考えています。確かに、バラバラにスクリーンに映し出される出来事を時系列に直す際に、因果によるつながりを見出してしまいそうになります。しかし、男女の強盗と2人の殺し屋がレストランで出会うのも、時計を取りに戻ったアパートやそこからの帰り道で敵対する相手に会うのも、全て偶然の出来事なのではないでしょうか?さらに『パルプ・フィクション』にはいくつかの出来事が時系列をバラバラにして配置されていますが、その出来事の関係はすべて因果関係と言えるのでしょうか?例えば、殺し屋たちがレストランで強盗に出くわすことはその後の展開に関わることがないのです。ボスの妻とヴィンセントが過ごした夜も。確かに殺し屋が足を洗うことを決めてそれ以降出てこないことはある種の原因と結果の関係といえるでしょう。

この映画が出来事をバラバラに見せているのはなぜでしょう。それは、人々が物事に対して原因やそれに伴う結果を求めていることを揶揄する意図があるのではないでしょうか?
今日はいい天気だからきっといいことが起こる。髪が上手く巻けたからいいことが起こる。そう感じたことがあるかもしれませんが、天候やヘアスタイルの調子は試験の結果にも親の機嫌にもなんら関わらないのです。
もしそんな出来事に何かの繋がりを見出したならそれは奇跡かもしれません。

10期生第6回 映画を物語の内容から分析する

第6回のブログを担当します、中村です。今回はベトナムからの留学生のフェンさんが発表を担当してくれました!
読んだのは、ジークフリート・クラカウアーの「映画の理論 物理的現実の救済」から『内容の問題』という章です。その後、黒澤明の映画『羅生門』を分析しました。

ここでは、映画なストーリーに着目して、映画的な物語の内容、主題、モチーフがどのようなものか検討しています。
まず、映画的といえない内容は、映像によって伝えられない要素がある内容で、概念的思考と悲劇的なものがあるといいます。概念的思考は、台詞に頼るなど言葉による伝達が求められる場合です。悲劇的なものは精神的な出来事のためそれを伝えるには映像だけでは難しいです。
次に主題とモチーフの観点では、主題は物理的現実の諸要素を描いている場合は映画的といえますが、モチーフにも影響されるといいます。
そこで、映画的なモチーフが紹介されますが、それらは1.生の流れ、2.探偵活動、3.ダヴィデ-ゴリアテといわれています。生の流れは現実に生きる我々が経験する人生の経過であり、ドキュメンタリー映画で特徴的です。次に探偵活動は、物理的現実を参照して真相究明の過程を描くために映画的モチーフといえます。ダヴィデ-ゴリアテは、弱者が強者に打ち勝つ力を描くことであり、あらゆる小さくて弱いものにインパクトを与えてクローズアップという映画の手法に類似しています。

これらを踏まえて、映画『羅生門』をみていきます。これは芥川龍之介の「藪の中」を元にした作品で中世日本を舞台にした犯罪物語です。
羅生門で男たちがある事件について話しています。彼らが話しているのは森の中で侍が殺された事件に関する証言です。男たちが羅生門に来る前に関係者たちは検非違使の前で事件に関してみたことを語り、それを再現する形で物語が進んでいきます。山賊、木こり、侍の妻といった関係者に加えて、死んだ侍自身も巫女に霊を呼び出して森での出来事を証言します。しかし、それぞれの証言の食い違いから真相はわからないまま物語は進み、男たちは羅生門で赤子を拾います。

この作品を物語の内容のモチーフでみていくと、侍の死という事件の真相を究明しようとする探偵活動の物語であると考えることができましょう。それは非常に映像的な要素を含んでおり、映画的です。その上、侍の死と赤子という新たな生の誕生が含まれており、生の流れを感じずにはいられません。単純に時間の真相を追う、探偵活動だけを描くのではなく、生の流れを取り入れることで、より現実をとらえた映像作品になっていると考えられます。

モチーフの問題から検討することで、映画における物語内容のレベルでも映画を分析することができました。今学期の学習では、形式のレベルでの分析が比較的多かったので意義深い回だったと思います。選んでくれたフェンさんありがとうございました!