こんにちは。2回目の宮澤登場です。
梅雨に入って、しばらく経ちましたかね。暑い、、ですね。
暑いのは人間だけではなく、猫も一緒みたいです。
うちの子(猫)、換毛期でして、もう抜け毛が、すんごい。ほんと、猫の毛だけでボールができるくらいなんです。
毛を刈っても刈っても、次の毛が出てくるんです(恐怖)
そのおかげで、部屋中毛だらけ、埃まみれで(絶望)
掃除してもきりがないので、決めました。汚部屋で生きることを。(諦めるのはまだ早い)
と、個人的などうでもいい話から入ってしまって恐縮です。
ここから、本題に入るので許してください。
今回扱ったテーマは、「映画と観客の関係」。理論は、ジークフリート・クラカウアーの『映画の理論』第9章観客。作品は、『チャーリーとチョコレート工場』です。キーワードは、夢と欲望。
【学習内容】
今回は、映画と観客の関係性について学びました。ここでは、映画が観客に与える効果を
①(映画を見た)観客の反応
②(映画を見た)観客の状態
③(映画を見た)観客の満足感
の3つの要素に分けて、整理していきたいと思います。
①観客の反応
映画にはどのような効果があり、観客は映画を見てどのような反応をするのでしょうか。
まず映画は、観客の感覚に作用するという、特殊な効果を持っています。具体的には、観客の感覚に働きかけ、生理的な関与を要求することで、観客を知性的に反応できる状態を導く効果があります。これは、映画が人の感覚的・本能的な部分を刺激することで、観客の感情移入を促し、映画について知的に考える・反応できる状態をさします。
そして、映画が観客の感覚に作用できる理由は、主に3つあります。
1.物理的現実、それ自体の記録する(現実のリアルな事物が、そのまま映像で再現・記録されていること)
映画では、写真的な映像が再生されます。写真的映像は、自然のありのままの物体を、リアルに表現します。このようなリアルな映像を見た観客は、あたかも映像が本物・現前しているものだと感じるようになります。よって、映画は現実の記録という面で、観客の感受性に作用していると言えます。
2.世界の動きという相のもとで、示して見せる(事物の物理的な動きを、リアルに表現していること)
私たちは、常に動きのある世界で生きています。例えば、食べるという行為は、腕や口、手を動かす運動なしにはできません。映画は、この運動を映像としてリアルに表しています。静止画の写真では、現実世界の運動を表すことはできません。こうした動きは、観客の中で筋肉の反射反応や運動インパルスといった運動感覚的な感覚を誘発します。よって、映画は動きの提示という面で、観客の運動感覚に作用していると言えます。
3.映画は、そこに隠された領域を開示する(観客に見知らぬ形状に遭遇させ、新たな発見をさせること)
映画は、観客に見知らぬ形状を提示し、発見をさせることで、好奇心を掻き立てます。そして、観客をより感覚的な領域へ誘い込みます。よって、映画は隠された領域の開示という面で、観客の好奇心や感覚に作用していると言えます。
②観客の状態
では、①の映画の作用を踏まえた上で、映画を見た観客は、どのような状態になるのでしょうか。
一言で表すと、観客はトランス状態(意識が弱まった状況)になります。原因は、観客が暗闇に置かれれることで、現実との接点が減少するためです。適切な判断や精神活動を行うための、視覚情報などを奪い取られることで、観客の意識は弱まります。
また本書では、「意識が低下すると、夢へと誘われる」と記載があります。実際に、映画愛好家のガブリエル・マルセルは、「覚醒と睡眠のはざまの状態に置かれており、そこでは入眠時に見るさまざまな幻想が促進されている」と述べています。つまり、映画には夢と似たような性質があるということです。
では、夢と映画の似た性質とは何でしょうか? それは、剝き出しの現実性です。
剝き出しの現実性とは、私たちの目で見た現実のことを指します。そのため、俯瞰的・客観的な現実ではなく、近視眼的・主観的現実のことを指します。私たちが、私たちの目を通じてみるものは、ありのままの現実ではなく、私を通じて編集された現実でしかありません。例えば、砂漠でオアシスを見つけた場合、水がすごく輝いているように見えるかもしれません。一方、梅雨のじめじめした日に、水たまりを見た場合、すごく疎ましく感じるかもしれません。水は水でも、人の目線を通じると、違う見え方になってしまうのです。
このように、近視眼的・主観的な現実の見え方は、夢と映画に共通しています。夢は、人の視点で見える現実になぞって、ストーリーや映像が編集されます。また、映画も、誰かの人の視点で見た現実を、カメラワークや構図、編集で調整します。つまり映画は、剥き出しの現実性表す夢と似たような特徴があるということです。
では、映画はどのように観客を、夢を見ている状態にさせるのでしょうか?本書では、主に2つのパターンが提示されています。
1.観客を対象物の方へ向かわせる
単純に、観客が意識から解放されることで、映画に登場する事物や現象に引き付けるということです。映画の事物や現象に引き付けられることで、感覚を刺激され、映像が現実のことのように感じられます。これは、(睡眠時に見る)夢と同じ状態です。
2.観客の自我を撤退させ、意識的ないし、無意識的な経験、不安、希望が姿を現すように働きかけている
これは、観客が映画の範疇を超えて、自身の内面世界で妄想・想像することをさします。観客は映画の対象物に集中し、そこで感覚を刺激されることによって、その感覚に関連した別の事柄に関しても想像するようになります。これも、(妄想したり想像したりする)夢と同様の状態です。
このように、映画は観客の感覚に働きかけ、トランス状態・夢への誘導を行います。だからこそ、映画は強力なプロパガンダの道具にもなりえるのでしょう。
③観客の満足感
皆さんは、何のために映画を見ますか。また、どんな映画を見たときに、満足感を覚えるでしょうか?
本書では、観客は、映画によって生への渇望を満たされた時、満足するとされています。また映画は、観客の充実した生の代用品と言われています。
映画は大衆娯楽であればあるほど、一般大衆の欲望や願望とされるものに応えなくてはいけません。大衆の満たされない欲望や願望をかなえることこそが、映画の売り上げへとつながるためです。
例えば、本書で紹介された映画愛好家は、観客は苦しみの原因を孤立状態に求めていると提示します。この書が誕生した当初は、都市化とともに、個人化という概念が生まれました。そのため、大衆は孤立しており、他者との関わりという生への渇望・欲望を持っていたと考えられます。
このように、時代ごとに大衆が抱える生への渇望を満たすことこそが、大衆の心をつかむ技術なのです。
何もしなかった日の最後に映画を見たくなるというという人がいます。これは、それは何もできず充実していない現実に対して、その1日に価値があったと思えるように、映画で他者の物語を追体験することで、生への渇望を満たしているのかもしれません。
【作品分析】
今回の作品は、『チャーリーとチョコレート工場』です。学習内容を踏まえて、2つの観点から分析しました。
①作品には、夢に似た性質が現れているか
映画全体を通じて、夢と似た性質があると言えるでしょう。例えば、場所指定などが、夢に似た性質に当たります。本作品では、人物が登場する前に、場所の指定がされる場面がいくつもあります。具体的には、ニューヨークの街並みと字幕が出た後に、登場人物の説明がはじまるなど。
これは、とても夢に似た性質です。近視眼的・主観的な現実の見え方だからこそ、場所という情報が事前に提示される編集がされていると考えられます。ゼミ生の中には、夢を見る時、まず場所の提示から始まる方もいました。
②生の本質を満たしてくれる映画か
まず、この作品を見る観客(大衆)を、「工場労働者」と定義し、彼らの欲望を3つに整理しました。
1.工場という無機質な場所で、同じ作業をしている毎日がつまらない状況。面白くて、非現実的なことへの欲望。
2.工場で一日働いているのに、貧乏。一方、楽して稼ぐ資本家がいる不平等な状況。資本家を蹴落としたいという欲望。
3.貧乏で、生活が苦しい状況。脱貧乏・脱社会的弱者したい欲望。
これらの大衆の欲望は、充実した生への渇望へとつながります。では、『チャーリーとチョコレート工場』は、彼らの欲望・充実した生への渇望を満たせているのでしょうか。
1. 作中の工場内は、とてもファンタジスティックで、明るい雰囲気。本来無機質なはずの工場内に、面白み・非現実性が加わっている。つまり観客に、労働者の働く工場は、無機質でアンハッピーな場所ではなく、面白くてハッピーな場所であると認識させ、欲望を満たしている。
2.作中の工場内では、主人公以外の資本家の子供たちが、ウォンカの手によって、次々とひどい目にあう。観客の資本家への不満、蹴落としたいという欲望を満たしている。
3.物語の最後で、貧乏な主人公の家族は、資本家のウォンカと暮らすようになる。脱貧乏&脱社会的弱者を果たし、資本家の一員になるという欲望を満たしている。
以上の分析を踏まえると、本作品は観客の生への渇望を満たす作品と言えるでしょう。
結論:『チャーリーとチョコレート工場』は、社会的地位が低かったり、貧乏だったりする工場労働者たち(大衆)の生への渇望を満たす映画である。
今回の学習はここまで!少し長くなってしまってすみません。
最後に、猫の毛で作ったボールの写真をのせて、お別れしましょう。また次回のブログでお会いしましょう~

→自分の毛で作ったボールを頭にのせられて、不服そうな猫