11期生 第8回 個性とは何か

こんにちは!暑くなってきましたね。

ゼミにサークル、バイトに就活という四足歩行で生活する日々に、心身が悲鳴を上げ始めている井上紬です。

そんな中で迎えた今回の授業ですが、4つのうちのひとつ、就活に頭を悩ませる私に新たな光を投げかけてくれる考え方に出会いました。

文学の批評理論を学んでいたはずなのに気がつけば自分の人生観にまで影響を与えられていたなんて、このような経験ができるのがこのゼミの面白いところですね。

今回はその影響を受けた考え方、「インターテクスチュアリティ(間テキスト性)」についてご紹介します。

ジュリア・クリステヴァ「インターテクスチュアリティ(間テキスト性)」

3限にて 廣野由美子著『批評理論入門』を読み解き、この考え方を解説してくれたのが藤田くん、

4限にて ジュリア・クリステヴァ著『セメイオチケ1』を読み解き、解説してくれたのがジョウくんでした。

ふたりとも、わかりやすく発表してくれてありがとう!

ジュリア・クリステヴァはブルガリア出身の女性で、フランスを拠点に現在も活躍中の文学理論家です。そんな彼女がまず主張したことは、「どのようなテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストは全て、もう一つの別なテクストの吸収と変形にほかならない」ということ。

これはすなわち、存在するすべてのテクストは、たとえそこに個として存在しているように見えても、必ず他に存在するテクストから影響を受けて存在しているということです。そのテクストとテクストの関連性を、クリステヴァは「インターテクスチュアリティ(間テクスト性)」と呼びました。

英語にすると”Intertextuality” と表記されますが、この表現からクリステヴァが、テクストとテクストの連関に “textile”(織物)の特性を見出だしていることがわかります。

彼女は織物でいう横の糸を「共時態」と定義し、縦の糸を「通時態」と定義しました。「共時態」では、テクストが書く主体と受け手との間でやりとりされることを指摘し、「通時態」では、テクストが同時代や先立つ文字資料に向けられていることを指摘しました。つまり主体と受け手と引用される文字資料とがあって、あるテクストは成り立っているのだと主張したのです。

ここで具体例をひとつ挙げてみます。たとえばAという漫画が出版され、「なんだこの漫画、新しい」との評価を受けてヒットしたとします。クリステヴァの主張とは、それがどんなに「新しい」と評価を受けていたとしても、実はその作品に含まれる要素自体は過去作品にも通じるような普遍的なもので、ただAの作者がその要素たちを新しい組み方で織り直しているからそれがオリジナリティとなって評価されている、というものです。

つまり、どんな作品も作者が目にしたものや体験したことが無意識下で引用された織物であり、ただ作者によってその織り方が違うから個々の作品として成立する、というのがクリステヴァの考え方なのです。

私はこの考えに触れたとき、作品だけでなく人間にも通用するのではないかと思いました。

就職活動についてまわる「あなたの個性や強みは何ですか?」という質問。実際にこの形で訊かれることもあれば、【自己PR】という形で回答を求められることもあります。この質問にどう答えるかと考えていると、私はよくこんな思考に行きつくのです。

「こんな人、ほかにもいる気がする。私らしさってなに?」

【ウェイクボードで日本一周】だとか、一発で目を引くエピソードがあれば話は変わるかもしれませんが、たとえばアニメ好きを語るにしたって私よりアニメを観ている人はごまんといるはずだし、作品を観て友人と語り合うことが好きですと言ったって今やそんな人は世界中に数え切れないほどいるはずです。「ほかと差別化」なんて言葉がありますが、そのようなことができる個性なんて私にあるのでしょうか。

もしかするとクリステヴァは、そんなものはないというかもしれません。あなたが触れた作品は必ず誰かも触れているはずだし、あなたが経験した喜びは必ず誰かも経験しているはずです。そのようなものは個性にはなり得ません、とぶった斬られてしまうかも(笑)

でも彼女は没個性的であることに肯定的です。あの人もあの人も、既にあるものの「引用のモザイク」だと言い、あなたと同様彼らの持つものにオリジナリティはないと言います。けれども、オリジナリティは確かにある。それは、持つものそれ自体ではなく、持つもの同士の組み合わせ方、織り成し方だと彼女は言うのではないでしょうか。「私」それ自体がテクストであり引用の織物だと考えれば、すべてが「ほかと差別化」されていく感じがします。自分には個性がないなんて、案じることはないのです。

授業の振り返りは以上となりますが、最後に恒例のイチオシ作品紹介をして、今回のブログは終わりにしたいと思います。今回紹介する作品は小説です。

「真珠王の娘(藤本ひとみ、2024)」

舞台は終戦間際の日本。自分の信念を大切にする少女が、その時代にはばかっていた強大な権力や理不尽な差別に立ち向かい、自分の道を切り拓いていく物語です。

本当はいろいろな側面から作品の魅力を掘り下げていきたいのですが、ここまで読んでくださっている方のお時間も頂戴していますし、今回はキャラクターに焦点を絞ってお話させてください。

あえて普遍的な言い方をしてしまうなら、この作品は三角関係が主軸のラブストーリーです。しかし、トライアングルの紅一点である少女・水野冬美が強く賢くエスプリの効いた返しができるために、食傷気味になることがありませんでした。むしろおかわりが欲しくなるようなやりとりの数々です。それに、彼女を取り巻くふたりの男性も魅力的な雰囲気をまとっています。名前は早川薫と火崎剣介。それぞれ品行方正と素行不良といったところでしょうか。ただどちらもこの四字熟語には意味を託すことができない一面を持っているので、どちらの男性により惹かれるか、読んだ人にアンケートを取ってみたいです。

さて、思い立ったが吉ということで、さっそく布教用にもう一冊買ってきました!明日のサークルでまず1人目に貸す予定です。今夏の自由研究の結果やいかになるでしょうか?

11期生 第7回 見慣れた事物に新たな光を

こんにちは!
第7回目のブログを担当します、藤田雄成です。

今回は私の2回目のブログですね。授業から随分時間が経ってしまいました。次のブログ担当を待たせることになるので、できるだけ早く書けるように頑張りたいと思います!(井上さん、ごめんなさい汗)

では早速、授業内容に入っていきます。

前座

今回の前座は私が担当しました。私は今回「読書で風を感じる」と題しましておすすめの本を紹介しました。紹介したのは「一瞬の風になれ」佐藤多佳子、 と「風が強く吹いている」 三浦しをん、です。
どちらも陸上部をテーマとした作品で前者は高校の短距離走を主に扱っていて、後者は大学の箱根駅伝をテーマとしています。この本を読んだきっかけは私が陸上部だったからです。特に「一瞬の風になれ」は、主人公がサッカーから陸上に転身をしている過程が私と重なって、非常に熱中して読んだことを覚えています。陸上競技に関する知識があったほうがより楽しめるとは思うのですが、知らなくても全然おもしろいのでぜひ読んでみてください!

3限

3限は井上さんが批評理論入門の「反復」「異化」について発表してくれました。

反復

この章では反復についての説明の後にフランケンシュタインの物語内でどのように反復が用いられているのかが述べられています。
まず、フランケンシュタインでは「死」が反復されています。たしかに物語を見てみると多くの死があり、キャロライン以外はすべて悲惨な死を遂げています。ここで内藤先生の反復をみることも大事だが
その反復から外れたものをみることも重要という指摘があり、なるほどなと思いました。例えば上記であげた死について、なぜキャロラインだけは悲惨な死に方をしないのか、という問いを考えてみると面白いかもしれません。
また、死という出来事だけでなく、話の筋や人物の境遇などにおいても反復が見られます。さらに物語単位でなく、もっと小さな言葉の単位でも反復がみられます。例えばフランケンシュタインでは「破壊」、「運命、「魂」、「敵」、「創造」、「神秘」などの言葉がしばしば反復されています。

異化

この章では異化についての説明の後にフランケンシュタインでの異化がどのように用いられているのかが述べられています。
実は前に4年の先輩方が一番議論が難しかったのが異化、といっていたのでびくびくしていました笑 
実際に見てみると、あれ、簡単じゃね?と思ったのですが、先輩方の言った通りそううまくはいかず…
まず、異化という概念についてですが、普段見慣れた事物からその日常性をはぎ取り、新たな光を当てることをいいます。この概念について私はかなり理解しているつもりだったのですが、授業内で先生がおっしゃった話をきいてまだまだ理解が浅かったと思い知らされました。その話とは一見異化になりそうに思ったものでも、多くの人が事物に新たな光をあてはめられなければ、それは異化とはいえないのでは、ということです。文章で書くとより難解になっちゃった気がします笑。でもそのくらい奥が深い概念ということですね。
この章ではさらにフランケンシュタインでは怪物の語りによって人間が異化されることや言葉も生かされることが述べられています。

4限 ヴィクトル・シクロスキー 「手法としての芸術」

4限は土田さんが発表してくれました。
今回の文章は個人的に読みやすかったのですが同時に異化というものの奥深さを知りました。
まず、この文章の始めではポテブニャーのイメージなくして芸術は存在しないという考えについて述べています。そしてそれが本当に真であるのかという問いが立てられ文章が展開していきます。今回の議論でまず、話題になったのが創作エネルギーの節約についてです。創作エネルギーの節約とはエネルギー消費を最小限に抑え最大限の効果をもたらすことの追及です。つまりこの節約がされないと異化というものがあらわれてくることになります。
この文章では詩的言語と実用言語の違いも説明しており、詩的言語は実用言語などとは違い、知覚を自動現象から引き出すために創造されたものであるとしています。このように自動化されたものを呼び起こし、事物を直視する(異化によって)ということが詩、または芸術にとって重要いうことが述べられています。
私はこの文章を読んでハッとさせられました。なぜなら周りにある事物を見ているようで実は見ていなかったと気づいたからです。そんな当たり前になっているものを捉え直すことが芸術の素晴らしいところの一つだと感じました。

やっぱり授業をやってから時間が経ってしまうと内容を思い出すのも大変になってしまいますね。冒頭にも書きましたが授業が終わったらできるだけ早く書けるようにしたいです。

最後は有名なあの映画の悪役の言葉で締めたいと思います。
では今回はこのへんで!

「争い続きのイタリアではルネサンスが開花した。スイスでは500年の民主主義と平和で鳩時計どまりさ」
                              第三の男 ハリー・ライム

10期生第8回 その出来事は因果か偶然か

第8回のブログを担当します。中村です。
今回は、第7回でも読んだウォーレン・バックランドの「フィルムスタディーズ入門」から、『第二章 映画の構造ー物語と語り口』を勉強し、映画『パルプ・フィクション』について分析をしました。

まず、「フィルムスタディーズ入門」では映画作品のマクロ構造を見るべく「物語」と「語り口」という2つのカテゴリーがでてきます。
「物語」は登場人物にとって動機づけられた原因-結果の論理に基づいた出来事に構成されているといわれています。もちろん、原因と結果が全てではなく、単なる描写的なショットも存在していますが。
次に「語り口」は制限された語り口と全知の語り口の2つがあるのです。制限された語り口は一人の登場人物に結び付けられており、人物と同じだけの情報のみが観客に与えられます。それはその人物が見たもの、聞いたものを含めてその人が知り得た出来事すべてです。しかし、その人が知らない情報は観客にも与えられることはありません。一方、全知の語り口は、カメラが自由に登場人物を飛び移るため、一人の登場人物のもつ情報よりも観客の知る情報の方が多くなります。
全知の語り口が採用される映画作品の観客は、次に何が起こるかを予測できるためむしろ登場人物たちがそれに対してどう反応するかを楽しむことができるのだそうです。

しかし、この2つの語り口の理論は曖昧で、果たしてこの定義が多くの映画に応用できるかは疑問が残りました。

次に、映画『パルプ・フィクション』については、出来事が直線的に並べられていないが構造化されている、と述べられています。そのため、原因と結果の論理は時系列順に並べられる必要はないのだとも言っています。

我々は、『パルプ・フィクション』に関して、この映画は因果関係によって出来事が繋がっていないのではないかと考えています。確かに、バラバラにスクリーンに映し出される出来事を時系列に直す際に、因果によるつながりを見出してしまいそうになります。しかし、男女の強盗と2人の殺し屋がレストランで出会うのも、時計を取りに戻ったアパートやそこからの帰り道で敵対する相手に会うのも、全て偶然の出来事なのではないでしょうか?さらに『パルプ・フィクション』にはいくつかの出来事が時系列をバラバラにして配置されていますが、その出来事の関係はすべて因果関係と言えるのでしょうか?例えば、殺し屋たちがレストランで強盗に出くわすことはその後の展開に関わることがないのです。ボスの妻とヴィンセントが過ごした夜も。確かに殺し屋が足を洗うことを決めてそれ以降出てこないことはある種の原因と結果の関係といえるでしょう。

この映画が出来事をバラバラに見せているのはなぜでしょう。それは、人々が物事に対して原因やそれに伴う結果を求めていることを揶揄する意図があるのではないでしょうか?
今日はいい天気だからきっといいことが起こる。髪が上手く巻けたからいいことが起こる。そう感じたことがあるかもしれませんが、天候やヘアスタイルの調子は試験の結果にも親の機嫌にもなんら関わらないのです。
もしそんな出来事に何かの繋がりを見出したならそれは奇跡かもしれません。

10期生第6回 映画を物語の内容から分析する

第6回のブログを担当します、中村です。今回はベトナムからの留学生のフェンさんが発表を担当してくれました!
読んだのは、ジークフリート・クラカウアーの「映画の理論 物理的現実の救済」から『内容の問題』という章です。その後、黒澤明の映画『羅生門』を分析しました。

ここでは、映画なストーリーに着目して、映画的な物語の内容、主題、モチーフがどのようなものか検討しています。
まず、映画的といえない内容は、映像によって伝えられない要素がある内容で、概念的思考と悲劇的なものがあるといいます。概念的思考は、台詞に頼るなど言葉による伝達が求められる場合です。悲劇的なものは精神的な出来事のためそれを伝えるには映像だけでは難しいです。
次に主題とモチーフの観点では、主題は物理的現実の諸要素を描いている場合は映画的といえますが、モチーフにも影響されるといいます。
そこで、映画的なモチーフが紹介されますが、それらは1.生の流れ、2.探偵活動、3.ダヴィデ-ゴリアテといわれています。生の流れは現実に生きる我々が経験する人生の経過であり、ドキュメンタリー映画で特徴的です。次に探偵活動は、物理的現実を参照して真相究明の過程を描くために映画的モチーフといえます。ダヴィデ-ゴリアテは、弱者が強者に打ち勝つ力を描くことであり、あらゆる小さくて弱いものにインパクトを与えてクローズアップという映画の手法に類似しています。

これらを踏まえて、映画『羅生門』をみていきます。これは芥川龍之介の「藪の中」を元にした作品で中世日本を舞台にした犯罪物語です。
羅生門で男たちがある事件について話しています。彼らが話しているのは森の中で侍が殺された事件に関する証言です。男たちが羅生門に来る前に関係者たちは検非違使の前で事件に関してみたことを語り、それを再現する形で物語が進んでいきます。山賊、木こり、侍の妻といった関係者に加えて、死んだ侍自身も巫女に霊を呼び出して森での出来事を証言します。しかし、それぞれの証言の食い違いから真相はわからないまま物語は進み、男たちは羅生門で赤子を拾います。

この作品を物語の内容のモチーフでみていくと、侍の死という事件の真相を究明しようとする探偵活動の物語であると考えることができましょう。それは非常に映像的な要素を含んでおり、映画的です。その上、侍の死と赤子という新たな生の誕生が含まれており、生の流れを感じずにはいられません。単純に時間の真相を追う、探偵活動だけを描くのではなく、生の流れを取り入れることで、より現実をとらえた映像作品になっていると考えられます。

モチーフの問題から検討することで、映画における物語内容のレベルでも映画を分析することができました。今学期の学習では、形式のレベルでの分析が比較的多かったので意義深い回だったと思います。選んでくれたフェンさんありがとうございました!

10期生第4回 意図的な演出の価値は何か

第4回のブログを担当する中村です。今回は、マイケル・ライアンの『Film Analisis 映画分析入門』のアートディレクションを読み、映画『シャイニング』を分析しました。


まず、アートディレクションについてですが、アートディレクションは視覚的または聴覚的に作品のテーマや場面の状況を観客に伝わりやすくする手法です。例えばセットであったり衣装であったり音響であったりするものです。カメラに映る人間の対立関係を際立させるように窓枠が配置されたり、照明によって観客に特定の印象を与えたりすることが例示されています。


しかし、この説明ではアートディレクションの独自性や他の理論との差別化ができませんでした。そこで我々の理解では、映画の作り手が意図を伝えるために使う映画的な手法なのだと一致しました。この理解において重要なのは、意図的にカメラに映るものを調整しているということなのだと考えます。つまり、偶然そこに映り込む地形や常態化している演出は含まれないのではないかということです。

ではこの理解を踏まえて、『シャイニング』をみていきます。この映画はスタンリー・キューブリック監督によるホラー映画です。山の上にあるホテルで、冬季の住み込み管理人としてやってきた家族が怪奇現象に遭遇して精神が蝕まれ、父親である男が妻と子供を殺害しようとする様子が描かれます。


『Film Analisis』では、ホテルのあちこちにアメリカ先住民のモチーフが見られることが、アメリカが先住民を殺戮してきた歴史を見てみぬふりをしてきたメタファーになっているとしています。また、セットの縦線が二つの領域、ここでは文明と獣の領域の間の葛藤を強調するとも言っていますが、これは二項対立的に映画作品内でそれぞれの領域を描いているとしてもセットに見られる縦線では説得力が足りないと感じます。一方で、色の観点では赤色が、統制の利かない怒りや暴力に結びつき、青色が文明や自己統制に結びつくという主張は、セットのトイレの色や管理人の家族の服装から理解することができました。

このアートディレクションという概念について、応用が難しいと感じます。単純にこうではないか、と類推をすることは可能ですが果たしてそれがアートディレクションとして意図的に構築されているか否かを判断するのは容易ではなく、説得力に欠ける主張になってしまうように思います。

未だ、アートディレクションを用いる最適な手法がわからぬままブログを書き始め、大幅に遅くなりましたが、今回は以上です。
最後までお読みくださりありがとうございました。

11期生第6回 始まりも終わりも水が象徴する。

こんにちは!今回のブログを担当します、土田麻織です。

4人で回しているため、早いものであっという間に2度目がやってきました。

木曜日のゼミを基準とした一週間の流れにはだいぶ慣れたものの、取り組む内容に関してはまだまだ試行錯誤、右往左往、暗中模索している今日この頃です。

それでは早速授業内容に移ります。

前座

今回の前座は私が担当しました。紹介したのは、バカリズムさん脚本のドラマ『ホットスポット』です。このドラマは今年の1月から日本テレビで放送されていた作品で、Huluやネットフリックスでも見ることが出来ます。

この作品は「地元系エイリアンヒューマンコメディ―」というキャッチコピーを掲げています。富士山の麓のとある町で暮らす主人公が宇宙人と遭遇して、不思議な出来事が起きたり起きなかったり、、、?と言ったまさに「地元系」の「エイリアンヒューマンコメディ」なのです。

まず、バカリズムさんの脚本なので女子会雑談のテンポが最高で、小ネタ満載でとても面白いのが魅力です。私はこの会話劇にまんまとハマり、同時並行でバカリズムさん脚本の『ブラッシュアップライフ』と『架空OL日記』も一気に見てしまいました!

そして、衣装やセットがかわいいところも私のおすすめポイントです。主人公を含めた幼馴染3人組はよくランチ会をするのですが、回ごとにみんなの衣装の色味が統一されていてとてもかわいいのです!主人公が働いているレイクホテル浅ノ湖の制服も赤色で昭和レトロな雰囲気がとてもかわいくて視覚的にも楽しめる作品です。

ほっこりできてくすっと笑える楽しいドラマなので、見ていない方がいたらぜひご覧ください!

長くなってしまいましたが本題に入ります。

3限 「声」「イメジャリー」

今回の3限はジョウくんが担当して、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「声」と「イメジャリー」の2つのテーマについて学びました。

作品における「声」の存在は、読者に語り手の意思を推測したり、登場人物の考えを予測させたりする影響を与えるそうです。

ロシアの批評家ミハイル・バフチンは、小説言語を示す際に「モノローグ」と「ポリフォニー」という二つの概念を用いました。

「モノローグ」は独白を意味して、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を指します。

「ポリフォニー」は対話を意味して、多様な考えを示す複数の意識や声がそれぞれ独自性を持ったまま互いに衝突する状態を指します。

「ポリフォニー」はあらゆる小説に当てはまるものであり、多様な文体や声を取り込み、多性的なメロディを織りなす文学形式であるのです。

実際に『フランケンシュタイン』には複数の語り手が存在していて、それぞれの独立した声が衝突している様子が見られました。

例えば、フランケンシュタインに宛てられたエリザベスの手紙。病に倒れたフランケンシュタインを心配して書いた手紙の後半には世間話が綴られています。彼女の地域の人たちのうわさ話のほとんどが結婚にまつわる話なのです。ここから著者の廣野さんは、エリザベスの「声」を通して彼女自身の想い、つまりフランケンシュタインと結婚したいということがほのめかされていると指摘しています。

このように考えると、一見物語にはあまり関係のないように見える描写もそれは実は登場人物の本心であり心の声なのではないか、と検討することが出来るのでしょうか。

読書の幅が広がった気がします。

イメジャリー

ある要素によって、想像力が刺激されて視覚的映像などが喚起される場合、そのようなイメージを喚起する作用を「イメジャリー」と呼びます。

イメジャリーにも様々な働きがあり、使われ方がそれぞれ異なるため、私たちはそれらの働きを使い分けられるようになるまで理解を深めることに努めました。

以下がイメジャリーの働きです。

・メタファー(隠喩):A≒B

 例)白雪姫…雪のように白い姫、あることを示すために別のものを提示してそれらの間の共通性を暗示する

・メトンミー(換喩):A>B 全体と一部の関係

 例)赤ずきん…赤ずきんと聞くと我々は童話のあの「赤ずきん」を思いだすが、赤ずきんと言う言葉は単に赤い頭巾である。あの「赤ずきん」は赤い頭巾をかぶった女の子

・シネクドキ(提喩):A⇊B 具体と抽象の関係 上下移動が生じる

 例)花見…花という抽象的な言葉で桜という具体的な言葉を指す

・シンボル(象徴):ある意味を持つ記号、表象

 例)鳩は平和の象徴…鳩と平和に類似性はないし、鳩である必然性はないものの猫など他のものに置き換えることも出来ない

・アレゴリー(寓意):具体→抽象  具体的なものを通じて抽象的なものを暗示すること

 例)ジョージ・オーウェル『動物農場』…人間の支配に反抗した動物たちが自分たちの理想郷を作ろうとするが、最終的には支配階級のブタが独裁を始める。

→冷戦後のレーニンやスターリンの主導したソビエト全体主義の批判

今回の章では『フランケンシュタイン』の中で用いられているイメジャリーにについて、「月」と「水」が挙げられていました。

月は「象徴」の役割、ギリシア神話において女性のシンボルとして扱われているため、母性を意味します。そこから、狂気や想像力、詩的霊感、純潔と無節操、多産と不妊など、月は様々なものの象徴として使われています。

作中では、フランケンシュタインが怪物を始めとする人造人間を制作する行為を「出産」と考えた時、月明かりに照らされる情景描写から月の母性を象徴とする役割が裏付けられています。

『フランケンシュタイン』で用いられているイメジャリーについては「水」も挙げられています。湖や海は死を象徴とする場として、一方でライン川や新婚旅行に船で出かけた時など、美しく幸せな描写にも水は用いられています。この時の「水」は忘却や浄化を象徴しています。

このように様々な対象物がある事柄のイメージを喚起するものとして作中に登場しているのです。

4限 『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン

4限は藤田くんが担当しました。課題文はミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』です。

この文章を理解するため、そしてブログの執筆が円滑になるようにとこの機会に『罪と罰』を図書館で借りてみました。まだ途中なのですが、バフチンの言っていることはこういう部分からきているのか、と見当がつくようになったので、また読了したらこの文章に帰ってきたいと思います。

この文章では、ドストエフスキーの作品は従来のモノローグ的小説を破壊していて、ポリフォニー的な世界を構築しているというテーマで展開されています。

従来のモノローグ的な小説では主人公は作者の言葉の客体として在るけれど、ドストエフスキーの作品の主人公は、自らを作った者、つまり作者と肩を並べ、創造主に反旗を翻す能力を持つような自由な人間である、と述べられています。

「真実はいつもひとつ!」と声高々に言っている名探偵コナンは紛れもなくモノローグ的であり、シェイクスピアなど悲劇性を出す作品はポリフォニーが使われています。今回は、モノローグの状態とは具体的にどのようなことなのか、例文をそれぞれで考えながら議論を展開していきました。

この二つの違いをはっきりと理解したうえでどちらが好きか?という話になったのですが4人ともモノローグ的な作品が好みなようでした。

今回の文章は比較的読みやすかったものの、内容を深堀していくと理解しきれていない部分や疑問点が浮かび上がってきて、納得するために白熱した議論が繰り広げられたと思います。

おわりに

ここまでお読みいただきありがとうございました。

3限で扱ったイメジャリーで水についての記述がありましたが、私が2年春学期の内藤先生ゼミの期末レポートで同じように水は何を表しているのか?というようなことを書いたことを思い出しました。「メタファー」という言葉を使っていたような気がしますがあれは「シンボル」だったのではないか、といまさらながら不安になっています。AはBのメタファーという言い回しを気に入っていたのですが、あれは全部微妙に違っていたのかも、、、。

余談ですが、前座で紹介した「ホットスポット」作中の宇宙人は、能力を使い消耗した部分を温泉で癒すという特性がありました。温泉も水なので、考え方によっては何かの象徴かもしれないですね。ただ単に温泉=リラックスの意味かもしれませんが。

イメジャリーの理論は好きなので、今回の授業を経て正しく使えるようになっていることを願って今回のブログを締めたいと思います。

長いブログにお付き合いいただきありがとうございました。また次回お会いしましょう。