10期生 第10回 脱構築って何???

みなさま、こんにちは!今回のブログを担当します、山崎日和です。

この記事は春学期の第10回のものです。気づいたら授業からものすごい時間が経ってしまいました… 順番が前後し申し訳ありませんが、前後の記事はだいぶ下の方にありますので、さかのぼってご覧ください。

今回、3限では「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」の3つのテーマを、4限ではジャック・デリダの『根源の彼方に―グラマトロジーについて』を取り上げて「脱構築」について学びました。

前座

今回の前座は私が担当でした。紹介したのは、まらしぃさんというピアニストの方です。

この方は、主にYouTubeでアニソンやボカロなどのピアノアレンジを投稿しています。ピアノ、ということは歌詞がないわけです。そのため、私はよく作業用BGMや睡眠BGMとして聞いています。

特におすすめのものとして、「ちょっとつよいクラシック」と「メドレー」を上げさせていただきました。詳細は省きますが、気になった方はぜひYouTubeで調べて聞いてみてください!

3限 「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」

今回の3限は秋尾さんの担当で、『批評理論入門』から「ジャンル批評」、「読者反応批評」、「文体論的批評」の3つのテーマについて学びました。

「ジャンル批評」

ジャンル批評とは、その名の通りジャンルに関わる諸問題を扱う批評です。ジャンルには、形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあり、このことから文学作品が既存の作品群と関係を持つことがわかります。

本文では『フランケンシュタイン』に関する4つのジャンルについて紹介されていました。

①ロマン主義文学

ロマン主義とは、啓蒙主義への反動として現れたもので、自我や個人の経験、無限なるものや超自然的なものを重視するものです。初期ロマン主義では、恐怖、情念、崇高さなどが作品に取り込まれました。後期ロマン主義では、旅、幼年時代の回想、報われない愛、追放された主人公などがテーマとして取り上げられました。

『フランケンシュタイン』は、恐怖や無限なるもの、超自然的なものをテーマとしているという、ロマン主義文学的な側面を持ちます。また、作中に登場する『若きウェルテルの悩み』もロマン主義文学であることから、ロマン主義の思想の影響が濃く反映されていると言えます。

②ゴシック小説

ゴシック小説は、18世紀後半から19世紀初頭を中心に流行した、ロマン主義文学の一種です。中世の異国的な城や館を舞台として、超自然的な現象や陰惨な出来事が展開する恐怖小説です。

『フランケンシュタイン』は、恐怖を主題とし、不気味な描写や陰惨な出来事などを有しているため、ゴシック小説的な要素を持つと言えます。しかし、リアリスティックな描写や自然の神秘に乱入することなど、伝統的なゴシック小説とは相反する要素も持っています。

③リアリズム小説

リアリズムとは、人生を客観的に描写し、物事をあるがままの真の姿で捉えようとする考え方で、ロマン主義とは対極に位置するものです。小説では具体的に、非現実的な描写や美化を避け、人生における日常的・即物的側面を写実的に描くという方法がとられます。

『フランケンシュタイン』では、前述のように、リアリスティックな描写がなされています。たとえば、怪物の超人的な身体特徴や言葉を話す理由付けが描かれていたり、人造人間を造ることへの化学的説明がなされていたりします。一見するとロマン主義的性質の強い『フランケンシュタイン』ですが、相反するリアリズム的性質も取り入れられているのは、この作品の特徴と言えます。

④サイエンス・フィクション

サイエンス・フィクション、通称SFとは、空想上の科学技術の発達に基づく物語を指します。この定義が確立したのは20世紀初頭ですが、この要素を取り入れた作品はそれ以前から存在したと考えられています。

『フランケンシュタイン』は、科学者によって新しい生物が製造されるという発想や、怪物に生命を吹き込む際、電気が関与した可能性がある点から、しばしば最初の本格的なSFとして位置づけられています。

発表の後の議論では、2つのことについて取り上げました。1つ目は、ゴシック小説の舞台はなぜイギリスではないのかについてです。ゴシック小説はイギリスを中心に流行したものですが、その舞台はイタリアやフランス、ドイツなどです。その理由として、近代化していない国を舞台としたかったということが挙げられました。当時、ゴシック小説の題材は超自然的な怪奇現象であり、これは近代化したイギリスでは起こるはずがないこと、中世的な異国で起こることという偏見があったようです。この思想は、日本の怪談の舞台として都会よりも田舎が用いられる、ということに似ている、という意見もありました。

2つ目は、ジャンルを有効に用いるにはどうすればよいかについてです。本文中にも登場したツヴェタン・トドロフによると、「ジャンルとは、つねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるもの」です。この考えに則すると、ロマン主義とリアリズムは両立しえないことになります。しかし、『フランケンシュタイン』はその両方の要素を併せ持つものと今回定義されました。今回の定義から一般化すると、反発するジャンルでも両立し得ると言うことができます。また、1つの作品に含まれるジャンルは1つではないことも『フランケンシュタイン』の例からわかります。さらに、『フランケンシュタイン』に新たな包括的なジャンルを付与することもできると考えられます。このように考えていくことで、ジャンルそのものの発展へ繋がっていくのではないか。今回はこのように結論付けました。

ジャンルを批評理論として用いることができるのか、みなさんはどうお考えになりますか?

「読者反応批評」

読者反応批評は1970年代頃に登場し、テクストが読者の心にどのように働きかけるかという問題に焦点を置いた理論です。従来、読者は作者がテクストに埋め込んだものを受動的に受け取る者として捉えられていました。しかしこの理論では、テクストに活発に関わりテクストとの共同作業によって意味を生産する存在として再定義されています。これを見ると、読者がどんな読み方をしてもいいと言っているように見えますが、実際にはそうではありません。この理論では、一定の水準に達した資質の持ち主(文学を読んだ経験が豊富な読者や作品に想定されているような読者)のみが読者なのです。また、この理論の対象となるテクストは、読者を刺激し挑発するようなものが想定されています。『フランケンシュタイン』においては、作中の「読む」という行為や手紙という形式、語りの入れ子構造といった点が読者反応批評的に解釈できます。

この「一定の水準に達した資質の持ち主のみが読者である」という定義には疑問を感じますが、この理論が誕生した当時は小説はハイカルチャーであり、それを研究できるのは大学に行ける上流階級の人のみだったため、それに当てはまるような人しか想定されていなかった、と考えられます。

この理論に関してはすでに上がっている記事「第9回 読書ってどうなってるの?」において、同様の理論を提示したヴォルフガング・イーザーの文章について記載がありますので、興味のある方はぜひそちらも見てみてください。

「文体論的批評」

文体論とは、テクストにおける言語学的要素、つまり単語や語法などに着目し、作者がいかにしてそれらを用いているかを科学的に分析する研究方法です。

この理論を用いて『フランケンシュタイン』を分析すると、長く複雑な文や曖昧な内容からはフランケンシュタインの人物的特徴が読み取れ、そこから逸脱した短い文や単純な構造によってより出来事への緊張感が高まるように描かれています。

4限 ジャック・デリダ『根源の彼方に―グラマトロジーについて』

4限は中村さんの担当で、ジャック・デリダの『根源の彼方に―グラマトロジーについて』を読みました。

デリダは、アルジェリア出身のフランスの哲学者で、「脱構築」という概念を提唱しました。今回読んだ文章はその概念を用いたものです。では、文章の内容に入る前に、脱構築とはどういう概念か確認しましょう。

脱構築とは、あるテクストからその中心的思想とそれと対立するような思想を同時に取り出し、後者によって前者を、あるいはその思想総体そのものを相対化する方法です。もっと砕けたように言うと、Aという思想とBという思想が対立していると考えられるとき、Aの中にBの要素を見出す、もしくはその対立の背景を見ることによって、AとBが対立していないことを示す方法です。今回の文章は脱構築の具体例なので、以下でさらに詳しく見ていきましょう。

デリダは本文でロゴス中心主義があらゆる世界を支配していると述べています。ロゴス中心主義とは、ロゴス(真理)は事象の背後に存在する、つまり言葉よりも先に意味があったという考え方です。デリダはこの考え方を表音文字の形而上学であり、強力な民族中心主義であると言います。この考えの支配が表れているものとして、文字言語(エクリチュール)の概念、形而上学(哲学)の歴史、科学の概念の3つが挙げられています。ロゴス中心主義では文字言語よりも音声言語の方がよりロゴスが伝わりやすいと考えられており、文字言語は単に音声言語を文字化したものであるとされていました。これは文字言語が音声言語、ひいてはロゴス中心主義に支配されていると言い換えることができます。また、ロゴス中心主義とは形而上学における考え方です。そのため、形而上学を支配しているとも言えるでしょう。さらに、科学は非音声的な表記を行っているため、一見するとロゴス中心主義に対抗しているように感じますが、実際は形而上学と同様のロゴス中心主義から成り立っています。つまり、科学もロゴス中心主義に支配されているのです。

デリダはこれらを指摘し、中でも文字言語と音声言語の関係に関して、グラマトロジーという概念を提示しました。これは、音声言語の文字化が文字言語なのではなく、思考を文字化したものが文字言語なのだということを意味します。これはアルファベットと漢字について考えてみるとより理解しやすくなると思います。アルファベットは表音文字、つまり音声を文字化したものです。しかし、漢字は表意文字、つまり意味を文字化したものです。こう考えると、音声言語→文字言語という先後関係が必ずしも正しいわけではないことがわかります。これが、音声言語→文字言語の脱構築です。

脱構築という概念について、少しはご理解いただけたでしょうか?この概念はこれ以降の授業で扱う理論の成立のきっかけになっています。なかなかに複雑な概念なので上手く説明ができたか不安ですが、なんとなくでも脱構築について知っていただけたら嬉しいです。

それでは、今回のブログはこのあたりで。みなさま、また他の記事でお会いしましょう!