8期生第5回「映像を編む」

度々すいません上西です。

第5回のゼミでは編集について学びました。

テキストいわく、編集とは「選択と組み合わせの技術」であるそうです。

そしてその選択と組み合わせの技術によって、編集者は視聴者にさまざまな印象を与えることができます。

また映像の部分をつなげる際には「類似」「並行」「対照」「皮肉」などさまざまな原理を使うことができます。

代表的なのが、切り返しショットと呼ばれる対面する二人を交互に写す編集です。

切り返しショットでは「類似」と「対照」の原理が主に使われます。

例えば天使と悪魔が切り返しショットで交互に写されていたら、天使と悪魔の「対称性」が強調されると言った具合です。

また「類似」するショットをつなげることでメタファー的なつながりを作り出すこともできます。

例えばならずものの集団が、通りがかりの紳士を襲って殴り殺し、金品を強奪するシーンの間に、ハイエナがウサギを捕食しているショットが挟み込まれていた場合には、そのショットは、ならずものの彼らの行動の動物性のメタファーになっていると解釈できると言った具合です。

また全く似ていないショットをつなげることで、映画のテーマのコントラストに焦点を当てることもできます。

例えば女性の自由がテーマの映画であれば、女性が「男」らしく車で颯爽と荒野を駆け抜けるシーンの後に、男性が「女」らしく家でテレビのメロドラマを見ているシーンがくることで、映画のテーマである女性の自由が強調されると言った具合です。

このように、映像は編集の仕方によって、さまざまな印象を視聴者に与えることができるのです。

ゼミの後半では「地獄の黙示録」(ベトナム戦争が舞台)のラストシーンを編集の視点から分析しました。

ラストシーンでは主人公がカーツというラスボス的な人を斬り殺すシーンと、カーツを崇拝する人々が儀礼的に牛を斬り殺すシーンが重ね合わせられています。そのシークエンスがどのような意味を持っているのかを分析しました。

結論としては、カーツの死を西洋側による殺しによるものではなく、東洋側の殺しによるものとしての意味を与えたかったからこのような編集にしたという話になりました。これだけでは意味不明なので説明します。

まず西洋側による殺しですが、これはアメリカ軍の命令によって主人公が行う裁きです。カーツは元々アメリカ軍にいましたが、ベトナム人のダブルスパイ4人を殺し、ジャングルの奥地で現地人を統治し王国を作っていました。軍はカーツに軍に戻ってくるようにと再三通告しましたが、カーツが無視したため、軍は主人公にカーツの暗殺命令を出します。主人公はカーツを暗殺しにジャングルへと向かいました。

ジャングルの船旅を経て、主人公はついにカーツと対面します。このとき、カーツは主人公に「俺を殺すことはできるが、裁くことはできない」的なことを言って、主人公はそれに納得します。ここで主人公は裁きとしての西洋側の殺しを実行することをやめました。

しかしカーツ本人が自らの死を望んでいること、またジャングルや彼の王国、王国の民がカーツの死を望んでいると感じた主人公は、儀式としてカーツを殺すことに決め、実行します。この殺しが東洋側の殺しです。主人公は西洋側の動機からカーツを殺したのではなく、東洋側の動機からカーツを殺したのでした。そのことを視覚的に表すために、カーツが斬殺されるシーンと牛が斬殺されるシーンが重ね合わせられているのだと結論付けました。

このように、編集は映画を構成する大事な要素です。映画を見るときは、その映画がどのように編集されているかを意識して見ることで、わたしたちの映画鑑賞がより豊かなものになるのではないでしょうか。

8期生第2回「映画で実践カルチュラルスタディーズ」

お久しぶりです、8期生の上西です。

今回のブログは少し簡潔に書かせてください。頑張って書いた下書きが消え、意気消沈なうだからです。生暖かい目で見守ってくれると嬉しいです。

第2回のゼミでは、映画「千と千尋の神隠し」を千尋のアイデンティティ獲得をテーマに分析しているテキストを扱いました。主に5つの観点から分析されています。

越境

越境は自己の変化、あるいは自己と他者との関係の変化をもたらします。境界を越える旅を重ねて千尋は成長していきます。

境界の例としては、現実世界と神様の世界を隔てると同時につないでいるトンネルが挙げられていました。千尋はこのトンネルを通り神様の世界に入り、冒険していく中で成長していきます。

名前

名前は自己と他者を区別し個人のアイデンティティを示す記号ですが、基本的に名前とは自分の意思で選択するものではありません。そのため自己と他者の常に移り変わり続ける力関係の指標として機能します。

湯婆婆は千尋に千という新しい名前を与えました。この描写から名前を与える湯婆婆と名前を与えられる千尋という上下関係を見てとることができます。

主体

主体は他者からの呼びかけによって成立しています。そして主体は可変的で、社会的差異が複合的に作用する中で形成されていきます。

物語の序盤では内向的でシャイな千尋でしたが、油屋の人々との関割りの中で社会的に応答責任を持つ存在として主体化されていきます。

食は自己と他者の混交をもたらす過程です。食べることは消費であると同時に自己の再生産であり、自己と他者の絆を確認する共同の営みでもあります。

千尋は銭婆の家で銭婆たちと共同作業をした後でお茶やお菓子を共に食べることで絆を確かめます。

物語とアイデンティティ

千がアイデンティティを獲得できたのは、彼らが自分達の現在を過去から連なる物語の中に位置づけることができたからです。アイデンティティの獲得には自らの言葉で語られる物語を他者に伝えるコミュニケーションが必要です。

テキストは以上5つの観点から千尋のアイデンティティの獲得のプロセスを分析していました。

テキストを読み終えて「千尋は本当にアイデンティティを獲得したと言えるのだろうか」という疑問が挙がりました。ラストシーンでは千尋はトンネルの中での一連の出来事を忘れているように描かれているからです。

話し合いの末、銭婆の「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」というセリフや、最後に銭婆からもらった髪留めがキラリと光ることから、トンネルの中での出来事は千尋本人は覚えていないが、潜在意識下で彼女に影響を与えているだろうという結論に至りました。

以上です。お読みいただきありがとうございました。