10期生第14回 生の権力はいかにしてできたのか

10期生春学期第14回のブログを担当します。中村美咲子です。

今回は、山崎さんに、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「ポストコロニアル批評」と「新歴史主義」について、秋尾さんに、ミシェル・フーコーの『性の歴史Ⅰ 知への意志』について、それぞれ発表をしてもらいました。

『批評理論入門』は、それぞれの理論についての説明があり、その理論を使って『フランケンシュタイン』を分析していました。

ポストコロニアル批評

ポストコロニアル批評は、西洋によって植民地化された第三世界の文学作品を扱う批評で、植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する方法と、帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品に植民地がいかに描かれているか分析する方法に分けられます。

『フランケンシュタイン』は、帝国主義文化圏から生まれた文学作品です。この作品でポストコロニアル批評を実践すると、オリエンタリズム的描写や帝国主義的な描写が描かれているといいます。それは、トルコ人親子や怪物に関する描写から見られるそうです。トルコ人親子は民族的な偏見のために無実の罪を着せられた犠牲者と、狡猾な忘恩者の2つの側面を持つ存在として描かれます。しかし、娘のサフィーはキリスト教徒であることから肯定的に描かれていると考えられます。

また黄色人種のような見た目の怪物が言葉を学ぶ場面では、アジア人の劣性とヨーロッパ人の先天的・文化的優性が対比されます。このようにいくつかの点で、『フランケンシュタイン』はオリエンタリズム的で、帝国主義的だといえます。

発表の中で、『ピーターパン』においても、インディアンを描いた場面で偏見の含まれた描写があることを知りました。

新歴史主義

新歴史主義は、ニュー・クリティシズムに対抗するものとして誕生しました。また、既存の歴史主義は、出来事を重視して歴史を文学作品の「背景」であるとみなしますが、新歴史主義は出来事としての歴史だけでなく社会学や文化人類学含めた「社会科学」という領域のテクストと文学テクストの境界を取り払って分析を行います。

『フランケンシュタイン』においては、怪物の創造に関して、新歴史主義で分析を行っています。そして、歴史資料の中で、人造人間製作や自然科学といった点で影響を受けていることを指摘しています。

性の歴史Ⅰ 知への意志

今回の授業では、この文章の一部分のみを取り上げて発表をしてもらいました。

その中で、主張されていたことは、現代における権力のメカニズムが、生の権力であることとそれが性と結びついて性の政治的な文脈を生み出しているということです。

まず告白という行為が、性に関する言説を産出していることがいわれています。そして、「性的欲望」によって、その告白が科学と結びつけられたとされます。そしてこの「性的欲望」はわれわれの主体と形成するものなのです。

次にこの性的欲望は権力において、道具として形成されます。それは性的欲望の装置であり、家族という形態の中に組み込まれて発展します。

最後に、「死」の権利が「生権力」に移行していったことがいえます。つまり、政治が生を管理することに興味をもちはじめたのです。そしてそれは、資本主義の発達に不可欠なものでした。さらに、性的欲望が身体の規律や人口の管理に結びつくことから重要視されます。このように生を管理する政治がおこなわれ、性的欲望と結びついているのだといいます。

若干飛び飛びの内容になってしまいましたが、発表の内容は以上です。

更新が遅くなってしまいましたが、今回が春学期の最終回でした。この半年間たくさんのことを学び、ゼミ生同士もたくさん交流ができたので、秋学期も多くのことを学べるようにがんばりたいと思います。

最後までお読みくださりありがとうございました。

10期生第11回 セックスは構築物である

10期生春学期第11回のブログを担当します。中村美咲子です。

今回の3限では、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「脱構築批評」と「精神分析批評」についてダンドレアさんに発表してもらいました。

4限では、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の一部分を秋尾さんに発表してもらいました。

脱構築批評

まず、脱構築批評とは、ジャック・デリダの提唱した理論で、テクストが矛盾や不一致を内包していることを示し、その矛盾がテクストの意味を決定不可能にすることを証明しようとしました。つまり、テクストに焦点をおいて、そこに見られる二項対立を解体するのです。

『フランケンシュタイン』においては、死体から生命を創造する試みによって多くの犠牲をもたらします。そこで、生と死、美と醜、光と闇といった二項対立が崩壊し、境界が曖昧になります。また、フランケンシュタインと怪物の関係の優劣や主従階層が逆転する様子が描かれていると指摘しています。

この文章において、脱構築の手法については詳しく書かれているものの、二項対立が崩壊したことによって何が起きているのかという解釈を導くことに触れられていなかった点が問題であると議論しました。

精神分析批評

精神分析批評については、フロイトの理論、ユングの理論、神話批評の3つを取り上げていました。まず、フロイトの理論については、自我やイド、スーパーエゴが『フランケンシュタイン』の分析を応用できるとして、エディプス・コンプレックスとファミリー・ロマンスの影響を指摘しています。エディプス・コンプレックスは、幼い男児が母親に対して抑圧された欲望を持つというもので、ヴィクターのもつこの欲望が怪物として具現化されたと解釈しています。また、親から十分な愛情を受けなかった子供が創作を通じて欲望を満たすことを「神経症患者のファミリー・ロマンス」と名づけたのですが、この『フランケンシュタイン』もファミリー・ロマンスを反映させた作品だといっています。

次にユングの理論では、集団的無意識によって継承された心象=「原型」が夢や文学作品にあらわれるといいます。『フランケンシュタイン』にみられる「原型」のパターンとして、「影」「ペルソナ」「アニマ」を挙げている。「影」は、フランケンシュタインにおける怪物で、彼の抑圧された本能や汚れの象徴とされます。「ペルソナ」はフランケンシュタインが良家の息子であるということで、その内部の抑圧された本能や欲望が怪物としてあらわれたのです。「アニマ」はフランケンシュタインにとってのエリザベスで、彼女が怪物によって殺されてしまうことで、人格の統一を失い、自身の影との対決を決意するのです。

神話批評では、個人を超えた人間経験の原型を文学作品に探し当てる批評法です。『フランケンシュタイン』においては、フランケンシュタインが神話のプロメテウスのように、人類に恩恵を与える英雄であることがうかがえます。また、フランケンシュタインは英雄としての試練に失敗し、怪物という災いをもたらします。この災いから、英雄の死をもって国を救うというモチーフを、フランケンシュタインと怪物の死からみることができます。

ジェンダー・トラブル

ここでは、セックスとジェンダーの概念の捉え方について、セックスからジェンダーが規定されるのではなく、ジェンダーによって社会的にセックスが構築されていると主張されます。さらに、ジェンダーはセックスのように、固定化されたものではなく、身体が身に纏う文化的意味でこれも構築物だといいます。

この主張を踏まえて、現代の日本においては、セックスやジェンダーが構築物であるという認識は広まっていないだろうという意見がありました。この認識がより共有されることが重要であるが、メディアにおいてはあまり的を得た議論はされておらず、むしろ特定のマンガやアニメにおける表象の方が適切にこの主張が反映されているのではないかと話し合いがおこなわれました。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。