10期生第11回 セックスは構築物である

10期生春学期第11回のブログを担当します。中村美咲子です。

今回の3限では、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「脱構築批評」と「精神分析批評」についてダンドレアさんに発表してもらいました。

4限では、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の一部分を秋尾さんに発表してもらいました。

脱構築批評

まず、脱構築批評とは、ジャック・デリダの提唱した理論で、テクストが矛盾や不一致を内包していることを示し、その矛盾がテクストの意味を決定不可能にすることを証明しようとしました。つまり、テクストに焦点をおいて、そこに見られる二項対立を解体するのです。

『フランケンシュタイン』においては、死体から生命を創造する試みによって多くの犠牲をもたらします。そこで、生と死、美と醜、光と闇といった二項対立が崩壊し、境界が曖昧になります。また、フランケンシュタインと怪物の関係の優劣や主従階層が逆転する様子が描かれていると指摘しています。

この文章において、脱構築の手法については詳しく書かれているものの、二項対立が崩壊したことによって何が起きているのかという解釈を導くことに触れられていなかった点が問題であると議論しました。

精神分析批評

精神分析批評については、フロイトの理論、ユングの理論、神話批評の3つを取り上げていました。まず、フロイトの理論については、自我やイド、スーパーエゴが『フランケンシュタイン』の分析を応用できるとして、エディプス・コンプレックスとファミリー・ロマンスの影響を指摘しています。エディプス・コンプレックスは、幼い男児が母親に対して抑圧された欲望を持つというもので、ヴィクターのもつこの欲望が怪物として具現化されたと解釈しています。また、親から十分な愛情を受けなかった子供が創作を通じて欲望を満たすことを「神経症患者のファミリー・ロマンス」と名づけたのですが、この『フランケンシュタイン』もファミリー・ロマンスを反映させた作品だといっています。

次にユングの理論では、集団的無意識によって継承された心象=「原型」が夢や文学作品にあらわれるといいます。『フランケンシュタイン』にみられる「原型」のパターンとして、「影」「ペルソナ」「アニマ」を挙げている。「影」は、フランケンシュタインにおける怪物で、彼の抑圧された本能や汚れの象徴とされます。「ペルソナ」はフランケンシュタインが良家の息子であるということで、その内部の抑圧された本能や欲望が怪物としてあらわれたのです。「アニマ」はフランケンシュタインにとってのエリザベスで、彼女が怪物によって殺されてしまうことで、人格の統一を失い、自身の影との対決を決意するのです。

神話批評では、個人を超えた人間経験の原型を文学作品に探し当てる批評法です。『フランケンシュタイン』においては、フランケンシュタインが神話のプロメテウスのように、人類に恩恵を与える英雄であることがうかがえます。また、フランケンシュタインは英雄としての試練に失敗し、怪物という災いをもたらします。この災いから、英雄の死をもって国を救うというモチーフを、フランケンシュタインと怪物の死からみることができます。

ジェンダー・トラブル

ここでは、セックスとジェンダーの概念の捉え方について、セックスからジェンダーが規定されるのではなく、ジェンダーによって社会的にセックスが構築されていると主張されます。さらに、ジェンダーはセックスのように、固定化されたものではなく、身体が身に纏う文化的意味でこれも構築物だといいます。

この主張を踏まえて、現代の日本においては、セックスやジェンダーが構築物であるという認識は広まっていないだろうという意見がありました。この認識がより共有されることが重要であるが、メディアにおいてはあまり的を得た議論はされておらず、むしろ特定のマンガやアニメにおける表象の方が適切にこの主張が反映されているのではないかと話し合いがおこなわれました。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。

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