3年ゼミ 秋学期第4回

お久しぶりです。紆余曲折ありましたが、ようやくブログの執筆を再開することができました。最近はちょっと遅めな反抗期の到来を実感している川田です。

 

今回はジェンダー批評の振り返りにあたって、田山花袋『蒲団』および中島京子『FUTON』、そして生駒夏実による論文『田山花袋「蒲団」にみる日本の近代化とジェンダー』を取り扱いました。

 

『蒲団』は作家・時雄と彼の女弟子・芳子、そして彼女の恋人・田中を中心とした、田山花袋による私小説です。一方『FUTON』では、日本文学の教授・デイブによる「『蒲団』の打ち直し」、つまり時雄の妻・美穂の視点から『蒲団』の内容を再構成した物語が展開されます。さらに「打ち直し」が進行するとともに、デイブを含む『FUTON』の登場人物たちは『蒲団』における人間関係をなぞる様に、それぞれに複数の三角関係を形成し変化させていきます。

 

私小説の成立は言文一致運動と深く関わっています。明治期の日本は近代国家として成長していく時期にありました。その過程として国民に対し教育を普及させたことで、言文一致体の文学が広く親しまれるようになりました。さらに当時の日本文学は西洋文学の特徴である、第三人称によるリアリズムの方法を取り入れようとしました。しかし明治期以前の日本文学では伝統的な表現や主観的な描写のものが多かったため、西洋文学的特徴はなかなか受け入れられない状況にありました。その中でも一部の作家は、リアリズムの客観的視点をこれまで日本文学で主流であった「私」に向けることで、批判的視点による物語を描こうと試みました。この潮流から生まれたのが”私小説”という形態です。したがって私小説は、西洋に追いつく意志と日本の独自性を反映したものといえるのです。

 

小説は人口に膾炙することで、近代日本という共同体意識を強化させる役割を担いました。それは時としてなんらかの排除や抑圧を伴います。生駒氏は、私小説によって生まれた「日本国民」という同一性から、ジェンダーに関する排除・抑圧に注目しました。

当時の日本の女性は「良妻賢母」のための教育がなされ、権力者によって将来は母親になることが目標とされました。『蒲団』では作家を目指す女学生として芳子が登場します。彼女は母親になるのではなく、作家になるために勉学に励んでいます。これはこれまで特権的であった男性知識階級を脅かす行為であり、女性の自立へとつながります。また物語の中で、時雄は田中に惹かれる芳子を疎ましく思ったり、芳子の手紙の文体が変化したりしています。これらは男性が女性の近代化を好ましく思っていないことを示しています。

また、『蒲団』は時雄による告白文学であり、日本文学史上はじめて性が描かれた作品です。作者である田山花袋はキリスト教徒であり、作中でも芳子や田中にキリスト教の影響が強く表れています。キリスト教では、性とは「恥ずべきもの」であり「罪」でした。そして告白という形態、つまり外側へ向けて自ら発信する行為によって境界が生まれ、真の自己という「内面」が作られたのです。花袋は告白形式を用い、告白されるべき内面・隠すべきこととして性を描きました。彼は『蒲団』をとおして真の自己を描き赦しを得ることを確信しています。作中では時雄の罪は許される一方で芳子の罪は許されることがありません。これは明治期のジェンダー階層を反映しているといえます。

田山花袋から始まった私小説は、その汎用性の高さから急速に普及しました。以前まで男性知識階級が担ってきた文学において、女流作家誕生の兆しがみえると、彼らの特権的地位が不安定で不確実なものとなり始めました。そうした脆弱な特権性を「私」語りによって保つために、私小説は生み出されたのです。そのような作品では女性は差別的に描かれ、男性と対等になることはありません。この「私」語りの特徴は今日の文学作品でも見られるものですが、日本がグローバル化する今まさに「私」の在り方は問い直される必要があるのです。

 

明治期と比べれば現在は男女間の格差は見直され始めていると思います。しかし実際の日本社会では女性に対する差別的視点が未だ根強く残っています。東京大学入学式の祝辞にて、上野千鶴子教授が述べた内容は大きな話題となりました(本文)。ネット上では共感も批判も様々な反応がありました。

また『さよならミニスカート』という少女漫画は、女性および女の子のジェンダー問題を鋭い視点で描き話題となりました(公式サイト)。キャッチコピーは「このまんがに、無関心な女子はいても、無関係な女子はいない。」

昨今話題になりやすいジェンダー問題、今こそひとりひとりが考えていくべき時期なのではないかなと思います。

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3年ゼミ 秋学期第3回

久々の更新となってしまい、申し訳ございません。最近自炊が少しだけ出来るようになって調子に乗っている川上です。こういう時にミスは起こるんです…。

今回は秋学期第3回の講義内容についてです。

春学期に学習した「精神分析批評」の理解を深めるということで、キース・ヴィンセント『夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り』を用いて議論しました。今回の論文では、『こころ』をセクシュアリティという観点で分析しています。

作中に登場する青年と先生の関係が同性愛的であるという議論は、これまでもありました。あるいは『こころ』を、同性愛に対する異性愛の勝利の物語として捉える解釈も存在します。同性愛とは、未熟な人物の一時の「倒錯」であり、やがて異性愛に取って代わられるとする理論は、まさにフロイト的なものです。

論文では、『こころ』とは、セクシュアリティの理論化を巡って異なる方法が対峙する様を描き出していると主張します。つまり、セクシュアリティをここで規定しようとするのではなく、むしろ捉えようとする言説を概観可能にし、その有効性を失わせようとします。その根拠を、筆者は次の2つに求めます。

・『こころ』の未完性

・青年(私)の語り

『こころ』は「先生の遺書」以降の描写が存在しません。青年が、先生の自殺を知った後、どういう人生を送るかについての決定的な根拠がなく、その想像は読者に委ねられます。

また、『こころ』は青年(私)によって語られる物語です。語る青年(私)は、先生の自殺を知った後の青年(私)ですね。「同性愛的人生」の果てに自殺してしまった先生を、青年(私)はどう考えたのでしょうか。「先生は同性愛的で潔癖だ」「自分は異性愛者として成熟した」。概ねこのような語りで展開されますが、重要なのは、あくまでそれは青年(私)によって小出しにされた情報に過ぎないということです。

「本当は今の自分も同性愛的な部分があるが、世間的には異性愛者が認められているから、そういう風に演じておくか(汗」

と考え、語っている可能性もあります。つまり、ここでも、青年のセクシュアリティを決定する根拠はないということになります。

『こころ』は、非常に「誤読」に寛容な小説であり、だからこそ面白いのだと思いました。『こころ』がどういう小説であるかよりも、私たちがそれをどう捉えているかの方が重要なのかもしれませんね。

3年ゼミ 秋学期第1回

こんにちは。満員電車に乗っていたのですが、目の前にいた見知らぬ方が猛烈な勢いでLINEの友だちを削除しているの目撃してしまい、車内で天を仰ぎました。というわけで今回のブログ担当は川上です!

秋学期第1回の講義ついてですが、

春学期に学習した「ポストコロニアル批評」の理解を深めるということで、吉田香織『アニメーションにおける他者表象―オリエンタリズムの観点から観たディズニーと宮崎駿の世界ー』を用いて議論しました。この論文中で取り上げられるデイズニー映画『ムーラン』と宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』についてですが、こちらはゼミ生が各自鑑賞しました。

◯アニメーションについて
アニメーションや、キャラクタービシネスなどが複合して作られたファンタジーにおいて、製作者は、自分の、あるいは視聴者の欲望をかなり色濃く投影することが可能です。このように思想が強く反映されるアニメは、集団アイデンティティー形成に大きな影響を及ぼします。また、私達がアニメーションをみることで、それと普段の自分の生活との差異を楽しんだり、自分の在り方を見つめ直したりするように、「自己」「他者」概念をも構築します。社会に存在する偏狭的なイメージを覆すこともあれば、さらに強化してしまうこともあるそうです。アニメーションを、単なる子供向けの娯楽と捉えてしまうと、見逃してしまうことが多そうですね。

◯『ムーラン』について
ディズニー・アニメーションは、1998年に初めて東洋がモチーフの作品を制作しました。それが『ムーラン』です。アメリカにおいては、この作品は反オリエンタリズム的アジア描写の作品と評されていましたが、そうとは思えない描写がいくつかあります。アジアの描写はされているものの、それはあくまで西洋の視点から描かれたものであり、つまり、あくまで西洋人に親和性があるレヴェルでのアジア描写に留まっているということです。この作品は、東洋と西洋の対立(支配)構造から脱却できていないのではないか、という意見が挙げられました。

◯『千と千尋の神隠し』について
論文では、『ムーラン』と比較して、『千と千尋の神隠し』は、世界観の相対性と複数性を通しながら他者同士の共存を描いているため、西洋/東洋、自己/他者といったような二分法が通じないと述べています。

また、二項対立と力関係に関連して、主体/客体という観点で注目されるのが、「視線」です。見る/見られるという関係性において、見られる側は、ただ一方的に見る側に見られるのであり、力関係の優劣がほぼ決定しています。映画ならば、私達観客は見る側であり、映画の登場人物たちは見られる側ですね。しかし、『千と千尋の神隠し』では、あらゆる場面で、観客を見つめるような「視線」(目が描かれた看板・襖・小包)が登場し、観客達は見られる側にもなり得て、主体/客体の境界があいまいになるとのことです。

ゼミ生からは、『ムーラン』と比較して、『千と千尋の神隠し』は二分法から脱却しているように感じるが、十分ではないのではないかという意見があがりました。例えば「視線」問題に関しては、映画を見ていて、自分が見られる側に立つ感覚は覚えなかったし、「視線」はむしろ私達にではなく、千尋(主人公)に向けられているように感じたとのことです。もしそうであれば、千尋は相変わらず、一方的に視線に晒される弱い立場のままであり、力関係は覆されるどころか、強化されていることになります。

論文では、アニメを欲望のメディアと表現しています。人々の、普段は表に出ないような欲望が表出する場がアニメだと考えると、アニメをみるときの心持ちが変わるかもしれません。

3年ゼミ 第14回

こんにちは。先日、美容室で蒸しタオルを手渡されたので顔を拭いていたら、「結構全力で拭いてますね笑」と言われ、義憤にかられてしまいました。どなたか僕に優雅な顔の拭き方を教えてください。今回のブログ担当は川上です。更新が遅れてしまい申し訳ございません。

第14回の講義内容についてですが

3限では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「ポストコロニアル批評」「新歴史主義」について学習しました。4限ではミシェル・フーコー『知の考古学』について学習しました。

1.「ポストコロニアル批評」について
『批評理論入門』によれば、ポストコロニアリズムとは、20世紀後半にヨーロッパ諸帝国が衰退し、アジア・アフリカ・カリブ諸国などの「第三世界」が植民地支配から独立したあとの歴史的段階を指します。ポストコロニアル研究は文化研究の一種で、広義には、西洋によって植民地化された第三世界の文化全般の研究を指し、特に文学作品を対象とする場合をポストコロニアル批評といいます。
その方法として、

 ➀植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品の研究
 ➁帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品において、植民地がどう描かれているかの分析

等があります。このような研究・分析により、帝国主義文化圏が、自己イメージを明確にするために、植民地を比較の対象として持ち出したり、自身らの支配の正当性を担保するために、植民地のイメージを改ざんしたりしていた、ということが明らかになってきます。

2.「新歴史主義」について
『批評理論入門』によれば、新歴史主義は、旧歴史主義のように出来事を重視したり、歴史を直線的・発展的なものと捉え特定の時代精神と結びつけたりするような方法をとりません。歴史を、旧歴史主義のように文学作品の「背景」とみなすのではなく、社会学や文化人類学などを含む「社会科学」として位置づける点において、新歴史主義は新しいのだといえます。

文学テクストは歴史(事実)よりも信用に値するだとか、逆に、歴史(事実)は文学テクストよりも信用に値するだとかをはっきりさせたいのではなく、ここでは、文学テクストと歴史(事実)は相互に影響しているのだから、その2つを分ける区別をなくさなければならないというわけですね。

4限では、『知の考古学』を用いて学習しました。先述した、歴史的な題材など他の領域のテクストと文学テクストとの境界をなくそうという新歴史主義の手法には、この『知の考古学』を著したミシェル・フーコーの方法論の影響がみられています。

《考古学的比較は、統一化する行為ではなく、多様化する行為である》

つまりは、複数の学問分野が存在するならば、【Aの学問がBの学問に影響を与えた】、【Bの学問がCの学問を生んだ】というような、理論的な一つの構造を見出す(統一化)のではなく、AもBもCも、それぞれ自己の領域を持ちながらも、互いに向かい合い共存していると考える(多様化)のがフーコーです。学問分野の比較のみならず、言説形成と非言説的領域(社会的制度や、政治的実践など)の関係性にも着眼し、考察しています。原因と結果を安易に結びつけてはいけないわけですから、非常に根気のいる分析法だと感じました。

実は、この回は、夏合宿を終えた後に書いています。夏合宿では、春学期に学習した内容の復習もやるのですが、新しい発見が多かったです。例えば今回の『知の考古学』の復習も合宿でやったのですが、レジュメには「やっと分かった!!」的なメモが記されているのですが、合宿で読み返すと「いや、やっぱりよく分からんのだけど。過去の自分なんなの??」となりました。未来の学習が、過去の解釈を塗り替えた瞬間でしょうか。秋学期でも、既存の自分の考えをどんどん上書きしていけたら、大変でしょうが楽しそうだとも思います。

3年ゼミ 第10回

こんにちは!最近知ったのですが、もともとカフェインが入っていたものからカフェインを抜いたものを、「デカフェ」というのですね。ずっと「デカめのカフェラテ」のことだと思っていました。そんなわけで今回のブログ担当は川上です!

第10回の講義内容についてですが

3限では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」について学習しました。4限ではヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』について学習しました。

1.「ジャンル批評」について

『批評理論入門』によれば、「ジャンル」には、形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものとがあります。そして、ジャンルに関わる諸問題を扱う批評を「ジャンル批評」といいます。ロマン主義文学、ゴシック小説、リアリズム小説、SF小説等、ジャンルの種類は多岐にわたります。

トドロフは『幻想文学』において、「ジャンルとは、つねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるものである」と述べています。これは一体どういうことでしょうか。

「〇〇という特徴を持つからSF小説/❏❏という特徴を持つからゴシック小説/男らしい特徴を持つから男/女らしい特徴を持つから女」

トドロフは、上記のような、「ジャンル分けを絶対視する考え」に異議を唱えています。そうではなく、ジャンル自体は本質を持たないのであり、作品を無理やりジャンル分けして形式的に批判するのでは駄目だと言っているのです。「男らしい特徴を持つから男」ではなく、「男は、ただ女でないから男」という風に言い換えれば正しいでしょうか。トドロフの主張を踏まえて『フランケンシュタイン』について考えてみると、この作品は、決まったジャンルに分類すればいいのではなく、ロマン主義文学的要素、ゴシック小説的要素等、様々なジャンルの要素を有しているという風に考えられます。

2.「読者反応批評」について

『批評理論入門』によれば、「読者反応批評」は、作品を自立したものとする考えに異議を唱え、作品とはテクストに関わる読者の存在を前提としたものであると再定義しました。テクストが読者の心にどのように働きかけるかという問題に焦点を置いています。

また、「読者反応批評」は、読者を刺激し、積極的な解釈を促すような、いわゆる「弁証法的な示し方」にも主眼を置きます。例えば、「弁証法的な示し方」の手段の一つとして「省略」があります。テクスト中に省略部分があれば、読者はその省力部分について考え、説明づけることを強制的に求められます。

一見、「読者反応批評」は、読者の権利を全面的に保証しているようにみえますが、実際は違います。読者反応批評家は、読者がどんな好き勝手な解釈をしても有効になるとはせず、「読者」とは、ある水準に達した資質の持ち主にかぎられるとしました。「知識のある読者」、「教養ある読者」などと呼称されます。対象を限定する、やや排他的な側面を持つ「読者反応批評」は、人々に受け入れられないこともありました。以下、「読者反応批評を自分はどう思うか」という議題において挙がった5期生4人の意見を簡潔にまとめました。

・読者の解釈がなんでも有効になっては、確かに解釈をすることの意義が減少してしまうのでは。
・作品とは作者の意図を読み解くことが基本であり、そこから逸脱した解釈は、かなり個人的なもので、正当性は発生しないのかもしれない。
・誰のどんな解釈にも意味はあると思う。

3.「文体論批評」について

『批評理論入門』によれば、「文体論」とは、テクストにおける言語学的要素に着目し、作者が分やテクスト全体のなかで、語や語法などをいかに用いているかを科学的に分析する研究方法をいいます。「文体論」を研究することで、作者の特徴を知り、またその特徴を他の作者と比較し、時系列的に作者や作品を考えるといったことも可能となりそうですね。

4限では、ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』を用いて学習しました。主に、テクストと読者の相互作用について記されていました。テクストと読者、2つの要素が作用し合うことで、新たな解釈が生まれ、その新たな解釈がまた合わさるという風に、「書く」という過程には、弁証法的な要素が含まれているようです。

また、読書行為そのものの特徴についても記述がありました。読書とは直進的で退行のない動きは取らず、今目にしているものが前に読んだものを修正するという遡及効果を持っているとされていました。小説のような虚構テクストにおいては、読者の視点があちこちに移動することで、次の文章を予想したり、それまでの解釈を再構成したりという風に、いわば、過去の情報と現在の情報、そして未来の情報に弁証法を適用させることが可能です。しかも、そのような弁証法には決まったレギュレーションがなく、読者に委ねられているというのです。読書行為によって生まれる解釈が無限の可能性を秘めているということ、おわかりいただけるでしょうか。

自分も含め、作品に触れることが好きなゼミ生にとって、今回の内容は考えさせられる部分も多かったのではないでしょうか。普段、自分達がどのように作品を解釈しているかということを再認識させられました。心なしか、今回は議論も白熱し、楽しげであった気がします。
(他の内容がつまらないという意味ではないですよ!!)

3年ゼミ 第8回

こんにちは。先日とあるアイドルのライブを見に行ってきました。彼女たちの常に全力なパフォーマンスにかなりの衝撃を受け、また生きる活力を得てしまいました。その衝撃の余波のせいか課題がまったく手につきません! こんな調子で卒論まで辿り着けるのかとても心配な川田です。

第8回では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)より「間テクスト性」「メタフィクション」、ジュリア・クリステヴァ著『セメイオチケ1』より「言葉、対話、小説」の一部抜粋を取り扱いました。
…が、実際の授業時間内では間テクスト性の途中までしかできませんでした。夏合宿の課題がまた増えてしまいましたが頑張っていきたいところです。

今回取り扱った間テクスト性とは、あるひとつの文学テクストと他の文学テクストとの間の関連性のことをいいます。一般に先行する文学作品との関係をいいますが、広義のテクストでいえば絵画など他の芸術作品も含まれます。

そもそも「テクスト」とは何でしょうか?
その昔、グーテンベルグ革命(活版印刷の発明)以前には、文学作品は原本の書き写しによって複製が行われていました。書き写しであるということは、書き写した人間によっては誤字脱字や改変もありえたわけです。
この一つの例として『源氏物語』があります。現代の私たちが読んでいる『源氏物語』は、作者とは別の人間が各地に散逸した複写を集めて再構成したものを、さらに別の人間が改訂し注釈をつけるなどしています。しかも原本の執筆から再構成され今の形に至るまでに、かなり大きな時間の隔たりがあります。したがって、現在『源氏物語』とされるものは原本とはまったくの別物である可能性が高いのです。
上記の例でいう原本が「テクスト」にあたります。つまり作者が生み出したただ一つの純粋なるもの、オリジナルにあたるものです。そしてテクストの内容の改訂や形態の違いを含む複合的なものの総称を「作品」といいます。その後、作品は作家個人に属するといった近代的な考えが入り込むことで、著作権へと発展していきます。
しかし紫式部が執筆した『源氏物語』自体にもいくつかバージョンがあることがわかっています。その上彼女が執筆したとされる実物が現存していない状況でもあります。これは「オリジナルとは何か?」という問いにも繋がってきますが、それはまた後日ふれることとします。

クリステヴァによれば、「文学の言葉」は一つの確固とした意味をもつのではなく、いくつもの文章が作家、受け手、当時のあるいは先行する文化のコンテクストが交わり対話することだといいます。ここでいう対話は、以前取り扱ったバフチンのポリフォニーの概念と関連しており、言い換えれば対等に衝突し合い影響を与えあっているということです。
さらにバフチンは、以上のような「言葉のあり方」をテクストに導入しました。
以前までは、作家は先行するテクストを参考にして新しいテクストを生み出す、過去から現在へと流れる通時態が主流でした。しかし通時態の流れから発展して、読者が新しいテクストを読んだ上で再び先行するテクストを読むことで、さらに新しい解釈が生まれることがあります。ここでいう読者が新しいテクストが生み出された時代の人か、今の私たちであるかによっても、生まれてくる解釈は複数存在しそれぞれ異なったものになります。このような考えを共時態といいます。
このようにバフチンは「言葉のあり方」という観点をテクストに導入することで、テクストを歴史と社会の中に位置づけるとともに、歴史と社会それ自体もテクストと見なしました。そして作家が先行テクストを読み新しくテクストを書く行為を通して、通時態を共時態へと変換すると述べました。

テクストに存在する縦の流れを横の流れでも考えられるのだ、というとんでもないことが述べられているのですが、いざ自分でやってみようと思うとなかなかできない考え方ですね…。とても重要な考え方になりますので、この先も気合を入れて立ち向かいたいと思います。

ところで私の書くブログは他人が見てもわかりやすいのかなあといつも疑問に思っているのですが…
自分の言葉でわかりやすく説明できないのは理解が足りていない証拠だとはよく言われるものです。批評理論はただでさえややこしい話が多いので、よりわかりやすく説明できるよう精進して参ります!

3年ゼミ 第6回

こんにちは!部屋に置いてある脱臭剤のジェルがいつまでたっても減らないので、大した脱臭剤だと感心していたのですが、ビニール蓋を剥がしていないだけでした。というわけで今回のブログ担当は川上です!

第6回の講義内容についてですが

3限では、廣野由美子著『批評理論入門−「フランケンシュタイン」解剖講義』(中央出版)の「声」「イメジャリー」について学習しました。4限ではミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』について学習しました。

1.「声」について

『批評理論入門』によれば、物語が、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を「モノローグ的」、それに対し、多用な考えを示す複数の意識や声が、それぞれ独自性を保ったまま互いに衝突する状態を「ポリフォニー的」といいます。4限で取り扱った『ドストエフスキーの詩学』の著者であるバフチンによれば、ポリフォニーはあらゆる小説に固有の特徴であるとされています。そうなると、全ての小説はポリフォニー的、つまり、いくつもの異なった文体や声を取り込んだ状態にあるという意見が考えられるでしょう。『フランケンシュタイン』は、ポリフォニー的な特徴が顕著にみられます。主人公の父であるアルフォンスや、主人公の婚約者のエリザベスなど、複数の人物の視点が挿入され、この物語は構成されています。

2.「イメジャリー」について

『批評理論入門』によれば、「イメジャリー」とは、ある要素によって、想像力が刺激され、視覚的映像などが喚起される場合、そのようなイメージを喚起する作用、あるいはイメージの集合体のことです。イメジャリーの働きは主に以下のようなものです。

◯メタファー・・・あることを示すのに別のものを示し、それらの間の共通性を暗示する。隠喩
◯象徴   ・・・とりわけ類似性のないものを示して連想されるものを暗示する
◯アレゴリー・・・具体的なものをとおして、ある抽象的な概念を提示し、教訓的な含みをもたせる

『フランケンシュタイン』内ならば、例えば「月」が「象徴」として用いられています。重要な出来事が起こる際、たびたび月が登場しており、「月」は殺害や復讐といった狂気や、フランケンシュタインの創造行為などを暗示させていました。以下、上記の内容に対する5期生4人から挙がった疑問点と意見を簡潔にまとめました。

・「象徴とアレゴリーの違いとは何か」
ー(象徴はアレゴリーに比べてより限定的に使用されるのではないか・象徴が暗示するものを理解するには、その象徴の文化的背景や示唆するものを理解しておく必要があるのかも)

また、この疑問については内藤先生が以下のような解説を付け加えてくださいました。
ー(「象徴」は、物語内で意味が通じる特殊なものである。一方で「アレゴリー」は、物語内に限らず、現実においても意味が通じるような普遍性を持たせうるものである)

4限では、ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』を用いて学習しました。内容は、『批評理論』の「声」の内容と概ね重複しており、さらにポリフォニー小説の代表とされるドストエフスキー作品の特色について詳しく記述されていました。ドストエフスキーの小説では、物語の登場人物たちが、作者の考えを代弁するに留まらず、作者と肩をならべてしまうような言葉を発し互いにぶつかりあっています。彼の小説は極めて独自であり、ドストエフスキーはポリフォ二ー小説の創始者であると言えるだろうとのことでした。以下、上記の内容に対する5期生4人から挙がった疑問点と意見を簡潔にまとめました。

・「そもそも完全なポリフォニー小説は可能か」
ー(自己から完全に独立した登場人物や言葉を生むのは難しいと思う・自分の意見の矛盾性について自覚的であれば、自分と異なる意見も仔細に述べられるかもしれない)
・「ドストエフスキーは本当にポリフォニー小説の創始者か」
ー(ドストエフスキー以前、以後の小説の特徴についてもっと知る必要がある)

「イメジャリー」の内容は、これまでの先輩方も理解するのになかなか苦労したと耳にしていましたが、確かに難しかったですね。難解な内容とむわっとした気温のダブルパンチで何度か船をこぎかけましたが、メンバーの奮闘に励まされ、なんとか最後まで考えきりました!!