秋学期第8回ゼミ

こんにちは。
今回は第8回の授業のブログです。
担当は提中です。

今回の授業では、いつものようにテキストを読み、疑問点などを議論により解決するという形式ではなく、前回の授業を発展させて、田山花袋『蒲団』と中島京子『FUTON』について各自分析を行い、発表をしました。
ゼミ内容の紹介の前に、まずは、前回も取り扱った田山花袋の『蒲団』のあらすじの復習と、中島京子さんによる『FUTON』のあらすじを簡単に紹介したいと思います。

『蒲団』のあらすじ
妻と三人の子供のある中年の作家、竹中時雄のもとに、横山芳子というハイカラな女学生が弟子入りを志願し、手紙のやり取りの末、二人は師弟関係を結ぶ。その後、芳子の恋人である田中も芳子を追って上京してくる。時雄は芳子と田中の仲を監視するために自らの家の二階に芳子を住まわせる。しかし、芳子と田中の関係は時雄の想像以上に進んでおり、怒った時雄は芳子を田舎の父のもとに帰らせる。時雄は芳子の使っていた蒲団に顔を埋めて泣く。

中島京子『FUTON』あらすじ
中年の日本文学研究家のデイブ・マッコーリーと日系女学生エミは恋人同士であるが、奔放な女性であるエミには、他にも日本人のボーイフレンドのユウキがいる。エミはユウキを追って日本に行き、音信不通になる。デイブは日本で開催される学会にかこつけてエミを探しに日本に行く。デイブはエミをエミの祖父のサンドウィッチ店「ラブウェイ・鶉町店」で待ち伏せするうちに、画家の女性・イズミと出会う。イズミはエミの曽祖父・ウメキチを介護しつつ、ウメキチの体験を絵にしようと試みていた。この物語は、デイブが書いた『蒲団』の“打ち直し”(『蒲団』では殆ど語られなかった時雄の妻の視点から書きなおした話)と共に進んでいきます。

中島京子さんの『FUTON』は、田山花袋の『蒲団』をベースに、現代風の物語に再構築されています。今回のゼミでは『蒲団』と『FUTON』の二つの物語を比較しつつ、分析を行いました。

まず、全員が着目したのが、『蒲団』と『FUTON』の登場人物たちの関係性です。
『FUTON』のデイブ・エミ・ユウキの三角関係は、『蒲団』における時雄・芳子・田中の関係をパロディしています。また、ウメキチ・ツタ子(戦時中ウメキチが思いを寄せていた女性)・キクゾウ(ツタ子の恋人)の関係、そして、ウメキチ・イズミ・ハナエ(イズミの恋人であるレズビアンの女性)の三人の関係も同様です。
このような三角関係から登場人物を比較してみた結果、最も多くの関心が集まったのは芳子とエミでした。二人はお互い奔放な女性として描かれています。二人は似通った部分もありつつ、対比される部分もあります。芳子は、能力はありますが、恋人との関係が原因で田舎に戻され、小説家になるという夢を閉ざされます。対して、エミは、能力はないが、恋人(ユウキ)との関係を利用し、日本に行く機会を手にいれ、以前の恋人(デイブ)も利用し、日本への留学の推薦を手に入れます。
「女性であるがゆえに」能力を発揮できないままチャンスを逃す芳子。
「女性であることを利用して」成功のチャンスを掴んでいくエミ。
この二人の対比から、芳子のように失敗しないだけでなく、女であることを利用し、また男性を利用していくエミは、女性をミューズとして扱ってきたことへの批判なのではないか、という分析が行われました。
また、エミやイズミ、ハナエ、美穂といった、『FUTON』に登場する女性たちは皆、次の段階へとステップアップ(成長)をしていきます。一方男性登場人物には、大きな成長は見られません。これは、男性が成長し、女性は成長しない存在として描かれてきた近代文学への批判なのではないかという意見もありました。
さらに、私たちは、エミのように、女性が、女性であることを利用してステップアップしていくことに嫌悪感を抱きがちです。しかし、男性も単純に能力だけで成長しているのかと言われると、必ずしもそうとは言えません。男性には、ホモソーシャル、つまり、女性が入っていくことが出来ない男性同士の付き合いがあり、そういった関係を利用して地位や名声を得ていきます。ステップアップするために必要なのは単純な能力だけではない、という点は女性も男性も同様であるにも関わらず、何故女性だけが嫌悪感を抱かれるのか。ここにはジェンダーの問題もあるのではないかということが議論になりました。

『FUTON』では、上記のようなジェンダーの問題が描かれるだけではなく、アメリカと日本を脱構築が行われているのではないかという分析も行われました。
『FUTON』では、物語の終盤で、9.11(アメリカ同時多発テロ事件)が描かれます。
戦勝国のアメリカと負けた日本。アメリカ=強い、というイメージが、9.11が描かれることによって壊されることで、脱構築が行われています。こういった部分や、作中に度々登場するウメキチの戦時中の回想などから、『FUTON』は戦争文学として読み取ることも可能なのではないか、という意見もありました。

今回のゼミでは2限に渡って、『蒲団』と『FUTON』の分析を行ったのですが、議論すればするほど、着目すべき点、さらに分析できそうな点が見つかりました。人によって、分析した意見や視点が異なり、とても興味深く、3時間があっという間に終わってしまいました。上に書いたのは一部で、全て書くことが出来ないのが残念です。
今回の分析対象は『蒲団』と『FUTON』でしたが、また実際に個別で作品分析をやってみようということになりました。次は夏目漱石の『こころ』を分析する予定になっています。ブログにも記事にしますので、その時は是非一読頂けると幸いです。長々とした文章になってしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

秋学期第7回ゼミ

こんにちは、横野です。

今回のゼミでは小野俊太郎の「ジェンダーとセクシュアリティ」について前田くんが発表し、その後みんなで議論をしました。

発表を通して、『女性の身体の「物質(唯物論)」的な基盤と再生産』についてと、文章中に多々見られる『サイボーグ』という言葉の意味についての2点が論点にあがりました。

上記の2点は後で話し合った結果を書きますね。まずは発表内容から!

生物学的なオス・メスというのは長年、人間社会のすべてを決定すると考えられてきましたが、それでは説明のつかないことが発生してきました。それがジェンダーとセクシュアリティの議論に繋がります。

ジェンダーとは「社会における[男女]という性差あるいは性役割」のこと。

一方セクシュアリティは「性的なことがら、特にセックスのパートナー選択に関すること」とあります。

これらジェンダーとセクシュアリティは全ての人に関わっていますが、普段は目に見えず私的なものとなっています。しかし、何かのきっかけで公的な場に“暴力的に”表出するんだそう。

また、先ほど書いたジェンダーは、境界線を「権威」や権力」によって人為的に作られてしまった為、身体的な性とジェンダーにずれが生じる性同一性障害などの事例が見られます。

また、男性優位の「父権制」に対抗したフェミニズム理論が、結果的にジェンダー理論への理解を深めるきっかけとなりました。また、フェミニズムの知見を受けて「女性らしさ」だけでなく「男性らしさ」というものの形成にも注目が集まるようになったそうです。

ここまでジェンダーについてお話しました。次はセクシュアリティについてです。セクシュアリティないしセックスという行動に関して言うと、あまり公然と話すべきでないという風潮がありますよね。もちろんそれは現代でも変わりません。ですが、セックスという行動自体はその人自身の人物評価を大きく左右する事項となっています。これを「公然たる秘密(open secret)」と言います。

例えば、同性とのセックスを行うこと、また異常な異性愛(幼児愛やセックス時に痛めつけるような行為をする愛など)に基づいたセックスを行うことは実子中心主義によって良くないこととされ、通常の異性愛によるセックスを行う人物より下等な存在として捉えられてしまいました。このように、医学の言説(実子中心主義)がセクシュアリティとその人のアイデンティティを結びつけることに繋がってしまったのです。

また、ジェンダー運動において、女性の人権などを尊重し同性愛者がその運動から排除される事例がありました。ここから蔑称である「クィア(queer)」をあえて用い、差別を受け止めながらも対話や議論を進めていく「クィア理論」が生まれていきました。

次にアイデンティティの新しい見方についてです。

「バディ物」という刑事作品などでよく見られるジャンルがあります。男同士が心を通わせ、ヒロインを奪い合うという構図が良く描かれる作品ですね。こういう作品はあくまで「男同士の絆」を描いたものであって、その男性たちを「ゲイ」とは思いませんよね。

これについてイヴ・K・セジウィックは「ホモソーシャル」と「ホモセクシャル」の区分として、ホモソーシャルな欲望は性愛を伴わない男同士の友情であり、社会を構成するメンバーの確認様式である。この考え方の背景として「女性蔑視(ミソジニー)」と「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」があると書いています。

しかし、近年では上野千鶴子が『スカートの下の劇場』において女性同士の友情について提示を行うなど、ホモソーシャルな要望へ亀裂をいれる試みが行われています。

そして、ジェンダーについてジュディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル』の中でジェンダーやセクシュアリティは身体で決まることはなく、社会によって捏造された言説や身振りが反復されること(=演じること)で成立すると書いています。これは社会構築主義にあたりますね。

そして、ここで一番最初に書いた2つの疑問点が論点に挙がりました。

まず、女性の身体の「物質(唯物論)」的な基盤と再生産という言葉。この「基盤」と「再生産」というのはどういう意味…?と皆で話し合った結果、「子どもを生む行為」であると結論付けました。後に書かれるサイボーグにかけた言葉でもあると思われます。学術的な文章とはいえ、女性陣からは機械的な表現で描かれていることに対して少し否定的な言葉も挙がっていましたね。

そして、サイボーグについて。まず、前田くんが「サイボーグってなんなんだよ…」と疑問に思ったことから始まり、小野俊太郎のサイボーグについての考え方を文章から読み解くことに。

その結論として、サイボーグというのは「労働する為の変化をする手段として何か人間の自然現象で発生しない人工物を身につけたもの」ということに。極端に言うと、人間が作った靴を履いた時点で、「足を防御しより労働しやすくなるようになったサイボーグ」ということになります。あまりに極論過ぎて皆絶句(笑)

ですが、逆に言うとサイボーグに男女差はありません。つまり、道具を用いた人間は男女関係なくサイボーグになるということですね。ある意味平等ではあるのかも…。

話は逸れてしまいましたが、このようにサイボーグの事例も挙がりました。

そしてジェンダーに関して近年ではジェンダーのイメージの氾濫が起こっています。また、ジェンダーへのイメージはその人の視線の働きによって変化するとも書かれていました。そして、ジェンダーに対するイメージは幾度もコピーや再生産を繰り返され消費をされているんだそう。BLものを読む女性、レズビアンもののアダルト作品を見る男性というように、新たなイメージがついても結局は生産・消費・流通という道を辿っていくのです。

 

こんな感じで秋学期第7回のゼミはジェンダーやセクシュアリティについてなかなか責めの考え方を持った文章を使って皆苦しみながら議論を進めました!

この後またジェンダーについてたくさん議論や発表を重ねることになっているとは露知らず、無事に授業を終えました(笑)

秋学期第6回ゼミ

こんにちは。今回のブログ担当の相田です。

第6回のテーマは「ジェンダー批評」について深めていきました。

今回の題材は田山花袋の『蒲団』と生駒夏美の論文、『田山花袋『蒲団』にみる日本の近代化とジェンダー』です。

 

まず初めに、明治時代の文学の変革に関して、論文では述べられています。製本技術の進化で作品が大量に複製できることによる読者の距離の変化と、西洋文化の導入により生じた言文一致運動によって手本とされた「第三人称のリアリズム」の出現により、日本近代の文学作品は大きく変化することになります。その象徴が田山花袋の『蒲団』を先駆者とする「私小説」というジャンルの出現になります。

 

また、その後、近代文学が明治時代の社会にどのような影響を与えたのかを論じています。日本国を西洋諸国に追いつかせるため、近代的思想を新たに知識層の仲間入りを果たした一般大衆に伝える手段として、近代文学はいい手段となり得ました。

 

その後、論は田山花袋の『蒲団』へ移ります。

ここでは、『蒲団』に登場する女学生、芳子についての考察がなされています。作中でハイカラな女学生として描かれた芳子は、近代日本社会の女性の象徴であり、時雄に代表される旧時代的な男性があこがれる存在として描かれている。

そして、芳子が地元に戻される結末は、芳子が師であり近代化へ導こうとした男性である時雄を裏切った罰であり、そこからは男性知識階級が自らの特権性や優越性を独占しようとする意志が窺えるとしている。

 

また、『蒲団』は告白文学として「抑圧によって存在した性」を初めて描いた作品でもある。これまでの告白文学で描かれた虚構の「性」ではなく、「私小説」という形式により「外面」を描くことで可能になる「内面」を描き出すことに成功し、田山花袋は『蒲団』を、自身を確立することが可能になったのである。

 

私小説という汎用性の高い小説の形態の登場により、自然主義近代作家である田山は焦りを生じていた。それは『蒲団』の中の時雄が芳子の恋人である田中への焦りとしても描かれている。それが芳子に対してではないのが、女性作家があくまで男性作家に支えられたものでしかないという考えによるものであるとしている。

 

まとめとしては、私小説という作品の登場により、「内面」と「外面」という考えが生じ、他者と自分を分ける西洋的思想が日本に広まることとなった。そして、その思想を広めていったのは田山花袋をはじめとする男性近代作家であり、そこには女性近代作家を抑圧する動きが存在していたことが窺えたのであった。

 

 

さて、次回はこの議論を踏まえたうえで中島京子の『FUTON』、田山花袋の『蒲団』の批評を実際にやってみるという一大イベントになります。各々がどのように解釈するのか、非常に楽しみですね!!

秋学期第5回ゼミ

 どうも、今回のブログ担当を務めます前田です。
 第五回のテーマは「新歴史主義」についての学習の続きということで、以前から
このゼミでも登場しては我々の頭を悩ませてきたミシェル・フーコー氏に関する
論文をもとに議論を交わしました。今回セレクトしたのは杉田敦『権力』。
その名の通り、権力論が主体のものとなっております。

 今回読んだ章は「権力は上からくるのか下からくるのか」と題して、権力という
ものの在処を探りました。この問いに対してフーコーは「権力は下からくる」と
結論付けています。権力は「上」に位置する特定の支配的な人物がもつものでは
なく、むしろ「下」の位置する不特定多数の人民の関わり合いの中に成立します。
いわば、点として在るのではなく面として在るというわけです。このような
全体をコントロールする主体が不在な状況は、看守ではなく囚人同士が
相互監視する監獄「パノプティコン」に象徴されます。
 上記の内容に伴ってさらにフーコーは、経済的・知的・性的関係においても
権力は外部ではなく、関係の内部に直接生まれると述べました。経済的関係は
マルクス主義に関わってくる話ですし、性的関係はジェンダーにも関わってくる
話題ですね。そこで議論の的となったのが「生 – 権力」というものについてです。
今で言うと健康診断や予防接種など、否応なしに生きることを管理し強制する
権力形態であり、その源流は18世紀のヨーロッパで生じました。そこでフーコーが
着目したのが当時のキリスト教における告白システムであり、そこでは本来
プライベートなものである「性」に関することが衆人の相互監視下におかれ
管理されることになります。これについてはゼミ内でも多くの具体例などが挙げられ、
議論がヒートアップしました。

 権力はあらゆるものの相互関係から生じるという言説は新歴史主義に通じる
ものがありますし、それがマルクス主義やジェンダーなどにも関わる広がりを
持つことが認識出来た、そんな回だったと思います。

秋学期第4回ゼミ

こんにちは。
今回は、秋学期第四回授業についでです。
今回は新歴史主義についての理解を深めるため、
杉井正史氏の「シェイクスピアとロンドン」という論文を使用し、議論を行いました。
執筆担当は提中です。

この論文では、16世紀前半、闘犬や熊いじめといったものと同等なレベルであった劇が、高度なレベルの文化にまで成長した背景には、シェイクスピアやマーローといった才人によるところの他に、エリザベス・ジェームス朝という時間、またロンドンという場が大いに関係しているとし、大衆劇場の発生はロンドンという都市の地理的要素、政治的な要素とどのように関わっていたのか、とくにリバティと呼ばれた特別行政区の役割について、シェイクスピアの喜劇『尺には尺を』を取り上げながら、考察しています。

ここで一度『尺には尺を』の簡単なあらすじを紹介します。
ウィーンの公爵(≒国王)ヴィンセンシオ公爵は、厳格であるアンジェローに公爵代理を任せて、自らは旅に出るといって姿を消すが、実際には、修道僧に変装し、国内の状況を視察する。公爵代理となり統治を行うアンジェローは性道徳について厳しく取り締まり、結婚式の前に許嫁を妊娠させてしまった男・クローディオに対し死刑を宣告する。しかし、クローディオの妹・イザベラに刑の執行を止めるように懇願されると、彼女の美貌に魅了された彼は欲望に屈し、「自分の欲望を満たしてくれるなら、兄を助けてやる」という交換条件を出す。最終的にヴィンセンシオ公爵は正体を現し、悪行を犯したアンジェローに死刑の宣告を下す。しかし、最後には全ての人物が許されて幸福な結果を迎える
という話です。(かなり省略したあらすじなので、気になる方はご自身でお調べ頂くと幸いです。)

今回の授業では、まず、何故外部にリバティという治外法権の場がつくられたのか、ということが議論になりました。リバティは、郊外に存在する地区で、エリザベス朝時代、酒場、淫売窟が王から公認されている場所で、劇場もリバティに出現していました。議論では、リバティという外部に設置された治外法権の場所で発散させることで、内部に権力を適用させることが出来るからなのではないか、という結論になりました。今の世の中でいう競馬や競艇のようなものでしょうか。

さて、次にこの論文は、どう新歴史主義的なのか、ということが議論になりました。新歴史主義について簡単に復習すると、小説や演劇などの言説も歴史の一部になり得る、という考え方です。(詳しくは春学期第14回ゼミの記事にあります。)

この劇の批評史の初期は、「公爵は神の代理人である」という説が有力でした。作品の中で、アンジェローの厳格な立法主義に対して、公爵が寛大な慈悲を施すことによって、自らの統治を回復する、という面に注目すると、公爵は“神の代理人”という解釈がされます。
しかし、現在の批評では、“神”という解釈の逆で、公爵は“神”ではなく私利私欲で動いている、という解釈がされています。国民に自由を与えるように見せながらも、一連の騒動を通して国民を機構の中に封じ込めるという、陰険な権力メカニズムの策謀を、公爵の中に見ようとしているのが現在の批評です。

この劇では、「性」と「死」という人間の二つの属性を最大限に前景化させながら、「自由」と「抑圧」についての言説を提示しています。統治の権力は、一度民衆のもとに晒されますが、この過程を通して人民はより強固に権力機構の中にとりこまれます。『尺には尺を』はこのような権力メカニズムを暴露しています。そしてそれは、エリザベス・ジェームズ朝の、大衆演劇自体の機能も暗示しています。演劇は権力に対する批判の視点を持つが、同時に権力による欲望の封じ込めの手段でもあったため、演劇は現実を映し出す鏡となり得た、ということが書かれていました。『尺には尺を』という作品は時代を反映している作品だということが言え、この点が新歴史主義的であるという議論になりました。

今回のブログ、まとめるのにかなり苦戦してしまいました。頭では理解していても、誰かに伝えられるように文章を書くのはとても難しいですね。精進します。

今回の議論では、フーコーの権力論の話にもなりました。そして権力というものについて詳しく消化することが出来なかったため、次回の授業で、権力論について詳しく扱うこととなりました。
では、また次回もよろしくお願い致します。

秋学期第3回ゼミ

こんにちは。今回のブログ執筆担当の室です。

今回のゼミでは、前回に引き続き、『現代文化論』を使って議論を行いました。

扱った分野は、第1講「映画」と、第10講「お笑い」です。

 

第1講「映画」では「構造主義」・「物語論」、第10講「お笑い」では「フレイミング」・「構築主義」の内容を扱っています。

『現代文化論』については初回のゼミにてどの分野を扱うかを自分たちで決めたのですが、

その中で「お笑い」を選択したのは、「お笑い」を「構築主義」を使って考察するということに興味を持ったためです。

「構築主義」の考え方が「お笑い」という文化にどう関わるのかが想像ができなかったため、テキストの内容や議論を通じて理解できたらいいなあと思い選びました。

 

ではまず第1講「映画」から。

この講では、先述の通り「構造主義」「物語論」を使い、現代文化における「ハイ・コンセプト」映画(=商業映画)に見られる物語の構造や形式を考察しています。

 

前半では、『スター・ウォーズ』を構造主義的に読み解くという形で解説されていました。

『スター・ウォーズ』は、作中で多くの対立関係が登場します。この対立関係を読み解くことで、隠された意味を見出すことができる、ということでした。

これにより、旧三部作ではソ連を仮想敵国としたアメリカの正当性を主張しようしていたこと、新三部作では新たな仮想敵国としてのイラクを暗示していることが指摘できます。

 

後半では、ウラジミール・プロップの昔話研究の内容が、現代の商業映画に色濃く反映されていることが指摘されていました。ここでは、『スター・ウォーズ』『ハリーポッター』を例に、商業映画において物語の「形式」が存在していることが解説されています。

 

議論の内容としては、物語論の歴史の確認を中心に行いました。物語論の歴史の中で、「構造主義」がどのような立場であるのかを再度復習しました。

また、テキストの中で指摘されていた商業映画の物語の形式について、これを壊すような作品も登場しているのではないかという話もしました。英雄譚に見られる形式が「面白い物語」としての規範となっている現代において、そういった規範を受け継がない作品も登場していることが分かりました。形式に則った物語を面白いと感じるのも、多くの商業映画に触れる中で作られた感覚なのかもしれないと思いました。

 

次に第10講「お笑い」です。

前半はお笑いにおいて「フレイミング」がどのように取り入れられているかが解説され、後半は「笑えるもの」が社会の状況に応じて常に変化していることが指摘されていました。

 

「フレイミング」とは、ある出来事に意味づけを行うことです。これにより、それ自体では意味を持たない出来事が、ある経験として残ります。同じ出来事でも、意味づけによって違う経験を手に入れることができますが、この意味づけの行為が「フレイミング」と呼ばれるものです。

 

この「フレイミング」が、現在主流になっているコント形式のお笑いにおいて、重要なものになっています。

ここで例として挙げられたのはアンジャッシュの「障子をへだてて」というネタです。このコントは、同じ状況を、登場人物それぞれが違う状況として定義するという「フレイミング」を利用したものです。

 

後半は、「お笑い」における笑いの要素を、構築主義的に見ていきます。ここで例に挙がったのは「キャラ設定をするお笑い」です。このお笑いは、私たち自身が人間関係を形づくる中で「キャラ」というものが定着したからこそ、成り立つものです。

また、笑い飯の「鳥人」というネタにおいても、マンガ的な感性がなければ受け入れられない、現在だからこそ受け入れられたネタであることが指摘されました。

 

議論の中では、構築主義の例として「指導」と「体罰」が挙がりました。現在では「体罰」として扱われるものの中には、以前には「指導」として行われていたものなどもあることから、物事の認識が社会の状況により変化していくことを確認しました。

 

今回の内容は、個人的に論文に直接関わることが多かったため、執筆を進める際に参考にしようと思います。

作品をどう分析するか行き詰っていましたが、作品の構造を読み解くという事例を確認できたので、取り入れようと考えています。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

秋学期第2回ゼミ

こんにちは!今回のブログ担当の横野です。

秋学期からはゼミの進め方が変わることになり、
①前座として各々の論文内容の発表・議論、
②春学期で学んだ批評理論の復習・フランケンシュタイン以外の作品で批評理論を用いた論文の発表・議論
を行うことになりました。

今回は初回授業ということもあり、①は内藤先生による論文の書き方(パラグラフ・ライティング)の講義に、②は『現代文化論』を用いて室さんがマンガ、相田くんが文学についての発表に代替されました。

パラグラフの構造やトピックセンテンスなど、基本的なことを学び、春学期に提出した論文を事例にして分かりやすく説明してくださりました。

改めて春学期の論文を見返すと、文章がめちゃくちゃになっているので、次に提出する論文ではパラグラフ・ライティングを用いて改善しようと思います!

そして、まずは室さんによるマンガについての発表。

マンガという題材を用いて〈文化産業論〉〈価値形態論〉を発表してくれました。

文明(文化)は野蛮さの対極にあるものとされてきましたが、実は文明化こそが人間が行ってきた最も野蛮な行為だと『啓蒙の弁証法』では書かれています。

どういうことだろうと皆で話し合いましたが、「そもそも対立しているのではなく、文明も野蛮さも当時の啓蒙的思想に包括されているのだ」という脱構築的考え方によって二項対立を破壊しているとアドルノ・ホルクハイマーは説明しているという結論になりました。

ただし、アドルノはエリート主義的な文化観を持っていたので、クラシックとポップカルチャーを二項対立していたこともあるようです…。

そして、その後に文化産業としてのマンガを『週刊少年ジャンプ』を事例にして見てみることに。

・ジャンプは他の週刊少年コミック誌に比べ圧倒的に売れている。
・売れることに徹底してこだわっており、マンガを作品としてより「商品」として扱っている。

などが『現代文化論』に挙げられていました。

議論の中で「友情・努力・勝利」というジャンプの三大原則も売れやすいコミックの鉄板ネタだからこそではないかという話題になりましたよ。

ついさっきまでジャンプを夢いっぱいのコミック誌だと思っていたので、少しだけ大人の事情や闇を見たような気分になりました(笑)

そして、価値形態論について。

価値形態論はマルクスが『資本論』冒頭で展開しました。

価値は交換という形態(価値形態)をとらずに現れることはなく、商品は交換されることによって“同じ価値がある等価物”となるそう。
確かに、現在でもお金と商品を交換して買い物をしていますもんね。

ここで、よく価値形態論は労働価値説(価値について、「ある商品を生産する際に必要とされる労働時間つまり労働量」だとする経済学説。)を展開していると誤解されるそうですが、マルクスは「労働価値説」を批判しています。

マンガも描かれた当時の社会を反映し、当時の人々にとって価値がある作品が作られています。

例でいうと、バブル経済期は明るい気分のもとで多様な価値観をもつ個人が戦い成長をする作品が描かれています。
代表的な作品として、『ドラゴンボール』『聖闘士星矢』などが挙げられています。

しかし、必ずしも直接反映するわけではなく反転したり、ねじれたり、ゆがんだりしながら社会のあり方を映し出しているそうです。

例として、『鋼の錬金術師』は資本主義(利潤を含んだ交換を最重要課題とする)とは正反対の等価交換を最重要課題としています。

次に相田くんによる文学についての発表。

まず間テクスト性の夏目漱石の『こころ』を題材として復習をし、その後相田くんが春学期論文で題材にした新本格派推理小説の間テクスト性をこれまでの推理小説を時系列に挙げて説明してくれました。

そして、脱構築。
これも復習をしたあとに「リアルとフィクション」の脱構築を実践してくれました。

ライトノベルやケータイ小説を題材として、表紙、作品の特徴、作家などから分析してくれました。

ライトノベルは表紙をアニメ風のカバーにするなど、フィクションを強めたものですが、同時期に流行したケータイ小説はレイプ、ドラッグ、DV、いじめというリアルを追求した作品です。

ですが、ケータイ小説のリアルな舞台設定も1つのフィクションを作り上げる為の装置でしかなく、“リアルという形の中でフィクションであることを徹底しようとする作品である”という点において、近年ではリアルとフィクションという二項対立は緩められているのではないかとのことでした。

こうして久しぶりのゼミは終了。
忘れている批評理論が多々あることも分かったので、改めて復習しなおそうと誓いつつ次のゼミに向けて皆始動し始めました!
長文になってしまいましたが、最後までご覧いただきありがとうございました。