10期生 第2回 脱構築された世界

みなさま、こんにちは!秋学期第2回のブログを担当します、山崎日和です。

あっという間に春学期が終わり、夏休みも終わって、秋学期も学園祭期間に突入しました。最近どんどん1日が過ぎるのが早くなってきているような気がして、毎日時間が足りない!と焦ってしまう日々です。この回も受けてから1か月が経ってしまい、本当に遅ればせながらの執筆で申し訳ありません… 記憶を掘り起こしながら書いていきます。

秋学期からは春学期と打って変わって3限では理論についての論文等を、4限では何らかの作品を取り扱い、3限で学んだ理論を用いて4限で作品分析を行うという形式で進んでいきます。そして、春学期までは3限と4限で分けていた担当者も分けずに行うことになりました。何をやるかは担当者の興味に合わせて、ということなので、春学期とはまた少し雰囲気が変わると思います。

ということで、秋学期最初の(第1回はオリエンテーションだったので)担当者は中村さんです。今回はジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』を取り扱いました。

『闇の奥』は、テムズ川のヨットの上で元船乗りのマーロウが語る、自身のアフリカへの旅の話です。小説のほとんどがマーロウの語りで進んでいきます。叔母のつてで貿易会社に就職したマーロウは、コンゴ川の船の船長になり密林の奥へと旅に出ます。その道中では労働する黒人やそれを束ねる白人に出会いますが、みな「クルツ」という白人の優秀な社員のことを話します。クルツが気になるマーロウは船を進め、原住民からの襲撃の危機も乗り越えて、ついにクルツと彼を慕う青年と出会います。クルツは病気でしたが、未開部族の王となり象牙を集めていたことがわかりました。マーロウはクルツを保護し、アフリカについて話を聞きますが、思っていた回答は得られません。そうしているうちに船の中でクルツは「恐怖だ、恐怖だ」という言葉を残して死んでしまいます。ヨーロッパに帰るとクルツの関係者から次々訪問を受けましたが、最後にやってきたのはクルツの許嫁でした。彼女はクルツをとても尊敬しており、彼女にせがまれてマーロウはつい「クルツの最後の言葉はあなたの名前だった」と嘘をついてしまいました。

3限は『闇の奥』について脱構築批評を行った田尻芳樹さんの文章『空虚な中心への旅―脱構築批評』を読みました。

まずここで用いる理論「脱構築」について簡単に説明します。脱構築については春学期第10回の授業でも取り上げていますので、ご興味ある方はそちらも併せてご覧ください。

脱構築は、1967年、アルジェリア出身のフランスの哲学者ジャック・デリダによって提唱された考え方で、階層構造をもった二項対立が成り立たないことを主張するものです。デリダはその主張のために、ロゴス(音声)中心主義への批判を行いました。ロゴス中心主義では、音声こそが真理を純粋に体現するのであって、文字は音声を書き写した二次的なものだとされてきました。しかしデリダは、音声言語を説明するときには文字言語を例に取らざるを得ないことを指摘し、音声と文字の二項対立が成立しないことを明らかにしました。

また、アメリカの文芸理論家ポール・ド・マンは、すべての言葉は修辞的で意味は決定不可能なため、テクストの意味は常に誤読されると言います。これは、テクストは自らを脱構築し続けるとも言うことができます。

さらに脱構築と植民地の関係について、香港出身でアメリカで活動するレイ・チョウやイギリスのロバート・ヤングは、かつての構造主義といった理論はヨーロッパで生まれたものであり、それを批判する脱構築をはじめとしたポスト構造主義はヨーロッパの植民地主義への批判であると言います。簡単に言うと、脱構築とはポストコロニアル批評だったというわけです。

では次に、本題である『闇の奥』の分析へと入っていきます。

『闇の奥』の作者であるジョセフ・コンラッドは、ウクライナ生まれのポーランド人で、20代後半でイギリス国籍を取得した人物です。船乗りから作家になったという経歴を持ち、『闇の奥』も彼自身のコンゴへの旅に基づいています。

田尻さんは、この作品のテーマとして、文明と未開、西洋と非西洋、白人と黒人、男と女、光と闇といった様々な二項対立の脱構築を挙げています。これらの脱構築がマーロウの自己同一性に揺らぎを与え、さらに脱構築批評がポストコロニアル批評と関連することを明らかにしているのです。そしてその脱構築が起こる契機となったのがアフリカへの旅でした。田尻さんは、この旅を地理的にも心理的にも「暗黒で空虚な中心への旅」だと述べます。地理的には、空白だったアフリカの地図が、植民地主義によって暗黒の場所になったという描写から、マーロウが向かうアフリカという暗黒の土地の中心は空虚であると言えます。また心理的には、クルツの心に空虚さと暗黒が重ねられています。マーロウはこういった空虚に触れることで自己同一性が崩壊し(脱構築され)、ある種の自己認識に達したと、田尻さんは言います。

4限の議論では、3限の田尻さんの分析に登場する「暗黒」と「空虚」、「空白」の意味について考えました。アフリカの地図の描写から、「空白」は意味がつけられていないもの、「暗黒」は意味が定義されているものだということがわかります。さらに、アフリカに行き空虚になった白人のクルツを考えると、「空虚」は脱構築されたものであると言うことができます。これは「暗黒」と対立するため、「空虚」は意味が定義できないものだと言うことができます。

また、田尻さんの分析はマーロウの語りのみを取り上げていることについても考えました。『闇の奥』はマーロウの語りがほとんどですが、一部その語りを聞いている船乗りの視点も描かれています。つまり、作中のクルツなどの人物はマーロウの視点と語りを聞く船乗りの視点という2つの視点を通して描かれているのです。田尻さんはマーロウの語りのみを取り上げましたが、そこには別の船乗りの考えも反映されていることを考慮に入れる必要があったのではないかという結論に至りました。

今回のブログは以上です。今回の授業では春学期よりも深く脱構築について考えられたと思います。脱構築はその後の批評理論に大きな影響を与えているので、秋学期の最初で取り扱えてよかったです。

それではみなさま、また他の記事でお会いしましょう!

9期生第14回 『映画の理論』第12章 演劇的なストーリー ~演劇と映画の狭間で~

寒い、寒すぎる。着る服困る。どうしよう

どうも、お久しぶりです。3回目の登場になります、宮澤です。

今回で、今学期の授業は終わり。4年春学期、最後のブログになります。(大トリだぁ)

いやそれにしても、皆さん。ほんっとうに、お久しぶりですね!

季節は冬に差し掛かり、服に困るほど寒くなってまいりました。

うん、おかしい、、、

春学期の最後の授業が終わったのは、夏休み前で。でも、今はめちゃくちゃ寒い、もう11月だし。

これ示すのは、いかなることか。(お察しください)

ということで。最後の授業の余韻をかみしめながら(思い出しながら?)、ブログを書いていきたいと思います。

今回のゼミで扱った理論は、ジークフリートの『映画の理論』第12章演劇的なストーリー。作品は、『ロミオとジュリエット』です

学習内容

今回は、映画における演劇的なストーリーについて学習しました。

まず、演劇的なストーリーとは何でしょうか?

演劇的なストーリーの特徴は、主に2つあります。

1つ目は、登場人物や人間関係に対し、強い関心を向けること。そのため、プロットの中心は人間的な出来事や経験になり、その他の物理的な現実は省略されて表現されます。

2つ目は、イデオロギー的な1つの軸を中心に、物語全体が構成されており、閉じたストーリーであること。プルーストは、「戯曲の筋に寄与することのない一切のイメージを無視し、筋の目標を理解させてくれるようなイメージだけ残す」と述べています。

本理論書の中で、演劇的なストーリーは「非映画的なストーリー形式」と言い換えられています。簡単に言うと、演劇的なストーリーは、映画ととても相性が悪いということです。

では、なぜ両者の相性は最悪なのか?

ずばり!演劇の特徴と、映画の特徴は真逆だからです。上記で学習したように、演劇は、イデオロギー的な閉じたストーリーを重視し、登場人物や人間関係以外の描写を軽視する傾向があります。そのため「ストーリー>映像」という構造を持ち、ストーリー・登場人物・人間関係に関係のない、物理的な描写や無機物の描写がされることはありません。

一方、映画は、「映像>ストーリー」という構造を持ち、舞台上で認められない一時的な印象や関係を表現する傾向があります。例えば、登場人物が悲しんでいる場面に、雨が降っている空の場面を差しはさむなど。

演劇的な観点から見れば、雨(無機物)と登場人物は何の関係もないため、雨の描写は必要ありません。しかし、映画的な観点からみると、雨(無機物)は、登場人物の悲しみを間接的に表現することができる素材であるため、あえて描写する必要があるということです。

このように、演劇と映画は相反する特徴があり、とても相性が悪いのです、、、泣

そんな、仲の悪ーい演劇と映画。ところがどっこい、映画に演劇的なストーリーを組み込んじゃおという試みがされたことがあります。例えば、1908年『ギーズ公の暗殺』がその代表です。

この時代には、映画という媒体は、他の媒体に比べて軽視される傾向がありました。映画は、芸術ではなく、大衆向けの単なる娯楽という認識しかされていなかったのです。そのため、映画作品の名誉回復を目指し、ブルジョアの好む演劇と同じ路線を踏襲しようとしたらしいです

そんなこんなで、演劇的なストーリーを映画に適合させるため、様々な方法が実践されました。しかし、いずれも両者の間にある矛盾を解消することはできなかったようです。

以上の学習から、演劇的なストーリーと映画的な説話が、相容れることは決してないという結論に至りました。しかし、両者には相容れない矛盾があることを理解することが、何よりも大事なのかもしれませんね

【作品分析】

以上の学習内容を踏まえて、『ロミオとジュリエット』はどのような作品だと言えるでしょうか。

私たちは、映画版の演劇を見たい観客に向けて作られた作品であると結論づけました。具体的には、演劇が大好きなブルジョア層に向けて作られた作品だと考えます。

本作の大半の場面は、ストーリーに沿って構成されています。そのため、原作に忠実に作られているということもあり「ストーリー>映像」という構造を持つ、演劇的なストーリーの映画と言えるでしょう。

しかし、所々に映画的な要素が散りばめられているのも、本作の特徴です。例えば、ロミオとジュリエットがダンスをする場面では、登場人物と一緒にカメラ(観客の視点)がぐるぐる回るような演出がされています。また、ジュリエットが牧師から薬をもらう場面では、ジュリエットと牧師の顔が交互に映される演出がされています。これらのカメラワークは、演劇にはない、映画的な要素だと言えます。

また、ロミオとジュリエットが城で出会う場面では、演劇的要素と映画的要素が混在していると考えられます。この場面において、ロミオとジュリエットの台詞は、原作に沿っており、演劇的です。しかし、背景の城や木々は、リアルな無機物を扱っており、映画的です。

このように『ロミオとジュリエット』は、演劇的ストーリーを主軸にしつつ、映画の技法を用いることで、物理的な現実を反映した映画的な側面もある作品であると考えられます。

以上の分析を踏まえ、私たちは以下の結論を導きました。

結論:「ストーリー>映像」という演劇的な要素を重視しつつ、映画的な要素があることから、『ロミオとジュリエット』は映画版の演劇を見たい観客に向けて作られた作品である。

4年春学期最後のブログはここまで!

次のブログがあるとしたら、3月の研究成果発表会になるかとおもいます

その頃はもう、入社間近。(まじか)

これが宮澤最後のブログかもしれませんが、いつか再びお会いできればと思います。

では、最後になるかもしれないので、引退するアイドルみたいに退場させてください

私のことは嫌いでも、ゼミのことは嫌いにならないでください!!!

また会う日まで。アディオス