第3回 6期生ブログ「暗いもの」

遅くなりましたが先週担当だったのでブログを更新していきたいと思います。

先週は皆さんに改めて映画『友罪』を見ていただきました。私はもう何回目かになりますが、何回見てもこの映画は暗いなと思います、、、。

思い返せば、私は小学生の頃から何かと暗いものが好きでした。ピアノを習っていましたが、発表会の曲を選ぶときに「とにかく暗いもので短調の曲がいいです」とピアノの先生にリクエストしていたのを思い出しました。

クラシックでも映画でも小説でも割と暗いものが好きです。(暗ければなんでもいいというわけではありませんが!)なぜ暗いものが好きなのか考えてみても答えがあまりはっきり出ないので、これは感覚的なものなのかなと思います。

ですが、論文を書くにあたっては、この「感覚的」なものだけではなく、はっきりと目的意識と順序立てて理論を展開しなければなりません。

今からただの感想作文になってしまわないかとても不安ですが、自分が惹かれた作品に自信を持って、自分の中の主張や考え方を整理して論文という形で提示できればなと思います。

引き続き色々な作品を見つつ、私から見えた『友罪』をしっかり言語化していきたいです。

小野寺

卒論構想発表を終えて

お久しぶりです!だいぶ日数が経ってしまいましたが、9月5日に行われた「卒論構想発表」の振り返りをしたいと思います。
オンラインでの発表となりましたが、なんと8時間も発表、話し合いを行いました。地下ゼミのOBの先輩方も参加してくださり、とても濃い時間となりました。
私は、映画を用いて卒論を書きたいと思っており、今回もみなさんには映画「友罪」を見てきてほしいとお願いしました。お忙しい中先輩方は見てくださっていて、それぞれのご意見をお話していただきました。本当にありがとうございました。私の発表と映画にとても真剣に向き合ってくださり、全く衰えを感じさせない鋭いご指摘をたくさんもらえたので自分自身がどういう方向性で書いていきたいのかが以前よりも見えてきました。
しかし、私が考えたいテーマ「家族・つながり」については、先輩方がすでに考え尽くしたテーマでもあるので、何かしら自分らしい色をつけなければならないなと思います。とても難しいです。がんばります。
また来年OBとして、この地下ゼミの7期生の卒論構想発表で鋭い意見を言いたいいなあ。なんて考えています(笑)
後半戦もがんばります!

小野寺

第16回 6期生ブログ「共同体」

昨日、春学期最後の自主ゼミが終了しました。なんと5時間にも及ぶ話し合いになりました!
これまで『ディスタンクシオン』と『リキッド・モダニティ』を読み進めましたが、毎週多くの文量を読んできて、隔週でレジュメを作成し、ゼミでは3時間半もの話し合いという、今振り返れば16回もよく乗り越えられたな、と自分に感心してしまいます(笑)
私は正直、同期のゼミ生2人よりも怠惰な性格であり、大学の授業への向き合い方も違っているなと毎回のゼミでひしひしと感じていました。そんな私がここまで頑張れたのも、義務感からくるものではなく、心から楽しいと感じ、絶対に個人的には読まないであろう文章を読むことで得られる知識、価値観、私とは似ていない(きっと何か共通点もあるからこそ集っているのでしょうが)2人の意見を聞くことで得られる新しい考え方、新しい自分、、、様々な収穫があるからこそ積極的にやってこれたのかなと思っています。

たくさんの話し合いを経て、私は結局「自分が何者なのか」が知りたくて知りたくてしょうがないのだろう、ということがはっきりわかりました。春学期のゼミで取り上げた二つの文章と、先生が講義してくださった内容は共通して「他人・他者性をどう捉えるか」ということだったと、私は感じています。今期のゼミの内容をその観点から捉えているのも、「私らしい」のではないのかなと思います。
私は他人にとても強い関心があり、嫌がられないのであれば、全員に人生について、価値観についてをインタビューしたいぐらいの勢いですが、それも結局「他者を知ることで自分を知るため、結局自分のため」に他者への関心が強いのだな、とようやく理解しました。他者はどういう道を歩み、どう物事を捉えるのか、それは自分とどう違うのか、自分はその他者に対してどういう感情を抱いて接しているのか、自分はその他者に対してなぜその感情を抱くのか、、、という風に、結局は自分自身という人間について明らかにしたくて、他者への関心がどんどん増しているのだろうと思います。自分自身について知りたければ、内省的に考えればいいじゃないか、という意見もあるのでしょうが、私は本能的に、他人を通して自分を浮き彫りにするタイプであります。また、自分とは絶対に同じではない「他人」という存在をとても面白いと思うことができる才能があるのだと思います。だから、「八方美人」と言われがちですし、他人から「あなたは私のことをすごくわかってくれるよね」とよく言われます。他人のことをよく理解しているのは、私が他の人よりも関心が強いからこそなのだな、と思います。完全には理解できないので、おそらく、その他大勢より私が観察をした結果、理解が深まってしまっているだけなのです。好き嫌い関係なく興味があるだけです。
最近では、表象作品に関しても純粋に思う存分楽しんだ後に(私は分析はあまりできません、純粋に鑑賞します)、なぜこの作品に関して自分はこのような感情を抱くのだろうか、という自己分析に繋げてしまうようになりました。結局自分のことばかりです。
最初はきっと他人への関心も表象作品同様に、純粋に楽しんでいたのだと思います。なんでこの人はこんな考え方、こんな行動、こんな趣味があるのか?知りたい!!!私とは違う考え方、知りたい!!!!みたいな。
けれども今は、なぜ各人間はこのような考え方に至り、行動ができるのだろうか、自分は?という風に他人から自分へ繋がってくることが多いです。

そんな私なので、私にとって「他人」はなくてはならない存在であり、一番の興味対象です。いや、一番の興味対象は自分のことも含めるので「人間」ですね。
この春学期のゼミではここには書ききれないほどの多くのことを学び、世界の見方も変わり、自分自身も変化しました。そこで発見したことの一部を綴らせていただきました。
後期も過酷でしょうが、私にとっての「仕事」であり、重要な共同体の一つであるので頑張っていきたいと思います。とても楽しみです!!!

小野寺

第14回 6期生ブログ「時間/空間」

こんばんは!
第14回のゼミでは引き続き『リキッド・モダニティ』の精読と関連することについてたくさん話し合いました
。今回は第3章の「時間/空間」でした。

読み終えてから、今のこの新型コロナウイルスによって人々の時間と空間の使い方、考え方がかなり大きく変わったのではないかと考えていました。
人々はまず「移動時間とは何て厄介だったのか!」ということを、頭ではなく体で実感したのではないでしょうか。頭では「リモートワーク」を理解し、とても合理的なことはわかっていましたが、今まで実際にはそこまで普及していなかったように思います。みんなで満員電車に揺られて、わざわざ出勤していましたし、何事も「直接あることが大事」とされていました。しかし、強制的にリモートワークをしなければならなくなったことにより、リモートワークがここまで機能すること、移動時間も交通費もここまで削減できてしまうことに気づいたのです。これは電車が生活の根幹にあった都市部の人間や会社にとって、かなり大きな事実であり、社会が変わる予感がします。

さらに人と人との関わりが薄れ、「自己責任」がより一層強まる社会になってしまうのでしょうか、、、
そうではなく、仕事や学校といったものに何らかの理由で外へ出られない人々が、家でも参加できるようなポジティブな面が進歩していってほしいなと思いました。

第13回 6期生ブログ「オリエンタリズム」

梅雨明けを迎えた途端、セミの声が鳴り響き、焼けるような暑さに日々悲鳴を上げています。

だいぶ時間が経ってしまいましたが、2週間前のゼミではポストコロニアルとオリエンタル研究について取り扱いました。

「東洋(オリエンタル)」と「西洋(オクシデント)」は特定の地域を指す言葉ではなく、もっと概念的なものである。そしてこの2つの概念の関係性は対等ではなく、複雑なヘゲモニーを包含している。そして、西洋人は自分たちのアイデンティティを確立させるために、東洋という概念を用いた。

つまり、東洋の西洋に対する「憧れ」と西洋の東洋に対する「憧れ」は意味合いが異なるというものである。
分かっていたはずの話なのになぜか悲しい気持ちになった。複雑。

私はタトゥーについて研究したいという想いがあります。
日本の若者のタトゥー文化は海外の影響を受けている部分もあるのではないかと推測していましたが、これにもオリエンタリズムに関連してくるものなのでしょうか。
日本人が英字レターのタトゥーをかっこいいと考え入れるのと、西洋人が漢字のタトゥーをかっこいいと考え入れるのでは意味合いが違うのでしょうか…

第12回 6期生ブログ「人間」から「女性」へ

久しぶりに雨のない日を迎え、梅雨明けはもうすぐなのではと淡い期待を寄せる今日この頃です。
梅雨が明けても気軽に遠出はできませんが…
初めての日曜日開催で行われた内容は「ジェンダー、セクシュアリティ、クィア研究」について。

最近ジェンダーの授業を履修していることもあり、色々思うこともあります。
今回の授業ではジュディス・バトラーの「ジェンダートラブル」を扱いました。
話が進む中で、「そもそも男女を規定したのも、男女の枠組みで勝手に人を判断しているのも人間なのではないか」(意訳)というところに行きつきました。

ここで思い出したのが女子校時代。
表象作品の影響かわかりませんが、女子校というと「お嬢様」「女性だけだから陰湿そう」といった印象を持たれがちです。
これは断じて違うと女子校出身者の大半は口をそろえて言うでしょう。
体育祭では必死になりすぎた結果脳震盪起こして保健室に運ばれたり、
学園祭の中夜祭では盛り上がりすぎて体育館の床が抜け翌日からの公演ができなくなったり、
多分世間の一般的なイメージからはかけ離れた女子校でした。
(あまり書きすぎると学校名がバレてしまう…)

しかし、ここで何度も「女子校」と連呼をしていますが、女子校時代「女性」であることを意識したことはほとんどなかったように思います。
なぜか。「男」と「女」というような二項対立として捉えられるものは、片方が存在しないともう一方も存在しません。でも女子校は(生徒は)女子しかいないので、この二項対立は成立しません。結果、私たちは「女性」ではなく「人間」だったのです。

女子校育ちはよく「温室育ち」と言われることがあります。
この意味は社会に出てよーーーーーく分かります(笑)
「人間」から「女性」にならなくてはいけないことを端的に表している言葉だと感じます。

p.s.
結局この話も男女の枠組みありきで話しているので枠組みにとらわれないのって難しい…

第10回 6期生ブログ「自由とは何か」

こんばんは!本日レジュメを担当しました小野寺です。
『リキッド・モダニティ』を読み、4時間半ほどのゼミとなりました。
4時間半はゼミだとあっという間です。アルバイトだと時計ばかり見てしまうのに不思議です。

最後にみんなで話し合った「自由とは何か」について、とても面白い議題だなと振り返っていました。
そもそも、「自由」なんてないのではないか、と思うようになりました。どんなに楽しい時間を過ごしていても、完全な「自由」というものは訪れないし、責任や何かの義務を貸されていない子どもだってある意味「家族」や「弱き存在」という制限がかかっていて完全な自由ではないのではないかな、、、と。
そう考えるとその中でも自分がより納得できる「制限」の中で生きることができる人が「自由」に最も近い存在なのかな、と思います。絶対に生きる上で「制限」というものからは逃れられないのであれば、その「制限」がいかに自分にとって優しく、許容できる内容であるのかが大事だと思いました。(少し消極的な自由ですが)

私はどのような制限下なら「まあいいだろう」と思えるのかを考えて、自分にとっての選択肢を増やしておこうと思います。

第9回 6期生ブログ 「働くこと」の価値

3週に1度の理論を学ぶ日。
理論を学ぶと生きやすくなるという人もいるが私はいつも怖くなる。
新しいものを知る怖さなのか。でも無知の方が怖いとも思うのに。
見たくないものまで見えてしまう気がして、
新たな見方を手に入れたのにそれを無邪気に使えず、
視野が広がるはずなのに視野が狭くなったような不安に陥る…

まだ言語化はできないのですがいつもそんな気持ちで理論を学ぶ回に臨んでいます(笑)

今日のテーマはマルクス主義とカルチュラルスタディーズ。
その中で出てきたのが貨幣経済という仕組み。
貨幣経済であるがためにその価値を歪められてしまっているものはたくさんあるのではないかと思いました。

例えば、娯楽。今回のコロナ対策でも経済が優先され、娯楽産業が後回しにされている印象を受けました。私は、ビジネスを意識していないアートが好きです。例えば、道端の落書きだったり、学生の展示だったり。純粋に表現したいものを表現したい形にしてできたものに魅力を感じます。

もしかしたらこれも貨幣経済への抵抗なのでしょうか。

もう1つはボランティア活動。ボランティアの形態はさまざまですが、無償で本人の意志で参加することが多いように思います。この場合ボランティアは無償労働者とは言えますが、こき使っていい奴隷ではありません。また、お金が発生しない分、募集する側と参加する側の信頼関係が重要になってきます。しかし、なぜかここを取り違えて「ボランティア」という言葉を、その場の都合のいいように解釈している場面を目にすることがあります。

これも貨幣経済の影響なのでしょうか。
賃金でしか人の労働力は判断されないのでしょうか。

どちらの例も「働くこと」と比較すると社会では重要視されにくいものだと感じます。

現代では電子決済やカード決済が多くなり、値段を視覚化された量として見る機会も少なくなりました。また仮想通貨のような新たな概念も生まれました。貨幣において国家の括りがなくなるのは近い未来なのかもしれない…貨幣の概念も変わるのではないかと期待したいです。(期待なのかわからないけれど)

第7回 6期生ブログ「面接」

こんばんは小野寺です。
地下ゼミは毎回3時間コースが通常運転になってきました。本日もお疲れ様でした。
レジュメの担当は私でしたが、具体例をどの事象に関しても言えるように意識して授業を進めました。
私もブルデューは階級の乗り越え方を説明してくれない点はあまり好きではありませんが、文章はとても面白いし興味がある内容なので好きです!

ゼミの中で雑談しようとしていた話に関して書こうと思います。
私は就職活動の中で「小学生の頃の話から教えて」と言われた面接が二つもありました。一般的な志望動機や学生時代に力を入れたことを聞かれるのではなく、いわば「自分の人生」について聞かれるものです。(南房総ゼミのインタビューをされているような気分でした)
小学生の頃から振り返って根掘り葉掘り聞かれるのですが、私が印象に残った質問が「ご両親とあなたは仲がいい?」「ご両親はあなたの選択に関してどんな意見を言ってくる?」というものです。この質問はどう答えるのが正解なのでしょうか。私は本当に両親と仲がよく、両親は私の選択に異議を唱えたことがないのでその通りに面接で答えました。しかし、もし両親と関係がとても悪かったり、これまでの人生が両親によって決められていたような人はその通りに答えても良いのでしょうか?答えることによってどういった判断がなされるのでしょうか?家族との関係が就職活動に関係があるのでしょうか?
この「人生面接」にはとてもモヤモヤが残りました。『ディスタンクシオン 』によれば、この面接にはその人のハビトゥスを見出すのにきっと意味のあるものなのでしょうが、就職活動において、「自分のせいではない、環境や生まれ」によって判断されるのは違うのではないかなとも思いました。
会社側も欲しい人物像はきっとあるでしょうから、その人の人柄をあぶり出す作業は必須ですが、なんだかもやっとしました。
私は就職先に今とても悩んでいて、自身のハビトゥスに従っても決めきれない決断というものがあることを人生初体験しています。悩んでも悩んでもわからないので、ドラえもんのもしもボックスでそれぞれの会社に入った自分を見て決めたいです。

第5回 6期生ブログ「大学とは?」

今回のゼミでは『ディスタンクシオン』第2章を読みました。またまた難解な文章でしたが、皆さんお疲れ様でした。この章はまともに読もうとしたら何年もかかるタイプの予感がした途端、流し読みを始めてしまいましたレジュメ担当の宮本です。

細かな内容にもかなり深くまで取り上げ議論したので「何ページにこれがある!」「いや、何ページにはこう書いてあるぞ!?」「!?」という感じに、間違い探し大会のようになりました。本当にお疲れ様でした。ですが「場」「ハビトゥス」「慣習行動」「文化資本」「学歴資本」など主要概念の定義がしっかりとでき、共有することができたと思います!

後半では大学の価値下落問題に関して深い議論をしました。先生からご紹介いただいた世界各国の大学事情は興味深かったです。比較的楽に大学に入れる外国を羨ましく思ってしましたが、それがゆえに引き起こされる別の問題もたくさんあって.. .と、一筋縄ではいかない大学と就職の関係性や、学歴問題などに頭を悩ませた時間でした。

そして、大学の意義とは?学歴の意義とは?というまた根本的で壮大なテーマについても話し合いました。学歴を取るため、就職するために大学に通うのでしょうか。違う!と叫びたい私ではありますが、現実、学歴がないと就職にも関係してくるし、と複雑な問題です。第6期ゼミは単位のない自主的な集まりになっています。そんな、まさに大学のシステムから逸脱したこのゼミは、大学とは?学歴とは?という大きな問題を考えていくのに、まさにピッタリな場所ではないでしょうか!というわけで、心の底に、なぜ大学に行くのか?という問いを抱えながら、これからもゼミに参加していこうと思います。

ちなみに、私の暫定的な答えのようなものですが…国際日本学部は「縁日のようだ」と、入学してすぐにある先生から言われました。美味しいところをつまんで食べて、それで終わり、と。私はとてもショックを受け、その日から専門的な知識を身につけよう!と決め、今ここまで来てしまいました。この状況は情コミにも当てはまると思います。エセ?リベラルアーツ的な学部は、様々な興味分野を自由に学べる点ではとても楽しいですが、その人の意欲次第でどうにでもなってしまうものです。そんな国日の風潮に巻き込まれたくない!一心で四年間過ごしている私ですが、大学では集大成の論文を生み出したいという気持ちがあります。大学に通うのは、そうやって、自分なりの道を自分なりに探し、何かをやり遂げていくことなのではないでしょうか。それは学問である必要はないと思います。(授業をサボるのは反対ですが)そして、大学では様々な出会いの場が開かれています。基本的にはモグることもできるわけだし。これはカリキュラムに沿った今までの教育とは全く異なるものだと思います。その出会いの場をどう活用していくかは自分次第。大学はとても厳しい場でもあり、試される場でもあり、受け入れてくれる場でもあると思います。オンライン授業でそれが非常に難しくなってしまったのが、残念でありません。だからオンラインの中でも同じように学費を払うのは今でも(声明が出ても)納得できません。まず図書館の遠隔利用が教員と院生にしか許されていない現状にキレそうです。どうしてくれるんだ!って感じです。話が逸れました。

どんな四年を送っても同じように与えられる学位を、どれほど厚みのあるものにしていくか。誰にも見ることはできないけど、自分だけは見える形で膨らませたい。そして膨らんだ学位をぎゅっと抱きしめて、卒業していきたいと思います。(しかし、オンライン授業で完全にしぼみつつあります、ピンチ)