秋学期第13回ゼミ

今回は秋学期第13回ゼミについてのブログです。
執筆担当は提中です。

2016年を締めくくる第13回のゼミは、ゼミ生の希望により、
後期期末論文の相談をしようという回になりました。
4日後に論文の提出を控えていた私たちは、
各自書けているところまでの論文を持ち寄り、1人ずつ時間を取りながら、
執筆において悩んでいることや、修正した方が良い点はあるかなど、
相談をし、それについてアドバイスをしあいました。
このようにひとりひとりの論文に対して時間を取って、
親身になって相談をしあうことが出来る点は、
内藤ゼミに入って本当に良かったと思う点のひとつです。

皆にもらったアドバイスのおかげもあり、
12月24日、クリスマスイブが論文の締め切りだったのですが、
無事に後期期末論文を提出することができました。
そこからさらに何度か修正を加え、なんとか今年度の論集を完成させることが出来た私たちですが、
次は卒業論文が待っています。
もうすでに書きたいテーマが決まっている人も、そうでない人もいますが、
(ちなみに私はまだ考え中です…)
卒業論文も一人で書いていて悩んだ際には、
こうして皆の力を借りつつ、助け合いながら書いていけるといいなと思います。

秋学期第12回ゼミ

こんにちは、横野です。

 

今回はラドヤード・キップリングの小説『ジャングル・ブック』を読み、ポストコロニアル批評を行いました。

 

実は第11回のゼミでディズニーアニメにおけるオリエンタリズムについて議論になった時、「今放映されているディズニー映画の『ジャングル・ブック』は、オリエンタリズムが顕著に出ているのではないか?」という話になり、急遽ジャングル・ブックを扱うことになったんです!

 

今放映されている作品は持ち込むことが出来ないため原作の小説を批評し、比較・参考資料としてディズニーが過去に制作したアニメ版も用いました。

 

実際に作品を読んでみると、ポストコロニアル批評で読み解ける部分がたくさん見つかりました!

ディズニー好きの室さんだからこその発見です。さすが…。

 

早速始めていきますね。

 

まず、『ジャングル・ブック』についてです。

 

ジャングル・ブックは、ジャングルで育った黒髪の少年モウグリの物語です。モウグリは黒ヒョウのバギーラに拾われオオカミに育てられましたが、オオカミ達によって人間の村に帰そうという話になります。オオカミに頼まれたバギーラはモウグリを人間の村に連れていくため、熊のバルーと共にモウグリと過ごしながら様々な困難を乗り越えます。そして、最終的にモウグリは自ら人間の村に帰っていくというお話です。

 

今回はその中でも「カーの狩り」という短編を考察しました。

 

「カーの狩り」では主に下記の人物・動物が登場します。

 

モウグリ:黒髪の少年。

バギーラ:黒ヒョウ。モウグリを拾った存在。

バルー:熊。陽気な存在。

カー:ニシキヘビ。モウグリを食べようとする。

バンダー・ログ:サルの集団。モウグリをさらう。

 

この短編をポストコロニアル批評で読み解くことで、

【登場人物のビジュアル】

【バンダー・ログの存在】

【インド市の描写】

の3点が浮かび上がってくるという話に。

 

【登場人物のビジュアル】

モウグリは作品内で褐色肌、黒髪、黒い瞳など、様々な特徴が描かれています。また、作品内においてモウグリは野性的な描写を誇張して描かれているという話になりました。

最終的にモウグリはインド市に帰っていくため、インド人であることが分かっています。

この事から、作品内でインド人の野蛮さ、野性的さが描かれているという結論に。

 

【バンダー・ログについて】

サルの集団であるバンダー・ログはジャングルにおいて接することが禁じられるなど、疎外された存在として描かれています。

また、掟を持っていない・自分たちの言葉がない・リーダーがいない・記憶がなくなるなど、他の動物に比べ能力の低さを誇張して描かれています。

 

発表者の提中さんは作品を読んでいる中で「インド人か日本人をモデルにしているのでは?」と考察し発表してくれましたが、議論の中では日本人をモデルにしているという結論に。

 

また、作品が執筆された1894年は日清戦争が起きた年でもあります。このことも影響しているのでは…という話になりました。

作者はイギリス人ですが、アメリカでは日本人が「イエローモンキー」と呼ばれていたよね、など様々な事例も

出てきました。

 

やはり私達自身が日本人なので、バンダー・ログについてはかなり盛り上がりました。ちょっと悲しい気持ちにもなりましたが…(笑)

 

【インド市の描写】

作品内でバンダー・ログはインドの廃墟した都市に住んでいます。

モウグリは当初その市が「すばらしいところ」と発言していましたが、その後「すごくひどいところに来てしまった」という消極的な発言に変わっています。

 

作品内ではわざとらしく腐敗した市の描写がされていることに疑問を持ち、「これはインドが植民地であることを表しているのではないか」という話になりました。

 

これら3点の問題は全てアジア、とりわけインドに対する嫌悪感や差別思想が表れています。

これは作者の経歴が大きく影響しているのでは?という話に。ここで軽く作者について説明を。

 

ラドヤード・キップリングはイギリス人作家で、生まれはイギリス領であるインド帝国ボンベイ。『東と西のバラッド』という作品では「東は東、西は西」という言葉を残しています。帝国主義者でもありました。

 

このように、キップリングは“イギリス人であるがインドで生まれ育ったどっち付かずの存在”という特殊な経歴だったんです。

イギリス人でもインド人でもない中途半端な存在…

あれ?これ、どこかで似た人を見ましたよね?

 

そう、モウグリもそっくりな状況なんです!ジャングルで育ったけれど、人間であるどっち付かずな存在。

 

つまり、作品と作者を重ねると、作者のインドに対する嫌悪感やイギリス・西洋の優位思想が表れるんです。

キップリングはインドで生まれ育っているけれどイギリス人であることに悩んでいたのだろうね…と皆で議論していく中で徐々に同情してしまいました。

 

そして、映画作品についても触れることに。

 

3期生は5人中3人がジェンダーに興味を持っていることもあり、映画作品では人間の女の子の描き方に気になる点が集まりました。

 

映画の中でモウグリは人間の村に帰ることを嫌がっていましたが、ジャングルの茂みから見た女の子に恋してしまい、村に行くことを決めます。

 

その女の子を見つけ、出会ったシーンが気になる!という話に。

 

・女の子は黒髪褐色。

・モウグリに気付いた女の子は意味深な微笑みをモウグリに見せる。

・水瓶で水を掬う間も目配せを送る。誘惑の表情。BGMもムーディーな音楽に。

・わざと水瓶を落としモウグリを呼び寄せ、最終的に水瓶をモウグリに運ばせる。

 

これらから、アジア人の女性に対する神秘的魅力・誘惑する存在という思想が表れているよね、という結論になりました。

 

 

今回はここでゼミが終了しました。

これまでこの作品を読んでいればバンダー・ログはただの嫌なやつだという印象で終わっていたとおもいますが、ポストコロニアル批評を通して、自分達アジア人を揶揄している存在と知ることで妙に親近感が湧いたりと、これまでとは違う読み方が出来る「批評理論」の楽しさを実感できる回だったなあと思います。

秋学期第10回ゼミ

お久しぶりです。今回のブログ担当の前田です。

ここまで二回にわたって夏目漱石の『こころ』と、それに対するクイア批評であるキース・ヴィンセントの論文について議論してきました。今回は今までとは打って変わり、これらの議論の内容理解を深めるためにゼミ生それぞれが『こころ』の批評を行いました。

共通の作品の批評といっても、やっぱり人によって切り口が違うため個性が出ます。それらの多様で乱雑な発想を統合し、新たな観点を導き出すことができるのもゼミの醍醐味かもしれません。

以下は議論中に出た見解についてです。

ある人は、前回の課題として挙げられた「行為遂行性」という概念と絡め、『こころ』のセクシュアリティを論じました。言語には、事実そのものを言う「事実確認的発話」と、その言語自体に遂行の意を与える「行為遂行的発話」の二つが挙げられます。この作品の語りが遂行的な機能をもつものとして読むと、『こころ』とは読者にセクシュアリティを経験させる意図で書かれた、なんとも性教育じみた物語として解釈することができます。

またある人は、『こころ』を西洋優位的な思想に支配される日本を描いた、ある種のポストコロニアル的な作品だと論じました。都会の地で西洋の学問に精通した先生を讃え、田舎に暮らす古くさい父親に対してしばしばネガティブな思いを抱くという対比は、確かに西洋の思想に淘汰される古き日本を連想させます。

さらにある人は、『こころ』に加えキース・ヴィンセントの論文の批評を行い、彼の論が抱える限界について指摘しました。キース・ヴィンセントは論証する過程でフロイトの論を用いていましたが、それでは論の核となる「主人公は同性愛者か異性愛者」かという問いに対する答えが、解釈次第でどちらとも取れてしまうという問題が挙げられました。その打開策として、セクシュアリティを論じる上では新たな理論を導入することが必要ではないかという提案がなされました。

どれも面白い意見であり、なおかつ今後の研究に必要なイマジネーションを呼び起こしてくれるものだったと思います。特に僕らの学年はジェンダー論に興味がある人が多く、キース・ヴィンセントのセクシュアリティ批評まで絡めて論じることができたのはとても有意義なものだったと思います。

秋学期第9回ゼミ

第9回は、夏目漱石『こころ』を扱い、ジェンダー批評の中でも特に「クイア批評」を学びました。

クイア批評を理解するために使ったテキストは、キース・ヴィンセント「夏目漱石『こころ』におけるセクシュアリティと語り」です。

執筆担当は室です。よろしくお願いします。

 

『こころ』は、批評の上でそのホモソーシャル性に着目され、「同性愛小説」として読まれてきました。この読み方に対し、違う読み方の可能性を指摘したのが、今回扱ったキース・ヴィンセントの論文です。

同性愛小説として評価されてきた『こころ』ですが、キースはそれを否定し、『こころ』は同性愛小説でも異性愛小説でもなく、それらの対話を可能とするテキストである、としました。

今回は、論文を踏まえて議論を発展させるというよりも、この論文の内容を理解していくということを中心に議論していきました。

ですので、今回のブログは議論の内容というよりも、キース・ヴィンセントの論文を私たちがどう理解したかという点を中心に書こうと思います。

 

キース・ヴィンセントの論に触れるために、まずそれまで『こころ』がどのように読まれていたかを確認します。

『こころ』が「同性愛小説」とされてきたことは先ほども述べましたが、さらに言うと、「ホモソーシャル共同体をめぐる」歴史的な断絶、つまり「男性間の愛の可能性」が存在する世界と、「男性間の愛の可能性」から切り離された世界との断絶を描いたテキストであるとして、歴史主義的な読み方がされてきました。

その際注目されたのが、愛について語り合う作中の以下の会話です。

 

「私の胸の中には是といふ目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはゐない積です」

「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだらうと思つて動きたくなるのです」

「今それ程動いちやゐません」

「あなたは物足りない結果私の所に動いてきたぢやありませんか」

「それは左右かも知れません。然しそれは恋とは違ひます」

 

ここから、「男性間の愛の可能性」を認識している「先生」と、認識していない「青年」とのすれ違いが生じていることが指摘されてきました。

このことが、『こころ』が「セクシュアリティの歴史的な断絶」を描いたテキストであるという読み方につながっていました。

 

しかし、キース・ヴィンセントは『こころ』の持つ「遂行的な機能」により、歴史主義的な読み方の有効性が失われていることを指摘します。

 

『こころ』は、「青年」が成長した現在から、先生と過ごした「過去」を語るという方法で描かれます。

しかし、保守派の読み方ではこの語りの複雑さが無視され、「青年の語りの客観性を自明視」してきました。

そして、『こころ』の主人公は先生であるとし、先生により語られる「先生と遺書」ばかりが批評の対象とされてきました。

先生の遺書に表明される価値観は絶対的なもので、青年は「忠実に先生の物語を伝えるだけの存在」とされてきたのです。

 

これを批判したのが小森陽一という人物です。

小森は、青年による一人称の語りに焦点化し、「青年が亡くなった恩師の失敗から教訓を学ぶ物語」であると読みました。

これにより、「先生と遺書」のみに焦点化された読みとは異なり、青年を主人公として読むことが可能になりました。

 

しかしキース・ヴィンセントは、小森が先生の性格描写が年下の青年によって語られていることを考慮していないことを指摘します。

「異性愛者」として成熟した青年の「欲望」が、青年の語りに表れていることを、小森の読みでは考慮されていないというのです。

「先生」が同性愛者のように描写されたことや、先生と青年とのすれ違いが強調されたのは、そこに「自分は異性愛者である」と思いたい青年の「編集」が加わった上でのものであることをヴィンセントは指摘しました。

青年である「私」は、自身の異性愛者としての「成長」を語ることで、先生を「性的発達を阻害させた存在」として語ります。

「青年」には「自分は異性愛者である」という欲望があり、それが反映され、「先生」と「自分」を差異化するために、先生を「ホモソーシャルな世界から抜け出せない」過去の存在として描いたのです。

それまでの議論ではこのことを考慮していないがために、先生が同性愛的に描写された場面ばかりを抜き出し、先生を同性愛者としてきたのでした。

 

『こころ』では、先生の遺書を読み、先生のもとへ向かった後の青年がどうなるのか、明確に語られることはありません。

明確な結果を提示しないことで、多様な読解が可能になるテキストになっています。

そのため、『こころ』は、その物語をどう読むかによって、『こころ』という物語について以上に、読み手がどのような歴史的立場にいるのかを明らかにするテキストであるとキースは指摘します。

これが冒頭の「同性愛小説でも異性愛小説でもなく、それらの対話を可能とするテキストである」という主張につながります。

『こころ』は、「同性愛小説」とも「異性愛小説」とも断定されることはなく、読み手がどのようなセクシュアリティの立場にいるのかにより読み方が変わってしまうテキストです。

 

私は今回の論文については理解が追いつかず苦戦しましたが、次回の議論を通して「語り」の奥深さを知ることができて楽しかったです。

ですが、今回のブログではヴィンセントの論文の面白さを伝えきれていないと感じたので、普段から自分の中で内容を整理しながら議論していくように心掛ける必要があると感じました。

次はわかりやすい文章を書けるよう頑張ります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

秋学期第8回ゼミ

こんにちは。
今回は第8回の授業のブログです。
担当は提中です。

今回の授業では、いつものようにテキストを読み、疑問点などを議論により解決するという形式ではなく、前回の授業を発展させて、田山花袋『蒲団』と中島京子『FUTON』について各自分析を行い、発表をしました。
ゼミ内容の紹介の前に、まずは、前回も取り扱った田山花袋の『蒲団』のあらすじの復習と、中島京子さんによる『FUTON』のあらすじを簡単に紹介したいと思います。

『蒲団』のあらすじ
妻と三人の子供のある中年の作家、竹中時雄のもとに、横山芳子というハイカラな女学生が弟子入りを志願し、手紙のやり取りの末、二人は師弟関係を結ぶ。その後、芳子の恋人である田中も芳子を追って上京してくる。時雄は芳子と田中の仲を監視するために自らの家の二階に芳子を住まわせる。しかし、芳子と田中の関係は時雄の想像以上に進んでおり、怒った時雄は芳子を田舎の父のもとに帰らせる。時雄は芳子の使っていた蒲団に顔を埋めて泣く。

中島京子『FUTON』あらすじ
中年の日本文学研究家のデイブ・マッコーリーと日系女学生エミは恋人同士であるが、奔放な女性であるエミには、他にも日本人のボーイフレンドのユウキがいる。エミはユウキを追って日本に行き、音信不通になる。デイブは日本で開催される学会にかこつけてエミを探しに日本に行く。デイブはエミをエミの祖父のサンドウィッチ店「ラブウェイ・鶉町店」で待ち伏せするうちに、画家の女性・イズミと出会う。イズミはエミの曽祖父・ウメキチを介護しつつ、ウメキチの体験を絵にしようと試みていた。この物語は、デイブが書いた『蒲団』の“打ち直し”(『蒲団』では殆ど語られなかった時雄の妻の視点から書きなおした話)と共に進んでいきます。

中島京子さんの『FUTON』は、田山花袋の『蒲団』をベースに、現代風の物語に再構築されています。今回のゼミでは『蒲団』と『FUTON』の二つの物語を比較しつつ、分析を行いました。

まず、全員が着目したのが、『蒲団』と『FUTON』の登場人物たちの関係性です。
『FUTON』のデイブ・エミ・ユウキの三角関係は、『蒲団』における時雄・芳子・田中の関係をパロディしています。また、ウメキチ・ツタ子(戦時中ウメキチが思いを寄せていた女性)・キクゾウ(ツタ子の恋人)の関係、そして、ウメキチ・イズミ・ハナエ(イズミの恋人であるレズビアンの女性)の三人の関係も同様です。
このような三角関係から登場人物を比較してみた結果、最も多くの関心が集まったのは芳子とエミでした。二人はお互い奔放な女性として描かれています。二人は似通った部分もありつつ、対比される部分もあります。芳子は、能力はありますが、恋人との関係が原因で田舎に戻され、小説家になるという夢を閉ざされます。対して、エミは、能力はないが、恋人(ユウキ)との関係を利用し、日本に行く機会を手にいれ、以前の恋人(デイブ)も利用し、日本への留学の推薦を手に入れます。
「女性であるがゆえに」能力を発揮できないままチャンスを逃す芳子。
「女性であることを利用して」成功のチャンスを掴んでいくエミ。
この二人の対比から、芳子のように失敗しないだけでなく、女であることを利用し、また男性を利用していくエミは、女性をミューズとして扱ってきたことへの批判なのではないか、という分析が行われました。
また、エミやイズミ、ハナエ、美穂といった、『FUTON』に登場する女性たちは皆、次の段階へとステップアップ(成長)をしていきます。一方男性登場人物には、大きな成長は見られません。これは、男性が成長し、女性は成長しない存在として描かれてきた近代文学への批判なのではないかという意見もありました。
さらに、私たちは、エミのように、女性が、女性であることを利用してステップアップしていくことに嫌悪感を抱きがちです。しかし、男性も単純に能力だけで成長しているのかと言われると、必ずしもそうとは言えません。男性には、ホモソーシャル、つまり、女性が入っていくことが出来ない男性同士の付き合いがあり、そういった関係を利用して地位や名声を得ていきます。ステップアップするために必要なのは単純な能力だけではない、という点は女性も男性も同様であるにも関わらず、何故女性だけが嫌悪感を抱かれるのか。ここにはジェンダーの問題もあるのではないかということが議論になりました。

『FUTON』では、上記のようなジェンダーの問題が描かれるだけではなく、アメリカと日本を脱構築が行われているのではないかという分析も行われました。
『FUTON』では、物語の終盤で、9.11(アメリカ同時多発テロ事件)が描かれます。
戦勝国のアメリカと負けた日本。アメリカ=強い、というイメージが、9.11が描かれることによって壊されることで、脱構築が行われています。こういった部分や、作中に度々登場するウメキチの戦時中の回想などから、『FUTON』は戦争文学として読み取ることも可能なのではないか、という意見もありました。

今回のゼミでは2限に渡って、『蒲団』と『FUTON』の分析を行ったのですが、議論すればするほど、着目すべき点、さらに分析できそうな点が見つかりました。人によって、分析した意見や視点が異なり、とても興味深く、3時間があっという間に終わってしまいました。上に書いたのは一部で、全て書くことが出来ないのが残念です。
今回の分析対象は『蒲団』と『FUTON』でしたが、また実際に個別で作品分析をやってみようということになりました。次は夏目漱石の『こころ』を分析する予定になっています。ブログにも記事にしますので、その時は是非一読頂けると幸いです。長々とした文章になってしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

秋学期第7回ゼミ

こんにちは、横野です。

今回のゼミでは小野俊太郎の「ジェンダーとセクシュアリティ」について前田くんが発表し、その後みんなで議論をしました。

発表を通して、『女性の身体の「物質(唯物論)」的な基盤と再生産』についてと、文章中に多々見られる『サイボーグ』という言葉の意味についての2点が論点にあがりました。

上記の2点は後で話し合った結果を書きますね。まずは発表内容から!

生物学的なオス・メスというのは長年、人間社会のすべてを決定すると考えられてきましたが、それでは説明のつかないことが発生してきました。それがジェンダーとセクシュアリティの議論に繋がります。

ジェンダーとは「社会における[男女]という性差あるいは性役割」のこと。

一方セクシュアリティは「性的なことがら、特にセックスのパートナー選択に関すること」とあります。

これらジェンダーとセクシュアリティは全ての人に関わっていますが、普段は目に見えず私的なものとなっています。しかし、何かのきっかけで公的な場に“暴力的に”表出するんだそう。

また、先ほど書いたジェンダーは、境界線を「権威」や権力」によって人為的に作られてしまった為、身体的な性とジェンダーにずれが生じる性同一性障害などの事例が見られます。

また、男性優位の「父権制」に対抗したフェミニズム理論が、結果的にジェンダー理論への理解を深めるきっかけとなりました。また、フェミニズムの知見を受けて「女性らしさ」だけでなく「男性らしさ」というものの形成にも注目が集まるようになったそうです。

ここまでジェンダーについてお話しました。次はセクシュアリティについてです。セクシュアリティないしセックスという行動に関して言うと、あまり公然と話すべきでないという風潮がありますよね。もちろんそれは現代でも変わりません。ですが、セックスという行動自体はその人自身の人物評価を大きく左右する事項となっています。これを「公然たる秘密(open secret)」と言います。

例えば、同性とのセックスを行うこと、また異常な異性愛(幼児愛やセックス時に痛めつけるような行為をする愛など)に基づいたセックスを行うことは実子中心主義によって良くないこととされ、通常の異性愛によるセックスを行う人物より下等な存在として捉えられてしまいました。このように、医学の言説(実子中心主義)がセクシュアリティとその人のアイデンティティを結びつけることに繋がってしまったのです。

また、ジェンダー運動において、女性の人権などを尊重し同性愛者がその運動から排除される事例がありました。ここから蔑称である「クィア(queer)」をあえて用い、差別を受け止めながらも対話や議論を進めていく「クィア理論」が生まれていきました。

次にアイデンティティの新しい見方についてです。

「バディ物」という刑事作品などでよく見られるジャンルがあります。男同士が心を通わせ、ヒロインを奪い合うという構図が良く描かれる作品ですね。こういう作品はあくまで「男同士の絆」を描いたものであって、その男性たちを「ゲイ」とは思いませんよね。

これについてイヴ・K・セジウィックは「ホモソーシャル」と「ホモセクシャル」の区分として、ホモソーシャルな欲望は性愛を伴わない男同士の友情であり、社会を構成するメンバーの確認様式である。この考え方の背景として「女性蔑視(ミソジニー)」と「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」があると書いています。

しかし、近年では上野千鶴子が『スカートの下の劇場』において女性同士の友情について提示を行うなど、ホモソーシャルな要望へ亀裂をいれる試みが行われています。

そして、ジェンダーについてジュディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル』の中でジェンダーやセクシュアリティは身体で決まることはなく、社会によって捏造された言説や身振りが反復されること(=演じること)で成立すると書いています。これは社会構築主義にあたりますね。

そして、ここで一番最初に書いた2つの疑問点が論点に挙がりました。

まず、女性の身体の「物質(唯物論)」的な基盤と再生産という言葉。この「基盤」と「再生産」というのはどういう意味…?と皆で話し合った結果、「子どもを生む行為」であると結論付けました。後に書かれるサイボーグにかけた言葉でもあると思われます。学術的な文章とはいえ、女性陣からは機械的な表現で描かれていることに対して少し否定的な言葉も挙がっていましたね。

そして、サイボーグについて。まず、前田くんが「サイボーグってなんなんだよ…」と疑問に思ったことから始まり、小野俊太郎のサイボーグについての考え方を文章から読み解くことに。

その結論として、サイボーグというのは「労働する為の変化をする手段として何か人間の自然現象で発生しない人工物を身につけたもの」ということに。極端に言うと、人間が作った靴を履いた時点で、「足を防御しより労働しやすくなるようになったサイボーグ」ということになります。あまりに極論過ぎて皆絶句(笑)

ですが、逆に言うとサイボーグに男女差はありません。つまり、道具を用いた人間は男女関係なくサイボーグになるということですね。ある意味平等ではあるのかも…。

話は逸れてしまいましたが、このようにサイボーグの事例も挙がりました。

そしてジェンダーに関して近年ではジェンダーのイメージの氾濫が起こっています。また、ジェンダーへのイメージはその人の視線の働きによって変化するとも書かれていました。そして、ジェンダーに対するイメージは幾度もコピーや再生産を繰り返され消費をされているんだそう。BLものを読む女性、レズビアンもののアダルト作品を見る男性というように、新たなイメージがついても結局は生産・消費・流通という道を辿っていくのです。

 

こんな感じで秋学期第7回のゼミはジェンダーやセクシュアリティについてなかなか責めの考え方を持った文章を使って皆苦しみながら議論を進めました!

この後またジェンダーについてたくさん議論や発表を重ねることになっているとは露知らず、無事に授業を終えました(笑)

秋学期第6回ゼミ

こんにちは。今回のブログ担当の相田です。

第6回のテーマは「ジェンダー批評」について深めていきました。

今回の題材は田山花袋の『蒲団』と生駒夏美の論文、『田山花袋『蒲団』にみる日本の近代化とジェンダー』です。

 

まず初めに、明治時代の文学の変革に関して、論文では述べられています。製本技術の進化で作品が大量に複製できることによる読者の距離の変化と、西洋文化の導入により生じた言文一致運動によって手本とされた「第三人称のリアリズム」の出現により、日本近代の文学作品は大きく変化することになります。その象徴が田山花袋の『蒲団』を先駆者とする「私小説」というジャンルの出現になります。

 

また、その後、近代文学が明治時代の社会にどのような影響を与えたのかを論じています。日本国を西洋諸国に追いつかせるため、近代的思想を新たに知識層の仲間入りを果たした一般大衆に伝える手段として、近代文学はいい手段となり得ました。

 

その後、論は田山花袋の『蒲団』へ移ります。

ここでは、『蒲団』に登場する女学生、芳子についての考察がなされています。作中でハイカラな女学生として描かれた芳子は、近代日本社会の女性の象徴であり、時雄に代表される旧時代的な男性があこがれる存在として描かれている。

そして、芳子が地元に戻される結末は、芳子が師であり近代化へ導こうとした男性である時雄を裏切った罰であり、そこからは男性知識階級が自らの特権性や優越性を独占しようとする意志が窺えるとしている。

 

また、『蒲団』は告白文学として「抑圧によって存在した性」を初めて描いた作品でもある。これまでの告白文学で描かれた虚構の「性」ではなく、「私小説」という形式により「外面」を描くことで可能になる「内面」を描き出すことに成功し、田山花袋は『蒲団』を、自身を確立することが可能になったのである。

 

私小説という汎用性の高い小説の形態の登場により、自然主義近代作家である田山は焦りを生じていた。それは『蒲団』の中の時雄が芳子の恋人である田中への焦りとしても描かれている。それが芳子に対してではないのが、女性作家があくまで男性作家に支えられたものでしかないという考えによるものであるとしている。

 

まとめとしては、私小説という作品の登場により、「内面」と「外面」という考えが生じ、他者と自分を分ける西洋的思想が日本に広まることとなった。そして、その思想を広めていったのは田山花袋をはじめとする男性近代作家であり、そこには女性近代作家を抑圧する動きが存在していたことが窺えたのであった。

 

 

さて、次回はこの議論を踏まえたうえで中島京子の『FUTON』、田山花袋の『蒲団』の批評を実際にやってみるという一大イベントになります。各々がどのように解釈するのか、非常に楽しみですね!!

秋学期第5回ゼミ

 どうも、今回のブログ担当を務めます前田です。
 第五回のテーマは「新歴史主義」についての学習の続きということで、以前から
このゼミでも登場しては我々の頭を悩ませてきたミシェル・フーコー氏に関する
論文をもとに議論を交わしました。今回セレクトしたのは杉田敦『権力』。
その名の通り、権力論が主体のものとなっております。

 今回読んだ章は「権力は上からくるのか下からくるのか」と題して、権力という
ものの在処を探りました。この問いに対してフーコーは「権力は下からくる」と
結論付けています。権力は「上」に位置する特定の支配的な人物がもつものでは
なく、むしろ「下」の位置する不特定多数の人民の関わり合いの中に成立します。
いわば、点として在るのではなく面として在るというわけです。このような
全体をコントロールする主体が不在な状況は、看守ではなく囚人同士が
相互監視する監獄「パノプティコン」に象徴されます。
 上記の内容に伴ってさらにフーコーは、経済的・知的・性的関係においても
権力は外部ではなく、関係の内部に直接生まれると述べました。経済的関係は
マルクス主義に関わってくる話ですし、性的関係はジェンダーにも関わってくる
話題ですね。そこで議論の的となったのが「生 – 権力」というものについてです。
今で言うと健康診断や予防接種など、否応なしに生きることを管理し強制する
権力形態であり、その源流は18世紀のヨーロッパで生じました。そこでフーコーが
着目したのが当時のキリスト教における告白システムであり、そこでは本来
プライベートなものである「性」に関することが衆人の相互監視下におかれ
管理されることになります。これについてはゼミ内でも多くの具体例などが挙げられ、
議論がヒートアップしました。

 権力はあらゆるものの相互関係から生じるという言説は新歴史主義に通じる
ものがありますし、それがマルクス主義やジェンダーなどにも関わる広がりを
持つことが認識出来た、そんな回だったと思います。

秋学期第4回ゼミ

こんにちは。
今回は、秋学期第四回授業についでです。
今回は新歴史主義についての理解を深めるため、
杉井正史氏の「シェイクスピアとロンドン」という論文を使用し、議論を行いました。
執筆担当は提中です。

この論文では、16世紀前半、闘犬や熊いじめといったものと同等なレベルであった劇が、高度なレベルの文化にまで成長した背景には、シェイクスピアやマーローといった才人によるところの他に、エリザベス・ジェームス朝という時間、またロンドンという場が大いに関係しているとし、大衆劇場の発生はロンドンという都市の地理的要素、政治的な要素とどのように関わっていたのか、とくにリバティと呼ばれた特別行政区の役割について、シェイクスピアの喜劇『尺には尺を』を取り上げながら、考察しています。

ここで一度『尺には尺を』の簡単なあらすじを紹介します。
ウィーンの公爵(≒国王)ヴィンセンシオ公爵は、厳格であるアンジェローに公爵代理を任せて、自らは旅に出るといって姿を消すが、実際には、修道僧に変装し、国内の状況を視察する。公爵代理となり統治を行うアンジェローは性道徳について厳しく取り締まり、結婚式の前に許嫁を妊娠させてしまった男・クローディオに対し死刑を宣告する。しかし、クローディオの妹・イザベラに刑の執行を止めるように懇願されると、彼女の美貌に魅了された彼は欲望に屈し、「自分の欲望を満たしてくれるなら、兄を助けてやる」という交換条件を出す。最終的にヴィンセンシオ公爵は正体を現し、悪行を犯したアンジェローに死刑の宣告を下す。しかし、最後には全ての人物が許されて幸福な結果を迎える
という話です。(かなり省略したあらすじなので、気になる方はご自身でお調べ頂くと幸いです。)

今回の授業では、まず、何故外部にリバティという治外法権の場がつくられたのか、ということが議論になりました。リバティは、郊外に存在する地区で、エリザベス朝時代、酒場、淫売窟が王から公認されている場所で、劇場もリバティに出現していました。議論では、リバティという外部に設置された治外法権の場所で発散させることで、内部に権力を適用させることが出来るからなのではないか、という結論になりました。今の世の中でいう競馬や競艇のようなものでしょうか。

さて、次にこの論文は、どう新歴史主義的なのか、ということが議論になりました。新歴史主義について簡単に復習すると、小説や演劇などの言説も歴史の一部になり得る、という考え方です。(詳しくは春学期第14回ゼミの記事にあります。)

この劇の批評史の初期は、「公爵は神の代理人である」という説が有力でした。作品の中で、アンジェローの厳格な立法主義に対して、公爵が寛大な慈悲を施すことによって、自らの統治を回復する、という面に注目すると、公爵は“神の代理人”という解釈がされます。
しかし、現在の批評では、“神”という解釈の逆で、公爵は“神”ではなく私利私欲で動いている、という解釈がされています。国民に自由を与えるように見せながらも、一連の騒動を通して国民を機構の中に封じ込めるという、陰険な権力メカニズムの策謀を、公爵の中に見ようとしているのが現在の批評です。

この劇では、「性」と「死」という人間の二つの属性を最大限に前景化させながら、「自由」と「抑圧」についての言説を提示しています。統治の権力は、一度民衆のもとに晒されますが、この過程を通して人民はより強固に権力機構の中にとりこまれます。『尺には尺を』はこのような権力メカニズムを暴露しています。そしてそれは、エリザベス・ジェームズ朝の、大衆演劇自体の機能も暗示しています。演劇は権力に対する批判の視点を持つが、同時に権力による欲望の封じ込めの手段でもあったため、演劇は現実を映し出す鏡となり得た、ということが書かれていました。『尺には尺を』という作品は時代を反映している作品だということが言え、この点が新歴史主義的であるという議論になりました。

今回のブログ、まとめるのにかなり苦戦してしまいました。頭では理解していても、誰かに伝えられるように文章を書くのはとても難しいですね。精進します。

今回の議論では、フーコーの権力論の話にもなりました。そして権力というものについて詳しく消化することが出来なかったため、次回の授業で、権力論について詳しく扱うこととなりました。
では、また次回もよろしくお願い致します。

秋学期第3回ゼミ

こんにちは。今回のブログ執筆担当の室です。

今回のゼミでは、前回に引き続き、『現代文化論』を使って議論を行いました。

扱った分野は、第1講「映画」と、第10講「お笑い」です。

 

第1講「映画」では「構造主義」・「物語論」、第10講「お笑い」では「フレイミング」・「構築主義」の内容を扱っています。

『現代文化論』については初回のゼミにてどの分野を扱うかを自分たちで決めたのですが、

その中で「お笑い」を選択したのは、「お笑い」を「構築主義」を使って考察するということに興味を持ったためです。

「構築主義」の考え方が「お笑い」という文化にどう関わるのかが想像ができなかったため、テキストの内容や議論を通じて理解できたらいいなあと思い選びました。

 

ではまず第1講「映画」から。

この講では、先述の通り「構造主義」「物語論」を使い、現代文化における「ハイ・コンセプト」映画(=商業映画)に見られる物語の構造や形式を考察しています。

 

前半では、『スター・ウォーズ』を構造主義的に読み解くという形で解説されていました。

『スター・ウォーズ』は、作中で多くの対立関係が登場します。この対立関係を読み解くことで、隠された意味を見出すことができる、ということでした。

これにより、旧三部作ではソ連を仮想敵国としたアメリカの正当性を主張しようしていたこと、新三部作では新たな仮想敵国としてのイラクを暗示していることが指摘できます。

 

後半では、ウラジミール・プロップの昔話研究の内容が、現代の商業映画に色濃く反映されていることが指摘されていました。ここでは、『スター・ウォーズ』『ハリーポッター』を例に、商業映画において物語の「形式」が存在していることが解説されています。

 

議論の内容としては、物語論の歴史の確認を中心に行いました。物語論の歴史の中で、「構造主義」がどのような立場であるのかを再度復習しました。

また、テキストの中で指摘されていた商業映画の物語の形式について、これを壊すような作品も登場しているのではないかという話もしました。英雄譚に見られる形式が「面白い物語」としての規範となっている現代において、そういった規範を受け継がない作品も登場していることが分かりました。形式に則った物語を面白いと感じるのも、多くの商業映画に触れる中で作られた感覚なのかもしれないと思いました。

 

次に第10講「お笑い」です。

前半はお笑いにおいて「フレイミング」がどのように取り入れられているかが解説され、後半は「笑えるもの」が社会の状況に応じて常に変化していることが指摘されていました。

 

「フレイミング」とは、ある出来事に意味づけを行うことです。これにより、それ自体では意味を持たない出来事が、ある経験として残ります。同じ出来事でも、意味づけによって違う経験を手に入れることができますが、この意味づけの行為が「フレイミング」と呼ばれるものです。

 

この「フレイミング」が、現在主流になっているコント形式のお笑いにおいて、重要なものになっています。

ここで例として挙げられたのはアンジャッシュの「障子をへだてて」というネタです。このコントは、同じ状況を、登場人物それぞれが違う状況として定義するという「フレイミング」を利用したものです。

 

後半は、「お笑い」における笑いの要素を、構築主義的に見ていきます。ここで例に挙がったのは「キャラ設定をするお笑い」です。このお笑いは、私たち自身が人間関係を形づくる中で「キャラ」というものが定着したからこそ、成り立つものです。

また、笑い飯の「鳥人」というネタにおいても、マンガ的な感性がなければ受け入れられない、現在だからこそ受け入れられたネタであることが指摘されました。

 

議論の中では、構築主義の例として「指導」と「体罰」が挙がりました。現在では「体罰」として扱われるものの中には、以前には「指導」として行われていたものなどもあることから、物事の認識が社会の状況により変化していくことを確認しました。

 

今回の内容は、個人的に論文に直接関わることが多かったため、執筆を進める際に参考にしようと思います。

作品をどう分析するか行き詰っていましたが、作品の構造を読み解くという事例を確認できたので、取り入れようと考えています。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。