秋学期第3回のブログを担当します。中村美咲子です。
長い夏休みも終わりついに秋学期がはじまって1ヶ月ほど経過しました。今学期はベトナムからの留学生のフエンさんともゼミの活動が行えるので、ますますよいゼミ活動になっていけたらと思います。
今週取り上げたのは、ジョルジュ・アガンベンの『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』です。この本では、ホモ・サケルについてローマ古法に存在する殺害可能で犠牲化不可能な存在であるとしています。つまり法律上では、彼を殺しても裁くことができないのです。これまでのフーコーなどによる生政治は、近代に特有なものだとされていましたが、アガンベンはホモ・サケルが現代にも適用されることから、この「生政治」の在り方が古代ローマから続くものであると主張しています。
この『ホモ・サケル』について理解を深めたあと、われわれはスティーブン・スピルバーグ監督の映画『レディ・プレイヤー1』の分析を行いました。
この作品では世界的に普及したVRオアシスの設立者であるジェームス・ハリデーが死後、オアシス内に3つの鍵を残したといいます。その鍵を手に入れたものはオアシスの管理権限を得ることができるため多くのプレイヤーが鍵を求めて争いをおこなっています。そして、この映画は主人公のウェイドが鍵を探す冒険の物語だということができます。
現実の世界とオアシスの世界が存在していることから、『レディ・プレイヤー1』におけるオアシスがどのような世界なのかホモ・サケルの理論を踏まえて検討しました。最終的に、オアシスでの殺害行為は、アバターを消すことしかできずそれを咎める法が存在していないことから、オアシスはホモ・サケルが存在しない世界だと結論づけました。
さて、この『レディ・プレイヤー1』については第5回の議論でも取り上げることになりました。今週の議論では、作品の構造について検討する時間が長くなってしまい内容の分析の時間をあまり取れなかったため、第5回はもっとおもしろい議論ができるよう精進していきたいです。最後までお読みいただきありがとうございました。