9期生 第12回 可能性のある大人になりたい

みなさんお久しぶりでございます。9期生の高山です!

実は私はこれが今学期最初で最後のブログ担当回です。

学期始めに、授業内での発表とブログ担当の回数がゼミのメンバー内である程度平等になるようにしたはずだったのですが、色々変更などがあった結果、いつの間にかブログの担当は1回分になっていました。

これでよかったのか…?と後になって思ったのですが、発表は3回分担当していて、昨年度の研究発表会のブログも書いたのでそれでトントンということであってほしいです。

 

 

さて、今回扱ったのは『映画で入門 カルチュラルスタディーズ』の第3章 子ども でした。

この章で筆者が取り上げている映画は『亀も空を飛ぶ』です。

『亀も空を飛ぶ』は、戦争と民族迫害によって早く成長せざるを得なかった少年たちを描いた作品で、筆者は〈空〉〈戦争〉〈目〉〈四肢〉〈偶像〉の観点から、子どもにはまなざしとか身体の力が備わっており、可能性のある存在だと述べています。

 

具体的には、

登場人物が眼鏡をかけていることや登場人物の予知能力、登場人物の目が悪いことへの言及から、子どもの目の方が大人より真実を見通していることが表されている

といった具合です。

 

この作品では、夢や幻想は不幸の予兆ではありつつも、想像することや望むことの権利が示されており、子どもたちは憧れや夢を抱き続ける存在だそうです。

 

 

これを踏まえ、今回のゼミでは『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の解釈を行いました。

メインの視聴者層である子どもだけでなく、大人が見てもおもしろい感動作ということで、他の授業でも取り上げられていた記憶があります。

 

あらすじとしては、

春日部に20世紀博という万博を模したテーマパーク(?)が作られ、20世紀博の創立者らの企みによって大人たちは大人であることをやめ、20世紀博の懐かしい世界に取り込まれてしまう。子どもたちも20世紀博の組織の隊員らによって捕まってしまうが、しんのすけは逃げ切り、家族の正気を取り戻し、20世紀博の創立者の計画を止める。それにより、日本中の人々は元に戻り、現実の21世紀を生きられるようになった。

といったところでしょうか。

 

この作品を〈子どもの可能性〉の観点から見ていきました。

作品の中盤までは、子ども化した大人たちがヒーローごっこをしていたり、しんちゃんたち子どもがバーにいたり、〈子ども=何にでもなれる存在〉として描かれていました。

 

しかし、最終的には大人の子ども性は否定され、消費社会で大人たちは生産性を持っていきていかなければならないという結末に至ります。

大人たちが子ども化していた時は可能性が開かれていましたが、元の世界に戻ったらその可能性は閉じられ、大人と子どもでお互いの可能性を束縛し合う関係構築をしていかなければならない、実際には何にもなれないというバッドエンド…

かと思われたのですが、

そもそも〈子ども=何にでもなれる存在〉ということ自体が子どもにとっての幻想・偶像だったのではないでしょうか。

 

大人たちはこの幻想・偶像を破壊することができませんでしたが、子どもたちは自身で破壊します。

これは、何にもなれなかったという後悔のない今現在の子どもにしかできないことだったのです。

つまり、【子どもには幻想・偶像を破壊できるという可能性がある】ということを描いた作品だという結論に至りました。

 

一瞬、子どもは結局何にもなれない、可能性はないという暗い結論にたどり着きそうになりましたが、なんとか回避することができました。

 

 

実際、私はバイト先で小学生と毎週話しているのですが、子どもには可能性や選択肢がたくさんあるなぁと感じたりします。

自分自身に関して言えば、成人はしていてもまだ学生だし、実家暮らしで親に頼っている部分が多いし、なんとなくまだ子どもの意識がありつつ、早く大人になりたいというか自立したい気持ちもあります。就職したら大人だという自意識がはっきり芽生えるのでしょうか…。

何にせよ、大人になっても可能性を捨てずに選択肢を増やしていく人生を送りたいですね

 

では、おそらく秋学期にまたお会いしましょう~

お読みいただきありがとうございました!

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