こんにちは。三年ゼミ第9回のブログを担当します、秋尾藍歌です。
いつのまにやら春学期も半ばを越え、もう第9回。いつのまにやら夏休みになり、そしていつのまにやら終わってしまうことになりかねないほどの体感速度のはやさ…。恐ろしい話です。
前座 (担当:わたし)
今回の前座では、キリンジ(KIRINJI)という音楽アーティストを紹介しました。ポップなサウンドとオシャレな歌詞が特徴的なバンドです。メンバーはちらほら変わっているみたい…
私のおすすめソングは、「エイリアンズ」「十四時過ぎのカゲロウ」「時間がない」です。とはいえ本当に当たり曲が多いので(私的に)、おすすめはベストアルバムを聴くことです。「KIRINJI Archives SINGLES BEST」を、聴こう!(私は、このアルバムと先ほどおすすめした曲だけを聴いてキリンジを知った気になっていた時期があります。ちょっとずつ開拓して今に至る)
3限 (担当:中村さん)
第9回の3限では、もはやお馴染みの『批評理論入門』から、「結末」「伝統的批評」「透明な批評」の三つのテーマについて学びました。
「結末」
物語には、大きく分けて二つの終わり方があります。
・閉じられた終わり— はっきりした解決に至って終結する方法。
・開かれた終わり— はっきりとした解決なしに終わり、結末について多様な解釈が可能である場合。
「閉じられた終わり」→ハッピーエンド(主人公の結婚など幸福な状態で締めくくられる)、悲劇的結末(主人公の死や破局によって終わる)、意外な結末(読者の意表をつく終わり方)など。
「開かれた終わり」→二重の結末(二通りの解釈の可能性を含む)、多重の結末、結末が冒頭へとつながり円環をなすような形の実験的な作品などがある。
批評理論入門では、これらの結末を紹介した後で『フランケンシュタイン』の結末について考察しています。そこでは、『フランケンシュタイン』の結末は、フランケンシュタインの死・怪物の消失という悲劇的結末の「閉じられた終わり」である印象を受けるが、「開かれた終わり」として見ることもできるということが語られています。「開かれた終わり」として見ることができる根拠として、①「手紙」の形式をとっている作品であるが訣辞も署名もなく終わっていること、②怪物は消えてはいるが、死んだという描写はないこと、が挙げられています。
ゼミでの議論では、『フランケンシュタイン』が「開かれた終わり」であるとするならば、「閉じられた作品」とはどういったものになるのか、といったことからはじまり、このような解釈の多様性が生まれるようになった原因として、読者の自由な読み方が肯定されたことや、誰の視点で物語が展開していくのか(=誰が焦点人物となっているか)について不定内的焦点化(焦点人物が変わっていく)の手法が取られることが多いことなどが挙がりました。
また、日本だと「開かれた終わり」の作品が多い傾向にあることや、ファンタジーは「閉じられた終わり」が多いこと、なども指摘がありました。
どの登場人物の視点から語るかによって”開かれて”いるか”閉じられて”いるかは変わってしまい、どの作品もどちらの結末とも取れるため、あらすじなど大きい部分から判断する必要があるだろう。そしてそれに基づいて考えると、やはり『フランケンシュタイン』は「閉じられた終わり」の結末の作品であると言えるでしょう。
「伝統的批評」
この章では、『フランケンシュタイン』がこれまでどのような批評をされてきたのか、ということについて紹介されていました。
道徳的観点からの批評
作者メアリー・シェリーの夫、パーシー・シェリーの最初の『フランケンシュタイン』批評では、道徳的テーマを持つとされたこの作品は、その後長らくの間、信仰の影響などから道徳的に悪影響を与えかねない作品であるとされてきました(ジョン・クローカー、『エジンバラ・マガジン』など)。しかし、時代が進むにつれて、道徳的目的に基づいて書かれた作品だとする主張がなされるようになったそうです(M・A・ゴールドベルク、モーリーン・クレイマン)。
フランケンシュタインのモデル
また、伝統的批評では、『フランケンシュタイン』の主要な登場人物ヴィクター・フランケンシュタインのモデルについても議論がなされています。夫パーシー・シェリーや、そのパーシー・シェリーが影響を受けた人物であるエラズマス・ダーウィンをモデルとする説などがあるそうです。
ゼミでは、これらの伝統的な批評に関して今利用しても有効であるかなどが話題に上りました。こういった批評から、当時の社会的な価値観が判明することを考えると利用はできるが、今同じ方法で批評をすることだけでは主張として物足りなくなってしまうのではないかと思います。
また、『フランケンシュタイン』が書かれた当時は、作者は『女性』というだけで未熟とされ批判されるようなこともあり、そのこともこころよい評価があまりなされなかった理由のひとつであるのではという指摘もありました。
「透明な批評」
批評の分類のひとつに、「透明な批評」「不透明な批評」というものがあります。
テクストの外側に立って形式上の仕組みを分析するものが「不透明な批評」であり、一方で「透明な批評」は、テクストのなかに入り込んで(作品世界を現実のものとして扱って)論じます。現在論文で行われているようなものより、アニメや漫画などの考察として動画などになっているものの方が「透明な批評」には近いかもしれません。
『フランケンシュタイン』では、アーネスト・フランケンシュタインの消息や、怪物の肌の色などについての透明な批評があります。
しかし、実際今この方法を用いて批評を論理的に展開することは難しいのではないかと思います。
4限 (担当:山崎さん)
4限では、ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』を読み、読者行為論について学びました。
イーザーは、テクストは読者が受容することによって初めて完成するものであり、テクストと読者は相互に働きかけあいつつ成立していると主張しました。
イーザーによると、読者は文章を読み進めることによって、自身の中にその文章全体が持つイメージを形成していきます。そのイメージは、読み進めるとともに形成されていき、また、そのなかで修正が加えられ変形していきます。読者が持つイメージと文章のあいだに生じる矛盾から、その文章に対する期待が生まれます。また、視点の移動によって読者のなかにイメージの分節が生まれ、それらの視点ごとのイメージ同士が違いを際立たせ、また修正しあうということも述べています。
イーザーによれば、テクストにはつねに、読者の想像を促す「空所」や読者やそのイメージへの「否定」があり、読者はそれらに取り組みつつ読書を行うことになります。「否定」は先ほど触れたように読者の読書行為を促し、かつ読者に未知の経験をあたえます。イーザーはこの未知の経験が、読書における「美的行為」であるとしています。一方「空所」は、「否定」とともに、読者の内部に言葉にできないようなイメージを生み出します。そのイメージも美的なものとして考えられます。
ゼミでは、いくつかの指摘がされました。
- イーザーの主張について、当時は有効な意見であったが現在では当たり前である。
- 読者を構造化し普遍化しているが、それにあてはまらない人もいるのではないか。→環境によって読者の読みが異なるとする主張がある。
- イーザーが対象としている読者は、空所や否定に耐えうるような真面目な読者のみなのではないか。空所や否定を受け入れず、最後のオチの部分から読む読者などについては想定されていないのではないか。
うまく言い表すことができませんが、私にはイーザーの主張について受け入れ難く思っている部分があります。
例えば、イーザーは、読書はつねに読者への否定(=未知の部分や読者の想像を超えてくる部分)と空所によって成り立っているとしていますが、読者に想像できる部分ももちろんあるはずだと私は思います。否定の部分は、ところどころで登場し、読書へのモチベーションを保つ補給場所になっていると考える方がしっくりくる気がするのです。
みなさんは、イーザーの考える「読書」の構造についてどう思いますか?
今度本を読む時などになんとなく考えてみることもおもしろいかもしれませんよ。
