10期生 第7回 日常は思ったより奇妙かも

みなさま、こんにちは!今回のブログを担当します、山崎日和です。

今回も前回同様投稿期限を過ぎているのですが、なんともだもだしている間にものすごい時間が経ってしまいました…!本当にすみません… 反省しながら執筆にとりかかります。

前座

今回の前座は私が担当でした。紹介したのは「ビリーヴ~シー・オブ・ドリームス~」。東京ディズニーシ―で毎晩行われている水上ショーです。

2022年から上演されているこのショーは、ピーターパンとウェンディが中心となって、さまざまなディズニーキャラクターたちの夢を見てまわり、諦めずに信じ続けることで夢は叶うということを学ぶ、といった内容です。

見どころはなんといっても演出です!水上に現れる大きな船やレーザー、さまざまなところに映し出されるプロジェクションマッピング、水や花火を使った演出など、空間と技術を詰め込んだ演出は、迫力満点です。

また、ショーが行われる場所は360度どこからでも見ることができ、座席の予約や購入をしなくても誰でも見ることができます。その手軽さもこのショーの特徴のひとつだと思います。

美しく壮大な夢の旅、みなさまも是非一度体験してみては?

3限 「反復」「異化」

今回の3限は秋尾さんの担当で、廣野由美子さんの『批評理論入門』から「反復」と「異化」の2つのテーマについて学びました。

「反復」

反復は文学において重要な修辞技法です。反復されるものはさまざまあり、それは大まかに2つの種類に分けられます。

・文法的なもの:音(頭韻、脚韻)、語句(リフレイン、前辞反復)、韻律、    文法構造など

・物語内容に関わるもの:筋、出来事、場面、状況、人物、イメージ、出来事など

本文では、『フランケンシュタイン』に出てくる反復として、出来事、人物の反復や、言葉の反復といった例が挙げられていました。

これに関して、反復は読者の記憶により残りやすくするために行われるものなのでは、という意見が出ました。

確かに、何度も同じものが繰り返されることで、印象に残りやすくなるというのはあると思います。

また、反復が用いられているものとして、ループする物語が挙げられました。ループする物語は、同じ出来事の中で一部が変化していることに登場人物が気付くことで、ループしていることに気付く、といった内容なので、同じ出来事が反復されているといえます。

「異化」

異化とは、見慣れた事物からその日常性を剥ぎ取り、新たな光を当てることです。

この異化を起こすために、ある要素や属性を強調し、読者の注意を引き付けるように際立たせる「前景化」という方法が用いられます。

こう書かれてもどういうことかわかりづらいですが、例えば「人以外のものから見た人間」を考えると想像しやすいと思います。

ここでは芥川龍之介の『桃太郎』から、鬼が人間について話している場面を例とします。

「人間というものは
つの

えない、生白
なまじろ
い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に
なまり

をなすっているのだよ。それだけならばまだ
いのだがね。男でも女でも同じように、※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)
うそ
はいうし、欲は深いし、焼餅
やきもち
は焼くし、己惚
うぬぼれ
は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒
どろぼう
はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」

この文章を読むと、普段は当たり前の存在である「人間」がなにか奇妙なものに見えてきませんか?これが異化です。

つまり、異化とは自分の常識を覆すような概念なのです。

『フランケンシュタイン』でも同様に、怪物の目から人間や言葉といったものが異化されていると考えることができます。

この異化は、ヴィクトール・シクロフスキーが用いた言葉です。シクロフスキーは第6回で登場したミハイル・バフチンと同時代の人で、バフチンと同様に言論で社会を変えようとした人です。そのため、本来の異化は見る世界が変わるほどの強烈なものであり、読んでいて好ましい感覚にはあまりならないものです。

現代の日本ではここまで強いものはあまりないと思いますが、授業中で秋尾さんが紹介してくださったジョージ・オーウェルの『動物農場』などはこれに近いもののようです。気になった方はぜひ読んでみてください。

4限 ヴィクトール・シクロフスキー『手法としての芸術』

4限は中村さんの担当で、3限でも登場したヴィクトル・シクロフスキーが書いた『手法としての芸術』を読みました。

本文でシクロフスキーは、芸術の目的は異化の手法によって対象物を「直視」させることであるとし、従来の「芸術はイメージによる思考」だという定義を否定しました。

詳しく見ていきましょう。

従来は、イメージなくして芸術は存在しないと考えられており、イメージは変化するものだとされていました。しかしシクロフスキーは、イメージは不変のものであり、芸術の目的はもっと違うものだと考えました。

このような従来の考え方は、詩と散文を区別しなかったことによって生まれてしまったとシクロフスキーはいいます。つまり、散文における知覚のされ方が、根本的に違うものである詩においても用いられてしまったということです。この知覚のされ方が「自動化」です。

「自動化」とは、いわゆる無意識化であり、物事が習慣化されることによって起こるものです。これは日常生活を送る上では必要なことですが、芸術には適していません。

ではどうすればよいのでしょうか。シクロフスキーによると、芸術の目的は直視することであり、なるべく知覚のプロセスを長引かせる必要があるそうです。ここで登場するのが「異化」です。異化によって知覚までに時間がかかるようにするのです。

本文を読み、授業ではさらに「異化」について考えを深めました。

中でも中村さんがおっしゃっていた「異化は絵画を鑑賞する際の感覚に近いのかもしれない」という意見には、納得しました。

先ほども書きましたが、異化とは知覚のプロセスを長引かせるものです。絵画の鑑賞も、その絵画が何を表しているのか考えることに楽しみを見出しているといえます。これらを比較すると、知覚に時間がかかるほど楽しいという点で共通していると考えられます。また、ここからたとえそれがあったとしても、素通りしては意味がないこともわかります。私たちはそれが何を表しているのか、考えなくてはいけないわけですね。

いかがでしょうか?異化、難しいですね… 正直に言うと、私はシクロフスキーの文章を予習で読んだとき、どういうことかいまいち理解できませんでした。なんかわかりそうでわからないもやもやした感じがありましたが、授業でほかの方の意見を聞いて、自分なりに咀嚼してなんとなくわかったような気がします。少しでも読者の方に伝わっていたらいいな…と思います!

ではみなさま、また今度お会いしましょう!