こんにちは!今回のブログを担当する白井翔大です。今回は、内田樹『映画の構造分析』第一章 抑圧と分析的知性でした。
キーワード
抑圧、欲望、ラカン、フロイト
大論点「抑圧されたものとは、作品にどのような要素をもたらすのか」
→できるだけ多様な次なる解釈の起点となり得るような解釈を生み出すきっかけ
中論点1 抑圧されたものとは?
→意味はないもの。
小論点1 どのようなものか?
→自然すぎるところに生まれるもの。
論拠
・物語の微妙な仕方での破綻の中にある。
・その中に意外なものを探そうとするが、その正体は「主体が期待していたものではない」
小論点2 抑圧されたものに重要なことは何か?
→それが何であるかより、どのように隠されているのかが重要である。
論拠
・かくれんぼのように、その中身より(何が正体かより)、隠され方を見破ることに意義がある。
中論点2 抑圧されたものはどのように隠されているのか?
→手紙という記号に変えられることによって表されている。
論拠
エドガー・アラン・ポー『盗まれた手紙』の分析
手紙を持つと、マヒ状態になり、身動きが取れなくなる。
小論点1 抑圧されたものはなぜ見えないのか
→知りたくないという欲望をもつ私たちは「見落とそうと」するから
論拠
マクガフィンの機能を使う。
ヒッチコックによると、「機能する無意味」
「機能する無意味」…物語を起動させる力を持つ。=終わりなき欲望へ持ち込む。
小論点2 どうすれば気づくことができるのか
→分析者として、「パスする」立場につくことで可能になる。
論拠
・分析者と患者の間に成立する「転移」と同じ形
・「第三の位置」に身を置くことによって可能=「手紙」の持つ能力を知っていることが条件。
しかし、構造分析であるにもかかわらず、どこに構造があるのか明確になっていなかったので、ゼミ内で整理しました。
ラカンによると、物語の中で、同型的な場面が2回繰り返されるらしく、「原場面」と「第二の場面」と名づけています。この二つの場面では相似的な行動をとる三人の人物が登場します。そして、三人の登場人物のそれぞれの「視線」によって特徴づけられています。
①「何も見ていない視線」
②「第一の視線が何も見てないことを見て、自分が隠しているものはそこから見えないと思い込んでいる視線」
③「さきの二つの視線からは隠されているものが、それを略取しようと望むものにはむき出しのままに放置されているのを知っている視線」
そして、三人の視線の先にあるものが「マクガフィン」です。
「マクガフィン」…小説や映画などのフィクション作品におけるプロット・デバイスの一つであり、登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる作劇上の概念のこと。作中人物にとって重要でありドラマもそれをキーアイテムとして進行するが、物語の成立を目的とするならそれ自体が何であるかは重要ではなく代替可能ですらあるものを指す。(Wikipedia1)
これらを『盗まれた手紙』に当てはめてみると、
| 作品名 | マクガフィン | ①の視線 | ②の視線 | ③の視線 |
| 『盗まれた手紙』 | 手紙 | 王様、警察 | 王妃、大臣 | 大臣、デュパン |
本書では、『盗まれた手紙』以外にも触れていました。(ここは時間が足らず、大雑把な把握になってしまいました。)
| 作品名 | マクガフィン | ①の視線 | ②の視線 | ③の視線 |
| ヒッチコック『鳥』 | 鳥(母なる超自我) | 主人公、母 | 男(ミッチ) | いない |
| ヒッチコック『北北西に進路を取れ』 | 架空のスパイの名前(カプラン) | 主人公 | 迫ってくる敵 | 教授 |
応用
今回の理論を踏まえて、ジョーダン・ピール『Us』(2019年)を検討しました。
| 作品名 | マクガフィン | ①の視線 | ②の視線 | ③の視線 |
| 『Us』 | アメリカ人であること | 殺された人々 | 主人公たち | 分身 |
この映画は、「アメリカ人であることに目を背けていた主人公たちが、自分たちの分身にアメリカ人であることを見せつけられて、アメリカという国に絶望し、メキシコに逃げる映画」と結論づけました。
分身がパスすることで、主人公たちが見ようとしなかった自然すぎるもの・抑圧されたもの(アメリカ人であること)に気づかされてしまったということです。
おそらく自分の理解不足なのですが、『Us』でラカンのいう二つの場面に分けたかは不明です。
ただ今回の考え方は、どのような作品に当てはめても、応用できると考えられるので、構造があったということだと思います。
雑記
ここからは雑談です。
この前池袋で飲んだのですが、その後バッティングセンターに行きました。
バッティングセンターの場所が、映画館(グランドシネマサンシャイン池袋、おすすめです)の上にあったことにも驚いていたのですが、久しぶりにバットを振っていて、楽しいと感じる自分にも驚きました。子どものころを思い出してなのか、純粋に体を動かすのが楽しかったのか、それとも酔っていたからなのか。いきなり60球を打ち込んでかなり筋肉痛だったけれども、楽しいのはたしかでした。
それで、バッティングセンターにハマりかけています。地元にもバッティングセンターがあって、200円で20球以上打てるコスパの良さに感激しています。池袋は1100円で60球だったので。
自分の地元は、世界農業遺産に認定されるぐらいには田舎な要素を持っているのですが、都会(台場とか、みなとみらいとか、海浜幕張のような場所)に魅かれる自分が地元に見落としていた部分があったような気がして、なんだか嬉しい気分です。
そう考えると、新しいことや普段やってないことをやってみるのは面白いなと改めて感じました。
自分は最近ライブに行くことにハマっていて、今度UNISON SQUARE GARDENとクリープハイプの対バンに行く予定です。それで、普段クリープハイプを聴くことは『栞』を除いて、全くないのですが、ライブに向けて聴いてみるとハマれる曲があることに気づきます。そして、それと同時に、普段聴いているアーティストの良さにも気づかされます。
つまり何が言いたいかというと、何か新しいことをやってみると、その面白さや奥深さを実感するのはもちろんですが、既に周囲にあるものであっても見え方が変化するかもしれないということです。
何か一つを信じていたいような気持ちもあるけれども、色々と知った方が、もっと面白いのかなぁと思ってます。それが原因で、自分は自分の軸がはっきりしてないような気持ちに陥るのかもしれませんが。
とにかく今学期も終わり、レポートも書かないといけないので、バッティングセンターやライブでリフレッシュしつつ、書き上げなければと思います。
読んでいただきありがとうございました!
- ウィキペディア(Wikipedia)『マクガフィン』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3 ↩︎