春学期第12回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。

第12回は性に関する批評体系について。3限では批評理論入門から「フェミニズム批評」、「ジェンダー批評」を取り扱いました。

 

フェミニズムとは1970年代以降に登場した、性差別を暴く批評のことで、これまで男性作家によって書かれていた作品を女性の視点から見直し、男性による女性への抑圧がいかに反映されているかを指摘します。さらに、男性文化によって無視されてきた女性作家の作品を発掘したり、女性の書いた作品を再評価する動きもあります。

メアリ―・シェリーは『フランケンシュタイン』を出版する際、自分の名は伏せていました。メアリーと同時代の女性作家も男性名や中性的な名前を使用していたことから、当時作家が女性であることは批判を招く恐れがあったことが窺えます。また、パーシーの作品介入を黙って受け入れている点、夫の死後、その作品を手直ししている点から、この時代夫が優越権をもつことが当たり前であったことも考察できます。

『フランケンシュタイン』において、登場する女性は直接自らの口で語ることをしません。また、男の登場人物の多くは故郷を離れて旅や仕事をしますが、女性はほとんど家(あるいは土地)から出ることがありません。

 

ジェンダー批評において性別とは、社会や文化によって形成された差異・役割です。フェミニズムと違い、男女両性を連続的なものとして捉え、男・女という一般カテゴリー自体に疑問を突きつけます。

批評理論入門では、ジェンダー批評の括りの中から〈ゲイ批評〉と〈レズビアン批評〉が取り上げられていました。

ゲイ批評の観点から見ると、ウォルトンの男同士の友情に対する憧れ、ヴィクターとクラヴァルの看病と旅行といった男同士の博愛がみてとれます。また、レズビアン批評では、ジャスティ―ヌに焦点が当てられていました。彼女は唯一男性との接点がなく、エリザベスへの熱のこもった言動などから、同性愛的な情念が垣間見えると分析できます。また、ジャスティ―ヌが死んだ理由に、同性愛という不浄の罪があった、と読み取ることもできるのです。

 

以上が批評理論入門のあらかたのまとめです。フェミニズムとジェンダーの違いが分かっていなかった私は、ずいぶんと理解が進みましたが、ジェンダー批評のほうが〈ジェンダー批評〉ではなく〈ゲイ批評〉と〈レズビアン批評〉であったため、肝心の〈ジェンダー批評〉とはなんなのかについて、授業内で少し掘り下げました。フェミニズムでは切り込むことのできなかった”性愛”というものをジェンダーでは取り扱うことができた。そのことによって見える世界も格段に変わりました。もちろんフェミニズム批評も、未だに存在する見えない性差別を暴くために重要な理論です。一方で、人間の性の在り方について問われるようになった現在の動きは、ジェンダー批評の成果でもあります。

まだ乗り越えられていない批評理論を知り、生きた学びをしているような感動を味わいました。うまく言い表せませんが笑

一点私が知りたいなと思ったのは、怪物がどうして自分を「男である」と自認したのかということです。当時は男女の二分に疑問などなかったでしょうから、男であることを認められないということは考えられていなかったでしょう。しかし、ジェンダー研究が進み、性自認の常識が変わりつつあるとき、怪物がなぜ男だと理解したのかを考えるのは面白いのではないかなぁと思いました。

 

4限では、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の冒頭を取り扱いました。フェミニズムの最大の功績は、生物学的性の上にある社会的な性規範を変えたことにあります。女性の表象の仕方を変えることで、法制度、女性の役割、地位などを変えることに成功しました。でも、それだけ。女性の表象を変えることは確かに大事ですが、性差については考えることができなかった。そのことを問題点として挙げています。女性とはなんなのかが曖昧であり、統一的な女の存在は結果的に無いと示され、フェミニズムの目標とせんことも結局は空洞化し、失敗してしまう……

という内容だったと理解しました。授業ではジェンダーを語る際、クリステヴァをよく例に上げます。「女」は存在しない、「女」というものは構造的に「男ではない」でしか説明できない ということ。逆もまた然り。たしかになぁと思うとともに、自分は今後自分の性をどのように表現したらいいのだろうという感想を持ちます。一般的女性としての風貌、自認をしていますが、本当にこのまま諸書類に「女」と書いてもよいのでしょうか。学べば学ぶほど世界が広がるとともに、変な悩みも広がるなぁとつくづく思います。

春学期第11回 3年ゼミ

今回の担当は増尾です。

6/27の第11回では
3限 廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の第2部 4「脱構築批評」、5「精神分析批評」
4限 マルクス『経済学批判』「資本論1」
をとりあげました。

3限の担当は増尾。
今まで様々な主義を学んできましたが、脱構築 は主義ではなく二項対立を崩す手続きであるという話から始まりました。

そもそも、構造主義とは作家(作家性やしゃかいせいなど)を排除し、テクストだけを分析するというもの。
テクストだけがその物語の世界のすべてであるという考え方でした。
これに対して、脱構築主義はテクストの統一性を否定。

脱構築とはどのような方法で行うのか。
二項対立を崩せば良い!!

良く用いられるものですが、西洋東洋を例にすると、
西洋:東洋 は 知的:野蛮
という二項対立が表されたがち。
→西洋の野蛮性を、東洋の知的性を見出すことで二項対立を崩すことができる。
ということになります。

どちらが正しいかの決定が不可能(=決定不可能性)であると示す方法がとられます。

二項対立の解体をあえてさせることによって、予想のつかない展開、読者への驚きを増すことが出来るのだなぁと感じました!

ただ、脱構築もテクストに焦点をあてており、作家性や時代背景を意図的に解釈に持ち込まないということで、私の考えとは違うなぁ……と反論したくなったりしました笑

次に「精神分析批評」

フロイト的解釈
→作品の中の登場人物ではなく、作者自身に関心を向けている。作者の無意識が作品に反映されているという考え。
間テクスト性的解釈ができる。

ユング的解釈
→人間の無意識には民族や人類全体の記憶がある。
そのため文学作品には文明によって抑圧された人類全体の欲望が表れている。

神話批評
→時代・歴史をこえ、現在の作品に共通するものを見出すことで、人間精神の類似性を指摘。

それぞれの解釈が『フランケンシュタイン』に当てはめて例が出されており、授業準備のために読んでいるのが楽しかったです笑
自分で使えるかと言われると……。それぞれの理論がぐちゃぐちゃにこんがらがってしまっていてちゃんと整理しないと……と危機感を覚えました。

4限の担当は大下。
これがまた強者でした!!!!!
マルクス主義を学ぶべく頑張りました。がしかし、頭をフル回転させて、読み込み、理解しようという心意気虚しく惨敗でした。(大下はわかりませんが、私は惨敗です!)

大まかに言うと、
社会構成がAからBへ変わるのはなぜかというと、Aのままでは矛盾があるから。変化が起こるときには闘争なども多く起こる。
流れる歴史の中において、何か矛盾を見出すことができれば歴史の変わり目がわかる!
ということでした。

13回の3限でまたマルクス主義について学びます。
今回のことを元にちゃんと理解ができるように頑張ります!!
授業担当は私、ブログ担当も私。果たして、増尾はマルクス主義と仲良くなれるのか……!!!!
第13回のブログをお楽しみに……。

増尾

春学期第10回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。
第10回目は増尾欠席により私一人のゼミ。こんなにも心細いことがあったでしょうか。先生と一対一の個人授業です。4限ではお世話になっている先輩方が4人も来てくださり、大変ありがたかったです。

ハプニングもあり、予定とは大きくずれ、『批評理論入門』から「ジャンル批評」「読者反応批評」「文体論的批評」の3つを行いました。3限で「ジャンル批評」と「文体論的批評」を先生と読み解き、4限で元のテクストと同じ内容の「読者反応批評」を議論しました。

と、いっても文体論的批評も3限内に終わらなかったので、4限に食い込んでいます。タイムキープごちゃごちゃでした。反省です。

「ジャンル批評」とは19世紀末頃から用いられるようになった分類の考え方。『フランケンシュタイン』にはロマン主義、ゴシック小説、リアリズム、サイエンス・フィクションの4つがあてはまると解釈され、紹介されています。話の焦点となったのは「文化批評用語辞典」に載っていたジャンルの一節から発展した話題。予習としてフェミニズムや現在のジェンダーに関する話を拝聴しました。疑問はすぐにぶつけ、じっくり解釈することができました。

続く「文体論的批評」は4限までのびたため、先輩と一緒に議論しました。ひっかかったのは「内的逸脱」と「外的逸脱」について。テクスト内に一定の基準が設けられており、そこから外れることを「内的逸脱」と表記しているが、では内的があるのなら「外的逸脱」もあるのだろうか、という内容。先輩方が大議論を繰り広げ、途中から口をはさめない状況に。けれども見事に議論が収束し、正しいであろう結論に達するところはとても鮮やかで見事でした。外的逸脱とはつまりテクスト外での逸脱を指し、作家や作品、ひいてはジャンルにおいて、それ自体の癖を基準と捉えることができるのではないか。ということになりました。(メモが正しければ)

さて、大議論のあと、残された時間は20分弱。大部分の議論が残されたままでした。超特急で話し合いたいところだけを掬い取って議論。残りは今度もともとの4限テクストの議論と一緒に行うことにしました。大きくは「修辞的な示し方」と「弁証法的な示し方」について、「読むということの怪物性」とはなにかの2点です。

まず、フィッシュの提案した文学の表現方法の2つ。「修辞的」な方では、作品は読者の知りうる情報を強化することに専念し、「弁証法的」では。読者に自分で真実を見つけるように挑みかけるように描かれているという内容です。読者の反応は後者に興味をもつとされていますが、私たちは前者でも、テクストの持つ社会性という点では他の時代において知的欲求を刺激され、挑発されるのではないだろうか、と考えました。

また、読むことの怪物性とは、作者によって押し付けられた読み手の人物像を押しのける力であると解釈し、作者の絶対的権力が失われ、読者によって解釈が変化するという「作者の死」という言葉が改めて浮かびました。

 

議事録は以上ですが、本来やる予定だった4限のテクスト、ヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』は、完全夏休み持ち越しとなりました。単位の出ない特別夏期指導。日程も未定。夏課題とのダブルパンチにおびえる3年生……。私たちの夏は豊かな楽園生活とは程遠いものになる予感がします。。

春学期第9回  3年ゼミ

今回の担当は増尾です。

6/13の第9回では
3限 廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の15「結論」、第2部1「伝統的批評」13「透明な批評」
4限 ロラン・バルト著『物語の構造分析』
をとりあげました。

3限の担当は増尾。
「結論」物語の終わり方には二つある。
はっきりとした解決を持って終わる「閉じられた終わり」
結末について多様な解釈が可能な「開かれた終わり」
湊かなえ著『告白』は開かれた終わりだよね、小さい子が読むものは閉じられた終わりのものが多いよね などと読んだことのあるものを挙げて話し合いました。
ではなぜ小児向けの作品は閉じられた終わりが多いのか。
教育的な面から閉じられた終わりのほうが都合がよいのではないか。という答えにいたりました。

「伝統的批評」(=作家論)
印象主義的な論調で分析したり、教訓を作品から得ようとする「道徳的批評」
文学作品と作者の人生は切り離せないとする「伝記的批評」
の2つをみていきました。
作家論は作品を分析する時に使いやすいものであるが、それだけで物語を理解した気になってしまうのは危険だ。と先生から注意が。
あっぶない……。使おうとしてた……。と先生の助言のおかげで、これだけに頼ることはやめようと固く誓った増尾でした。

4限の担当は大下。
そして、今回は高校生に向けた大学の公開授業ということで、明治大学付属中野高校のO君が参加してくれました!!

作者の死 ということで、そもそも「作者」とは何であるのか、どのようにして「作者」がいなくなっていくのかといったことを読み解いていきました。
文学作品はとりわけ作者というものが見えやすいが、絵画などの他の芸術においてはどうなのだろうかという点について議論を発展させました。

私たち(主に私)が頭を抱えてうなっている中、O君が「〜〜ということもありますか?」、「〜〜いうことを他のところで聞いたのですが……」と積極的に意見をくれました!そこで出た話をさらに発展させ……といつも以上に濃密な議論になりました!!
O君ありがとうございました!
あと少し素敵な楽しい高校生をすごしてくださいね!いつかまたお会いできるのを楽しみにしております!!

だんだんと今まで得たものを踏まえて考えることができるようになってきました。
その理論の誕生した時代背景などの知識も積み重なってきた気がします。
たぶん……できてます!!いや……とりあえずもう1度整理しようかな……。

O君に良い刺激をもらい気を引き締めた増尾でした。

ブログ用写真2

増尾

春学期第8回 3年ゼミ

こんにちは。今回の担当は大下です。
第8回では『批評理論入門』の「間テクスト性」「メタフィクション」、ジュリア・クリステヴァの『セメイオチケ1』の一部分を取り上げて議論しました。

「間テクスト性」の章では、じつに多くの作品が『フランケンシュタイン』に関係していると説明されており、研究量の膨大さに圧倒され、この夏の研究に恐れをなしていました。間テクスト性とは、文学テクストは必ず先行するテクストと関連があるということ。作者の意図しないところでなんらかの影響が出ているということは、個人主義的な思想を打ち壊したとも言えます。ひとりの人を一面的に構成されたものとしてみるのではなく、多面的な側面をもち、数々のテクスト、社会、人物から影響を受け続け、与え続けるものだと考えると、他者との境界は分かりづらく、そして自分のオリジナリティとは何かという根源的な問いにまで及びます。そうした不安というのは人間にとってとても怖いことではありますが、新たに自己を見つめなおすきっかけにつながるのではないかな、と考えました。

続く「メタフィクション」では、語り手が語りの前面に現れて、作品を作りものであると強調させる作用を学びました。漫画「忍たま乱太郎」に見られるように、作者がコマの外側からコマを破って物語の内に入っていく様子を例に、メタフィクションの現象について話し合いました。

4限のセメイオチケでは、エクリチュールという言葉をキーワードに、難解な文章を読解することに専念しました。3限の内容に引き続いた間テクスト性の話では、言葉自体が社会によって変容し、歴史や社会に触れるためには、文学が必要であるというように語られていると解釈しました。また、バフチンがカーニヴァルへ赴いたとする理論は、話し合いの末納得のいく解決ができましたが、テクスト空間と言葉のところは、時間オーバーで手つかずとなりました。

このセメイオチケは、まだまだ議論をせねばならない積み残しが多いため、夏休みに大学でもう一度議論しなおすことになりました。骨のある文章に、2人とも完敗です……。ではまた次回。

春学期第7回  3年ゼミ

今回の担当は増尾です。

5/30に行われた第7回では
3限は廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)「反復」「異化」
4限ではヴィクトル・シクロフスキー『手法としての芸術』を用いての講義となりました。

まず3限は増尾が担当。
「反復」とは修辞技法のひとつで、強調をもたらす。
というのが大前提。
人々に気づき、危機を感じてもらい、日常には刺激をあたえるものだということを知りました。

「どんな場面で反復を感じる?」という先生からの問いかけで、3人でしりとりのような形で「反復」の事象をあげていきました。
生と死、親子関係という大きなものから、通勤、父親が週末にかける掃除機という身近なものまで様々でした。
では、反復された結果としてどうなるか。
最初はもちろん強調され、それが繰り返されることで日常化し、意識されなくなっていく(自動化)
反復というのは突き詰めたら強調だけではないのだ と知りました。
また、あること(言葉だけではなく事象でもよい)が繰り返されることによって構造が生み出されるとのことでした。これにより構造主義、ロシア フォルマリズム的な考え方とつながるということに驚きました。

「異化」は日常の事象を非日常的なものとして表現すること。
比喩とは違います。石を例に説明すると、
比喩:石と何かを結びつける ことに対し、異化:石という概念をはぎとってよく分からない固形物にする ということなのです。
情報の多い比喩とは違い、まっさらなものを提示するものが異化だと言うこと。
うまく説明出来ていない気がします……。自分では納得してるのです……が……。

4限は大下が担当。
イメージには思考のための実用的手段、印象を強める詩的なものの二つがあり、それらの目的は私たちの理解をたやすくすることではなく、対象物に対する独自の知覚を生み出すこと。
ということでした。

イメージというとわかりやすくするためにあるという印象だったので衝撃的でした……。

芸術の目的はそれを認めることのレベルではなく見ることのレベルで事物を感じとらせることにあり、その手法とは事物を〈異化〉するものであり形式を難解にして知覚をより困難にしより長引かせる手法
ということも書いてあり、自分が芸術を理解し難い、読み解けない理由がわかった気がしました……(笑)
でも負けない……!!

「現実にあるものを異化して考えさせるようなものが芸術」という定義について、果たしてこれがあてはまっているか、この定義だけが芸術がなんたるかのすべてを言い切っているのか という意見を元に議論を進めていきました。

今後新しい考えが生まれてくる。そしてそれを私たちが判断するんだ というところまで話して時間がきてしまいました。
芸術的な話を読み解くことはとても大変でしたが、3限との関連もあり、なんとか議論まで辿り着けたのではないかと思います。
復習ちゃんとしないと……またこんがらがってしまう……。
7回目ということで早くも次回で折り返しです!!
まだまだ頑張らなければ……!!

増尾

春学期第6回 3年ゼミ

こんにちは、大下です。
5月23日のゼミでは、3限に『批評理論入門』9「声」、10「イメジャリー」について、4限ではミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』第一章について議論しました。
3限のレジュメはこちらです。
第6回 「声」「イメジャリ―」

物語における「声」には、大きく分けて、モノローグ的なもの、ポリフォニー的なものの2つに分かれます。モノローグ的小説とは、作者の単一の意識と視点によって統一されている状態のもの、ポリフォニー的小説とは、多様な考えを示す複数の意識や声が互いに衝突する状態のものを指します。これは4限でも取り扱うバフチンの中心概念であり、彼の著書では、ドストエフスキーに特徴的な対話的(ポリフォニー的)テクストとは何かが語られています。
始めは文化批評用語辞典の記述に引っ張られ、モノローグについて「ほとんど存在しないものなのだ」と勘違いしていた私。議論の末、モノローグ的小説は、桃太郎のような、「主人公の一本のストーリーのために、ほかの登場人物は従属している小説」、ポリフォニー的小説は「そこに登場するいかなる人物も立体的に描かれている小説」だという風に理解することができました。つまり、世の中の小説の多くはモノローグ的であり、ポリフォニー的であることは非常に厄介であるということです。
先に4限で話したことを書きますが、バフチンはドストエフスキーの素晴らしさをこのポリフォニー性に見出しています。ポリフォニー的に書くということは、例えば登場人物Aの意見が作者の進ませたい物語の方向と同じだった場合、多くの物語では別の登場人物Bの意見はそれに賛成するか、対立意見だとしてもAの発言を補完するものになってしまいます。Bの発言を完全に対話的に描くのは難しく、そして非常にめんどくさいです。それを1から100までやっていたら、キリがない。そのことが、ポリフォニー化を難しくする原因だと言えます。
たしかにすべてが対話的な物語は、書く方も読む方も非常に疲れますし、それを上手に描き切っているということからは、ドストエフスキーの凄さが分かると思います。モノローグとポリフォニーの違いが理解できた瞬間、頭の中がすっと整理された感じがあり、とてもすっきりしました(笑)

さて、3限の話に戻りまして。イメジャリーとは「イメージを喚起する作用のこと」を指し、今回はメタファー、象徴、アレゴリーについて議論しました。
メタファー(隠喩)とは、「風車の森」といったような表現、象徴とは「鳩は自由の象徴」という表現が有名です。アレゴリーとは、寓意的物語に多く、抽象概念を教訓的に示す表現のことを指します。(「森」を「過ち」と結びつけるなど)
そのほかにも関連事項として、メトニミー(換喩)、シネクドキ―(提喩)についても触れたため、頭の疑問符は増加。身近な内容をそれぞれに分類していきます。

肌など存在そのものが雪に近しい〈白雪姫〉はメタファーで、ある一部分を切り取って比較していることから〈赤ずきんちゃん〉はメトニミーです。ほかにもメトニミーの例として、メガネをかけた人を「メガネ」という愛称で呼ぶことも挙げられます。
上位概念を下位概念に言い換えることを提喩といいます。換喩の表現に上下の概念を足した感じです。うーん難しい。追加内容だったのでさらっと理解したにとどまりましたが、やはり復習が必要なようです。

そして、議論はアレゴリーとはいったい何のことかについてに発展していきます。ヴァルター・ベンヤミンらが唱えた〈アレゴリーはシンボルより優勢である〉という考え方がさっぱりわからず、先生のお力をお借りしながら、ゆっくりと読み解いていきました。アレゴリーは、ある具体的概念(森など)の背景に、神話などの別の背景が読み取れる場合、その神話などの別の背景におけるメッセージが想起されるということで起こります。一方、シンボルというものは、なぜそのものが全く結びつきのない抽象概念を想起させるのか、ほとんどの場合解釈することができません(鳩がなぜ自由と結びつくのかなど)。そのため、アレゴリーは起源が分かっているという点でシンボルよりも優位に立つ存在であるのです。
……以上のことを理解するのに、30分以上はかかりました。その後ポスト構造主義→構築主義→脱構築などの説明をうけて3限は終了。本日も体力をゴリゴリ消費する3時間でした。

大下由佳

春学期第5回 3年ゼミ

大変遅くなりました!なんとかログインすることに成功いたしました……。今回の担当は増尾です。
5/16に行われた第5回では
3限は廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)「性格描写」「アイロニー」
4限ではウラジーミル・プロップ『昔話の形態学』を用いての講義となりました。
まず3限は増尾が担当。
「性格」というものには正確性があまりみられないということ、その時の状況や誰といるかということによって変化していくものであり、いかなる場合でも同じではないこと、語り手の欲望が如実に反映されており欲望と登場人物の性格というのは対応していく
 などということを理解しました。
「アイロニー」皮肉。
言葉のアイロニー:言葉の表面的な意味とは違う意味を読み取らせる。読者の解釈を通じて初めて認識。
状況のアイロニー:意図・予想と実際に起きている事の間に相違があること。
劇的アイロニー:状況事実と登場人物の認識の不一致に読者が気づいていること
アイロニーにはこの三つがあり、これらが使われることによって受け手に面白さを感じさせる。
『フランケンシュタイン』の書かれた当時は、人=神のつくったものでした。
では、つくられたもの=人ならば怪物は一体何なのだろうか という大きなアイロニーを含んでいるということでした。
また、アイロニーの応用として、お笑い芸人アンジャッシュのコントをあげ、実際にコントをみながら巧妙に使われるアイロニーを楽しみました。
4限は大下が担当。
物語の31の機能を簡潔にまとめた有難いレジュメとともに解説してくれました……!!今後使います!
魔法昔話には共通する機能(=登場人物の行為であり、話の展開上意義のある行為)が31個ある。機能の継起順序は同一であるが、あらゆる物語にすべての機能が備えられている訳では無い。
という前置きのあと、31の機能を詳しくみていきました。
なぜ、「魔法昔話」に限られているのか、機能31「結婚」などからみられるように主人公は男でなければいけないのか、これではない成長のプロセスはないのか
などといった疑問に取り組みました。
小説・演劇だけではなくアイロニーが使われていた面白さ、アンジャッシュのアイロニーの使い方のうまさに感動しました!!
アイロニーだぁ……と思いながら見るお笑いが面白いかというのは疑問ですが笑
また、物語を分析していく上で大切な31の機能。
映画のワークショップでも取り扱いました。
しっかりと自分のものにできるように理解を深めなければ……と思いました。
増尾

春学期第4回 3年ゼミ

遅くなりました、大下が担当します。
5月9日の第4回ゼミでは、まず内藤先生から神保町シアターの上映作品についてご紹介いただきました。
御茶ノ水、神保町に腰を据えて勉学に励むもの、その地を知らずして何になるとお言葉をいただき、まずは散歩に励まねばと反省した次第です。

3限では『批評理論入門』第1部5「提示と叙述」、「時間」について議論しました。
レジュメはこちらです。

第4回 「提示と叙述」「時間」

提示とは登場人物の会話など、あるがまま示された状態のもの、叙述とは語り手の解説や要約などのこととざっくり理解し、『フランケンシュタイン』にてなぜヴィクターの怪物創造シーンは詳しく描かれないのかを考えました。廣野氏の分析では、「正常さを備えた語り手が、感情をこめつつ要約しているからこそ、彼(ヴィクター)に対する共感を保ちながら、最後まで物語を読み続けることができる」(一部省略)と書いてありましたが、そうは言っても現状、読み手はヴィクターに共感し続けられてはいないのでないでしょうか。怪物を作る場面を描かないからといってヴィクターに共感できるわけでもなければ、仮に克明に描かれていたとしても、どのみち私たちは変わらずヴィクターを無責任な創造主とみなすことに変わりありませんし、幸せなヴィクターが描かれていることにいっそうの不信感を覚えたりすることもないはずです。
この問いには、ローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディー」を例に挙げて議論されました。

時間については、4限との関連性も高く、お互いの調査結果を持ち寄って理解を深めることになりました。
錯時法、後説法、先説法、省略法、要約法、情景法……。ひと通りそれぞれの方法の理解を深めた後、3匹のこぶたでこの時間の技法をできる限り使用し、プロットを作成することになりました。

見づらいですが、ざっとこんな感じでした。

4限ではジェラール・ジュネット『物語のディスクール』における「時間」の話題について議論しました。
3限とほぼ同内容であるため、さらなる議論の場となりました。物語の内容と言説が常に一定の長さを保つとはどういうことなのか、休止法とはどんなものかをより詳しくなどが主な議題です。休止法に関してはかなり悩みましたが、時間の速度はゼロなのに言説は無限に広がるという状態は、出来事自体を止め、それを詳視するのではなく、止まったそのものを描写するのだということに落ち着きました。しかし、止まったものの描写をするにしても、そのものの過去を語ってしまったりすれば、それは完全に休止しているとは言い難くなります。そういった面で、完全な休止法というものは極めて少ないと考えるべきだとなりました。

だいぶ記憶があやふやですが、簡単に授業報告とさせていただきます。

大下由佳

春学期第3回 3年ゼミ

こんにちは。初めまして!4期生もう1人の方、増尾美来です。

遅ればせながら第3回のゼミブログをあげさせていただきます。忘れていたわけでは……すみません。

第3回では
3限は引き続き廣野由美子著『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義-』(中公新書)の「語り手」「焦点化」
4限ではジェラール・ジュネット『物語のディスクール』「焦点化」を用いて講義を進めていきました。

物語には語り手が不可欠です。小説をどの角度からみるかによって語り手は種類分けされます。
しかし、果たしてその語り手は「信頼できる」ものでしょうか?

例えば、ダニエル・キイス著「アルジャーノンに花束を」は知的障害をもつ主人公の目線で語られ、彼が脳手術を繰り返し知能があがるにつれ文体にも変化が起こります。知能の低い時に書いていた文にはどれほど正確性があるのだろう?知能があがったあとの記述も彼の主観によって事実とは異なるものになっているのでは?
など、「語り手における信頼」問題について議論を交わしました。

誰が語るのか、誰が見るか を区別して「見る」という行為を規定し、見ている主体によって捉えられた多面的現象を映し出す方法を「焦点化」といいます。
誰が見ているか、誰が見るか によって種類が分けられます。(外的、内的、固定内的、不定内的、多元内的)

一つ一つ例を考えながら、あーでもないこーでもないと話し合いました。
湊かなえ著『告白』は複数の登場人物の視点から物語が進んでいくから不定内的焦点化 なのではないか。など触れたことのあるもので考えることによって理解が一気に進みました。

4期生2人ということで2人して考え込んでしまうことも多々あるのですが、その度考え方のヒントを下さったり、私たちの取りこぼしをすくい上げてくださる3期生の方々。いつもありがとうございます…!!憧れの眼差しでみております。先輩方のように来年なりたい!!

図書館にこもって調べることも、毎週悩みながらレジュメを作成することも不思議とつらいとは感じてなくて。どんなことを知れるのだろうとわくわくしながら読み込む日々です!
理解するためにやるべき事はたくさんあると思いますが、このわくわくを忘れずにこのまま走っていきます!!

増尾