9期生第10回 『映画で入門カルチュラルスタディーズ』第1章〈自己〉 千と千尋の神隠し

おはようございます。9期生の室井です。

今回は〈自己〉がテーマです。

本文では日本人なら一度は見たことがある宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を題材に解説を進めていこうと思います。

議論の流れ

今回のゼミでは以下の大論点と結論を設定して議論を進めていきました。

大論点:『千と千尋の神隠し』における自己の役割とはなにか?

結論:現実と異なる世界に迷い込むという経験から、これまでの自分を失い、新たな 自己を獲得する。そして、主人公が世界の不思議を発見する驚きと、出会いの喜びと喪失の悲しみに満ちた旅路を提供する役割を持っている。

中論点1 越境

 今回の議論で外すことができない要素はこの「越境」です。

 越境とは、二つの隔てられた境界を主体が越えることを意味しています。

 この隔てられた二つの境界には様々な種類があり、「自己と他者、過去と現在、日常と夢」という風に対立したり、また相互に依存する多様な関係性で存在しています。また、空間を隔てる境界としては「トンネル、橋、会談、川、鉄道」などが待ちいられることが多いです。

今回の作品では主人公の千尋がトンネルを通ることで現実世界から越境し、異世界に迷い込むことで物語が動き出します。

越境には自己を変化させるという意味があり、千と千尋の神隠しでは異世界出の新たな出会いが新たな自己の形成を促します。

中論点2 名前 

 次に自己にとって重要なのは「名前」です。

 主体にとって名前とは自己と他者とのつねに移り変わり続ける力関係の指標となるものです。

 名前は、他者と自己を区分し、しかしながら、同時にある一定の文化圏においては特定の言語を通じて与えられるものです。つまり、名前とは主体の人生の当初において、あるいはその後も完全に自分だけの意思で切り離すことができないものであるということです。

 『千と千尋の神隠し』では、作品を通して「千尋」「ハク」「カオナシ」の三人の名前の役割を分析します。

 千尋の場合は、湯婆婆に名前をとられることで、失った自己を探すための旅路へ行く契機となる役割を果たしている。

 ハクの場合は、千尋との出会いによって「ミギハヤミ・コハクヌシ」という名前を取り戻す。これによって名前が自分の歴史と体験の記録であると同時に、他者と自己の相互確認の証明の役割を果たしている。

 カオナシの場合は、他者への思いを物質的な交換でしか表現できない存在であった彼が、力を失った後に他者から自己の価値を認識することで、名無しのまま自らのアイデンティティを獲得する役割を果たしている。

中論点3 主体の構築

 最後に、自己の持ち主である主体がどのように生まれるのか分析します。

 

 結論から言うと、主体という存在は他者との関係のうちにしか構築されません。

 以下はその論拠です。

①主体化

 まず初めに、アイデンティティを主題とする物語には、大人になりきれない少年少女が主人公のものが多いという点です。これは主体化という動作自体が「自分がどのような社会関係のうちに存在しているのか」を認識する過程のことであるからです。 そして、その主体化をするのは他者から呼びかけられたときです。

 また、主体化する過程において重要な要素は、主体が固定されたものでなく、多様な社会的差異の範疇(ジェンダー、階級、人種等)が複合的に作用することによって変化するという点です。

 『千と千尋の神隠し』での千尋という主体は、初めは内向的で臆病な少女でしたが、物語を通して、他者の呼びかけに答えていき、最終的に応答責任を持つ存在として主体を形成していきます。

②食べるということ

 次に、『千と千尋の神隠し』では、「食べる」という動作が多くみられます。

 食事とは生物の営みの一つですが、ここでは主体と他者との混交をもたらす過程として描かれています。そしてこれは主体が何かを食べる事によって自己を変容させるという意味があります。

 作品を通して、千尋の両親、言い換えると人間と豚は極めて近い関係として描かれています。さらに、ハクやカオナシは何かを食べることによって自己を変容させます。つまり、食べることは消費であると同時に自己の再生産であり、自己と他者の絆を確認する共同の営みでもあるのです。

黒澤明監督『生きる』 

★あらすじ

 市役所で市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民の陳情は市役所や市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこっていた。ある日、渡辺は体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師からは軽い胃潰瘍だと告げられるが、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。その翌日、渡辺は市役所を辞めるつもりの部下の小田切とよと偶然に行き合う。渡辺は若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分が胃癌であることを伝えると、とよは自分が工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」と勧めた。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだ出来ることがある」と気づき、次の日市役所に復帰する。

★分析

 今回のゼミでは、主人公渡辺が、「まだ出来ることがある」と気づく前後で、彼の事故がどのように変容したのかを分析しました。

気づく前

 消費者として、目標達成のために生きていた。→官僚制の中で自己を殺して中身のない主体として行動していた。

気づいた後

 自身の行動に自己の証明を見出し、他者のために何かを作ることで最終的に自分自身のアイデンティティに還元されると気づく。

 →つまり、パフォーマティビティを獲得することで主体を形成することになった。

 

結論

 作品『生きる』では、主人公渡辺が小田切という他者を通じて、空っぽな自己を自覚し、他者を通して自己を形成することに達成した物語である。という結論に至りました。

 今回のゼミの流れは以上です。

あとがき

 このブログ執筆にあたり、久しぶりに『千と千尋の神隠し』を視聴しました。

 「良きかな神様」がくれた団子、どう見ても体に悪そうです。

 千尋さんは普通に一口食べてましたが、皆さんは知らない人がくれたものを安易に口にしてはいけません。

 以上です。皆さんまた逢う日まで____