9期生第7回 みんな、赤毛のアンになってみない??

こんにちは!

第7回のブログを担当する、宮澤です!今回は、ヴィクトール・シクロフスキーの『手法としての芸術』、特に異化についてご紹介していきたいと思います!

では、早速今回の主題に入っていきましょう!!!

と言いたいところなのですが、、、

まずは、2週間以内に投稿できなかったことのお詫びを。

セルフガチサーしてる2回目担当高山さんのように、特殊な事情を抱えているわけではないのですが、何分忙しく、、、面目ない。

ということで、言い訳がましく始まった第7回目のブログですが、改めて宮澤水月が担当します!

あっ、今「みずき」って読んだ人いますよね?笑笑

実は、水月は、みずきではなく、みつきと読みます。自分で言うのもなんですが、珍しいし良い名前です。今まで、水月と書いてみつきさんに会ったことがないのが、密かな誇りだったりします。(他に同じ名前の人がいても、絶対言わないでくださいね。傷つくから!)

ちなみに、猫2匹、人間2匹と暮らしている、実家住み系女子です!アニメと飯と睡眠さえあれば生きていける、ぴちぴちの20歳です。(猫も必要ですね)

まぁそんなところで、特に自己紹介できるネタがなくなったので、授業内容に入っちゃいます笑

では、気を取り直して、授業内容にレッツらゴーです。

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    反復

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今日のテーマ異化に入る前に、ちょっと違うテーマを。3限の授業で取り扱った反復について、ご紹介しておきます。

反復とは?読んでそのまま、同じことを繰り返し行うことです。

物語内の反復ってほんと多種多様で、筋や出来事、場面、状況、人物、イメージ、言葉など、使われ方は無限大だったりします。『フランケンシュタイン』の物語内でも、随所にみられる表現です。

例えば、最も頻繁に繰り返される「死」という出来事。『フランケンシュタイン』では、登場人物が次々に悲惨な死を遂げるという反復が起こっています。また、怪物の殺しの手口は、いつも絞殺で犠牲者の首に指の跡がつく様子が、3度も描写されています。残酷(´;ω;`)

さらに、言葉が反復されることもあります。例えば、「鍵盤がひとつ、またひとつとふれられた。弦がひとつ、またひとつかき鳴らされた。やがて私の心は、一つの思い、ひとつの概念、ひとつの目的で満たされた。」など。ひとつという言葉を何度も繰り返すことで、フランケンシュタインの熱烈な思いを表現しているんですね。同一語や類語が全編にわたって反復されてたり、同じ文章表現を違う登場人物が繰り返すなんてパターンもあります。

その他にも、deep,dark,deathlike,solitudeのように頭韻での反復や、月・海・湖・雨・雷といったイメジャリーの反復もあります!

つまり、『フランケンシュタイン』では、色んなレベルで反復が起きていると言えます!

反復は、言葉や場面の強調、さらには物語全体の統一性を持たせるために必要な要素です。反復が、『フランケンシュタイン』の作品としての魅力をマシマシにしてくれているんですね~。

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    異化

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お待たせしました!いよいよ、今回の主役の登場なり!

異・化です(^ω^) よろしくね。

まず、異化って何やねんっていうところから。

異化は、普段当たり前だと思っているものを異なるものにしちゃおうぜって考え方のことを指します。異化は英語で、defamiliarization。発表者の白井君が、de(離れる)+familiarization(慣れ親しませること)→ 当たり前と離れる、非日常化という風に考えると分かりやすいよ~、と教えてくれました!

もうちょっと砕いた表現をすると、物事をいつもとは違う角度から見てみようやーってことですね。

次に、異化が生まれた経緯には、『手法としての芸術』の著者であるヴィクトル・シクロフスキーさんが深くかかわっています。そう、彼こそが異化の生みの親なのです。

シクロフスキーさんが言いたいことは主に3つ。

・象徴主義への批判

・芸術は、直視(見ること)のレベルで物事を感じさせること

・自動化に対抗するには、異化

です。これだけ見ても、???って感じだと思いますので、異化という考えが生まれた流れをもうちょっと見ていきますね。

まず、当時は象徴主義的な詞が流行しておりました。象徴とは、抽象的な概念を具体的な事物に置き換える技法のことを指します。

そこで、シクロフスキーさんは象徴主義に対して批判しだすんですね。お前らの言う詩ってやつは、芸術などではないぞ!という具合に。

彼は、イメージが先にあって芸術が生まれる=手段としてのイメージだけが、芸術の在り方ではない。強い印象を生み出す=詩的イメージこそが、芸術なのだと主張します。※ここでのイメージは、比喩的形象のことを指す。

なるほど。んー----、分かりにくいですね。

さらに言い換えると、

今までは、抽象概念を具体的事物に置き換えるという、普段使っている日常レベルでしかない、上澄みの詩が芸術的だともてはやされてきた。けど、そうじゃない。できるだけ、強い印象をもたらす詩こそが芸術的だと主張したということです。

いや、強い印象って何やねん!!って突っ込みたくなりません?笑笑

ここで、例の異化が登場してくるわけです。

シクロフスキーさんは、私たちの知覚は、習慣化していくのと同時に自動化されてしまうと主張します。そして、彼はこの自動化を否定的に捉えます。

皆さん、朝起きたら何しますか?まずは、歯を磨いて、トイレいって、水飲んで、顔洗ってみたいな基本的なルーティンありません?別に、歯を磨きながら、「俺スゲー。今歯磨いちゃってるんだ。てか、歯磨くって何?歯ブラシって何?」とか思いませんよね笑笑 しかし、彼にとっては、歯磨きを何の違和感もなく、習慣として行っている私たちの日常行為こそが、習慣化、自動化された否定すべきものなのです。

彼は、こう思います。習慣化され、自動化されてしまうと、人間の知覚も鈍ってしまう。当たり前を当たり前だと認識し、事物を見慣れたものとしてスルーしてしまうと。(例えば、石が落ちていても、普通はスルーして歩きますよね。いちいち、一個ずつ拾って、これが石というものなのかと感銘を受けたりしないと思います。これが、シクロフスキーの考える自動化、スルーにあたります)

でも、スルーしちゃダメなんだ!何も感じない人間も、何も感じ取らせない詩も、そんなんは芸術じゃなー----------い!!(^ω^)

そして、芸術は、直視(見ること)のレベルで物事を感じさせること。石の石らしさを鮮烈に感じ、「生の感覚」を感じることこそが芸術なのだと主張しました。つまり、事物をスルーせず、一回一回立ち止まり時間をかけて、事物のそのものらしさを「生の感覚」を取り戻さなければならないということです。人々に「生の感覚」を取り戻させる手法こそ、異化という芸術であり、人々を立ち止まらせる異化を使用した詩こそ芸術であると、彼は主張しました。

そんなこんなで、別の視点を通じて当たり前を崩す手法として、異化が爆誕したのです。オメデトウ\(^o^)/

異化とは、実際どのように使われているか?『フランケンシュタイン』を通じて少しだけ見てみましょう。例えば、怪物が初めて人間を見たときに「今まで見たことのあるものと違う」と表現し、異星人が地球人を見るような視点で、人間を捉えます。また、怪物は、夜の闇を「暗い不透明のかたまり」、鳥を「羽のある小さな生き物」と表現します。事物の名称や人間すら知らない怪物の視点を借りて、世界に存在する一つ一つのものが、新鮮に捉えなおされている。これこそが、異化です。

以上、異化の説明はここまでになります。個人的に、シクロフスキーめちゃくちゃ難しくて。上手く伝わるブログになっているか、とても不安です。伝わってると嬉しいな、、、

余談ですが、異化が色濃い作品って、赤毛のアンなのかなって思います。あれって、結構日常ものなのに、なぜか面白いんですよ。その理由が、アンの視点を通じて、異化が多用されているからなのかなと改めて思いました。日常の中でも、アンという一風変わった女の子の視点を借りることで、異化した世界を見ることができるから楽しいのではないかと。むしろ、日常的なお話だからこそ、アンの異化ってる度合いが癖になるのかもしれません。まあ、なかなかアンみたいな感受性を持つことは難しいですよね笑笑

それでも、苦しいときや辛いときに、日常を少し異化してみると、救われるのかもしれないと思う今日この頃です。行き詰ったときでも、異化してみたら違う世界が見えるかも。

そゆことで、皆様もぜひ、異化ってみない??アンになってみない??

ここまで、ブログにお付き合いいただきありがとうございました!また、お会いできることを楽しみにしてます!じゃあねっ★