11期生 第5回 性格描写とアリロニー、そして昔話の形態学から考える作品とは何か

はじめまして、11期生4回目のブログを担当します、ジョウ コウゲンです!

ブログっぽい文を、中学校くらいに趣味で書いたことはありますが、ちなみに投稿閲覧数は8人という惨めな結果でした。読みやすく内容が充実なブログが書けるかどうかと心配する部分もありますが、頑張ってみます!

11期生の中でも、内藤ゼミに入った理由はそれぞれですが、私が内藤ゼミに入ったのは、ある種必然的な結果だと考えた瞬間は、何回もありました。すでにお察しかもしれませんが、私は日本語のネイティブではないです。だから逆に、私が1年生の時内藤先生が担当されている日本語表現+基礎ゼミの授業を乗り越えてきたことに不思議としか思えません。ゼミも過酷だと聞いてますが最後までやり遂げたいです。

さて、本題の授業内容に入っていきます。

前座

今回の前座も私が担当し、角田龍一監督の作品『血筋』を取り上げました。監督名と映画どちらも知名度が低いのですが、私がこの作品を推した理由は、「監督自身が映画の登場人物にもなっている」ということです。ドキュメンタリーのイメージが強いのに関わらず、実話だと考えられないほど、意外な展開が満載されています。物語のテーマも、アイデンティティ・家族といった受けやすい内容私個人にとって魅力的な内容でした。予告編がYoutubeで視聴できますので、ぜひご覧になってください!

3限 批評理論入門 「性格描写」と「アイロニー」

3限の発表担当は土田さんでした。今回のテーマは、「性格描写」と「アイロニー」についてです。

性格描写

この章では、主に性格描写の定義や手法、加えて性格描写が物語に対する影響について述べられています。

まず、性格描写の対象は、小説の登場人物に対して行う行為であり、「批評理論入門」の作者廣野さんは、性格を示さずに物語をうまく語ることは不可能であるとされています。登場人物同士の性格を示し、比較することによって主人公と物語及び結末な関係を明確にすることができるそうです。また、小説における性格描写の方法は自由度が高く、内面と外面からどちらでも描けるといった特徴を持っています。ここで「小説は性格描写をするの最適な媒体か」との議論を挟みましたが、私の答えだけがみなさんと違ったことに若干驚いていました。確かに、小説は具体的な視覚的映像とはなかなか結びつかないため、内的焦点化を用いた表現は小説に適していると言えます。しかし私は、映画もまた、俳優の表情や仕草、映像や音楽といった独自の表現を駆使することで、小説とは違うアプローチの「内的焦点化」が可能であり、豊かな性格描写ができるはずだと考えたのです。

最終的に、私たちの議論は「どちらが優れているか」という単純な結論には至りませんでした。むしろ、「内面の葛藤を言葉でじっくり描くなら小説、俳優の演技や映像の力で直感的に性格を伝えるなら映画」というように、それぞれに得意な表現方法がある、という面白い結論にたどり着きました。媒体の特性を理解することで、作品の見方も一層深まりますね。

次に、先生がおっしゃった「役割があるからこそ人間には性格がある」という考えについて、みんなで議論しました。
人間にはさまざまな性格がありますが、その性格は、担っている社会的な役割によって形づくられるという指摘に、私は強く共感しました。例えば、人が何の役割も持たなければ、一定の枠組みや規範から自由になりすぎてしまい、かえってその人の性格が見えにくくなるのではないかと考えました。

続いて話題になったのが、土田さんからの「物語の結末は、キャラクターの性格によって決まるのか? それとも結末のために作者が性格を操作するのか?」という問いでした。これはまさに、創作における「鶏が先か、卵が先か」の問題。議論は主に二つの意見に分かれました。

一つは土田さんの意見で、「結末が先にある」という考え方です。あらかじめ決めたエンディングに向かって、作者が登場人物の性格を調整していく、という考えでした。

一方、私個人の意見として、そもそも作品の構造を考える時に、作者自身も最初から明確な結末を知らないことが多いのではないないでしょうか。そのため、結末に合わせて性格描写を調整するというより、むしろ登場人物の性格や行動が、物語を結末へと導いていくのだと思います。

もちろん、どちらが正解というわけではなく、非常に興味深い議論でした。

アイロニー

続いて、土田さんがアイロニーについて発表してくれました。

授業の前に「アリロニー」という言葉について調べましたが、以下『大辞林 第四版』より抜粋した内容です。

アイロニー【irony】 ① (修辞法の一つ)非難・風刺などのために、心に思っていることと反対のことを(しばしば称賛などの形で)言うこと。皮肉。反語。

非難、風刺、皮肉などの要素を含んでいる言葉であり、実際、土田さんの発表を聞いて、「アイロニー」を一意的に解釈することができないと実感しました。

発表の内容によってアイロニーは主に三種類だとカテゴリー化されています。

・言葉アイロニー→言葉と本音が逆になった状況

・状況アイロニー→現実と期待が逆になった状況

・劇的アイロニー→読者が理解しているが、登場人物が知らない状況

「言葉アイロニー」と「状況アイロニー」は、文学作品だけではなく、いわゆる日常的にも多用されるアイロニーだと言えるでしょう。例えば、デートに2時間も遅刻した相手に、満面の笑みで「随分早かったんだね!」という(本音:遅すぎるだろ!)というのが、一般的な言葉のアイロニーです。

一方、劇的アイロニーは、語り手における「神の視点」に近く、主に表象作品の中に見られます。例えば、『タイタニック』では、観客は船が沈むことを知っていますが、登場人物たちは「絶対沈まない船だ!」と希望を満ち溢れています。その状況では強烈なアイロニーを生み出します。

ちなみに、私が考えた多数なアイロニーが存在している作品は、『レ・ミゼラブル』でした。

4限 ウラジーミル・プロップ 『昔話の形態学』 物語の31機能

4限は、井上さんが発表してくれたウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』を巡って、さらに議論が深まりました。

この理論には物語を構成する「31の機能」があるのですが、時間の関係で、みんなが疑問に思った機能に絞って話し合いました。

まず面白かったのが、31機能における「贈与者の第一機能」の定義です。「贈与者」と聞くと、主人公に不思議な道具をくれる優しい魔法使いのような、ポジティブな存在を想像しますよね。しかしプロップの理論では、必ずしも善良な存在ではないというのです。

先生によると、私たちが読んでいる日本語訳は、原文のロシア語からではなく英語からの翻訳であるため、訳者の解釈などが入り、原文のニュアンスと少しずれている可能性があるとのこと。言葉の奥深さを感じる指摘でした。

続いて議論の的になったのが、31機能の一つ「⑰ 標付け」でした。 これは、主人公が体に傷を負ったり、何か特別な印を付けられたりする機能のこと。では、物理的な印だけでなく、精神的な記憶や経験も「標付け」になり得るのでしょうか?

議論の前提として、「標付け」とは、 1)主人公が物語の結末まで持ち続ける「しるし」であること 2)その「しるし」が、後の主人公の証明や行動の支えになること という条件が挙げられました。

ここで、私はカズオ・イシグロの作品『日の名残り』を例として挙げました。

この物語における「標付け」とは、主人公の執事スティーブンスが体に負った傷ではありません。それは、彼が最後まで決して手放すことのなかった「今は亡き主人ダーリントン卿に仕えたという記憶と、執事としての“品格”」という、精神的な誇りそのものです。

この「品格」という見えないしるしは、彼の行動を支える支柱であり(条件2)、彼は物語の最後までその価値観を抱き続けます(条件1)。

おわりに

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

今回、ゼミでの議論を一つの記事にまとめるという、初めての執筆に挑戦しました。議論の中で出てきた抽象的なアイデアや感覚を、具体的な言葉にしていく作業は、想像以上に難しかったです。

また次回の記事でお会いできるのを楽しみにしています。

11期生 第4回 物語の時間はどのように操作されるか

こんにちは、はじめまして!

11期生第3回のブログを担当します、井上紬といいます。

作品としてのエンタメを味わうことはもちろん、自分自身がエンタメの一部になりたくて、ホテルのフロントスタッフとしての接客と、フラッシュモブというダンスによるパフォーマンス活動に力を入れています。

自分が書く論文も、読んでくれた人に新しい気づきや感動を与えられるようなエンタメとなるように執筆活動に励みたいと思います。

これからよろしくお願いします!

前座

今回の前座は私が担当しました。

紹介したのは「童話物語(向山貴彦、1999)」

私にとって人生の一冊であり、亡くなった伯父が生前に著した長編ファンタジー小説でもあります。

手に取ったきっかけこそ伯父という私との関係性でしたが、実際に本を開いてからはただただその世界観に魅了され、作者と切り離しても私のバイブルであると胸を張って言える作品です。

いつかこの作品をアニメ化し、多くの人に魅力を伝えることが、11歳の頃からの私の目標です!

ちなみに現在この話をして、「何その本、気になる・・・!」と言ってくれたゼミの仲間たちに文庫版を貸して回しています(笑)今は土田さんが上巻を読んでくれているようで、感想を共有できる日が今から待ち遠しいです。

3限 「批評理論入門ー『フランケンシュタイン』解剖講義」

3限は藤田さんが「提示と叙述」と「時間」について発表してくれました。

〈提示と叙述〉

この章では、小説が大きく分けて2つの方法で語られていることを指摘しています。

それが提示と叙述です。

提示とは語り手が介入したりせずに黙ってあるがままを示す方法、叙述とは語り手が前面に出てきて要約などによって読者に対し解説する方法です。

著者の廣野さんは、作品の各部分においてこの2つの方法のどちらかふさわしい方が選択されるべきであるとしています。

実際に『フランケンシュタイン』では提示と叙述がうまく使い分けられており、作品を最後まで読ませる工夫がされています。

特に授業中にも議題に上がったのが、フランケンシュタインによる怪物創造のくだりが叙述の方法で語られていることについて。

本書は、要約して語ることで読者はフランケンシュタインに対する共感を保ちつつ物語を読み進めることができると述べています。

ではここでいう共感とはいったい何に対する共感なのでしょうか。

議論の末に出た結論は「人間らしさ」です。彼の怪物創造という行為は人倫にもとる行為であり、「人間らしさ」とはかけ離れています。また、昔は人間をつくることができるのは神だけだと考えられていたことから、フランケンシュタインはその点においても「人間らしさ」とは距離があるように思われます。そこで、実際に怪物がつくられるおぞましい様子は省かれたうえで、フランケンシュタイン自身がその時のことを振り返って「いま思い出しただけでも、めまいがする」と述べることによって、完全には失われていない彼の「人間らしさ」に共感して読者は読み進めることができるのです。

〈時間〉

続くこの章では、物語における時間の操作がどのように行われているかについて指摘されています。

時間で主に操作されているのは順序と速度です。

まず順序について。

ジェラール・ジュネットは、出来事が単に起きた順に並べられる「ストーリー」としばしば時間の移動によって並べ替えられる「プロット」で互いの順序が合致しない場合を「アナクロニー」と名付けました。

「アナクロニー」には大きく2つあります。それが「先説法」と「後説法」です。

「先説法」とは、まだ生じていない出来事を予知的に示す方法です。また、すでにある程度進行している物語の途中から語り始める「イン・メディアス・レース」という方法も「先説法」の一種にあたります。

「後説法」とは、出来事の継起を語っている途中で過去の出来事や場面に移行する方法です。「フラッシュバック」とも呼ばれ、映画でもよく用いられます。

次に速度について。

物語の進行速度には大きく分けて4つあります。

それが「省略法」と「要約法」、「情景法」と「休止法」です。

「省略法」とは、ある期間を一気に飛び越える形式です。「こうして数か月がたった」という表現や「2年後」という表現がこれにあたります。

「要約法」とは、数日間や数か月、数年に及ぶ生活を詳細抜きにして数段落や数ページで要約する形式です。

「情景法」とは、物語内容の時間と物語言説の時間の速度が等しい形式です。台詞の掛け合いで物語が進んでいく場面などがこれにあたります。

「休止法」とは、語り手が物語の流れを中断させる形式です。語り手が自分の心情や置かれている状況を語るなどして物語それ自体は進んでいない場面がこれにあたります。

この3限では、これらの時間の操作について互いの違いを確認することができました。

4限 ジェラール・ジュネット「物語のディスクール」(1972) 時間

4限はジョウさんが発表してくれました。

ジュネットの著書を実際に読み込むことで物語における時間の操作について理解を深めていったのですが、この読み込んで理解するという作業がかなり難航しました。

ジュネットが例に挙げるプルーストという作家、そして彼の作品である「失われた時を求めて」は非常に特殊で、抽象的な本文の記述からは物語がどのように進行しているのかを具体的に想像することが難しかったのです。

実際に議論は次の週まで続きました。

ポイントとなったのは以下の2点でした。

1.括複的描写とはどのような描写であるか。

2.プルーストの情景法にはどのような特徴があるか。

まず1.について、最終的に辿り着いた結論は「数回起きた事柄を同じ時間に存在しているかのように見せることでただ一度だけで語ることを可能にした描写」です。過去も現在も同じ画面あるいは描写に混濁させることで実現することが分かりました。

次に2.について、最終的に辿り着いた結論は「確かにリアル・スピードで進む(内容と言説が等しい速度で進む)が、間にさまざまな情報が介入してくるので複雑化している」です。要するに寄り道をするのです。まるで実際に生活している私たちのように、語り手の意識の流れがそのまま反映されているので、物語として読み進めていくと話があっちに行ったりこっちに行ったりして少しややこしさを感じてしまうという特徴があります。

両者ともに結論を出すのに時間はかかりましたが、先生から助言もいただきながら皆で納得できたときには格別の達成感を感じました。

個人的には 第2回 ロラン・バルト「作者の死」に並ぶ抽象度の高い文章で読むのに苦労しました・・・(笑)

少しずつこのような文章にも慣れていきたいです。

ではこれにて、第4回の授業内容は以上となります!

最後に、最近イチオシの映画をひとつ挙げて終わりにします。

「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」(2024) ※日本では現在数十か所の映画館にて公開中

香港で制作されたアクション映画なのですが、これが本当に面白いのです。手に汗を握ります。

はじめ私は九龍城という舞台に惹かれて足を運んだのですが、想像以上に作り込まれたセットに圧倒されたうえ、見た目も中身も個性的なキャラクターたちに、少年漫画をリアルに再現したかのようなド派手なアクションなど、盛りに盛られた魅力的な要素に心を奪われ、なんとこの1週間のうちに3回も観に行ってしまいました。こんなことは初めてです。財布が許してくれるのならまた観に行きたいです(笑)

上映館が少ないのが玉に瑕なのですが、皆さんもぜひこの機会にご覧になってみてください!

11期生 第3回 誰が語るのか、そして誰を通してみるのか

はじめまして!
11期生の2回目のブログを担当します、藤田雄成といいます。

ブログを書くのは初めてなので何を書けばよいか分からず時間がたってしまいました...
しかし多くの方が同じようなことを思っていたようなので気合い入れて頑張ります!

さて、11期生は4人いるのですが実は私、ほかの3人とは違う点があります。
それは、、、3年になって初めて内藤ゼミを経験したこと!!!
どうやらほかの3人は1年か2年のときに内藤ゼミを経験していてどういうゼミなのかよく知っているとのこと。それを知って私はビクビクしてました。まあ、私もこのゼミの過酷さを知っていながらも入ったんですけど(笑)

前置きはこのくらいにして今回の授業内容に入っていきます

前座

前座も私が担当しました。私が紹介したのは「春休みにみた戦争映画」です。取り上げたのは「プライベートライアン」、「ダンケルク」、「西部戦線異状なし」の3つです。
プライベートライアンに関してはカメラの視点で酔ってしまって30分くらいしか見てません(笑)
実はジョウ君が3つとも見ていたらしくちょっと嬉しかったです。
3作品ともとても考えさせられる内容になっているのでみなさんもぜひ!

3限 批評理論入門

3限は井上さんが批評理論入門の「語り手」、「焦点化」について発表してくれました。

語り手

この章では語りの種類、枠物語、そして信頼できない語り手について述べられています。
まず、語りの種類についてですが一人称の語り、二人称の語り、三人称の語りがあります。その中でフランケンシュタインは一人称の語りに分類されます。
次に枠物語についてですが、そもそも枠物語とは、「物語の中に、さらに物語が埋め込まれているような形の物語形式」をいうそうです。フランケンシュタインにおいては、
ウォルトンの語り>フランケンシュタインの語り>怪物の語り
という感じに構造が成り立っています。ちなみにここで内藤先生が「枠物語山手線ゲームをしよう!」とおっしゃって少し不安になった記憶が(笑)
最後に信頼できない語り手にがいることによって、人間がいかに現実をゆがめたり隠したりする存在であるか、があらわになってくることが述べられています。

焦点化

この章では焦点化の種類、そしてフランケンシュタインの物語での焦点化について述べられています。
まず、焦点化の種類について内的焦点化と外的焦点化に分類され、さらに内的焦点化は固定内的焦点化、不定内的焦点化、多元内的焦点化に分類されます。外的焦点化とは?という問いに少し戸惑ったのですが、例として横光利一の「蠅」を思いつき理解できました。さらに内藤先生の「固定されたカメラで映し出された場面を小説で書いた感じ」、という説明でより理解が深まりました。
次にフランケンシュタインでの焦点化について、焦点人物を変えることによって物語に深みが出ているように感じました。

4限 ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』「焦点化」


さて、続いて4限は土田さんが発表してくれました。
今回の文章は前回の文章よりも読みやすく、議論も簡単かなと思ったのですが「ともにある視像」について考えるのにかなり苦戦することに、、、

まず、この文章では焦点化の種類について述べられています。ここは3限と被るところもあるので詳細は省略します。
次に、内的焦点化と外的焦点化、被焦点化は区別できるのかということが述べられています。物語は終始一貫して同じ焦点を持つわけではなく、内的、外的の両義性をもつことがあります。また、内的と被焦点化も時として区別が困難な場合があります。
そして「ともにある視像」についてです。みんなかなり悩みました(笑)かなりの時間をかけてようやく「内的視点で語られている作中人物、それを語っている者」が「ともにある視像」なのでは?という結論にいたりました。ここは個人的にロラン・バルトよりも難しかったかも、、

二回目の議論、ということで初回よりは慣れた感じがします。ブログに関してはまだまだ至らない部分がたくさんあると思うのでこれから成長できればいいなと思います!あと読み返してみるとちょっと恥ずかしいですね(笑)

私のブログでは最後に映画やアニメなどで印象に残った言葉で締めたいと思います。
では今回はこのへんで!

「何も捨てることができない人には何も変えることはできない」
                    進撃の巨人 アルミン・アルレルト