アフィニティによる連帯

第7回のブログを担当します、中村美咲子です。

今週は、ダナ・ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』から「サイボーグ宣言」について学びました。そして、後半では映画『オーシャンズ8』の分析を行いました。

「サイボーグ宣言」に述べられていることを端的にいえば、我々はサイボーグであるということです。サイボーグとは、おそらく多くの人が思いつくそのまま、機械と生体の2つの特徴を兼ね備えた存在です。そして、この2つの特徴の境界をあいまいにすることで脱構築がおこなわれます。さて、我々がサイボーグであるというのはどういうことでしょうか。ここでは、サイボーグの機械と生体という特徴を「人工」と「自然」という二項対立的なものとして、このような二項対立がさまざまな世界に棲んでおりもちろん我々人間もその二項対立とみられる2つの要素を兼ね備えた存在で、サイボーグ同様に脱構築が可能なのです。

ハラウェイは、さらに再構築も可能であるといいます。そこでは今まで信じられてきた資本主義や家父長制によってつくられてきたアイデンティティによる連帯ではなく、アフィニティを介した連携を考えることを推奨しています。まず、今まで信じられてきた資本主義や家父長制は、ジェンダーや階級、人種などの階層的な二項対立を生み出してきました。これらは、自然なものとして信じられてきています。けれども、それは搾取の構造であって当然自然なものではありません。このような人為的に生まれたアイデンティティによる紐帯には限界があります。なぜなら、アイデンティティの断片化が起こっているからです。つまり、特定の1つのアイデンティティのみで構築されている存在はおらず、我々はいくつものアイデンティティを有しています。このように複数のアイデンティティで構築されることから、ある1つのアイデンティティでは、安定した連帯を築くことができません。そこで、アフィニティによる連帯が検討されます。アフィニティは、血縁によらず自己の選択によって繋がるということで、既存の二項対立的思想を生み出したさまざまな制度に対抗する方法なのだと考えられます。

ここからは、『オーシャンズ8』の分析です。『オーシャンズ8』は、主人公のダニーが刑務所から出所する場面からはじまり、女性のみの犯罪集団で1億5000万ドルのダイヤのネックレスを盗み出すことで巨額の報酬を得て物語が終結します。この作品において、特筆すべき点はやはり女性のみで盗みをおこなうという点です。ダニーによって集められた6人の女性たちは、さまざまな犯罪に必要な技術をもっており彼女たちは無事に作戦を成功させます。この『オーシャンズ8』を「サイボーグ宣言」を踏まえて分析を行うと、彼女たちの紐帯は女性のみであるという点ではアフィニティといえるが、資本主義の制度に対抗するわけではないという結論が出されました。理由としては、彼女たちの中に一定程度の差別意識が見られることと、儲けたお金で資本主義社会に巻き込まれる形で物語が終わることが挙げられます。彼女たちが計画のメンバーを集める際に人種における差別や偏見に似た表現を感じることがありました。それは、ハッキングやスリといった明確な犯罪をおこなうのが西欧人ではないことや、ロシア人がハッカーであるという職業と人種が結びつくような発言などです。また、多くの女性はダイヤを売却して得るお金が目的で計画に参加します。そして、得たお金で望んだ生活を手に入れていくのだと考えられます。彼女たちは資本主義国家において、社会を変化させるわけではなくその社会でうまく生きるすべを模索するだけなのです。この2つの点から、彼女たちの関係を完全なるアフィニティだということはできませんでした。

最後までお読みくださりありがとうございました。

9期生第10回 『映画で入門カルチュラルスタディーズ』第1章〈自己〉 千と千尋の神隠し

おはようございます。9期生の室井です。

今回は〈自己〉がテーマです。

本文では日本人なら一度は見たことがある宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を題材に解説を進めていこうと思います。

議論の流れ

今回のゼミでは以下の大論点と結論を設定して議論を進めていきました。

大論点:『千と千尋の神隠し』における自己の役割とはなにか?

結論:現実と異なる世界に迷い込むという経験から、これまでの自分を失い、新たな 自己を獲得する。そして、主人公が世界の不思議を発見する驚きと、出会いの喜びと喪失の悲しみに満ちた旅路を提供する役割を持っている。

中論点1 越境

 今回の議論で外すことができない要素はこの「越境」です。

 越境とは、二つの隔てられた境界を主体が越えることを意味しています。

 この隔てられた二つの境界には様々な種類があり、「自己と他者、過去と現在、日常と夢」という風に対立したり、また相互に依存する多様な関係性で存在しています。また、空間を隔てる境界としては「トンネル、橋、会談、川、鉄道」などが待ちいられることが多いです。

今回の作品では主人公の千尋がトンネルを通ることで現実世界から越境し、異世界に迷い込むことで物語が動き出します。

越境には自己を変化させるという意味があり、千と千尋の神隠しでは異世界出の新たな出会いが新たな自己の形成を促します。

中論点2 名前 

 次に自己にとって重要なのは「名前」です。

 主体にとって名前とは自己と他者とのつねに移り変わり続ける力関係の指標となるものです。

 名前は、他者と自己を区分し、しかしながら、同時にある一定の文化圏においては特定の言語を通じて与えられるものです。つまり、名前とは主体の人生の当初において、あるいはその後も完全に自分だけの意思で切り離すことができないものであるということです。

 『千と千尋の神隠し』では、作品を通して「千尋」「ハク」「カオナシ」の三人の名前の役割を分析します。

 千尋の場合は、湯婆婆に名前をとられることで、失った自己を探すための旅路へ行く契機となる役割を果たしている。

 ハクの場合は、千尋との出会いによって「ミギハヤミ・コハクヌシ」という名前を取り戻す。これによって名前が自分の歴史と体験の記録であると同時に、他者と自己の相互確認の証明の役割を果たしている。

 カオナシの場合は、他者への思いを物質的な交換でしか表現できない存在であった彼が、力を失った後に他者から自己の価値を認識することで、名無しのまま自らのアイデンティティを獲得する役割を果たしている。

中論点3 主体の構築

 最後に、自己の持ち主である主体がどのように生まれるのか分析します。

 

 結論から言うと、主体という存在は他者との関係のうちにしか構築されません。

 以下はその論拠です。

①主体化

 まず初めに、アイデンティティを主題とする物語には、大人になりきれない少年少女が主人公のものが多いという点です。これは主体化という動作自体が「自分がどのような社会関係のうちに存在しているのか」を認識する過程のことであるからです。 そして、その主体化をするのは他者から呼びかけられたときです。

 また、主体化する過程において重要な要素は、主体が固定されたものでなく、多様な社会的差異の範疇(ジェンダー、階級、人種等)が複合的に作用することによって変化するという点です。

 『千と千尋の神隠し』での千尋という主体は、初めは内向的で臆病な少女でしたが、物語を通して、他者の呼びかけに答えていき、最終的に応答責任を持つ存在として主体を形成していきます。

②食べるということ

 次に、『千と千尋の神隠し』では、「食べる」という動作が多くみられます。

 食事とは生物の営みの一つですが、ここでは主体と他者との混交をもたらす過程として描かれています。そしてこれは主体が何かを食べる事によって自己を変容させるという意味があります。

 作品を通して、千尋の両親、言い換えると人間と豚は極めて近い関係として描かれています。さらに、ハクやカオナシは何かを食べることによって自己を変容させます。つまり、食べることは消費であると同時に自己の再生産であり、自己と他者の絆を確認する共同の営みでもあるのです。

黒澤明監督『生きる』 

★あらすじ

 市役所で市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民の陳情は市役所や市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこっていた。ある日、渡辺は体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師からは軽い胃潰瘍だと告げられるが、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。その翌日、渡辺は市役所を辞めるつもりの部下の小田切とよと偶然に行き合う。渡辺は若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分が胃癌であることを伝えると、とよは自分が工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」と勧めた。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだ出来ることがある」と気づき、次の日市役所に復帰する。

★分析

 今回のゼミでは、主人公渡辺が、「まだ出来ることがある」と気づく前後で、彼の事故がどのように変容したのかを分析しました。

気づく前

 消費者として、目標達成のために生きていた。→官僚制の中で自己を殺して中身のない主体として行動していた。

気づいた後

 自身の行動に自己の証明を見出し、他者のために何かを作ることで最終的に自分自身のアイデンティティに還元されると気づく。

 →つまり、パフォーマティビティを獲得することで主体を形成することになった。

 

結論

 作品『生きる』では、主人公渡辺が小田切という他者を通じて、空っぽな自己を自覚し、他者を通して自己を形成することに達成した物語である。という結論に至りました。

 今回のゼミの流れは以上です。

あとがき

 このブログ執筆にあたり、久しぶりに『千と千尋の神隠し』を視聴しました。

 「良きかな神様」がくれた団子、どう見ても体に悪そうです。

 千尋さんは普通に一口食べてましたが、皆さんは知らない人がくれたものを安易に口にしてはいけません。

 以上です。皆さんまた逢う日まで____

 

 

9期生 第4回 『film analysis 映画分析入門』第1部第1章 構図

皆さんお久しぶりです。9期生の室井です。

投稿が遅れてしまい、大変申し訳ございませんでした。

現在11月中頃、秋をあっという間に通り越して肌寒い季節になってきました。

今回取り扱ったのは『film analysis 映画分析入門』の第1部第1章 構図です。

ここでいう「構図」とは、映像フレーム内での重要な要素の配置のことです。

例えば、映画を一時停止した際に現れる写真と似た何かのことで、しかしながら、写真と異なりその実態は人為的に構成された人為的要素から成り立っているものです。

議論の流れ

今回のゼミでは以下の大論点と結論について議論を進めました

大論点:「映画における構図とは何か?」

結論:注意深く人為的に配置された要素から成り立つもの。偶然映っているものはほぼ存在しない。(作り手が考えを伝え、ストーリーを語る際に重要となるもの。)

中論点1 フレームに関する要素

 まず、フレームにはタイトな(密集した)ものと、ルースな(まばらな)ものが存在します。前者には人物間の空洞をなくすことで抑圧的な意味を、後者には空虚な空間を作ることで脆弱性というテーマを表す意味を持っています。

 次に、フレーム内の配置についてです。通常、重要人物はフレーム中央もしくは上半分に配置され、その他の人物は下半分か端のほうに配置され、従属的な意味を持たされます。

 しかしながら、これらの配置の持つ意味は単一な者ではありません。例えば主人公の哀愁や感情移入のために周辺部にあえて配置される場合もあります。そのほかにも下方部の人物が犠牲者である暗示や、積極性のある人物を上下の端に設置する場合も存在します。

 最後に、フレーム内の占める空間配分についても意味があります。例えば、空間の多くを占めている人物はその他を支配している、という意味を持たせたり、さらには、何もない空間にも人物との対比を映して強調の意味を持たせることがあります。

※補足 前景と背景

→構図には前景と背景という要素が存在しています。前者には犠牲を払うという意味  が、後者には人物を小さく映すことで不道徳という意味を持たせることがあります。

中論点2 シンメトリとアシンメトリ

 構図には秩序立っているシンメトリ(対照的)とアシンメトリ(非対称)の場合があります。特に、シンメトリの場合は要素をグループ分けする線が引けることが多く、三角形などの図形で示すことができます。

 シンメトリには統一や調和を意味することがあり、また作品によっては否定的な意味や厳密さ、そして融通の利かなさを意味することもあります。

 対してアシンメトリは、不道徳さや裏切り、嘘などの溢れるストーリーの中で、こうした性質を示すために非伝統的なものとして用いられることがあります。

この二つの構図は両方用いられる場合もあります。これらは組み合わされることで対立や緊張関係を意味します。

作品『ジョーカー』(2019年)

★簡単なあらすじ

舞台は1981年のゴッサム・シティ。大都市でありながらも、財政の崩壊により街には失業者や犯罪者があふれ、貧富の差は大きくなるばかり。そんな荒廃した街に住むアーサー・フレックは、ピエロとしてわずかな金を稼ぎながら、母親ペニーとつつましい生活を送っていた。しかし、アーサーには一流のコメディアンになるという夢があった。そんなある日、アーサーは同僚のランドルから受け取った拳銃を小児病棟の慰問中に落としてしまい、上司からクビを宣告される。さらにはその帰りの地下鉄で男三人に暴行を受けると反射的に銃殺してしまう…!

 今回のゼミでは作品『ジョーカー』を題材にこの「構図」を用いて分析を行いました。そして、構図のテーマの中でも「タイトとルースの対比構造」に注目し、議論を進めていきました。

 議論の流れで私たちは、社会から抑圧されてきたアーサーが、殺人を犯すことで権力からの解放を表す構図を探すことにしました。

 そして議論を進めていくと、あることに誰かが気付きました。

 それはゴミ袋の存在です。映画を通してアーサーの住む街には多くの黒いごみ袋が登場します。あらすじにもある通り彼の住む街は財政崩壊により治安が悪化しており、そこら中にゴミ袋が無造作に捨てられています。しかしながら、最後のアーサーがジョーカーとなって市民に崇められるフレームには一つもゴミ袋が登場しないのです!

 次に、私たちはゴミ袋をアーサーがジョーカーとなる前後で比較しました。

★タイトの時(ジョーカーになる前

 →ゴミ袋は中に詰まっているゴミ(人々)を抑え込む権力である。人々は中身の見えない黒い袋に縛られて生きている。つまり、権力によって人々は「市民」として生きることを強制されて生きている状態である。

★ルースの時(ジョーカーになった後)

 →ゴミ袋が消え、中身のゴミ(人々)は目に見える形になって顕在し、むき出しの性として権力に抵抗を始めた状態になったのである。

結論

 以上のことから、私たちのゼミでは『ジョーカー』を、ジョーカーというむき出しの性を体現する存在を通して、権力に抑え込まれ捨てられてしまった性を市民が取り戻す物語である。

という結論に至りました。

 最近急に寒くなりました。秋が好きなので楽しみにしていたはずなのに、気がついたらもうこんな気温です。どなたか夏さんに労働基準法を教えてあげてください。残業しすぎですよ。

 秋服、買ったのになぁ…

10期生 第2回 脱構築された世界

みなさま、こんにちは!秋学期第2回のブログを担当します、山崎日和です。

あっという間に春学期が終わり、夏休みも終わって、秋学期も学園祭期間に突入しました。最近どんどん1日が過ぎるのが早くなってきているような気がして、毎日時間が足りない!と焦ってしまう日々です。この回も受けてから1か月が経ってしまい、本当に遅ればせながらの執筆で申し訳ありません… 記憶を掘り起こしながら書いていきます。

秋学期からは春学期と打って変わって3限では理論についての論文等を、4限では何らかの作品を取り扱い、3限で学んだ理論を用いて4限で作品分析を行うという形式で進んでいきます。そして、春学期までは3限と4限で分けていた担当者も分けずに行うことになりました。何をやるかは担当者の興味に合わせて、ということなので、春学期とはまた少し雰囲気が変わると思います。

ということで、秋学期最初の(第1回はオリエンテーションだったので)担当者は中村さんです。今回はジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』を取り扱いました。

『闇の奥』は、テムズ川のヨットの上で元船乗りのマーロウが語る、自身のアフリカへの旅の話です。小説のほとんどがマーロウの語りで進んでいきます。叔母のつてで貿易会社に就職したマーロウは、コンゴ川の船の船長になり密林の奥へと旅に出ます。その道中では労働する黒人やそれを束ねる白人に出会いますが、みな「クルツ」という白人の優秀な社員のことを話します。クルツが気になるマーロウは船を進め、原住民からの襲撃の危機も乗り越えて、ついにクルツと彼を慕う青年と出会います。クルツは病気でしたが、未開部族の王となり象牙を集めていたことがわかりました。マーロウはクルツを保護し、アフリカについて話を聞きますが、思っていた回答は得られません。そうしているうちに船の中でクルツは「恐怖だ、恐怖だ」という言葉を残して死んでしまいます。ヨーロッパに帰るとクルツの関係者から次々訪問を受けましたが、最後にやってきたのはクルツの許嫁でした。彼女はクルツをとても尊敬しており、彼女にせがまれてマーロウはつい「クルツの最後の言葉はあなたの名前だった」と嘘をついてしまいました。

3限は『闇の奥』について脱構築批評を行った田尻芳樹さんの文章『空虚な中心への旅―脱構築批評』を読みました。

まずここで用いる理論「脱構築」について簡単に説明します。脱構築については春学期第10回の授業でも取り上げていますので、ご興味ある方はそちらも併せてご覧ください。

脱構築は、1967年、アルジェリア出身のフランスの哲学者ジャック・デリダによって提唱された考え方で、階層構造をもった二項対立が成り立たないことを主張するものです。デリダはその主張のために、ロゴス(音声)中心主義への批判を行いました。ロゴス中心主義では、音声こそが真理を純粋に体現するのであって、文字は音声を書き写した二次的なものだとされてきました。しかしデリダは、音声言語を説明するときには文字言語を例に取らざるを得ないことを指摘し、音声と文字の二項対立が成立しないことを明らかにしました。

また、アメリカの文芸理論家ポール・ド・マンは、すべての言葉は修辞的で意味は決定不可能なため、テクストの意味は常に誤読されると言います。これは、テクストは自らを脱構築し続けるとも言うことができます。

さらに脱構築と植民地の関係について、香港出身でアメリカで活動するレイ・チョウやイギリスのロバート・ヤングは、かつての構造主義といった理論はヨーロッパで生まれたものであり、それを批判する脱構築をはじめとしたポスト構造主義はヨーロッパの植民地主義への批判であると言います。簡単に言うと、脱構築とはポストコロニアル批評だったというわけです。

では次に、本題である『闇の奥』の分析へと入っていきます。

『闇の奥』の作者であるジョセフ・コンラッドは、ウクライナ生まれのポーランド人で、20代後半でイギリス国籍を取得した人物です。船乗りから作家になったという経歴を持ち、『闇の奥』も彼自身のコンゴへの旅に基づいています。

田尻さんは、この作品のテーマとして、文明と未開、西洋と非西洋、白人と黒人、男と女、光と闇といった様々な二項対立の脱構築を挙げています。これらの脱構築がマーロウの自己同一性に揺らぎを与え、さらに脱構築批評がポストコロニアル批評と関連することを明らかにしているのです。そしてその脱構築が起こる契機となったのがアフリカへの旅でした。田尻さんは、この旅を地理的にも心理的にも「暗黒で空虚な中心への旅」だと述べます。地理的には、空白だったアフリカの地図が、植民地主義によって暗黒の場所になったという描写から、マーロウが向かうアフリカという暗黒の土地の中心は空虚であると言えます。また心理的には、クルツの心に空虚さと暗黒が重ねられています。マーロウはこういった空虚に触れることで自己同一性が崩壊し(脱構築され)、ある種の自己認識に達したと、田尻さんは言います。

4限の議論では、3限の田尻さんの分析に登場する「暗黒」と「空虚」、「空白」の意味について考えました。アフリカの地図の描写から、「空白」は意味がつけられていないもの、「暗黒」は意味が定義されているものだということがわかります。さらに、アフリカに行き空虚になった白人のクルツを考えると、「空虚」は脱構築されたものであると言うことができます。これは「暗黒」と対立するため、「空虚」は意味が定義できないものだと言うことができます。

また、田尻さんの分析はマーロウの語りのみを取り上げていることについても考えました。『闇の奥』はマーロウの語りがほとんどですが、一部その語りを聞いている船乗りの視点も描かれています。つまり、作中のクルツなどの人物はマーロウの視点と語りを聞く船乗りの視点という2つの視点を通して描かれているのです。田尻さんはマーロウの語りのみを取り上げましたが、そこには別の船乗りの考えも反映されていることを考慮に入れる必要があったのではないかという結論に至りました。

今回のブログは以上です。今回の授業では春学期よりも深く脱構築について考えられたと思います。脱構築はその後の批評理論に大きな影響を与えているので、秋学期の最初で取り扱えてよかったです。

それではみなさま、また他の記事でお会いしましょう!

9期生第14回 『映画の理論』第12章 演劇的なストーリー ~演劇と映画の狭間で~

寒い、寒すぎる。着る服困る。どうしよう

どうも、お久しぶりです。3回目の登場になります、宮澤です。

今回で、今学期の授業は終わり。4年春学期、最後のブログになります。(大トリだぁ)

いやそれにしても、皆さん。ほんっとうに、お久しぶりですね!

季節は冬に差し掛かり、服に困るほど寒くなってまいりました。

うん、おかしい、、、

春学期の最後の授業が終わったのは、夏休み前で。でも、今はめちゃくちゃ寒い、もう11月だし。

これ示すのは、いかなることか。(お察しください)

ということで。最後の授業の余韻をかみしめながら(思い出しながら?)、ブログを書いていきたいと思います。

今回のゼミで扱った理論は、ジークフリートの『映画の理論』第12章演劇的なストーリー。作品は、『ロミオとジュリエット』です

学習内容

今回は、映画における演劇的なストーリーについて学習しました。

まず、演劇的なストーリーとは何でしょうか?

演劇的なストーリーの特徴は、主に2つあります。

1つ目は、登場人物や人間関係に対し、強い関心を向けること。そのため、プロットの中心は人間的な出来事や経験になり、その他の物理的な現実は省略されて表現されます。

2つ目は、イデオロギー的な1つの軸を中心に、物語全体が構成されており、閉じたストーリーであること。プルーストは、「戯曲の筋に寄与することのない一切のイメージを無視し、筋の目標を理解させてくれるようなイメージだけ残す」と述べています。

本理論書の中で、演劇的なストーリーは「非映画的なストーリー形式」と言い換えられています。簡単に言うと、演劇的なストーリーは、映画ととても相性が悪いということです。

では、なぜ両者の相性は最悪なのか?

ずばり!演劇の特徴と、映画の特徴は真逆だからです。上記で学習したように、演劇は、イデオロギー的な閉じたストーリーを重視し、登場人物や人間関係以外の描写を軽視する傾向があります。そのため「ストーリー>映像」という構造を持ち、ストーリー・登場人物・人間関係に関係のない、物理的な描写や無機物の描写がされることはありません。

一方、映画は、「映像>ストーリー」という構造を持ち、舞台上で認められない一時的な印象や関係を表現する傾向があります。例えば、登場人物が悲しんでいる場面に、雨が降っている空の場面を差しはさむなど。

演劇的な観点から見れば、雨(無機物)と登場人物は何の関係もないため、雨の描写は必要ありません。しかし、映画的な観点からみると、雨(無機物)は、登場人物の悲しみを間接的に表現することができる素材であるため、あえて描写する必要があるということです。

このように、演劇と映画は相反する特徴があり、とても相性が悪いのです、、、泣

そんな、仲の悪ーい演劇と映画。ところがどっこい、映画に演劇的なストーリーを組み込んじゃおという試みがされたことがあります。例えば、1908年『ギーズ公の暗殺』がその代表です。

この時代には、映画という媒体は、他の媒体に比べて軽視される傾向がありました。映画は、芸術ではなく、大衆向けの単なる娯楽という認識しかされていなかったのです。そのため、映画作品の名誉回復を目指し、ブルジョアの好む演劇と同じ路線を踏襲しようとしたらしいです

そんなこんなで、演劇的なストーリーを映画に適合させるため、様々な方法が実践されました。しかし、いずれも両者の間にある矛盾を解消することはできなかったようです。

以上の学習から、演劇的なストーリーと映画的な説話が、相容れることは決してないという結論に至りました。しかし、両者には相容れない矛盾があることを理解することが、何よりも大事なのかもしれませんね

【作品分析】

以上の学習内容を踏まえて、『ロミオとジュリエット』はどのような作品だと言えるでしょうか。

私たちは、映画版の演劇を見たい観客に向けて作られた作品であると結論づけました。具体的には、演劇が大好きなブルジョア層に向けて作られた作品だと考えます。

本作の大半の場面は、ストーリーに沿って構成されています。そのため、原作に忠実に作られているということもあり「ストーリー>映像」という構造を持つ、演劇的なストーリーの映画と言えるでしょう。

しかし、所々に映画的な要素が散りばめられているのも、本作の特徴です。例えば、ロミオとジュリエットがダンスをする場面では、登場人物と一緒にカメラ(観客の視点)がぐるぐる回るような演出がされています。また、ジュリエットが牧師から薬をもらう場面では、ジュリエットと牧師の顔が交互に映される演出がされています。これらのカメラワークは、演劇にはない、映画的な要素だと言えます。

また、ロミオとジュリエットが城で出会う場面では、演劇的要素と映画的要素が混在していると考えられます。この場面において、ロミオとジュリエットの台詞は、原作に沿っており、演劇的です。しかし、背景の城や木々は、リアルな無機物を扱っており、映画的です。

このように『ロミオとジュリエット』は、演劇的ストーリーを主軸にしつつ、映画の技法を用いることで、物理的な現実を反映した映画的な側面もある作品であると考えられます。

以上の分析を踏まえ、私たちは以下の結論を導きました。

結論:「ストーリー>映像」という演劇的な要素を重視しつつ、映画的な要素があることから、『ロミオとジュリエット』は映画版の演劇を見たい観客に向けて作られた作品である。

4年春学期最後のブログはここまで!

次のブログがあるとしたら、3月の研究成果発表会になるかとおもいます

その頃はもう、入社間近。(まじか)

これが宮澤最後のブログかもしれませんが、いつか再びお会いできればと思います。

では、最後になるかもしれないので、引退するアイドルみたいに退場させてください

私のことは嫌いでも、ゼミのことは嫌いにならないでください!!!

また会う日まで。アディオス

10期生 第13回 労働者が世界を変える

みなさま、こんにちは!春学期第13回のブログを担当します、山崎日和です。

今回も春学期の授業内容です。秋学期に入っているのに… アップが遅くなり申し訳ありません。前後の授業内容を確認したい方は、さかのぼってご覧ください。

前座

今回の前座ではユニバーサルスタジオジャパン(USJ)の常設ショー、「WATER WORLD」について紹介しました。

このショーは同名の映画が元になったアクションショーです。その魅力は何といってもアクションやスタント!ハリウッド仕込みの本格的なものがいつでも楽しめるんです。

USJではほぼ毎日、1日約4回公演が行われているので、もし遊びに行く機会があればぜひ見にいってみてください!

3限 「マルクス主義批評」「文化批評」

今回の3限は秋尾さんの担当で、『批評理論入門』から「マルクス主義批評」と「文化批評」について学びました。

「マルクス主義批評」

マルクス主義とは、ドイツの哲学者、カールマルクスによって提示された考え方です。マルクスは、社会の歴史を階級闘争の歴史だと考え、その闘争が起こる原因が生産関係であること、またそういった生産関係や経済といった下部構造が政治や法、思想などの上部構造を規定することを主張しています。階級闘争というのは、ブルジョワジーと賃金労働者の対立といった生産関係において搾取―被搾取の関係にある者同士の間に起こります。搾取されていた人々が搾取に気付くことで闘争が起こり、その結果社会が発展してきたのです。マルクスは、その究極として共産主義があるとしています。また、そうした生産関係の闘争から社会が変化することから、下部構造は上部構造を規定すると言うことができます。

マルクス主義批評はこのマルクス主義を作品分析に適用した批評理論です。具体的には下部構造から上部構造を読み取ったり、生産力と生産関係の矛盾を見出したりすることで分析を行います。

この理論を用いて『フランケンシュタイン』を見てみると、作品内で描かれる歴史的状況や怪物という存在などがマルクス主義的だと言うことができます。

今回の議論では、『批評理論入門』ではマルクス主義批評の内容は詳しく説明されておらず曖昧だったため、読んでいて違和感があるという意見がありました。

また、『フランケンシュタイン』に登場する「怪物」を市民や労働者階級だと考えると、「怪物」の行動を同情的であれ悪いこととして描くこの作品では、闘争や革命を悪と考えているのではないか、という意見も出ました。こうした描かれ方から、作者であるメアリ・シェリーは革命を良く思っていなかったのではないか、そしてそれはメアリ自身が上流階級、つまり搾取する側だったからなのではないか、と結論付けました。

マルクス主義については4限でも取り扱ったので、そちらも併せてご覧ください。

「文化批評」

文化批評とは、知識階級向けの「ハイ・カルチャー」だけでなく、一般大衆向けの「ロウ・カルチャー」も文化として捉え、それらの境界を取り払うことを目指した文化研究(カルチュラル・スタディーズ)の考え方を土台とした批評方法です。これは、マルクス主義批評の影響を受けたものでもあります。具体的には、文学テキストがいかにしてハイ・カルチャーとロウ・カルチャーの間を行き来してきたかという過程を検証する方法や、原作を映画やドラマ、漫画などの翻案と比較する方法、文学作品を通俗的な読み物として読む方法、時代の文化的背景において重要なモチーフやテーマを作品から取り出す方法など、様々な方法があります。

『批評理論入門』では『フランケンシュタイン』について文化批評を試みていますが、その内容は『フランケンシュタイン』の翻案を並べただけであり、それによって何が言えるかまで書かれていなかったため、批評としては不十分ではないかとゼミ生同士で意見が一致しました。

その後、この理論を用いるのにはどのような作品が良いかについて議論を交わし、『パラサイト』や『レディ・プレイヤー1』などが挙がりました。

私は、この理論は上手く分析に用いれば面白い結論を出せるのではないかと感じました。

4限 カール・マルクス『資本論』、『共産党宣言』

4限は中村さんの担当で、カール・マルクスの『資本論』と『共産党宣言』の一部を読みました。

『資本論』

ここでは、商品についての箇所を取り上げました。

マルクスは、商品とは外的対象として、人間の何らかの欲望を満たすものであり、使用価値と交換価値をもつものだと述べています。欲望を満たすものである、というのはわかりやすいですが、使用価値と交換価値とは何でしょうか?

使用価値とは、物自体を使う価値のことです。ここでは時計を例に出して考えます。時計は時間を確認するという属性を持っています。この属性が使用価値です。使用価値は使用されることでしか実現されません。

一方で交換価値とは、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率のことです。そしてそれは絶えず変化します。これは物々交換や売買について考えるとわかりやすいです。小麦について考えてみると、1クオーターの小麦がある量の靴墨と交換できるとき、それは異なる使用価値が交換されていることになります。さらに、1クオーターの小麦をお金で買うこともできます。これがいくらかは時代や場所によって変化します。この比率が交換価値です。

この交換価値は交換されるもの同士で共通するものです。つまり、その2つのものは同じ価値を持っていることを意味します。なぜ同じ価値であるのか。マルクスはその理由を労働力が同じであるからだとしています。労働力が多ければ多いほど価値は上がります。しかしこれは生産力とは反比例します。同じ量を生産する時、生産力が大きいほど労働時間は短く、その分労働力が少なくなるからです。このように、商品の価値には労働、生産が大きく関わっているのです。

この文章を読んだ後の議論では、労働力の変化と価値の大きさが比例するのであれば、労働賃金が最低賃金で一定なのはおかしいのではないかという意見や、人件費を抑えるのは交換価値を上げないためだという意見が出ました。

『共産党宣言』

ここではブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争についての箇所を取り上げました。

マルクスは、これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史であるとし、抑圧者と被抑圧者の絶え間ない対立は革命か共倒れに終わってきたと述べています。

ブルジョワジーも元々は封建領主に支配されていた存在であり、自らの力でその関係を打ち壊した革命者でした。それまでの宗教的な支配を取り払い、利害関係に重点を置いた社会へと変革したのです。具体的には、生産用具を改良し通信を容易にすることで農村を都市に依存させ、生産力を高めると同時に政治もブルジョワジーに集中させました。これにより階級支配が行われました。

これに対抗したのがプロレタリアートです。かつては労働者だった彼らは、ブルジョワジーによる機械と監視によって奴隷化され没落しました。機械と監視によって、均一化させられたのです。彼らは自らの地位を取り戻すために、まずは個々の労働者が個々のブルジョワジーと戦い始めます。そこから次第に労働賃金の維持を求める同盟を結ぶようになります。プロレタリアートにとって、この同盟、団結が闘争の成果でした。それは、結びつくことによってそれぞれの小さな闘争が一つの国民的な闘争、階級闘争、ひいては政治闘争になるからです。このようにしてブルジョワジーとプロレタリアートの闘争は行われたのです。

この文章を読んだ後の議論では、本文の内容から派生して、労働者と雇用主の関係はある程度相互的な依存関係にあるのではないかということについて話し合いました。労働者がいなければ商品などの価値は生まれないため、雇用主は労働者をないがしろにはできないのではないでしょうか。しかし実際にはどうしても労働者の方が苦しい思いをするのが現状です。これを解決するにはどうすればよいのでしょうか。私たちの議論では、相互評価や第三者の介入によって解決していけるのではないかという結論になりました。

今回の授業ではマルクス主義について詳しく学びました。生産関係など、現実の自分の身の回りにも当てはめて考えることができたと思います。みなさんはどうお考えになりますか?ぜひこの記事をきっかけに考えてみてください!

10期生 第10回 脱構築って何???

みなさま、こんにちは!今回のブログを担当します、山崎日和です。

この記事は春学期の第10回のものです。気づいたら授業からものすごい時間が経ってしまいました… 順番が前後し申し訳ありませんが、前後の記事はだいぶ下の方にありますので、さかのぼってご覧ください。

今回、3限では「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」の3つのテーマを、4限ではジャック・デリダの『根源の彼方に―グラマトロジーについて』を取り上げて「脱構築」について学びました。

前座

今回の前座は私が担当でした。紹介したのは、まらしぃさんというピアニストの方です。

この方は、主にYouTubeでアニソンやボカロなどのピアノアレンジを投稿しています。ピアノ、ということは歌詞がないわけです。そのため、私はよく作業用BGMや睡眠BGMとして聞いています。

特におすすめのものとして、「ちょっとつよいクラシック」と「メドレー」を上げさせていただきました。詳細は省きますが、気になった方はぜひYouTubeで調べて聞いてみてください!

3限 「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」

今回の3限は秋尾さんの担当で、『批評理論入門』から「ジャンル批評」、「読者反応批評」、「文体論的批評」の3つのテーマについて学びました。

「ジャンル批評」

ジャンル批評とは、その名の通りジャンルに関わる諸問題を扱う批評です。ジャンルには、形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあり、このことから文学作品が既存の作品群と関係を持つことがわかります。

本文では『フランケンシュタイン』に関する4つのジャンルについて紹介されていました。

①ロマン主義文学

ロマン主義とは、啓蒙主義への反動として現れたもので、自我や個人の経験、無限なるものや超自然的なものを重視するものです。初期ロマン主義では、恐怖、情念、崇高さなどが作品に取り込まれました。後期ロマン主義では、旅、幼年時代の回想、報われない愛、追放された主人公などがテーマとして取り上げられました。

『フランケンシュタイン』は、恐怖や無限なるもの、超自然的なものをテーマとしているという、ロマン主義文学的な側面を持ちます。また、作中に登場する『若きウェルテルの悩み』もロマン主義文学であることから、ロマン主義の思想の影響が濃く反映されていると言えます。

②ゴシック小説

ゴシック小説は、18世紀後半から19世紀初頭を中心に流行した、ロマン主義文学の一種です。中世の異国的な城や館を舞台として、超自然的な現象や陰惨な出来事が展開する恐怖小説です。

『フランケンシュタイン』は、恐怖を主題とし、不気味な描写や陰惨な出来事などを有しているため、ゴシック小説的な要素を持つと言えます。しかし、リアリスティックな描写や自然の神秘に乱入することなど、伝統的なゴシック小説とは相反する要素も持っています。

③リアリズム小説

リアリズムとは、人生を客観的に描写し、物事をあるがままの真の姿で捉えようとする考え方で、ロマン主義とは対極に位置するものです。小説では具体的に、非現実的な描写や美化を避け、人生における日常的・即物的側面を写実的に描くという方法がとられます。

『フランケンシュタイン』では、前述のように、リアリスティックな描写がなされています。たとえば、怪物の超人的な身体特徴や言葉を話す理由付けが描かれていたり、人造人間を造ることへの化学的説明がなされていたりします。一見するとロマン主義的性質の強い『フランケンシュタイン』ですが、相反するリアリズム的性質も取り入れられているのは、この作品の特徴と言えます。

④サイエンス・フィクション

サイエンス・フィクション、通称SFとは、空想上の科学技術の発達に基づく物語を指します。この定義が確立したのは20世紀初頭ですが、この要素を取り入れた作品はそれ以前から存在したと考えられています。

『フランケンシュタイン』は、科学者によって新しい生物が製造されるという発想や、怪物に生命を吹き込む際、電気が関与した可能性がある点から、しばしば最初の本格的なSFとして位置づけられています。

発表の後の議論では、2つのことについて取り上げました。1つ目は、ゴシック小説の舞台はなぜイギリスではないのかについてです。ゴシック小説はイギリスを中心に流行したものですが、その舞台はイタリアやフランス、ドイツなどです。その理由として、近代化していない国を舞台としたかったということが挙げられました。当時、ゴシック小説の題材は超自然的な怪奇現象であり、これは近代化したイギリスでは起こるはずがないこと、中世的な異国で起こることという偏見があったようです。この思想は、日本の怪談の舞台として都会よりも田舎が用いられる、ということに似ている、という意見もありました。

2つ目は、ジャンルを有効に用いるにはどうすればよいかについてです。本文中にも登場したツヴェタン・トドロフによると、「ジャンルとは、つねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるもの」です。この考えに則すると、ロマン主義とリアリズムは両立しえないことになります。しかし、『フランケンシュタイン』はその両方の要素を併せ持つものと今回定義されました。今回の定義から一般化すると、反発するジャンルでも両立し得ると言うことができます。また、1つの作品に含まれるジャンルは1つではないことも『フランケンシュタイン』の例からわかります。さらに、『フランケンシュタイン』に新たな包括的なジャンルを付与することもできると考えられます。このように考えていくことで、ジャンルそのものの発展へ繋がっていくのではないか。今回はこのように結論付けました。

ジャンルを批評理論として用いることができるのか、みなさんはどうお考えになりますか?

「読者反応批評」

読者反応批評は1970年代頃に登場し、テクストが読者の心にどのように働きかけるかという問題に焦点を置いた理論です。従来、読者は作者がテクストに埋め込んだものを受動的に受け取る者として捉えられていました。しかしこの理論では、テクストに活発に関わりテクストとの共同作業によって意味を生産する存在として再定義されています。これを見ると、読者がどんな読み方をしてもいいと言っているように見えますが、実際にはそうではありません。この理論では、一定の水準に達した資質の持ち主(文学を読んだ経験が豊富な読者や作品に想定されているような読者)のみが読者なのです。また、この理論の対象となるテクストは、読者を刺激し挑発するようなものが想定されています。『フランケンシュタイン』においては、作中の「読む」という行為や手紙という形式、語りの入れ子構造といった点が読者反応批評的に解釈できます。

この「一定の水準に達した資質の持ち主のみが読者である」という定義には疑問を感じますが、この理論が誕生した当時は小説はハイカルチャーであり、それを研究できるのは大学に行ける上流階級の人のみだったため、それに当てはまるような人しか想定されていなかった、と考えられます。

この理論に関してはすでに上がっている記事「第9回 読書ってどうなってるの?」において、同様の理論を提示したヴォルフガング・イーザーの文章について記載がありますので、興味のある方はぜひそちらも見てみてください。

「文体論的批評」

文体論とは、テクストにおける言語学的要素、つまり単語や語法などに着目し、作者がいかにしてそれらを用いているかを科学的に分析する研究方法です。

この理論を用いて『フランケンシュタイン』を分析すると、長く複雑な文や曖昧な内容からはフランケンシュタインの人物的特徴が読み取れ、そこから逸脱した短い文や単純な構造によってより出来事への緊張感が高まるように描かれています。

4限 ジャック・デリダ『根源の彼方に―グラマトロジーについて』

4限は中村さんの担当で、ジャック・デリダの『根源の彼方に―グラマトロジーについて』を読みました。

デリダは、アルジェリア出身のフランスの哲学者で、「脱構築」という概念を提唱しました。今回読んだ文章はその概念を用いたものです。では、文章の内容に入る前に、脱構築とはどういう概念か確認しましょう。

脱構築とは、あるテクストからその中心的思想とそれと対立するような思想を同時に取り出し、後者によって前者を、あるいはその思想総体そのものを相対化する方法です。もっと砕けたように言うと、Aという思想とBという思想が対立していると考えられるとき、Aの中にBの要素を見出す、もしくはその対立の背景を見ることによって、AとBが対立していないことを示す方法です。今回の文章は脱構築の具体例なので、以下でさらに詳しく見ていきましょう。

デリダは本文でロゴス中心主義があらゆる世界を支配していると述べています。ロゴス中心主義とは、ロゴス(真理)は事象の背後に存在する、つまり言葉よりも先に意味があったという考え方です。デリダはこの考え方を表音文字の形而上学であり、強力な民族中心主義であると言います。この考えの支配が表れているものとして、文字言語(エクリチュール)の概念、形而上学(哲学)の歴史、科学の概念の3つが挙げられています。ロゴス中心主義では文字言語よりも音声言語の方がよりロゴスが伝わりやすいと考えられており、文字言語は単に音声言語を文字化したものであるとされていました。これは文字言語が音声言語、ひいてはロゴス中心主義に支配されていると言い換えることができます。また、ロゴス中心主義とは形而上学における考え方です。そのため、形而上学を支配しているとも言えるでしょう。さらに、科学は非音声的な表記を行っているため、一見するとロゴス中心主義に対抗しているように感じますが、実際は形而上学と同様のロゴス中心主義から成り立っています。つまり、科学もロゴス中心主義に支配されているのです。

デリダはこれらを指摘し、中でも文字言語と音声言語の関係に関して、グラマトロジーという概念を提示しました。これは、音声言語の文字化が文字言語なのではなく、思考を文字化したものが文字言語なのだということを意味します。これはアルファベットと漢字について考えてみるとより理解しやすくなると思います。アルファベットは表音文字、つまり音声を文字化したものです。しかし、漢字は表意文字、つまり意味を文字化したものです。こう考えると、音声言語→文字言語という先後関係が必ずしも正しいわけではないことがわかります。これが、音声言語→文字言語の脱構築です。

脱構築という概念について、少しはご理解いただけたでしょうか?この概念はこれ以降の授業で扱う理論の成立のきっかけになっています。なかなかに複雑な概念なので上手く説明ができたか不安ですが、なんとなくでも脱構築について知っていただけたら嬉しいです。

それでは、今回のブログはこのあたりで。みなさま、また他の記事でお会いしましょう!

10期生第14回 生の権力はいかにしてできたのか

10期生春学期第14回のブログを担当します。中村美咲子です。

今回は、山崎さんに、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「ポストコロニアル批評」と「新歴史主義」について、秋尾さんに、ミシェル・フーコーの『性の歴史Ⅰ 知への意志』について、それぞれ発表をしてもらいました。

『批評理論入門』は、それぞれの理論についての説明があり、その理論を使って『フランケンシュタイン』を分析していました。

ポストコロニアル批評

ポストコロニアル批評は、西洋によって植民地化された第三世界の文学作品を扱う批評で、植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究する方法と、帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品に植民地がいかに描かれているか分析する方法に分けられます。

『フランケンシュタイン』は、帝国主義文化圏から生まれた文学作品です。この作品でポストコロニアル批評を実践すると、オリエンタリズム的描写や帝国主義的な描写が描かれているといいます。それは、トルコ人親子や怪物に関する描写から見られるそうです。トルコ人親子は民族的な偏見のために無実の罪を着せられた犠牲者と、狡猾な忘恩者の2つの側面を持つ存在として描かれます。しかし、娘のサフィーはキリスト教徒であることから肯定的に描かれていると考えられます。

また黄色人種のような見た目の怪物が言葉を学ぶ場面では、アジア人の劣性とヨーロッパ人の先天的・文化的優性が対比されます。このようにいくつかの点で、『フランケンシュタイン』はオリエンタリズム的で、帝国主義的だといえます。

発表の中で、『ピーターパン』においても、インディアンを描いた場面で偏見の含まれた描写があることを知りました。

新歴史主義

新歴史主義は、ニュー・クリティシズムに対抗するものとして誕生しました。また、既存の歴史主義は、出来事を重視して歴史を文学作品の「背景」であるとみなしますが、新歴史主義は出来事としての歴史だけでなく社会学や文化人類学含めた「社会科学」という領域のテクストと文学テクストの境界を取り払って分析を行います。

『フランケンシュタイン』においては、怪物の創造に関して、新歴史主義で分析を行っています。そして、歴史資料の中で、人造人間製作や自然科学といった点で影響を受けていることを指摘しています。

性の歴史Ⅰ 知への意志

今回の授業では、この文章の一部分のみを取り上げて発表をしてもらいました。

その中で、主張されていたことは、現代における権力のメカニズムが、生の権力であることとそれが性と結びついて性の政治的な文脈を生み出しているということです。

まず告白という行為が、性に関する言説を産出していることがいわれています。そして、「性的欲望」によって、その告白が科学と結びつけられたとされます。そしてこの「性的欲望」はわれわれの主体と形成するものなのです。

次にこの性的欲望は権力において、道具として形成されます。それは性的欲望の装置であり、家族という形態の中に組み込まれて発展します。

最後に、「死」の権利が「生権力」に移行していったことがいえます。つまり、政治が生を管理することに興味をもちはじめたのです。そしてそれは、資本主義の発達に不可欠なものでした。さらに、性的欲望が身体の規律や人口の管理に結びつくことから重要視されます。このように生を管理する政治がおこなわれ、性的欲望と結びついているのだといいます。

若干飛び飛びの内容になってしまいましたが、発表の内容は以上です。

更新が遅くなってしまいましたが、今回が春学期の最終回でした。この半年間たくさんのことを学び、ゼミ生同士もたくさん交流ができたので、秋学期も多くのことを学べるようにがんばりたいと思います。

最後までお読みくださりありがとうございました。

10期生第11回 セックスは構築物である

10期生春学期第11回のブログを担当します。中村美咲子です。

今回の3限では、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「脱構築批評」と「精神分析批評」についてダンドレアさんに発表してもらいました。

4限では、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の一部分を秋尾さんに発表してもらいました。

脱構築批評

まず、脱構築批評とは、ジャック・デリダの提唱した理論で、テクストが矛盾や不一致を内包していることを示し、その矛盾がテクストの意味を決定不可能にすることを証明しようとしました。つまり、テクストに焦点をおいて、そこに見られる二項対立を解体するのです。

『フランケンシュタイン』においては、死体から生命を創造する試みによって多くの犠牲をもたらします。そこで、生と死、美と醜、光と闇といった二項対立が崩壊し、境界が曖昧になります。また、フランケンシュタインと怪物の関係の優劣や主従階層が逆転する様子が描かれていると指摘しています。

この文章において、脱構築の手法については詳しく書かれているものの、二項対立が崩壊したことによって何が起きているのかという解釈を導くことに触れられていなかった点が問題であると議論しました。

精神分析批評

精神分析批評については、フロイトの理論、ユングの理論、神話批評の3つを取り上げていました。まず、フロイトの理論については、自我やイド、スーパーエゴが『フランケンシュタイン』の分析を応用できるとして、エディプス・コンプレックスとファミリー・ロマンスの影響を指摘しています。エディプス・コンプレックスは、幼い男児が母親に対して抑圧された欲望を持つというもので、ヴィクターのもつこの欲望が怪物として具現化されたと解釈しています。また、親から十分な愛情を受けなかった子供が創作を通じて欲望を満たすことを「神経症患者のファミリー・ロマンス」と名づけたのですが、この『フランケンシュタイン』もファミリー・ロマンスを反映させた作品だといっています。

次にユングの理論では、集団的無意識によって継承された心象=「原型」が夢や文学作品にあらわれるといいます。『フランケンシュタイン』にみられる「原型」のパターンとして、「影」「ペルソナ」「アニマ」を挙げている。「影」は、フランケンシュタインにおける怪物で、彼の抑圧された本能や汚れの象徴とされます。「ペルソナ」はフランケンシュタインが良家の息子であるということで、その内部の抑圧された本能や欲望が怪物としてあらわれたのです。「アニマ」はフランケンシュタインにとってのエリザベスで、彼女が怪物によって殺されてしまうことで、人格の統一を失い、自身の影との対決を決意するのです。

神話批評では、個人を超えた人間経験の原型を文学作品に探し当てる批評法です。『フランケンシュタイン』においては、フランケンシュタインが神話のプロメテウスのように、人類に恩恵を与える英雄であることがうかがえます。また、フランケンシュタインは英雄としての試練に失敗し、怪物という災いをもたらします。この災いから、英雄の死をもって国を救うというモチーフを、フランケンシュタインと怪物の死からみることができます。

ジェンダー・トラブル

ここでは、セックスとジェンダーの概念の捉え方について、セックスからジェンダーが規定されるのではなく、ジェンダーによって社会的にセックスが構築されていると主張されます。さらに、ジェンダーはセックスのように、固定化されたものではなく、身体が身に纏う文化的意味でこれも構築物だといいます。

この主張を踏まえて、現代の日本においては、セックスやジェンダーが構築物であるという認識は広まっていないだろうという意見がありました。この認識がより共有されることが重要であるが、メディアにおいてはあまり的を得た議論はされておらず、むしろ特定のマンガやアニメにおける表象の方が適切にこの主張が反映されているのではないかと話し合いがおこなわれました。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。