11期生 第2回 作者とは、そして書かれたものとは何だろうか。

はじめまして!

内藤ゼミ11期生初回のブログを担当いたします、土田麻織と申します。

人生で初めてのブログなのでお手柔らかに見ていただけますと幸いです。

そして最初なので軽く自己紹介をしてみようと思います。

好きなことは本を読むことと音楽を聴くこと。小説が好きなのでこのゼミにたどり着いたのですが、映像表現にも興味があるので最近は映画もちょこちょこ見ています。

好きな作家は湊かなえさんと芦沢央さんで、イヤミスと呼ばれるジャンルをよく読みますが、このゼミを通して大学生活の集大成にふさわしいと思える作品に出会えたらいいなと思っています。

そして、今の私を構成しているものといえばやはりサークルになるかと思います。

私はaccessというジャズダンスサークルに所属しています。週2回の通常練習に加えて、新歓ライブや夏ライブ、明大祭期間には別で練習が入るためほぼ毎日サークルに行っているのでは?という期間も多々あります。この前までの春休みは2か月間ほとんどをサークルに費やしていました(汗)

サークルにそれなりの熱量を割いている私ですが、今年度からはゼミとサークルの2本軸で頑張っていこうと意気込んでいます。

思いのほか長くなってしまったのでここで授業内容に移ります!

前座

初回は私、土田が担当しました。取り上げたのは住野よるさんの『また、同じ夢を見ていた』です。

普段はミステリーや暗くて重い話を好んで読んでいますが、このような場で紹介するにはふさわしくないなと思い、初心に戻って小学生の頃恐らく初めて手にした、いわゆる一般的な小説を紹介することにしました。

自分の前座なので割愛しますが、とても温かいお話ですので、疲れているときや余裕のない時にこそ是非読んでいただきたいなと思います。悲しくないのになぜか涙が出でくる、そんなお話です。

3限

お待たせしましたが3限の発表内容に移ります。

廣野由美子著『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』

1冒頭 2プロット

3限の発表はジョウくんでした。

第1章の前に、まえがきでは本著が『フランケンシュタイン』を扱う理由として、誰もがタイトルを知っていてそれについてのイメージを持っていること、映画や演劇など数多くのメディアによって物語は伝播していったが、言語を媒体とした小説という形式でなければ本質を表現できない点が挙げられています。

これから本論を読み進めていく中で、言語でしか『フランケンシュタイン』の本質が伝えられない理由を肌で体感出来たら、と思います。

第1章では『フランケンシュタイン』の冒頭について取り上げられています。初版の「11月のある陰鬱な夜のこと、、」という書き出しが、私たちが現在目にする第3版では第5章に移動していて、その代わり手紙文が冒頭に置かれています。

筆者は、「小説における冒頭は現実世界と虚構の世界とを分かつ『敷居』のようなものである」としたうえで、冒頭部分は読者にとって負担の大きな部分であると述べています。初版の冒頭では読者は世界に入り込めないと考え改定されたそうですが、果たして本当に手紙形式が有効なのでしょうか。

ここが本題ではないため省略しますが、私は冒頭が手紙の方が物語世界の中にさらにもう一つの壁を感じるため、筆者の言うことは必ずしも正しいとは限らないのではと思いました。

第2章ストーリーとプロット

第2章では小説におけるストーリーとプロットについて学びました。

ストーリーは出来事を起きた時間順に並べたもので、プロットは物語が語られる順に出来事を再編成したものです。ストーリーを組み替えることで真相の提示を先延ばしにすることができ、謎やサスペンスが誕生するそうです。

4限

ロランバルト『作者の死』

4限の発表担当は藤田くんでした。

発表前に藤田くんは「頭の中がエクリチュール状態です」と軽いジョークを飛ばしてゼミの場を温めていましたが、今回の課題テキストを通して私にとって謎めいた文字列となってしまった「エクリチュール」という言葉を使ってユーモアを発揮できて、みんなもそれに笑うことが出来るのか、と私は陰でこっそり冷や汗をかいていました。

そんなエクリチュールがキーワードのテキストです。「エクリチュールの本来あるべき場とは」という大論点を掲げてスタートしました。

そもそもエクリチュールとは簡単には、フランス語で「書くこと」「書法」「文字法」「書かれ方」などを意味する言葉です。

現代の文学イメージはある作品における作者の情報に集中しており、作品には作者が大きく介入しています。しかし、何かを語るのは言語活動そのものであり、作者ではないということが今回の大きな主張です。作品はたくさんの人の言葉を引用したものであるため、自分の意思は還元しないという考え方です。織物のたとえが分かりやすかったのですが、一見1枚の布に見える織物も、実は様々な意図が織りなして形作っているように、1つの作品には多く書物の引用から成り立っているということです。

物語られたものから作者が切り離されたとき、エクリチュールが誕生します。

そしてその様々な要素から織りなされた、多源性を持つエクリチュールが収斂する場は作者ではなく読者であるという結論です。

物語を「解読する」というとそこには有限性が与えられてしまいますが、文章の言葉を借りて説明するなら、歴史も伝記も心理も持たない読者が「解きほぐす」ことは無限性を持ちます。

エクリチュールは作者の死によって読者の中に誕生するのです。よって冒頭で提示した「エクリチュールの本来あるべき場とは」という問いに対しては「読者」と結論付け、「作者の死」が宣告されて第2回のゼミは終了しました。

以上が授業内容になります。

初回の授業で作者が死んでしまったため、「作者はなぜこうしたのだろうか。」「この設定にした作者の意図は?」とよく考えてしまったり、そもそも作者情報に先行して読むものを選んでしまったりする私は、これからどうすればいいのだろうか、となっていますがそれも含めてこれからのゼミ活動で考えを深められたら、と思います。

ブログを書いていて、文字に起こすには100%の理解が必要不可欠なんだなとひしひしと感じました。課題文を読み直したりレジュメを見直したり自分のメモを解読したり、がっつりおさらいをしてなんとなく理解した状態で書きましたがかなり長くなってしまったと思います、、。次回以降はもっと簡潔にわかりやすくまとめられるように精進していきます!

ただインプットしたことを整理してアウトプットする過程は、知識を自分のものにする上でとても大切なことだなと言うことを改めて感じました。

なのでブログ担当でないときも、ブログを書ける勢いで自分の中に落とし込むぞ!という気合を入れて今回のブログを締めたいと思います。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

第2回 繰り返される構図が持つ意味とは

久しぶりのブログの執筆で若干緊張しております。内藤ゼミ10期の中村です。今回は4年ゼミ第2回の内容をお届けしていきます。

初週はオリエンテーションのため、4年生になって発表や議論をするのは今日が初めてでした。やっぱり楽しい!これにつきます。今学期は映画の理論を中心に勉強するので、映像を分析するという新しい試みが出来るのはワクワクします。前置きはこの辺りで終わりにして早速本題に入りたいと思います。

今週の理論書はマイケル・ライアンとメリッサ・レノスの『Film Analysis』でその中の「構図」を山崎さんが発表してくれました。これは配置に意味が付与されるというもので、さまざまな映画のカットを紹介するような形で説明をしていました。 議論としては、前半では果たして「構図」の分析は我々が映像分析を行う上で使えるものなのか?という論点で話が進みました。その後、後半では実際に映画『第三の男』をこの「構図」を用いた分析をすると何が言えるか?を話し合いました。

まず、「構図」は特定の1つのカットそれだけで何かを断定したり論証していくには論拠が弱いという意見がありました。そこでより普遍的に応用するためには、1つのカットを検討するのではなく、連続した映像を通して意味を持つ構図が変化していくもの、例えば権力関係に変化が見られるなど、そして繰り返し同じ構図が用いられるものであれば構図を用いた論証が可能なのではないかと考えました。 我々が1月に行ったワークショップでも映画を分析しましたが、その際も窓枠が使われる同じ構図が3.4回みられることから特定の意味を含んだカットだと考えたので、この意見はかなり有力なものになりました。

次に『第三の男』の分析ですが、この映画は非常に不思議な構図がいくつも見られます。例えば、主人公が乗り物に乗って歩いている女性を追い越すシーンが物語の最後にありますがこれは序盤にも全く同じ構図で見られます。さらに、主人公が死んだはずの友人を見かけて追いかけるシーンでは、低い視点で視界が斜めになっている構図が使われていて不穏な印象を与えてきます。我々はこのようなさまざまな構図の妙の中でも、繰り返し同じ構図が見られることについて検討していきました。 そこから得られた結論は、構図が登場人物の距離感を示す要素として用いられているということです。具体的には、主人公のマーチンスと死んだはずの友人ハリーの距離は物語を通してどんどん近づいていき最後にはマーチンスが追いつきます。しかし、マーチンスがハリーの死の謎を追う中で出会った女性アンナとマーチンスの距離は物語を通して縮まることなく一定に保たれています。

まず、マーチンスとハリーの距離ですが、これは彼らが追いかけ合うシーンの中で同じ道を通る時に同じ構図で撮られているのですが、同じ構図が再度現れる間隔が終盤にかけて短くなっていきます。これは2人の距離が近づいているだけでなく追われるハリーが焦る心理的状況も示していると考えられます。 次にマーチンスとアンナのシーンは先ほども説明した乗り物に乗ったマーチンスが道の端を歩くアンナを追い越す構図です。序盤ではその後アンナが出てくることはありませんが、最後のシーンではアンナを追い越したマーチンスは乗り物から降りて道端に立ち止まりアンナを待ちます。しかし、道を歩いてきたアンナは立ち止まることなくマーチンスを追い越してどこかへ行ってしまい、そのまま物語が閉じられます。 物語を通してマーチンスがアンナに好意を寄せていることは明確に見られますが、アンナがどう思っているか不明なまま最後のシーンで判明するのです。しかし、同じ構図が序盤と最後という大きな隔たりをもって採用されていることからアンナとマーチンスの距離は離れているということが暗に示されていたと言えるのではないでしょうか?

100分という短い時間の中でかなり納得のいく面白い結論が導けたと思います。改めて楽しい!と感じるのはこういう瞬間があるからですね。 今回のまとめとしましては、構図の概念は映像、特に物語を通して構図を見る時に誰かの視点であり、心理的な要素や人間関係が示される可能性があるという意識で見ることで面白い論証ができるということがわかりました。 最後までお読みくださりありがとうございました!